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食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

醤油の歴史-近世日本の食の革命(6)

2022-01-12 22:03:00 | 第四章 近世の食の革命
醤油の歴史-近世日本の食の革命(6)
醤油は和風の料理には欠かせない調味料です。豆腐や玉子焼き、ゆでた野菜や焼餅にかけたり、刺身やすしにつけたりします。また、ほとんどの煮込み料理に使用されます。このように、和風料理の大部分は何らかの形で醤油を使います。また、最近ではフランス料理などの外国料理やアイスクリームなどで隠し味に使われることもあります。

醤油にはうまみの元になる大量のアミノ酸とともに高濃度の塩、そして糖分やアルコールなどが含まれており、これらが組み合わさって醤油の美味しさが生まれます。また、醤油には独特の香りがあり、これも醤油の美味しさを引き立てています。

さらに、醤油が焦げると食欲をそそるかぐわしい香りが立ち昇ります。これは醤油に含まれるアミノ酸と糖分がメイラード反応と呼ばれる反応を起こすことで生じる香りです。

このように、醤油は日本料理における万能調味料であることから、醤油のはじまりが日本料理のはじまりと言う人もいます。これはそれほど大げさな表現ではなく、実際に醤油の出現によって日本の食は大きく変化しました。今回は、このような醤油の歴史について見て行きます。



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まず、現代の醤油の造り方を見て行こう。

醤油の醸造は、蒸したダイズと炒ったコムギの混合物に麹菌を成育させた「麹(こうじ)」を作ることから始まる。これに食塩水を加えて「醪(もろみ)」と呼ばれる状態にし、時々攪拌しながら数か月間かけて発酵を行う。

すると、ダイズのタンパク質が麹菌の酵素で分解されてうまみ成分のアミノ酸に変わる。また、コムギのデンプンも麹菌の酵素で分解されて糖になる。糖は醤油の甘みの元となるとともに、その一部は乳酸菌によって乳酸に変えられるため醤油は弱酸性になり、雑菌の繁殖が抑えられる。また、酵母によってアルコールになることで、風味も良くなる。

さらに酵母は、醤油独特の香りを生み出す役割も果たしている。香りの主成分は「HEMF」という物質で、体内に入ると活性酸素を減少させて抗がん作用を発揮するとも言われている。さらに酵母は、HEMF以外のたくさんの香り成分の生成にかかわっている。

なお、醤油の濃い褐色は、メイラード反応によってアミノ酸と糖が反応した結果、「メラノイジン」という物質が生成されることで生まれる。このメラノイジンにも、体内に取り込まれると活性酸素を減少させる効果があると言われている。

発酵が終了した醪(もろみ)は、絞られて固形物が取り除かれる。これが「生醤油(なましょうゆ)」だ。現代では生醤油のまま販売されることもあるが(この場合は酵母などが除去されている)、多くの場合は「火入れ(ひいれ)」という作業を行った後、販売される。

火入れは室町時代末期に酒造りで考案された技術で、日本酒を60℃くらいに温めることによって、残っている酵母や雑菌を死滅させて長期保存を可能にするものだ。これが醤油造りにも使用された。

ただし醤油造りでは、このような殺菌に加えて、不要なタンパク質などを沈殿させて除去するとともに、メイラード反応を促進させて、かぐわしい香りと濃厚な色を付けるために行われる。この醤油の火入れ技術は、1712年に編纂された百科事典の『和漢三才図鑑』に掲載されていることから、18世紀初頭には一般的な技術として定着していたと考えられる。

以上が現代の醤油の造り方だ。なお、昔から醬油造りには「一麹(いちこうじ)、ニ櫂(にかい)、三火入れ(さんひいれ)」という言い方があり、最も重要な作業が最初の麹造りで、次が醪(もろみ)の攪拌を行う作業(櫂は攪拌に使用する棒のこと)、そして最後に火入れという順になっているそうだ。
さて、醤油の歴史だ。醤油は味噌から生まれたと考えられている。味噌の歴史については本ブログの「味噌汁の誕生-中世日本の食(12)」ですでにお話ししたのでここでは割愛させていただく。

味噌から醤油が最初に作られたのは紀州(和歌山県)とされている。鎌倉時代の初期の1254年に宋から帰国した僧の覚心が、紀州の湯浅にダイズに刻んだ野菜を混ぜて発酵させて作る径山寺(きんざんじ)味噌の作り方を伝えたのだが、その製造過程でしみ出してきた液体がとても美味しいことに気が付いて、これを調味料として用いたのが醤油のはじまりと言われている。

