食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

江戸時代の砂糖-近世日本の食の革命(11)

2022-02-05 22:33:15 | 第四章 近世の食の革命
江戸時代の砂糖-近世日本の食の革命(11)
私は毎日、NHKの朝ドラ『カムカムエヴリバディ』を楽しく視聴しています。このドラマでは「小豆の餡子(あんこ)」が重要なアイテムになっています。小豆の餡子は和菓子には欠かせないもので、小豆餡の誕生が和菓子のはじまりと言う人もいるほどです。

小豆餡は小豆を砂糖と一緒に炊くことで作られます。この砂糖には、単に甘みの元になるだけでなく、保存性を高めるという大事な役割があります。つまり、小豆餡のお菓子が比較的長持ちするのは、砂糖のおかげなのです。

砂糖には高い保水効果があります。砂糖は水にはおおよそ倍の量が溶けることができますが、これは砂糖の高い保水効果のためです。そして重要なことは、このように砂糖に結び付いた水は、細菌などには利用できない水であることです。このことが、砂糖が食品の保存性を高める理由の一つとなっています。例えば、ジャムには30%程度の水分が含まれていますが、大量の砂糖の存在によって細菌類が利用できない形になっているため、ジャムは長持ちするのです。

また、砂糖にはデンプンの劣化(専門的には「老化」と呼びます)を防ぐ効果もあり、これが食品の保存性を高める2つ目の理由です。このデンプンの老化防止効果も砂糖の保水性が関係しています。

穀物やイモ類などに含まれているデンプンはベータ型と呼ばれるパサパサとした消化吸収の悪い形ですが、水を加えて加熱することによって、しっとりとした消化吸収の良いアルファ型に変化します。

ところが、アルファ型のままで放置すると、水分が抜けることによってデンプンはベータ型に戻ってしまいます。しかし、砂糖が存在すると、水分を保持することで、ベータ型に戻るのを防ぐというわけです。餡子の柔らかさがしばらく変わらないのも、ようかん(羊羹)が風味を損なわずに長持ちするのも、このためです。

砂糖には保存性を上げる効果以外にも、水分量を高めることで食品にしっとり感を与えたり、プリンなどでタンパク質が局所的に固まるのを防ぐことでなめらかさを増したりする効果などがあります。

今回は、このような砂糖の江戸時代の様子を見て行きます。



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今では沖縄奄美などの南西諸島や、讃岐などでサトウキビが栽培されて砂糖が生産されているが、国内産の砂糖が流通し始めるのは18世紀になってからであり、それまでは外国から砂糖が持ち込まれていた。

室町時代までは砂糖は中国から輸入されていたが、その量は限られていた。ところが、16世紀半ばから南蛮貿易が始まると、まとまった量が継続して輸入されるようになり、砂糖の国内利用も広がって行った。

江戸時代初期には年間100トンほどの砂糖が輸入されていたが、輸入量は次第に増えて行き、18世紀半ばになると1000トンを超えるようになったと言われている。また、その頃には中国からの輸入量も増えており、合わせて2000トン前後の砂糖が輸入されていた。

なお、砂糖の値段だが、1690年頃の小売価格は、1キログラムあたり160文ほどと言われている。1文は現代の10~30円ほどなので、1600円~4800円の計算になる。これは現代の価格の数倍から10倍くらいになり、それほど高くない。

ところが、1697年からは輸入商品に対して高い関税がかけられるようになり、砂糖の小売価格は1キログラムあたり700文ほど(現代の7000円~20000円ほど)に高騰した。これでは、なかなか一般庶民には手が出ない。

一方、18世紀なると、国内で砂糖の生産が始まり、少しずつ国内に流通し始める。

琉球は1623年に中国に使者を送って砂糖の製造方法を学び、砂糖を作り始めた。この砂糖の製造は18世紀初頭にかけて奄美諸島などの南西諸島に広く伝わり、日本での砂糖生産の拠点となって行った。

