江戸を支えた塩-近世日本の食の革命(3)
「敵に塩を送る」ということわざがあります。これは「窮地の敵に助けの手を差し伸べる」ことを意味していて、塩不足で困っていた武田信玄を救うために、長年のライバルだった上杉謙信が塩を送ったという故事から生まれたことわざです(実際にはそのような史実はなく、後世の作り話と考えられています)。
このようなことわざが生まれた背景は次の通りだったと考えられています。
甲斐の武田信玄、相模の北条氏康、駿河の今川義元は、それぞれの領地を安定化させるために1554年に軍事同盟を結びました。これを甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)と呼んでいます。
ところが、1560年に今川義元が織田信長に討たれ、今川氏真(うじさだ)が当主になると、同盟関係にほころびが見え始めます。最終的に、今川氏真が武田信玄との対立を決意し、1567年に甲斐への塩の輸送を禁止しました。これに呼応して、相模の北条氏康も甲斐への塩止めを行いました。こうして内陸の甲斐は塩不足で苦しむことになるのです。これが「敵に塩を送る」ということわざが生まれた背景になっています。
塩は人が生きるために必須のもので、塩が欠乏すると、体が動かせなくなるほど衰弱してしまいます。特に戦国時代は、戦をするための必需品で、1人当たり10日で1合の塩が必要だったと言われています。
関東では、「行徳(ぎょうとく)」と呼ばれる現在の千葉県の浦安市から市川市にかけての沿岸部で塩づくりが盛んに行われていて、北条氏も塩を年貢として受け取っていました。また、徳川家康が江戸にやってきてからも、行徳の塩は江戸を支える重要な役割を担っていました。
今回は、日本の製塩の歴史を概観したのちに、江戸を支えた行徳の塩作りについて見て行きます。
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日本は海に囲まれた島国で海水がとり放題のため、塩には困らなかったと思うかもしれない。ところが、実際にはその逆で、海水を乾かす広い海岸が少なく、雨がよく降るため、日本人は塩作りにとても苦労をしてきたのだ。
古代日本では「藻塩」と呼ばれる塩が主に使われていた。これは、海藻に海水をかけて乾かし後、焼いて灰にしたたものを水に溶かして煮詰め、結晶化させたものである。
中世になると、「揚浜式塩田(あげはましきえんでん)」で、塩作りが行われるようになった。これは粘土の上に砂を薄く敷いた塩田で、ひしゃくや桶で海水をまいて、太陽の熱と風の力で水分を蒸発させるものだ。その後、砂についた塩を海水で溶かし、煮詰めることで塩を作り出す。
また、近世になると、潮の干満差を利用して海水を自動的に塩田に導入する「入浜式塩田(いりはましきえんでん)」が瀬戸内海を中心に普及した。これらの揚浜式塩田と入浜式塩田を用いた塩作りは1940年ごろまで続けられた。
その後の1971年までは、傾斜地などを利用して海水をゆっくりと流す間に塩分の濃縮を行う「流下式塩田」を用いた製塩が行われた。しかし、いずれも太陽と風の力を利用したものであったため、天候に左右されるし、コストもかかった。
ところが、1971年に海水中の塩化ナトリウムを電気的に濃縮する「イオン交換膜製塩法」が開発されたことにより、塩を大量かつ安価に生産することが可能になった。塩化ナトリウムは工業的にも重要な物質であったため、イオン交換膜法による塩づくりは日本が経済大国として成長する原動力の一つになった。
次は行徳の話だ。
1590年に北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされると、北条氏の領地は徳川家康に任された。そして行徳も家康の所領に組み込まれる。全国統一の前であり、塩は軍事物資としてきわめて重要であったことから、家康は行徳での塩作りをあつく保護した。また、日本橋と行徳を結ぶ運河「小名木川」を開削して、行徳の塩を船で迅速に運ばせるようにした。
その後も3代将軍家光の代まで、塩田開発に資金の貸付けを行なうなど、塩作りを奨励した。こうして行徳は関東有数の塩の生産地に発展した。最盛期には、370ヘクタール(370万㎡)の塩田が広がっていたと言われている。
ところで、日本で最も塩作りに適した地というと、瀬戸内海地方になる。瀬戸内には、「雨が少ない」「広い砂浜が多い」「塩作りに適した細かい砂が手に入りやすい」といった利点があった。さらに、干満差が激しいため、入浜式塩田にも適していた。
こうして江戸時代に入ると、播磨の赤穂で始まった入浜式塩田が瀬戸内海全域に広がった。そして、播磨(はりま)・備前(びぜん)・備中(びっちゅう)・備後(びんご)・安芸(あき)・周防(すおう)・長門(ながと)・阿波(あわ)・讃岐(さぬき)・伊予(いよ) )の10州で取れる塩は「十州塩」と呼ばれて全国に流通するようになる。江戸後期には全国消費量の8割以上を瀬戸内の塩が占めるようになったと言われている。
この流れに対抗して、行徳ではにがりを取り除いた塩を作り出すなどの工夫が行われた。
海水には塩化マグネシウムが含まれており、塩田で作った塩には多量の塩化マグネシウム(にがり)が混じるのだ。塩化マグネシウムは湿気を含みやすく、夏場や梅雨時には塩がドロドロになったり、一部が溶け出して目減りしたりする。
そこで、行徳ではできた塩をすぐに出荷せずに、しばらく保管してにがりを除去するようにした。塩を穴蔵に入れてしばらく置いておくと、にがりが溶け出すのだ。こうして作った「古積塩」は長期保存できることから、塩が手に入りにくい内陸部や東北、信濃などで好評を得たという。
なお、塩は焼くことでもにがりを除去することができる。塩を高温で熱すると、塩化マグネシウム(MgCl2)が酸化マグネシウム(MgO)に変化するのだ。こうすると吸湿性が失われ、いつまでもサラサラとした状態を保つことができる。このような塩を「焼塩」と呼んでおり、江戸には多くの焼塩売りがいたという。また、今日でも天然塩の焼塩が製造され、販売されている。