この醤油は「溜まり醤油(たまりしょうゆ)」の原型のようなものだ。その後しばらくの間は、このように味噌から染み出た醤油や、味噌を水に溶かして煎じたのちに絞って作った「たれ味噌」と呼ばれるものが調味料として用いられた。これらは評判が良かったらしく、日本の各地でこれらの醤油が造られたという。

室町時代末期(16世紀後半)になると、関西で現在の醤油造りに近い製造方法が開発される。この開発を行ったのは酒造りの職人たちと考えられている。

酒造りと醤油造りを比較してみると、両者には共通点が多い。第一に、麹菌と乳酸菌、酵母を使って醸造を行うところが似ているし、醪(もろみ)の仕込みでは酒も醤油も大きな樽を使うところが共通している。つまり、酒造りの技術と設備を醤油造りに転用することで現代に通じる醤油の醸造方法が確立されたと考えられるのだ。

また、酒造りは関西の寺院を中心に発展してきた歴史があるため、醤油の新しい醸造方法も関西で始まったと考えられる。特に、大阪湾周辺での醤油造りが盛んだった。

江戸中期までは、このように大阪などで造られた「下り醤油」が船で江戸に運ばれて消費されていた。例えば、1726年に江戸に入った醤油は13万樽ほどで、そのうちの10万樽が大阪から運ばれたものだった。

一方、関東の野田銚子(いずれも千葉県)で17世紀後半に紀州の職人に教わることで醤油の製造が始まった。幕府が地廻り物の生産を奨励したことや、この醤油の豊かな香りと濃い色が江戸の人々の嗜好に合ったこともあって、1821年には江戸で消費された醤油のほぼ全量を関東産の醤油がまかなうようになる。これが「濃口醬油(こいくちしょうゆ)」の元祖とされている。

醤油には濃口醬油以外に、「淡口醬油(うすくちしょうゆ)」「溜醤油(たまりしょうゆ)」「白醤油(しろしょうゆ)」「再仕込み醤油」がある。

淡口醬油(うすくちしょうゆ)は、1666年に播州の龍野(兵庫県)で誕生した。この醤油はコムギの炒りを弱くし、塩水の量を多くして発酵を弱め、仕上げに甘酒を加えることで造られる。色と香りが薄く、素材の良さを引き出す効果があるため、伝統的な日本料理には欠かせない調味料として関西一円に広まった。

また、17世紀末には東海地方でダイズと少量の塩水で醸造して造る「溜醤油(たまりしょうゆ)」が開発された。溜醤油は粘度が高く、うまみが濃厚で、刺身の醤油に適している。

同じく東海地方では、19世紀の初めにコムギを主な原料として醸造した「白醤油(しろしょうゆ)」も造られ始めた。この醤油は、その名の通り色が薄くて甘い。鍋料理や汁料理によく使われる醤油である。

また、18世紀末には、防州柳井(山口県)で塩水の代わりに搾りたての醤油を用いて醸造を行う甘露醤油再仕込み醤油)が開発された。この醤油はとても濃厚で、香りも高く、刺身やすしを食べるのに最高の醤油だ。また、ウナギのかば焼きのたれの材料としても最適である。

このように、江戸時代は、現在使われている様々な醤油が生み出された時代だったのである。

「くだりもの」と「くだらないもの」-近世日本の食の革命(5)

2022-01-08 17:13:46 | 第四章 近世の食の革命
「くだりもの」と「くだらないもの」-近世日本の食の革命(5)
くだらない」という言葉があります。これは「価値のない、無意味だ」という意味で使われます。この「くだらない」という言葉は、江戸時代の初期や前期(1603年から1700年頃)に、江戸やその周辺の地域で生産された物品(地廻り物)に対して使われたものです。

それには、その当時の関東と関西の生産性の違いが関係しています。

その頃の関東地方は後進地域であり、そこで生み出される物品は低品質なものが多かったのに対して、京都大阪で生産された物品は長い伝統に裏打ちされて、とても高品質でした。これら京都や大阪などの上方から江戸に運ばれた物品は「下りもの(くだりもの)」と呼ばれました。一方で、低品質の地廻り物は「下らないもの」と呼ばれて区別されたというわけです。