沖縄を含めて南西諸島を支配していた薩摩藩は南西諸島の黒砂糖を独占することで莫大な富を得た。南西諸島の農民にサトウキビの栽培を強制するとともに、出来上がった黒砂糖を安く買い上げ、それを大阪で高く売り渡したのだ。

一方、それ以外の地域でも砂糖の生産が始まる。その立役者は暴れん坊将軍の吉宗だ。

徳川吉宗は様々な有用な植物の栽培を奨励した将軍として知られている。吉宗は1727年にサトウキビの苗を琉球から取り寄せ、諸藩に栽培を推奨するとともに、自らも浜御殿(浜離宮)の農場で栽培させた。そして、その2年後には砂糖の生産に成功する。

この成功をきっかけに日本の各地で砂糖生産の試みが続けられたのだ。その結果、1790年になって四国の讃岐で白砂糖の生産に成功する。そして18世紀の終わりには大阪での販売を開始した。

讃岐(高松藩)では新しい精糖技術の開発が進められた。そして、精糖作業を繰り返すことで、上質な白砂糖である「和三盆」の作り出すことに成功した。

なお、この「和三盆」の名前だが、中国の白砂糖の名前に由来している。中国産の砂糖には等級があり、上から三盆・上白・太白と呼ばれた。これに倣って、日本でも最上級の砂糖を「和三盆」と呼んだのである。なお、現代でも使われている「上白糖」と言う言葉もここから来ている。

以上のようにして砂糖の国内生産量が増えて行き、1840年頃には輸入量を上回るようになった。そして、小売価格も大幅に下落して行き、一般庶民も砂糖を思う存分使えるようになった。

江戸の味噌汁-近世日本の食の革命(10)

2022-01-27 22:48:09 | 第四章 近世の食の革命
江戸の味噌汁-近世日本の食の革命(10)
御御御付」をどう読むかご存知でしょうか?

これは「おみおつけ」と読み、味噌汁のことを意味します。
もともと味噌汁はご飯に付ける汁物と言う意味で「おつけ」と呼ばれていましたが、それに尊敬や丁寧さを表す「御」が二つついてできたと考えられています。

味噌汁がこのような大そうな名前になったのは、栄養価がとても高い一方で、江戸時代初期にはそれなりに高価な食べ物だったからです。

今回は、江戸っ子の大切な一品だった味噌汁について見て行きます。



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味噌汁は鎌倉時代に誕生し、室町時代には武士を中心に広まったとされている。また、味噌は携帯が容易なため、戦国時代には団子状の味噌を戦場に持っていき、湯を注いで食べたと言われる。一方、味噌の原料のダイズは、軍馬の飼料としても使われていた。このように、戦国時代にはダイズや味噌は主に武士階級が消費をしていたのである。

ところが、江戸時代になって世の中が平和になると、一般庶民もダイズを手に入れることができるようになった。そして、味噌を専門に作る味噌屋が次々と誕生し、江戸内でたくさんの味噌が出回るようになる。

味噌は比較的簡単に作ることができるため、自宅で味噌作りをする者も少なからずいたそうだ。庭付きの家を与えられた上級武士も、自宅で味噌を作り、庭で育てた野菜を入れて味噌汁にして飲んだらしい。なお、自分自身をほめることを「手前味噌」と言うが、これは自分で作った味噌を自慢するところから来ている。

江戸では武士も町人も朝に、その日に食べる分のご飯を炊き、朝食にはご飯と味噌汁、漬物などを食べた。栄養価の高い味噌汁が毎日の活力の元になっていたのである。ちなみに、将軍などの要職にあった武士たちは毎食味噌汁を飲んでいた。

味噌汁の具は懐具合によってまちまちだったが、庶民ではダイコンなど江戸で安く手に入る野菜などが多かった。ダイコンは大根おろしにして味噌汁に入れられることもあったらしい。一方、将軍の味噌汁には豆腐や油揚げがよく入れられたという。

