1909年10月26日、ハルビン駅頭で放たれた銃弾によって伊藤博文は命を落とした。犯人の「重安根」は、暗殺動機を検察官に尋ねられ15の理由を挙げている。その一つに「伊藤さんは、韓国王妃を殺害し、皇帝も廃位させた」がある。
最近、韓国の国会議長は、慰安婦問題に関し「一言でいいのだ。日本を代表する首相あるいは、天皇が『本当に申し訳なかった』といえば、すっかり解消されるだろう」と語った。ほかにも火種はあるが、いま日韓関係は最悪の状態に入った感じがする。 そこで、重安根がいう韓国王妃殺害事件はなんだったのだろう・・・伊藤博文暗殺事件ほどに、この事件は知られていないが、今日の韓国国会議長発言と比較にならない大きな国際犯罪だった・・・世界史の窓を覗いてみよう。
《閔妃暗殺事件(世界史の窓より)》
日清戦争(1894/7~1895/4)の結果、”清”の宗主権が否定され、朝鮮王朝は形の上で独立した。直後にロシアを中心とした三国干渉によって、日本が遼東半島を”清”に返還すると、朝鮮政府内にロシアと結んで日本を排除しようとする親露派が形成された。その中心が閔妃(みんび=明成皇后)であった。その動きを危ぶむ日本の公使・三浦梧楼は1895年10月、公使館員等を王宮に侵入させ、閔妃らを殺害し、死体を焼き払った(乙未事変ともいう)。 この事件は、一国の公使が在任国の宮廷で王妃を殺害するという前例のない出来事であった。しかし当時の日本では、事件は閔妃と大院君(26代朝鮮王・高宗の父)の内紛に三浦公使が巻き込まれたにすぎないという理解と、公使の行動が日本の国益を守る愛国心から出たものであるという同情が一般的で非難がわき起こることはなかった。また関係者の証言や記録もあえて真実は語らないという態度のものが多く、事実は闇に包まれていた。その後1988年角田房子が『閔妃暗殺』を発表してベストセラーになり、始めて日本でも広く知られるようになった。歴史書ではないが両国の資料をよく調べた力作であるので、それにそって事件の詳細を見てみよう。
* * * * * *
三浦梧楼は長州出身の軍人であったが、彼が韓国駐在公使となったのは前任の公使で同じ長州人の井上馨の推薦によるもので、伊藤博文と山形有朋が決定した。 井上は日清戦争後の駐韓公使として、閔妃を何とか日本側に引き付けようと努力(例えば300万円の援助を約束するとか)を重ねたが、閔妃の親ロシア姿勢を変えることができず、最終的な手段として閔妃を除くことが必要と密かに考えるに至った。 そこで、その実行に適した人物として三浦が選ばれた。三浦は、ある決意をもって韓国に赴任した。三浦梧楼は戊辰戦争や西南戦争で活躍し、直情怪行の人として知られて、士官学校校長や学習院院長を務めた人物である。
閔妃殺害事件は対外的にも問題になったので、公使として三浦梧楼の責任が問われ、事件後召還されて広島で裁判になった。しかし、直接関与の証拠はないとして無罪となった。彼はその後も長州閥の旧軍人として優遇され、晩年には枢密院顧問となっている。彼の回顧録が公刊されていて、様々な自慢話が語られているが「朝鮮事件」の一節は、自分の判断で実行したと語るだけで詳細は言葉を濁しており、「吾輩の行為は是か非か。ただ天が照臨ましますであろう。」と結んでいる。<三浦梧楼「観樹将軍回顧録」中公文庫P290>
三浦の計画では、日本軍人を顧問としている理由で解散させられることになった訓練隊が反乱を起こし、その混乱に乗じて閔妃を殺害、反閔妃派の大院君を担ぎ親日派政権を樹立するというものであった。当初1895年10月10日決行と決めたが、訓練隊の解散が早まりそうになったので急遽8日深夜に繰り上げた。三浦は公使館員・堀口九万一や民間人の漢城新報社長・安達謙蔵(後の政治家)、同社員・小早川秀雄らとはかり、実行要員として大陸浪人といわれるようなゴロツキ連中を集め、日本軍の馬屋原少佐にも連絡して態勢を整えた。大院君の決起という形をとるため、浪人の岡本柳之助らが寝所に押し入って強引に説得した。しかし大院君がすぐに腰を上げなかったため予定より時間をくってしまい、王宮に着いたのは明け方になった。そのため夜陰に乗じて閔妃を殺害するという計画は狂い、王宮に侵入しようとした日本側の侵入者たちと王宮守備隊との銃撃戦になった。宮中に乱入した日本兵と抜刀した民間人は閔妃を探して駆け巡り、女官などに手あたり次第に暴行を加えた。たまたま宮中にいたアメリカ人顧問やロシア人技師がそれを目撃した。
この乱戦の中で閔妃は斬殺されたが、直接の下手人はわかっていない。後の裁判では日本の軍人だったという証言もあったが、他に数名の民間人が「自分こそ下手人だ」と名乗るものがあり、結局は不明とされた。
事件後に宮中に入った三浦公使は、閔妃すると直ぐに焼却を命じ、遺骨は宮中に埋められたとも、池に投げ込まれたとも伝えられている。<角田房子『閔妃暗殺』1988新潮社刊・現在は新潮文庫>
国際的な批判を受けた日本は、三浦梧楼らを召還し裁判にかけたが証拠不十分で無罪となった。
朝鮮の金弘集内閣は日本の圧力を受け、事件の解明を行おうとしなかったために民衆の反日感情は強まり、1896年1月「国母復讐」を掲げた反日武闘闘争(義兵闘争)が起きた。日本兵を含む朝鮮政府軍が鎮圧に向かい、首都の防備が手薄になったすきに親露派はクーデターを起こし、高宗(26代朝鮮王朝)をひそかにロシア公使館に移して金弘集政権を倒し、親露派政権を樹立した(2月)。 閔妃暗殺事件は結局日本に有利な状況を作りだすことはできず、その後ロシアはさらに朝鮮への影響力を強め、日本との対立が深刻化して日露戦争(1904~1905)へと向かっていく。
実行犯の一人である小早川秀雄は「朝鮮とロシアとの関係をこのまま放置しておくならば日本の勢力は全く半島の天智から排斥され、朝鮮の運命はロシアが握るところとなり・・・これは単に半島の危機であるばかりか、まこと東洋の危機であり、また日本帝国の一大危機といわねばならない。この形成の変動を眼前に見る者は、どうして憤然と決起しないでおられようか」と書いている。彼は朝鮮に来る前は熊本の小学校の先生だった。
(引用)このように全員が「閔妃暗殺は日本の将来に大いに貢献する快挙である」と信じて、一点の疑いも抱いていなかった。『逆効果になりはしないか。日本を窮地に追い込む結果になりはしないか』と思い悩んだり、ためらったりした人はいない。彼らの多くが、殺人は刑法上の重大犯罪であり、特に隣国の王妃暗殺は国際犯罪であることを知らなかったわけではない。しかし、それが ”国のため” であれば何をやっても許される。それをやるのが真の勇気だという錯覚の中で、殺人行為は快挙となり ”美挙” と化した。<角田房子『閔妃暗殺』1988新潮社刊P306>
角田女史の著作は、現在では細部で誤りが訂正されているが、大筋では事件を正しく捉えている。