今回は「下りもの」を取り上げて、江戸時代前期の食料品や飲料の流通について見て行きます。


下りものの一つ「下り酒」を運んだ樽廻船(ウイキペディアより:ライセンス情報

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平安時代から江戸時代になるまで、日本では京都が唯一「都市」と呼べるところだった。京都は政治、経済、文化の中心であり、生魚などの生鮮食料品以外のすべての食材が京都に集まった。そして、日本伝統料理である大饗料理本膳料理精進料理懐石のすべてが京都で誕生した。

現在「京野菜」と呼ばれている新しい野菜の品種も京都の近郊で次々と生み出され、京都の料理に取り入れられた。また、茶道の中心も京都であり、新しい菓子も京都で次々と誕生した。このように、京都が常に食文化の最先端を走っていたのである。

一方、大阪は瀬戸内海の東端に位置していたことから、古代から都に物資を運ぶ港が築かれる重要なところだった。1532年には石山本願寺が建てられたが、織田信長との戦いによって北陸に移った。その後、その跡地に豊臣秀吉が大阪城を築城して本拠地としたことから、大阪は大きく発展した。

江戸時代に入ると、大阪を幕府の直轄地となり、海運の中心として発展した。特に、前回お話しした西廻り航路が確立してからは、日本各地の物品が大阪に集まるとともに、諸大名が大阪に蔵屋敷を建てて年貢米を集積させた。このことから江戸時代の大阪は「天下の台所」と呼ばれることが多い。

江戸に幕府が開かれると多くの人々が江戸に住むようになったが、生産性の低かった江戸時代前期までは、京都や大阪から運ばれてくる物品に頼らなければ生活が成り立たなかったのである。

特に、主食であったと、生産に技術が必要な醤油味噌が重要な下りもので、「下り醤油」や「下り酒」などと呼ばれた。これらは、江戸時代初期には陸路で江戸に運ばれたが、西廻り航路が確立してからは主に船で運ばれるようになった。また、上方の物品とともに多くの商人が江戸に進出し、上方の支店や出張所のような店舗が多く立ち並んだという。

このように、江戸時代の初期や前期(1603年から1700年頃)の、食文化を含む文化や経済の中心は上方であり、17世紀後半から18世紀初めにかけて花開いた「元禄文化」は京都や大阪の上方で生まれた。なお、元禄文化を担った代表的な人物には、松尾芭蕉や近松門左衛門、井原西鶴などがいる。

当初は上方の下りものに頼っていた江戸であったが、幕府が近郊地での生産を奨励したことから江戸時代中期(1700年から1750年頃)になると、次第に高品質なものが生産されるようになってきた。

幕府が重視していたのは関八州と呼ばれる現在の関東地方とほぼ同じ地域での生産であり、ここで作られたものを「地廻りもの」と呼んで優遇した。なお、関八州とは、相模(さがみ:神奈川県)・武蔵(むさし:埼玉県、東京都、神奈川県東部)・上野(こうずけ:群馬県)・下野(しもつけ:栃木県)・常陸(ひたち:茨城県)・下総(しもうさ:千葉県北部、茨城県南部)・上総(かずさ:千葉県中央)・安房(あわ:千葉県南部)の8つの国を指す。

例えば、醤油については、前期までは8割以上が下りものであったが、17世紀の終わり頃から下総(しもうさ)・常陸(ひたち)・下野(しもつけ)などで関東醤油と呼ばれる醤油の生産が始まった(なお、醤油の歴史については別の機会に詳しく見て行きます)。

そして、江戸中期以降に江戸独自の食文化が花開き、「てんぷら」や「すし」「そば」などの屋台食が食べられるようになるのである。

米を運ぶ:河村瑞賢の話-近世日本の食の革命(4)

2022-01-05 22:47:59 | 第四章 近世の食の革命
米を運ぶ:河村瑞賢の話-近世日本の食の革命(4)
皆さんは「河村瑞賢(かわむらずいけん)」という人物をご存知でしょうか。
彼は江戸時代初期の人物で、江戸に米を運ぶ航路を整備したことで知られています。

この航路はとても重要で、もしこの航路がなかったら、増え続けていた江戸の人口を支えることができなかったと考えられています。

また、同じ航路を使って、米以外のさまざまな物資が江戸に運ばれました。つまり、瑞賢が整備した流通路は、江戸が大都市へと発展する上で不可欠なものだったのです。

さて、歴史上には「偉人」とよばれる人物があまたいて、河村瑞賢もそのうちの一人であることは間違いありません。しかし、彼が他の偉人たちと少し異なっているのは、彼が「商人」であったことです。