味噌汁をご飯に「ぶっかける」食べ方は室町時代から行われており、江戸でも定番の食べ方だった。アサリの汁物をご飯にかけた「深川飯」は、漁師が捕れた貝の味噌汁をご飯にかけて食べていたのが始まりとされている。のちに味噌汁ではなく、醤油のだし汁で煮たアサリが使われるようになる。

さて、次は味噌の話だ。味噌は日本の各地でそれぞれ特徴的なものが作られてきており、数えきれないほどの種類がある。江戸の町にもたくさんの種類の味噌が流通していたという。

この中で、江戸で最も人気があった味噌は「江戸味噌(江戸甘味噌)」だ。この味噌は、徳川家康が江戸独自の味噌を作るように奨励したことによって誕生したと言われている。江戸味噌は、京都の白味噌のように大量の米麹を使用するため甘くて塩辛くない。そして、ダイズの風味が豊かで褐色をしている。

江戸味噌はその名の通り、江戸内の味噌蔵で醸造されて、出来上がってすぐのものが江戸で流通していた。江戸っ子はみんな江戸味噌が大好きで、江戸で消費される味噌の半分以上が江戸味噌だったと言われている。

なお、長らく江戸っ子の江戸味噌好きは続いたが、第二次世界大戦の戦時統制によって米麹を使えなくなり、醸造が途絶えた。戦後に復活するが、以前のような人気を取り戻すことはなかった。

江戸味噌以外には、信州味噌などのような地方の味噌も人気があった。その代表格が「仙台味噌」だ。この味噌は、伊達政宗が仙台城内で作らせた味噌が始まりとされているもので、濃い塩味と香りを特徴とする。ご飯と仙台味噌だけあれば、食事ができると言われているほどうま味が深い。

仙台味噌は第2代藩主の頃に、江戸藩邸で生活していた藩士のために仙台藩の下屋敷で作られるようになった。そして余った味噌を売ってみたところとても好評だったので、大体的に売り出されるようになったのだ。こうして稼いだお金は仙台藩の財政を大いに潤したという。

最後に「味噌漬け」の話を少しだけしよう。

味噌はそれ自身が保存食であるだけでなく、味噌に野菜や魚、肉を漬け込むと長期保存ができるようになる。さらに、食材に味噌の風味が移ってとても美味しくなる。このため、味噌の生産量が増加すると、味噌漬けもよく作られるようになった。井伊家では、江戸時代中頃より、牛肉の味噌漬けを将軍や御三家などに贈るのが習わしとなっていたという。肉食が禁じられていた時代であるが、「薬」という名目であれば肉を食べても良かったのである。

すしの歴史-近世日本の食の革命(9)

2022-01-23 15:26:12 | 第四章 近世の食の革命
すしの歴史-近世日本の食の革命(9)
今回は、「そば」「てんぷら」と合わせて「江戸の三味」と言われる「すし」の歴史について見て行きます。

「すし」と言えば「にぎりずし」を思い浮かべる人が多いと思いますが、「にぎりずし」が生まれたのは18世紀末から19世紀初頭の江戸と考えられており、それまでは別のものが「すし(鮨)」と呼ばれていました。こうして新しく誕生したすしは「江戸前すし」と呼ばれ、今では全国に広がっています。

ところで、にぎりずしは、酢を加えたご飯の小さな塊の上に魚介類のすしネタを乗せて握ったものです。材料としては言うまでもなく、「ご飯」「酢」「すしネタ」が必要ですが、この中で「ご飯」に「」を入れることが、にぎりずしの誕生には必須でした。

この「酢」についても、その歴史を振り返りながら、すしとの関係を見て行きたいと思います。

なお、すしを「」と書くことがありますが、これは中国では魚の塩漬けを意味する漢字で、日本ではいつしか「すし」を指す言葉として使われるようになったものです。それが明治以降になると、「寿司」という漢字を使用するのが一般的になりました。



