本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

高瀬露関連残りの証言

2012-03-26 15:45:07 | 高瀬露
(2) 露は「事実でないことが語り継がれている」、とはっきり言った。<上田哲>

<1.座談会「先生を語る」>(昭和10年頃か)
(1) あの女のことで騒いだことがある。(高橋慶吾)
(4) あの女の人はどうしてもいっしょになりたいといっていた。(高橋慶吾)

<2.関登久也のものと思われる日記>(昭和5年10月)
(1) 昭和5年10月4日の夜に高瀬露が関登久也の家を訪ねた。その際に賢治の叔母ヤスがやって来て怒った。それは露と賢治との結婚話に関してである。<関?日記>
(2) 昭和5年10月4日に高瀬露が関登久也の家を訪れ、賢治から貰ったという書籍を賢治に返してほしいと頼んで置いて行った。<関?日記>
ただし、理由は現時点では言えないがこの日記には多少疑問点がある。幸いその日誌の所在も教わったので今年中に現物に相まみえたいと思っている。

(9)…(略)…そのうちに女がかくれて一人先生をたずねたり、しつこく先生にからまってゆくので先生も弱ってしまったのだろう。(高橋慶吾)

<4.関登久也の「面影」>(昭和15年9月)
(1) 賢治が亡くなる1年位前(昭和7年)の一旦病気が良くなった頃に、森荘已池が賢治にその後の露の行為についての話をした。<関登久也>
(2) すると翌日賢治は大層興奮してわざわざ関登久也の家を訪ね、露が賢治のことを中傷的に言っているので賢治は関にその弁解をし、了解を求めた。<関登久也>
(3) その際関は、かつて賢治が他人の言に対してその経緯を語って了解を求める様なことはなかったから、賢治の違った場合を見たような感じを受け、それだけ賢治が普通人に近く見えていつもよりも一層親しさを覚えた。その時の賢治の態度面ざしはいつもの凛としたものとは異なり、そ反対の普通の親しみを多く感じた。<関登久也>

<5.関登久也>(昭和18年9月)
 「返禮」
(1) 賢治は亡くなる1年位前の病気がひとまず良くなった頃に関の家を訪ねて来て、露が賢治のことを中傷的に言うのでそのことについて賢治は関に一応の了解を求めた。<関登久也>
(2) 関はその際の賢治がそれまでとは違って見えたように感じるとともに、普通人に近く見えて何時よりも一層親しさを覚えた。<関登久也>

(12) 賢治氏が、一女のために勿論身をあやまるやうなことはないにしても、苦しまれたことは事実です。<関登久也>

(19) しかしながら以上のような事件は、昭和3年に自然に週末を告げた。「昭和三年八月、心身の疲労を癒す暇もなく気候不順による稲作の不良を心痛し、風雨の中を東奔西走し、遂に風邪をえ、やがて肋膜炎となり帰宅して父母のもとに病臥す。」という年譜が、それを物語ってる。<森荘已池>

<8.佐藤勝治の「賢治二題」>(昭和29年2月)
 私は、「賢治○○」の著者から、病床の彼にその後のT女の行為について話したら、翌日大層興奮してその著者である彼の友人の家にわざわざ出かけて来て、T女との事についていろいろと弁明して行つたと、直接聞いたのである。その時はそんなにむきになつて弁解した賢治を一寸おかしいと思つたぐらいであつたが、その後にその手記が発表となり、後日「賢治○○」の著者の性格を知り、その後で又このようなDさんの話を聞くに及んで、この手記成立の理由が私には明確に解けたのである。<佐藤勝治>

(3) 賢治の露宛手紙下書によれば、二人の手紙の往復は賢治の発病後も継続しており、クリスチャンの露は法華経信者となって賢治との交際を深めようとしたり、持ち込まれた縁談を賢治に相談することによって賢治への執心をほのめかしたりしたが、賢治の拒否の態度は依然変わらなかったらしい。その結果露は賢治の悪口を言うようになったのであろう。<小倉豊文>
(4) このことは高橋慶吾は否定していたが、小倉は関登久也夫人ナヲからこのことを直接聞いており、賢治が珍しくもこの件について釈明に来たことも関から直接聞いている。<小倉豊文>
(5) 賢治が露の単独来訪を拒否したことが記してある葉書の日付である昭和2年6月9日頃以降も、露の単独訪問は繁々続いていたと高橋慶吾は言っていた。<小倉豊文>
(6) 〝露はその後も賢治への執心をほのめかしたりしたが賢治の拒否の態度は依然変わらなかったらしく、その結果露は賢治の悪口を言うようになったのであろう〟ということに関しては高橋慶吾は否定し、ナヲは肯んじていた。<小倉豊文>

<15.高橋文彦の「宮沢賢治と木村四姉妹」>(昭和55年9月)
 実は、杲子の足どりを調べていくうちに、賢治を初め、すでにこの世の人でない人たちの過去をほじくる姿勢に疑問を投じた老婆(ここでは触れない)に邂逅した。彼女は、Mというある著名な地元賢治研究家の名を引き合いにして、彼女はもとより多くの人たちが、ありもしないことを書きたてられられ、迷惑していることを教えてくれた。架空のことを、興味本位に、あるいは神格化して書き連ねた作品の多いことを指摘し、賢治を食いものにする人たちのおろかしさに怒りをぶつけた。<高橋文彦>

(4) その頃私がおうかがひした時、真赤な顔をして目を泣きはらし居られ「すみませんが今日はこのまゝ帰つて下さい。」と言われたこともありました。「賢治先生」


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