特別なRB10

昭和の東武バス野田の思い出や東京北東部周辺の乗りバスの記録等。小学生時代に野田市内バス全線走破。東武系・京成系を特に好む

北花崎と船戸木戸の阪東バス~小学生が見た昭和の柏駅西口~

2017年06月29日 22時17分38秒 | 旅行


 従前お話したように、かつて野田市駅から柏駅西口を結ぶ柏03という路線がありました。
つくばエキスプレス開通で柏たなか駅~野田梅郷住宅までに短縮されて今日ほそぼそと残存しているのも従前お話した通りです。
この路線を途中まで走る区間折り返し便のような阪東バスの路線がかつてありました。
阪東バスすなわち阪東自動車が東武の息のかかった会社であることはこのブログに辿り着いた方には常識以前の話でしょう。
柏市北部の人口急増で柏~野田間のバス需要が東武一社では到底賄い切れなくなり、我孫子の阪東自動車にも肩代わりしてもらおう、ということで乗り出してきたのです。

 さっそくその乗車記を綴るべきですがわたくしはこの阪東バスの路線を全線乗りつぶしておりません。途中下車するかただ単に見かけて終わりだったか。
しかしながらこの阪東バス乗車の記憶を思い出す時いつも当時の柏駅前の光景もセットになって脳裏に蘇るのです。
今回はそのとんでもなく長い前置きだけで終わりまして次回本格的に阪東バスのお話をするタイトル詐欺です。



 昭和の御世、今日と異なり柏駅西口のバス乗り場は1~3番までしかありませんでした。
小学生時代の昭和50年代後半も進学して柏に通った昭和末期もそうでした。
1番は今も昔も豊四季台団地循環専用、2番が若柴循環とか初石駅、流山駅東口といった駅から北西へ向かう路線でした。
なお、当時は国立がんセンターやかしわ餅にくっついてる葉っぱのことだと長年誤解していた柏の葉公園などは存在していません。
かねてよりあの辺りが駐留米軍基地であることは野田でも耳にすることがあり何か人外魔境の感がありました。
さらに言えば高田車庫もまだ未完で6号沿いの旧車庫が健在でありました。


 
後年『アド街ック天国』にも登場した西口名物の交通誘導員のおじさん。(昭和55年『柏市勢要覧』)
当時はペデストリアンデッキで日陰になる企業バス乗り場と東武バス豊四季台団地行きの間にいつも立っていて
大変な勢いで赤い誘導灯を振り回しており、いささか今日のオタ芸にも似た感がありました。



残る3番こそが駅から北東へ向かうもの、すなわち野田市駅あるいは野田車庫・東急柏ビレジ・三井団地線といったなじみ深い野田出張所が管轄する路線の乗車場となっていました。
2番のりばから未知の地名の方向幕を掲げ鈴なりとなって出発する柏営業所担当のバスの群れは、3番でバス待ちしながら望見する生活圏の狭い片田舎野田から来た一人旅の小学生の目に、やはり人外魔境の異国船のように見えました。



 柏駅前に立つ3つのバス停は野田のそれとは大いに異なり同じ電照式でありながら妙にスマートで占有空間の小さい、きらびやかな都会を思わせるスタイリッシュなボディをしておりました。
 そして驚くべきことに時刻表はバス停本体に付いているのではなくすぐそばのフェンスに据え付けられたパネルに、
写植業者に作成依頼したと思しきまことに流麗な商業印刷物様の大文字のものが貼り付けてあり、
目的の行先以外の時刻も一目瞭然とする開化なものでした。
 汚い手書き文字の野田のそれしか知らないガンダム好きの私は
「あぁ・・こんなバス停、アムロの父ちゃんが乗り降りしてたサイド6のバス停でしか見たことがない」
と嘆息し東京の文明の伝播の早さが余りにも野田と違うことに驚倒したのです。



回送費用を柏市が負担している柏12系統16号経由市立柏高校行きに柏北高校生徒が便乗して県と市で揉め事が起きている、と報ずる記事(昭和57年9月17日『朝日新聞』)。
3番ポールが細身なのがわかります。さらにご注目願いたいのが車両後部看板の「キノエネ醤油」。野田から来た車両だということがよく分かります。
念のため言っておきますが私は違う県立高校に入学しました。