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日本における最初のすしは「なれずし(馴れずし)」だと言われている。これは魚介類などを長期保存するために、塩をした魚肉などを米飯とともに漬け込んだものだ。米によって乳酸菌が繁殖し、それが乳酸を生成することで酸性になり、魚の腐敗を防ぐ。また、魚肉のタンパク質が分解してうま味成分のアミノ酸ができる。この馴れずしの製造方法は弥生時代にイネの伝来とともに中国大陸から伝えられたと考えられている。

滋賀県の「鮒ずし(ふなずし)」が現存するなれずしの代表格だ。なれずしには魚が主に使用されるが、野菜や獣肉も使われることがあったらしい。

なれずしが出来上がるまでには数カ月から1年以上もかかる場合があるため、その間にご飯の方は次第にドロドロに溶けて食べることはできなくなる。つまり、すしと言っても魚などの肉の部分を食べる食品だったのである。

室町時代になると、漬け込む期間を短くすることで、原型を保ったご飯と生に近い魚を一緒に食べる「生成(なまなれ)」が作られるようになったとされる(篠田統氏の説、異論もあり)。それでも製造には十日から1カ月ほどかかっていた。

江戸時代に入ると、いよいよすしに「酢(酢酸)」が使われるようになる。「押しずし」の誕生だ。これは、昆布だしで炊いてから酢を加えたご飯の上に調理した魚介類のネタを乗せ、押し付けて作ったすしだ。圧力をかけることで酢がネタに移るので、数日間で作ることができる。また、酢につけた魚介類がネタに使われる場合もある。鯖ずしなどがそれにあたる。

このように酢が使われるようになった背景には、酢の生産量が伸びたことがある。

酢は一般的に、穀物(コメ・ムギなど)や果物(ブドウなど)からアルコールを醸造し、そのアルコールに酢酸菌を作用させることで造り出す。つまり、酒が造れないと酢も造れないのだ。

「お坊さんの酒造り(日本酒の歴史)-中世日本の食(9)」でもお話ししたが、日本酒の醸造技術は室町時代に大きく進歩した。それにともなって日本酒の生産量が増え、また、酢(米酢)の生産量も増えたのである。酢がたくさん出回るようになると、それを料理に多用できるようになり、押しずしが作られたというわけだ。なお、魚介類を酢に漬け込んだ「膾(なます)」もよく作られるようになり、酢飯の上に乗せられたのである。

押しずしが考案されたのは上方(大阪・京都)だったが、それが1670年以降に江戸に伝わり、江戸湾(江戸前)で獲れたアジやコハダなど使った押しずしが作られるようになった。これが評判を呼び、行商(天秤棒での降り売り)などで盛んに販売されるようになる。また、1702年には現在の日本橋人形町で、「江戸三鮨」の一つの「毛抜鮨(けぬきすし)」が押しずしの販売を始めた。

一方、江戸時代になるまでに江戸湾で海苔の養殖技術が確立し、紙すきの技術を使って板状の板海苔浅草海苔)が作られるようになった。そして、押しずしの流行の後に、板海苔でご飯とネタを巻いた「巻きずし」が作られるようになった。この巻きずしも江戸前すしに含まれる。

次に、いよいよ握りずしの誕生であるが、19世紀初頭に出版された『守貞漫稿』には、「いつの間にか押しずしが廃れて、にぎりずしだけになった」とあり、握りずしが作られるようになったのは18世紀末から19世紀初め頃だと考えられている。

握りずしはその場で簡単に作れて屋台で売りやすかったことから、またたく間に江戸中に広がった。また、握りずしは一つ8文(100~200円)で、安価なため気軽に食べられるのも大流行した理由の一つだった。ネタにはクルマエビ・コハダ・シラウオ・玉子焼き・アナゴ甘煮などが使われた。なお、マグロは1831年にマグロが獲れすぎた時に、すしネタに用いられるようになったと言われている。

やがて、店舗で高級なすしを出すところも現れた。1824年には小泉与兵衛がワサビ入りの握りずしを考案し、両国で「与兵衛すし」を開店した。また、1830年には深川で「松が鮨」が開店し、豪華絢爛なすしで金持ちたちを魅了したという。なお、この2店も江戸三鮨に数えられる。

