食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

平安時代の食生活-古代日本(9)

2020-09-10 17:36:49 | 第二章 古代文明の食の革命
平安時代の食生活-古代日本(9)
『延喜式』は平安時代の927年に完成した法令集であり、律令制における細かな取り決めが記載されている。その中には、当時の各国の農産物や水産物、特産物についての記述もあり、当時の人々がどのようなものを食べていたかを知ることができる。

例えば、魚介類としては次のものが記載されている。
カツオ・クエ・サメ・タイ・イワシ・サバ・アジ・サケ・カレイ・フナ・アユ・マス・スズキ・コイ・ナマズ・カメ・アワビ・タコ・イカ・エビ・カニ・ナマコ・クラゲなど



また、ワカメ・コンブ・アオノリなどの記載もあり、現代とほとんど同じものが食べられていたことが分かる。ただし、冷蔵保存がほとんどできなかった時代のため、産地から離れた場所では干物や塩漬けされた状態で食べられていた。なお、ウナギについては公家の日記に書かれていることから、平安時代にも食べられていたようだ。

一方、野菜類の記載には次のようなものがある。
アザミ・チシャ・フキ・セリ・ワラビ・ナス・サトイモ・ヤマイモ・ダイコン・タケノコ・レンコン・ネギ・ニンニク・アオウリ・カブなど

いかにも和風の野菜というものばかりである。ちなみに、現在よく食べられているトマトやジャガイモ、サツマイモ、ピーマン、カボチャなどはすべてアメリカ大陸が原産のため、日本に入って来るのはポルトガル人が来訪する16世紀以降のことである。

さて、以上のような食材はどのように調理されたのだろうか?

平安時代には、現代の日本料理の一般的な調理法である「焼き物」「煮物」「蒸し物」「漬物」や、刺身や酢の物の前身である「なます(膾)」の調理法が確立していた。一方で、油はとても貴重だったため、揚げ物や炒め物についてはほとんど作られなかったとされる。唯一の例外がゴマ油で揚げた唐菓子で、これは重要な儀式などに限って作られたようである。

ここで、「煮物」「蒸し物」「漬物」と「膾」について簡単に見て行こう。

・煮物(汁物)
たっぷりの水で肉や野菜を煮たものを「あつもの(羹)」と呼んだ。食材を水で煮るだけの簡単な料理で、どんな食材でも不味くなることもあまりないので、「焼き」とともに先史時代から世界中どこにでもあった料理法の一つだ。奈良時代の記録にも残されていることから、日本でもずっとあつものが食べられてきたと考えられる。

平安時代になると、あつものから「汁」という料理名が生まれ、日本ではこちらの呼び方が定着する。平安時代の公家の日記には、熟汁・温汁・冷汁などの語が登場することから、いろいろな熱さの汁物が食べられるようになったことが分かる。

・蒸し物
「古墳時代とコメの炊き方-古代日本(3)」でお話ししたように、「甑(こしき)」と呼ばれる土器製の蒸す道具が弥生時代から使われていた。それが平安時代になると、木製の甑が使われるようになる。最初は底となる木の板に穴を開けただけのものだったが、やがて現代の「せいろ」に似た簀子(すのこ)を敷いたものが登場した。

蒸した食材は、塩・酢・酒・醤(ひしお)などの好みの調味料をつけて食べるというやり方が奈良時代と平安時代には行われていた。なお、酢の作り方は西暦400年頃に中国から伝わったとされており、奈良時代や平安時代には酒を造る役人が酢の醸造も行っていた。『延喜式』にはこのような役所での米酢の造り方が記載されている。

・漬物
漬物は野菜や果実を塩漬けにすることで保存性を高めた食品だ。漬け物が日本の歴史に最初に現れるのは天平(729~749年)の頃の木簡で、ウリやアオナなどの塩漬けのことが書かれている。奈良時代の寺院では、ナス・ウリ・モモなどの野菜や果実を塩で漬けたものが僧侶の食事として出されていた。平安時代になると、塩以外に酒かすやもろみ、未醤(味噌の原型)などに漬けた漬物が作られるようになり、『延喜式』にはセリ・ワラビ・ナス・フキ・ウリ・ショウガ・カキ・ナシ・モモなどの漬物が記載されている。

ところで、延喜式に書かれた漬物の作り方で作ると、塩分濃度は5%くらいになると言われている。通常は長期保存のためには10%以上の濃度の塩分が必要であることから(例えば、たくあんや福神漬けは10%以上)、古代の日本では一夜漬けの感覚で漬物が作られていたのかもしれない。

・膾(なます)
正月に食べる「紅白なます」は、ダイコンとニンジンを千切りにして酢に漬けこんだ料理だ。この「なます(膾)」という言葉は「生(なま)肉(しし)」から来たとする説が有力だ。つまり、もともと膾は生肉を細かく刻んだものを指していた。これが平安時代後期になると、魚肉と野菜を細かく刻んであえた物を指す言葉に変わる。そしてその後、酢をかけて食べる酢の物や生の魚の切れ身を食べる刺身に変化していったと考えられている。なお、現代の紅白なますのように酢が使われるようになるのは室町時代からだ。また、醤油につけて刺身を食べるようになるのは江戸時代になってからのことである。


平安時代の人々は正午前と夕方の1日2食が基本だった。ただし、農家などの肉体労働の人は間食をとることもあったようだ。また、夜の宴では夜遅くまで飲食することもあった。とは言っても、当時の食生活はタンパク質や摂取エネルギーが慢性的に不足している貧しいもので、栄養不足から病気になることも多かったと考えられている。


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