今回は、一介の商人だった河村瑞賢が、江戸時代の主要流通路となった「東廻り航路」と「西廻り航路」を切り開く様子を見て行きます。



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1603年に江戸に幕府が開かれると、江戸が政治の中心になった。その結果、一地方都市だった江戸にはたくさんの人が集まってくるようになる。家康をはじめ初期の将軍たちは、川の流れを変えたり、埋め立てを行ったり、新しい建物を作ったりなど、江戸の町づくりを精力的に進めたが、このような仕事を求めて多数の人々が江戸にやってきたのだ。

1635年に「参勤交代」が制度化されると、諸大名は一年おきに江戸と自分の領地に居住するように定められた。大名が領地に戻っても正室と嫡男は江戸に留まったため、江戸には身の回りの世話役を含めて多数の武士が居住するようになった。また、それに合わせて、さまざまな商売を行う人たちも増えて行った。

人が増えると必要な食糧も増える。江戸や江戸の近郊では十分な食糧生産が見込めなかったので、幕府は直轄地である天領を増やし、そこで取れた米を江戸に運ぼうと考えた。東北の太平洋側に位置する現在の福島県(陸奥の国)の米と、日本海側に位置する現在の山形県(出羽の国)の米である。

ところが、これらの米を江戸まで運んでくるのが難しかった。この航路を整備したのが、河村瑞賢(1618~1699年)である。

瑞賢は伊勢の国の生まれで、13歳の時に商人になるために江戸に出てきたとされる。様々な商いにたずさわった後、材木屋として生計を立てるようになった。
そして、1657年に「明暦の大火」と呼ばれる江戸の町の三分の二を焼き尽くした大火に遭遇する。これを商人としてのチャンスと考えた瑞賢は、雪に閉ざされていたため江戸の大火の情報が到達していなかった木曽福島に出向き、伐採される木材すべての権利を得ることに成功する。そして、材木を他の材木商に売ることで莫大な利益を得たという。

瑞賢はかなりの人徳者であったようで、その後大阪に出て米を買うと江戸に戻り、大火で焼き出された人々に粥を配ったとされる。また、陣頭指揮を取って、焼け死んだ人々の遺体を集めて供養したと言われている。このような人徳の高さや、人々の力を結集して大事業を成功させる手腕を買われて、幕府から米を輸送する航路の整備を任されることになったのだ。

最初に手を付けたのが、福島県(陸奥の国)の米の輸送だ。

それまでの東北からの米の輸送は、船で米俵を銚子まで運び、川舟に乗せ換えると、利根川をさかのぼって江戸に送っていた。しかし、手間がかかることから費用が高くなるし、利根川の流れが急で、船が転覆するなどして多くの米が失われていた。

瑞賢は腕利きの船乗りを雇い、さまざまな航路の検討を行った。その結果、難所であった房総沖を大きく迂回して伊豆半島まで南下し、そこから江戸湾に向かう方法が安全で確実であることを見出した。こうして1671年に、米を安く安全に江戸に運ぶ航路が確立されたのである。なお、この航路は、日本海沿岸から津軽海峡を経て太平洋を南下する航路とつながることから、「東廻り航路」と呼ばれる。

また、瑞賢は、立務所と呼ばれる番所を各地に設置し、番人に船の修繕や積み荷の確認などを行わせることで、積み荷が確実に輸送される仕組みを作り上げた。

次に取り組んだのが、山形県(出羽の国)の米の輸送だ。

本ブログの記事「コンブを運ぶ-中世日本の食(11)」でもお話しした通り、日本海の物産品は、中世までは北陸の敦賀や小浜に船で運ばれ、そこから陸路-琵琶湖の湖上輸送-陸路を使って、京都や大阪に運ばれていた。

しかし、この輸送路を利用すると、大阪までの陸路が長くなり、時間と経費がかかる。そこで瑞賢は、日本海をさらに西に進み、下関を回って瀬戸内海に入り、大阪に到達する航路を考案した。瀬戸内海には潮流が複雑で暗礁も多い海域があったが、地元の船乗りを雇うことで安全な輸送が可能となった。