最後に、江戸前すしの発展に貢献した「酢」について紹介しよう。それは「粕酢(かすず)」あるいは「赤酢」と呼ばれる「酒粕」で造った酢のことで、現在の「ミツカン」の創業者の中野又左衛門が19世の初めに醸造方法を確立したものだ。この粕酢のうまみや風味が江戸前すしの酢飯を作るのに適していたのと、米酢よりも安価だったため、広く使われるようになったのだ。

江戸前すしは、しばらくの間は江戸(東京)の郷土料理だったが、1923年の関東大震災で東京のすし職人が全国に四散することで各地に広まった。さらに、1958年に大阪で回転寿司店がオープンすると、各地で江戸前すしを出す回転寿司店が相次いで開店し、すしの主役の座を占めるようになる。

油とてんぷらの歴史-近世日本の食の革命(8)

2022-01-19 23:15:57 | 第四章 近世の食の革命
油とてんぷらの歴史-近世日本の食の革命(8)
江戸の屋台で人気の食べ物と言えば、前回の「そば」に加えて、「てんぷら」と「すし」があります。これらは「江戸の三味」と呼ばれました。

日本の伝統食に食材を油で炒めた料理がほとんどないことから、日本人はどうも油のことがそれほど好きではなかったように見えます。ところが、油にどっぷりつけて揚げるてんぷらは別格で、高級料亭でも必ずと言っていいほどてんぷらが出て来ます。ただし、てんぷらを揚げた後は油をしっかり切って、なるべく油分が少なくなるようにはしています。

今回は、屋台食から高級料理まで上り詰めた「てんぷら」の歴史について見て行きます。



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てんぷらは食材に衣をつけて油で揚げて作る。たね以外に必要なものは、衣を作る小麦粉と揚げるための油だ。特に重要なのが「」で、てんぷらが庶民の間で広く食べられるようになるためには、大量の油が世の中に流通する時代が来るまで待つ必要があった。

古代から使用されている油としては、「ごま油」とエゴマからとった「荏油(えのあぶら)」などがあった。これらは主に寺院や公家の家で、照明用の灯油(ともしびあぶら)として用いられた。また、クジラからとった鯨油や魚油も灯油に用いられた。

これらの油は揚げ物にも利用され、奈良時代からはごま油などで揚げて作った「唐菓子(とうくだもの)」が作られている。また、鎌倉時代から室町時代にかけて、中国から帰国した留学僧が、野菜やきのこ、豆腐などをごま油で揚げる料理を紹介している。しかし、この頃までのごま油や荏油(えのあぶら)は生産量が少なく、庶民まで行きわたらなかった。

ところが室町時代末期になると、織田信長や豊臣秀吉の振興策を受けて、アブラナの種(菜種)を搾って作った「菜種油」の生産量が伸びてきた。さらに江戸時代になると、アブラナの栽培も増えたことから菜種油の生産量がますます増加して行った。稲作の裏作として、秋に種を蒔いて春に収穫するアブラナの栽培は都合が良かったようである。

菜種油は主に「行灯(あんどん)」で使われた。行灯は菜種油の普及にともなって開発された江戸時代を代表する照明器具であり、江戸の初期にはもっぱら行灯をともすために菜種油が使われたのだ。

一方、1615年には、質の悪かった木綿の種を搾った「綿実油」に石灰を入れて精製する方法が大阪で考案された。その結果、綿実油の品質が著しく向上したため、生産量も増えて行った。

こうして菜種油綿実油の生産量が増加した結果、日本で消費される油の大部分をこの2つの油が占めるようになる。例えば、1698年に大阪から江戸や京都に運ばれた油のうち、菜種油は68%で綿実油は25%であり、2つで9割以上を占めている。