昭和30年代のものという柏駅のバス時刻表(『柏市の昭和』)。ということは出張所格下前の野田営業所の車両が全てを担当していたということになります。
西口開設前なので東口から全便出発しています。野田行の列に廃絶した水堰橋止まりや大利根温泉行きが見えます。
戸張行きも全て東武で運行しており阪東の文字は見えません。
野田方面線が現在と等しく西口から出るようになるのは国鉄柏駅の大規模改修工事があった昭和45年3月1日からです。
発着点変更後も前述の区間便が残存していたことは私が水堰橋付近で直接お尋ねした地元の方や東武野田営業所のバスガイドだった叔母の記憶から明らかです。
また、くだんの阪東バス船戸木戸行きは野田線が西口発となるより遥か前から西口から出ていたことは閉店休業直前柏そごうにあった柏市歴史関連のコーナーに展示されていた写真でわかりました。

昭和50年代はこれの更なるハイカラなものが西口にあったのです

 さて「3番から乗れば見覚えのある野田の人が運転するバスに乗れる」そう信じていた少年の思惑を打ち砕いて運行されていた阪東バス柏駅西口~北花崎・船戸木戸線の話はまた次回に。



2 コメント

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Unknown (南栗橋車両管理区荒川支所)
2018-10-07 03:13:57
再再度恐れ入ります

現在の西柏営業所(イースト本社)がまだ出張所格だった時代について管理人さんが
『高田車庫もまだ未完で6号沿い』と記述なされておられますけども

古い航空写真で見つけ出せず難儀しております

もし古い記憶になりますが旧西柏出張所がどこにあったのか
掘り起こしていただければこれ幸いでございます

沼南営業所の前身『柏営』が“島忠”であることは当方も存じておるのですが…m(_ _)m
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ご指摘ありがとうございます (surrender90)
2018-10-08 12:42:44
ブログをご覧いただきありがとうございます。大きな喜びをもってご批判を拝見いたしております。
さて、お尋ねの案件ですが、これは全くもって当方の誤りでございました。まず「6号沿い」というのは文字が抜けておりまして正しくは「16号沿い」でございます。沼南営業所の前身が柏営業所というご見解にはいささか私見を申し上げざるを得ず、すなわち高田車庫が西柏出張所になる昭和58年頃まで柏駅の東西を問わず柏営業所管内でありましたから、沼南営業所と西柏出張所の分裂前が柏営業所であったと言うべきであろうかと思う次第です。当該管内のうち柏03柏11柏12柏14が除かれるのは申し上げるまでもございません。「高田車庫が未完」これもよろしくありませんでした。ご指摘のあと柏~高田車庫間のバス路線は昭和55年12月に開通済みであったことを知りました。しかしながらわたくしはその方向幕を見た記憶がなく、また当時の柏駅西口の2番のりばの標柱の行先欄にはまだ「高田車庫」が追記されておりませんでした。これをもって「車庫は無かった」と曲解したものでございました。駅頭には当時、大きな全バス乗り場の時刻表板が1枚掲示されていましたが、「高田車庫」という欄はございませんでした。他路線の欄に添字などを付けて混合表記していたのかと推察しております。
今改めて想い起こすと余計なことまで脳裏に浮かんでまいります。まだ2番乗り場には「××大広戸」という廃止済み路線の表記が残っておりました。××が何であったか忘れました。東口で見かける「大木戸」と同じ所へ行く路線であろうかと思っておりました。また柏01は現在「豊四季台団地循環」と言っておりますが当時は「台」を抜かして表記されておりました。西口から柏車庫に行く路線が残存していて三和銀行の斜め前水戸街道へ進んで「アサノ」という本屋さんと喫茶ナントカというお店の間に西口発柏車庫行専用のバス停が立ってございました。うっかりここまでコメントが長くなってしまいあい申し訳ございませんでした。こうしたところを今一度ブログにアップしないといけないなと気づかされたところでございまして、ご批判しかと頂戴のうえかかる誤文は適宜処置なすところでございます。
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