こうして大阪に運ばれた米は、さらに船で紀伊半島を経由して伊豆半島に送られ、そして江戸湾に運ばれた。なお、夜間の航行のために、紀伊半島近くの島には灯台替わりのかがり火が焚かれたという。こうして1672年に「西廻り航路」が確立された。

このような東廻り航路と西廻り航路の整備によって、江戸にはたくさんの米が運ばれるようになった。米の輸送は幕府の直営事業だったが、それ以外の物品についても商人たちが東廻り航路と西廻り航路を使って輸送を行うようになり、京都・大阪と江戸の三都を中心とした一大物流網が完成することとなった。そして、この物流網が、江戸だけでなく、近世日本が発展する基礎となったのである。

さて、その後も瑞賢には様々な公共事業の責任者となるようにとの要請が舞い込み、上杉藩の新田開発や淀川の治水事業、大福銀山の開発などで辣腕を発揮した。そして晩年には、それまでの多大な功績により武士に取り立てられ、末代まで150俵の俸禄を与えられることになった(彼の功績からしたら、いかにも少なすぎるのではないかと思う)。

昨年の大河ドラマは渋沢栄一だったが、河村瑞賢は彼以上の偉大な事業家だったと言えるかもしれない。

江戸を支えた塩-近世日本の食の革命(3)

2021-12-28 18:00:55 | 第四章 近世の食の革命
江戸を支えた塩-近世日本の食の革命(3)
敵に塩を送る」ということわざがあります。これは「窮地の敵に助けの手を差し伸べる」ことを意味していて、塩不足で困っていた武田信玄を救うために、長年のライバルだった上杉謙信が塩を送ったという故事から生まれたことわざです(実際にはそのような史実はなく、後世の作り話と考えられています)。

このようなことわざが生まれた背景は次の通りだったと考えられています。
甲斐の武田信玄、相模の北条氏康、駿河の今川義元は、それぞれの領地を安定化させるために1554年に軍事同盟を結びました。これを甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)と呼んでいます。

ところが、1560年に今川義元が織田信長に討たれ、今川氏真(うじさだ)が当主になると、同盟関係にほころびが見え始めます。最終的に、今川氏真が武田信玄との対立を決意し、1567年に甲斐への塩の輸送を禁止しました。これに呼応して、相模の北条氏康も甲斐への塩止めを行いました。こうして内陸の甲斐は塩不足で苦しむことになるのです。これが「敵に塩を送る」ということわざが生まれた背景になっています。

塩は人が生きるために必須のもので、塩が欠乏すると、体が動かせなくなるほど衰弱してしまいます。特に戦国時代は、戦をするための必需品で、1人当たり10日で1合の塩が必要だったと言われています。

関東では、「行徳(ぎょうとく)」と呼ばれる現在の千葉県の浦安市から市川市にかけての沿岸部で塩づくりが盛んに行われていて、北条氏も塩を年貢として受け取っていました。また、徳川家康が江戸にやってきてからも、行徳の塩は江戸を支える重要な役割を担っていました。

今回は、日本の製塩の歴史を概観したのちに、江戸を支えた行徳の塩作りについて見て行きます。



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日本は海に囲まれた島国で海水がとり放題のため、塩には困らなかったと思うかもしれない。ところが、実際にはその逆で、海水を乾かす広い海岸が少なく、雨がよく降るため、日本人は塩作りにとても苦労をしてきたのだ。

古代日本では「藻塩」と呼ばれる塩が主に使われていた。これは、海藻に海水をかけて乾かし後、焼いて灰にしたたものを水に溶かして煮詰め、結晶化させたものである。

中世になると、「揚浜式塩田(あげはましきえんでん)」で、塩作りが行われるようになった。これは粘土の上に砂を薄く敷いた塩田で、ひしゃくや桶で海水をまいて、太陽の熱と風の力で水分を蒸発させるものだ。その後、砂についた塩を海水で溶かし、煮詰めることで塩を作り出す。

また、近世になると、潮の干満差を利用して海水を自動的に塩田に導入する「入浜式塩田(いりはましきえんでん)」が瀬戸内海を中心に普及した。これらの揚浜式塩田と入浜式塩田を用いた塩作りは1940年ごろまで続けられた。

その後の1971年までは、傾斜地などを利用して海水をゆっくりと流す間に塩分の濃縮を行う「流下式塩田」を用いた製塩が行われた。しかし、いずれも太陽と風の力を利用したものであったため、天候に左右されるし、コストもかかった。