さらに享保年間(1716~1736年)になると、灘(兵庫県)で水車を利用した搾油が始まった。人力に比べて大量の油を搾ることができるようになり、安価な油が大量に出回るようになったのである。

以上のように、油の生産量が飛躍的に増加した結果、以前は非常に高価だった油を庶民も使用できるようになったのである。ちなみに、日本人が一日に三度の食事をとるようになったのは18世紀になってからであるが、その理由の一つとして、照明用の油が広く普及して、夜遅くまで起きているようになったため、お腹がすくようになったからというものがある。

さて、いよいよ「てんぷら」の歴史だ。油が安価に手に入るようになったことで、てんぷらも簡単に作れるようになって行った。

江戸初期の上方では、鹿児島から伝えられた、魚のすり身を油で揚げた「つけあげ」が人気を博していた。これが江戸に伝わると、すり身ではなく、素材に衣をつけて揚げるようになる。まず、野菜を揚げたものが「あげもの」や「胡麻あげ」と呼ばれて人気を呼んだ。やがて、魚介類に衣をつけて揚げるものが考案されて「てんぷら」と呼ばれるようになる。これが大評判となるのだ。

この「てんぷら」は屋台で売られていた。その理由は次のようなものだ。

江戸では火事は日常茶飯事であり、時折大火と呼ばれる大規模な火災が発生した。例えば、1657年の明暦の大火では江戸城の天守閣を含む江戸の大半が焼け落ちたという。このため、てんぷらなどのように火を使う商売は店舗での営業が許可されなかったため、屋台で作って販売したのである。しかし、このことが一般大衆に「てんぷら」が広く広まる役割を果たしたと言える。

てんぷらは手が油で汚れるのを防ぐために、串にさして売られていた。一串は4文(80円ほど)で、とても安い。たねは「あなご」「こはだ」「貝柱」「芝海老」「するめいか」などで、どれも美味しそうだ。また、油ものなので腹持ちも良い。このように、安くて美味しくて満腹感が得られる食べ物を屋台で気軽に買えるとなると、大人気になるのは当たり前だ。

なお、てんぷらの屋台には天つゆ大根おろしが置かれていた。江戸時代のてんぷらは衣が厚かったため油くどく、それを和らげるために考案されたと考えられている。現代のてんぷらは衣が薄いので、塩で食べても美味しいのだろう。

江戸の屋台が最も盛んになるのは、産業や文化が発展した天明期(1781~1789年)以降と言われている。これには、この頃に関東でも菜種油と綿実油の生産量が増大して、油がさらに安価になっていたことも関係していると考えられる。

このように庶民の食べ物として根づいた天ぷらだったが、次第に高級化路線も出現した。文化年間(1804~1818年)には高級魚のカツオのてんぷらが登場し、さらに安政年間(1854~1859年)には、店舗で高級な素材で作ったてんぷらを売る店が現れた。また、客の家で揚げたてを食べてもらう「出張てんぷら」というものまで登場したという。

なお、私が大好きな「天丼」は、幕末に生み出されたという説が有力だ。

そばの歴史-近世日本の食の革命(7)

2022-01-16 15:11:30 | 第四章 近世の食の革命
そばの歴史-近世日本の食の革命(7)
今回は「そば」の話です。

時代劇を見ていると、屋台でそばを食べるシーンが時々登場します。先週の『雲霧仁左衛門5』でも、岡っ引きがそばを食べている最中に雲霧の一味が盗みを働いていました。このように、江戸っ子のそば好きは有名です。

そばが現在のような形になるのは江戸時代のことで、それが江戸に広まると、瞬く間に江戸っ子の大好きな食べ物になりました。そしてそれ以降、そばはさまざまな進化を遂げながら、江戸や東京になくてはならない食の地位を守り続けています。

今回はこのようなそばの歴史を見て行きますが、ここでは麺類の方を「そば」とし、穀物の方を「ソバ」と表します。



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そばが登場する前の日本の麺類としては「うどん」と「そうめん」がある。これらについては、すでに「うどん・そうめん・石臼-中世日本の食(8)」で詳しくお話しした。

