10月の半ば頃だったと思う。NHK BSの番組で Cool Japan という放送があり、特集に横浜がテーマになってました。横浜在住の外国人に横浜の Best 5 を選んでもらい、それを英語で討論してました。第5位は横浜の商店街、例として弘明寺商店街があげられ親しみやすさと歴史を挙げてました。4位はラーメン博物館でラーメンの多様性と昭和レトロを、3位はみなとみらい地区で開発により利便性と公共性はもとより IT などの技術力の評価を得てます。2位は中華街です。食の多様性と国際性を外国人には身近に感じているからだと思いました。第1位は驚いたことに横浜の公園でした。横浜には広い公園が沢山あり、どこも東京の公園ほど混んでなく家族でゆったりと寛げる場所だからだそうです。例として家から4㎞程にある岸根公園を挙げてました。
とても懐かしく感じたので、お天気のいい日の午後、新横浜で用事を済ませた後、歩いて岸根公園へ行きました。岸根公園の上の方は戦時中は高射砲陣地があり、戦後は米軍に接収されていたそうです。

公園に着いて最初に目にするのは篠原池です。私が篠原池で遊んだのはもう65年以上前、中学生の頃だったと思います。そのころの池は今よりずっと広くて武道館もなく今の2倍近くの大きさで、岸辺の整備もされてなくて葦もそんなに茂っていませんでした。もちろん遊歩道などありませんでした。
篠原池の思い出が一つあります。ある夏の日に岸辺近くで金メダカの群れが水面近くで泳いでいるのを発見、手で捕えようを頃合いを見計らい水面に向かって手を伸ばすと傍の草むらから別の手が!瞬時に相手が蛇だと気付き一目散に逃げだしました。怖かった!!! その後1982年(昭和57年)に池の半分ほどが埋め立てられ県立武道館が建ち、1985年(昭和60年)には地下鉄岸根公園駅が出来、横浜からの便が格段に良くなりました。


篠原池を通り過ぎ上へと、そこには幼児用のよちよちコーナーや子供用の忍者とりでの遊具がありました。忍者とりでではコロナ下のせいか仕切り線で使えなくなってました。更に登っていくとせせらぎ広場では若者が遊んでいましたがひょうたん原っぱには平日のせいか人影がとても少なかったです。

ひょうたん広場の奥に珍しく大人用の平行棒がありました。公園の一番奥には少年野球場が、その隣にはゆうゆう広場、赤ちゃんを連れたお母さん方が休んでいました。

秋の日差しが斜めに射すと地面にはドングリや銀杏が目立ちました。

この他にも公園には見晴台、野球場、中央広場、駐車場、などがありましたが全部見ることはできませんでした。
さて公園を出ると目の前にバス停、六角橋中学校前とありました。私の母校ですが、しかしここの校舎で学んだことはありません。この校舎が出来る前年に卒業したからです。そのすぐ近くにあおぞら保育園、ここはかつて平屋であおぞら幼稚園だった処、私のアマチュア劇団時代の最晩年(1972年~1978年)の稽古場でした。ここで作った芝居は青少年ホールや今は無くなっているがそごう劇場で上演しました。上演した作品は新ハムレット(太宰治)、薔薇の館(遠藤周作)、偸盗(山本周五郎)、令嬢ジュリー(ストリンド・ベルヒ)、夏の夜の夢(シェイクスピア)、おさん(山本周五郎)と最後はアンチゴーネ(ジャン・アヌイ)です。

さて、あとはここを真っすぐ下っていけば上麻生線のバス停、神橋小学校前に出るだけだと歩き始めたがどうもおかしい?道は次第に狭くなり周りの家は2階建てばかりで視界が遮られ方向が判らずどこを歩いているのかさっぱり判らない、迷路に入り込んだようだ。そんな時、前から歩いてきた年配の人に道を聞かれた。「白楽駅へ行くのはどの方向でしょうか?」と。 全く反対の方向です、上麻生線のバス通りに出れば判りますと一緒に歩きだした。聞けば神奈川大学のOBの方で、昔この近くの下宿に住んでいたと言う、その方は以前この辺りは畑だらけ、空が広く感じられたと、全く同感です。神奈川大学については今年、箱根駅伝の予選会で5位に入り来年の出場権を獲得したことを話すと、もちろん応援すると云っていました。その方の話では、今年で定年を迎え、家で家庭菜園をし、趣味は囲碁とウォーキングだそうですがコロナの影響で運動不足になりがちだと話してくれました。そんな話をしながら道を右へ行くようにしてやっと上麻生線のバス通りに出ることが出来ました。そこからは六角橋商店街の入り口が見えたのでそこで別れました。近くのバス停は神橋小学校前を一つ通り越したバス停になていた。帰った時、周囲はすっかり暗くなっていた。なんだか思い出の一杯詰まったウォーキングの日になりました。
花の写真は違う色の花でも同じ実を付けていました、不思議なのでパチリ。

背景画はトランプのマークをオーソドックスにしました。