ところが、1971年に海水中の塩化ナトリウムを電気的に濃縮する「イオン交換膜製塩法」が開発されたことにより、塩を大量かつ安価に生産することが可能になった。塩化ナトリウムは工業的にも重要な物質であったため、イオン交換膜法による塩づくりは日本が経済大国として成長する原動力の一つになった。
次は行徳の話だ。

1590年に北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされると、北条氏の領地は徳川家康に任された。そして行徳も家康の所領に組み込まれる。全国統一の前であり、塩は軍事物資としてきわめて重要であったことから、家康は行徳での塩作りをあつく保護した。また、日本橋と行徳を結ぶ運河「小名木川」を開削して、行徳の塩を船で迅速に運ばせるようにした。

その後も3代将軍家光の代まで、塩田開発に資金の貸付けを行なうなど、塩作りを奨励した。こうして行徳は関東有数の塩の生産地に発展した。最盛期には、370ヘクタール(370万㎡)の塩田が広がっていたと言われている。

ところで、日本で最も塩作りに適した地というと、瀬戸内海地方になる。瀬戸内には、「雨が少ない」「広い砂浜が多い」「塩作りに適した細かい砂が手に入りやすい」といった利点があった。さらに、干満差が激しいため、入浜式塩田にも適していた。

こうして江戸時代に入ると、播磨の赤穂で始まった入浜式塩田が瀬戸内海全域に広がった。そして、播磨(はりま)・備前(びぜん)・備中(びっちゅう)・備後(びんご)・安芸(あき)・周防(すおう)・長門(ながと)・阿波(あわ)・讃岐(さぬき)・伊予(いよ) )の10州で取れる塩は「十州塩」と呼ばれて全国に流通するようになる。江戸後期には全国消費量の8割以上を瀬戸内の塩が占めるようになったと言われている。

この流れに対抗して、行徳ではにがりを取り除いた塩を作り出すなどの工夫が行われた。

海水には塩化マグネシウムが含まれており、塩田で作った塩には多量の塩化マグネシウム(にがり)が混じるのだ。塩化マグネシウムは湿気を含みやすく、夏場や梅雨時には塩がドロドロになったり、一部が溶け出して目減りしたりする。

そこで、行徳ではできた塩をすぐに出荷せずに、しばらく保管してにがりを除去するようにした。塩を穴蔵に入れてしばらく置いておくと、にがりが溶け出すのだ。こうして作った「古積塩」は長期保存できることから、塩が手に入りにくい内陸部や東北、信濃などで好評を得たという。

なお、塩は焼くことでもにがりを除去することができる。塩を高温で熱すると、塩化マグネシウム(MgCl2)が酸化マグネシウム(MgO)に変化するのだ。こうすると吸湿性が失われ、いつまでもサラサラとした状態を保つことができる。このような塩を「焼塩」と呼んでおり、江戸には多くの焼塩売りがいたという。また、今日でも天然塩の焼塩が製造され、販売されている。

南蛮菓子の伝来-近世日本の食の革命(2)

2021-12-25 19:17:15 | 第四章 近世の食の革命
南蛮菓子の伝来-近世日本の食の革命(2)
前回は南蛮料理のお話でしたが、今回は「南蛮菓子」についてお話します。
1541年のポルトガル人来訪から始まる南蛮貿易によって、さまざまな菓子を作る技術が日本に伝わり、南蛮菓子の歴史が始まりました。

南蛮菓子には、「カステラ」「ボーロ(ぼうろ)」「ビスケット」「金平糖」「有平糖」「カルメラ」などがあります。これらの南蛮菓子の特徴は、砂糖と卵を使うことで、特に砂糖の甘さは当時の人々を魅了しました。このため、ポルトガルやスペインの宣教師が布教活動を行う上で、これらの南蛮菓子が大いに役立ったと言われています。また、安土桃山時代以降に茶の湯が流行しますが、砂糖を使った南蛮菓子は茶菓子として珍重されました。

今回は、日本における砂糖と卵の簡単な歴史とともに、「カステラ」「ボーロ(ぼうろ)」「ビスケット」「金平糖」の歴史について見て行きます。



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最初は、砂糖の歴史だ。

日本における砂糖の最初の記録は825年の正倉院の目録に見られることから、平安時代には中国から日本に伝来していたと考えられる。しかし、その頃の砂糖は薬の一種とみなされていた。