うどん・そうめんは小麦粉で作られており、小麦粉に含まれるグルテンが網目構造を作ることで生地全体がまとまるため細くしても切れなくなる。一方、そばにはグルテンが入っていないため、そば粉だけでそばを作るのは難しい。

ソバは中央アジア原産のタデ科の植物だ。イネやコムギのようなイネ科の植物とは異なり、受精には他の花の花粉が必要だし、虫に花粉を運んでもらわなければならない。しかし、ソバは冷涼なやせた土地でも早く実ることから、世界の各地で栽培されてきた。

ソバは日本に縄文時代に伝えられたと考えられている。最初は粥にしたり、米などと一緒に炊いたりして食べていたが、石臼が伝えられると粉にされ、湯にといて「そばがき」「そばねり」「そばもち」にして食べられるようになった。

現在「そば」と呼ばれているものは、元は「そば切り」と呼ばれていた。その起源については天正年間(1573~1592年)に甲州(山梨)で始まったとする説と、江戸時代初期に朝鮮の僧の元珍が東大寺にそばのつなぎに小麦粉を加えることを伝えたのが始まりとする説がある。つなぎに小麦粉を使わない場合は、ヤマイモや豆腐が使われていた。

江戸にそば切りが伝えられたのは1664年(寛文4年)とされる。最初はせいろを持つ菓子屋で蒸したそばが売られていたという。これが江戸っ子の評判となり、18世紀に入ると湯がいたそばが作られるようになり、神田に「二八即席けんどん」という看板を掲げて、そばを出す店が現れた。この「二八」の意味するところとして、「二八の十六文」でそばを売っていたからという説と、そばを「小麦粉2、そば粉8」で作ったからという説の二つがあるが、どうも前者の方が正しいらしい。

18世紀前半までは味噌だれでそばを食べていたが、18世紀後半になると、醤油削り節で作ったたれが登場した。さらに、器に入れたそばに醤油と削り節をベースにした熱い汁をかけて食べる「ぶっかけ(かけそば)」が考案され、江戸で大流行する。そして、このぶっかけに、様々な具を乗せた次のような「種物(たねもの)」が時代とともに次々と考案されて行った。

しっぽくそば:キノコ・かまぼこ・野菜などを乗せたかけそばのこと。しっぽく(卓袱)は、元は長崎の料理で、これが元となって享保(1716~36年)頃に上方で広まったしっぽくうどんが、1750年以降に江戸に伝わって始まったとされる。
花巻そば:かけそばの上に海苔をちらしたもの。その様子が、花が開いたように見えるので花巻と名付けられたと言われている。安永年間(1772~1780年)に考案されたとされる。
鴨南蛮:鴨肉とネギが乗ったかけそば。文化年間(1804~1818年)に考案されたとされる。
てんぷらそば:てんぷらが屋台で食べられるようになったのは1770年代以降のことで、少なくとも19世紀の初めにはてんぷらそばが作られていたと考えられる。

これら以外に、卵とじかしわ南蛮などの具を乗せたものが江戸時代に考案された。

なお、18世紀後半になると江戸の西の武蔵野などでソバの栽培が盛んになり、収穫されたソバの実を川の水力を使った石臼で製粉することによって、大量のそば粉が江戸に出回るようになった(それまでは、そば屋が自分で製粉していた)。こうして18世紀後半から店を構えるそば屋が増え、1860年の江戸には3763軒のそば屋があったことが分かっている。この数には屋台などの数は入っておらず、それらを入れると、江戸ではものすごい数のそば屋が営業していたことになる。

ちなみに、かけそばの値段は長い間16文のままで、しっぽくそばは24文、花巻そばが24文、てんぷらそば(海老天入り)が32文、卵とじが32文だった(1文は現在の10~30円と言われている)。

なお、年越しそばも18世紀後半から始まった風習で、そばの長く伸びるさまに健康や寿命の願掛けを行ったものとされている。