鎌倉時代末頃になると、中国との貿易が盛んになり、砂糖の輸入量も増加した。そして、ポルトガル人が来訪する室町時代末期には、砂糖は生糸や絹織物に次ぐ重要な輸入品となっていた。

江戸時代になると、薩摩藩が支配下に置いた琉球や奄美でサトウキビの栽培と砂糖の製造が始まった。これらの島々からの砂糖と、海外から長崎に運ばれてきた砂糖のほとんどは物流の中心であった大阪に輸送され、そこから日本の各地に出荷された。このため、南蛮菓子の多くが大阪やその隣の京都で作られてきたという歴史がある。

18世紀になると砂糖の国産化が推奨され、18世紀の終わりには讃岐での和三盆作りが軌道に乗った。

次はの歴史だ。

卵はニワトリが産む。ニワトリは神聖な生き物とされ、675年の天武天皇の詔で、ウシ・ウマ・イヌ・サルとともに、ニワトリを食すことが禁じられた。卵については食べることは禁じられていなかったが、食べるとたたりがあると信じらたため、日本人は卵を食べることを避けてきた。

しかし、室町時代末期に来訪した南蛮人が卵を食べていても平気なのを知って、卵を食べる習慣が日本国内に広がる。そして、卵の生産量も増加した。
江戸時代になると、卵を使った菓子だけでなく、さまざまな卵料理が考案されて広く食べられるようになった。天明年間(1781~1789年)に出版された料理本『万宝料理秘密箱』には、103種の卵料理が記載されている。

なお、南蛮菓子に使用する小麦粉については、奈良時代から日本で作られてきたと考えられている(詳しくは、本ブログの「うどん・そうめん・石臼-中世日本の食(8)」をご覧ください)。

それでは、それぞれの南蛮菓子について見て行こう。

カステラ
カステラは、小麦粉に泡立てた卵と砂糖を加えて作った生地をオーブンで焼いた菓子だ。

カステラの語源は、イベリア半島にあったカスティーリャ王国(Castilla)と言われている。しかし、カステラと全く同じ菓子はポルトガルやスペインには無く、これは日本の調理器具で作られたために別物になったからだと考えられる。

カステラに最も似ているポルトガルの菓子が「パン・デ・ロー」と呼ばれるものだ。これは、キリスト教の祭りや結婚式などの祝い事に食べられるお菓子で、角形のカステラと異なり、円形をしている。また、カステラのように中まで火が通ったタイプと、中身が半熟でとろとろしたタイプがある。

ボーロ(ぼうろ)
ボーロは小麦粉に砂糖、卵、水を混ぜ、小さく丸めたものを焼いて作る。ボーロ (bolo) とは、ポルトガル語で「丸い菓子」を意味し、ボーロという特定の菓子があるわけではない。

日本にボーロの作り方が伝わると、小麦粉の代わりに、ソバ粉や片栗粉を使った菓子も作られるようになった。

ビスケット
ビスケットは、小麦粉に牛乳やバター、砂糖を入れた生地を焼いて作った菓子だ。

ビスケットの語源は、フランス語で「二度焼いた」という意味の「ビスキュイ(biscuit)」だ。二度焼くことで水分が非常に少なくなって、保存性が高まる。大航海時代には、船に乗せる保存食として使用されていた。

日本に来訪した南蛮人が日本人に紹介したところ、好評を得たという話もあるが、長崎などでわずかに作られるだけだった。ビスケットが日本国内で食べられるようになるのは明治になってからのことだ。

金平糖
金平糖はご存知の通り、表面に凸凹がある小型の砂糖菓子だ。語源はポルトガル菓子の「コンフェイト(confeito)」だと言われている。

1569年にルイス・フロイスが京都の二条城で織田信長に謁見した時の贈り物の中に、金平糖が入ったガラス瓶があったとされる。日本で最初に金平糖が作られたのは長崎で、1680年代になってからと言われている。

金平糖を作るのは大変で、斜めに傾いた回転する大きな釜に核となるケシ粒を入れ、少しずつ砂糖蜜を回しかけて作る。この作業には2週間以上かかるため、手作業で行っていた近代までは、きわめて高価なお菓子だった。

茶道で使用する「振り出し」と呼ばれる菓子入れには、保存食として金平糖などの砂糖菓子を入れておくのが習わしとなっている。