特別なRB10

昭和の東武バス野田の思い出や東京北東部周辺の乗りバスの記録等。小学生時代に野田市内バス全線走破。東武系・京成系を特に好む

野12 野田市駅~東宝珠花線を懐かしむ。その3 バス停とアイドルのポスター

2018年01月11日 02時41分59秒 | 旅行

 新年も成人の日を過ぎ、いよいよ忙しくなりつつありますが皆様いかがお過ごしでいらっしゃいますでしょうか。
 
 野12 野田市駅~東宝珠花という路線の話を今回で終えようと思いましたが、このブログをご覧いただいてる方々にはわたくしと同世代の方がいると思います。
今回はわたくしがバスを攻略した80年代のバス以外の、同世代の方も知っていそうな余計な記憶が蛇足として付いておりますので、終わりは次回まで持ち越しです。




 経路は上のようになっていて、青点線は同じく野田~関宿間を走っていた境車庫線をあらわしております。
前回は「蕃昌」から「船形十字路」までお話をいたしました。
同色の点線は船形十字路で分かれていた小山渡船経由の野田市駅~岩井線ですがわたくしの時代にはもうありません。
 

 
小山渡船(『ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 岩井』)



 そもバス停があったところにはホーロー看板が残っていることが多いものですが、ご覧ください。
 船形十字路のバス停跡地にもあやしげな看板が残っています。
なお画像は野田から関宿方面を望んでいます。

 道路はセンターラインのない現在よりも遥かに狭隘な道路でしたからバス停柱は道の片側にしかなく、
看板とは反対側の東宝珠花行き側にのみ立っていました。
地元の主婦のような女性が休日の12時台の便で野田市駅行きに乗ってくることがありましたが居たとしても大抵一人でした。



 先へ行くと急坂があり下って関宿町へ北進します。
今はともかく当時も沿道の木々深く真っ暗な坂でした。
道路左側に家など見られずもっと暗い道でした。
今は左右両側に歩道がありますが、当時は歩道どころか路側帯らしきものすらないガタガタ道でした。

 土地が大変低くなっているのはここに戦前まで巨大な湖沼「阿部沼」があったからです。



 
 土地がもっとも低くなったところに十字路がありそれを超えて関宿町側へやや行った所の道路の野田市駅行き側にだけぽつりとオレンジ色のバス停が立っていました。
それはこの随分大きな十字路警戒標識がある辺りでした。
 
 当時は標識も信号も病院の看板などともかく目印となりそうなものは何一つなく、さらに通行する車の姿すら珍しく、眼前には水穂を植え終えた田園の広大な大地が広がり、
ところどころの農家の防風林の間からは利根川土手の緑が見えたものです。
 夏など窓を全開にしていると車内には田んぼの匂いをはらんだまことに爽やかな風が入ってきました。

わたくしは幼い頃、川間に住む祖母から「アベヌマという沼があってな、あそこいらはカワウソが住んでて化けて出て人を食っちまうんだ」などと脅かされたことがあります。
 ゆえに、もしこの停留所で乗り降りする人がいたらカワウソが化けているかも知れん、などとファンタジーな気持ちで走り行くバスから「阿部」停留所を眺めておりましたが、
残念ながらカワウソはもちろん人間の乗降があった記憶もありません。



昭和15年頃という阿部沼開拓の様子(「写真が語る野田の歴史と文化」) 



 阿部の停留所を過ぎるとまた土地は数段高くなり関宿町へ入っていきますが、道が上る手前、ちょうど野田市と関宿町の境目あたりに「石塚農機」の看板が当時からあります。
くだんの祖母の代まで私の母方の家業は農民であったのでバスに乗り始める以前から「野田の竹塚ヤンマー」と並んでよく耳にした関宿の農機具屋さんです。

 後年、高校2年生の頃久方ぶりに乗ったら阿部の次に「下大山」(シモオオヤマ)という停留所が新設されていましたが、小学生時代はまだなく次停留所は「大山」と言いました。


   
 大山バス停は「白石ナントカ」という個人商店の道路を挟んだ真向かいにありました。
おそらくこのセブンイレブンがそのお店であったろうと思います。
 道路の右側に侵入避けの杭バーが設けられていますがこれは後年拡幅したであろう部分で、わたくしが東武バスに乗ってやってきた頃はこの幅だけ道は狭かったと思います。
今もセンターラインがありませんね。


 
ポンチョのような小型車ですら道路左側一杯一杯に寄せて走っています。
遠い昭和の御世、こんな狭い所をいすゞBU10とかあの辺の大きさのバスがゴリゴリ走っていたのです。 

 ところで私が乗りバスにかまけていた昭和56、57年と言うと、世間では80年代アイドルブームが極致に達した時代です。
 大山バス停のそのお店の店頭には水色のレオタード姿で体育座りをしている松本伊代ちゃんのお菓子のポスターやら
キョンキョンやら売出し中の原田知世やらアイドルのポスターが貼ってありました。
 
 この路線は休校日の夕方16時台野田発の便には子供の利用が非常に多かったと思います。
 子供同士のトラブルを恐れ最前席で身を潜めて座る私の耳まで後方席に陣取る地元の子供らの会話がよく聞こえてきたものです。
 
 ある時「君のかおり深呼吸~♪ なんとかかんとかマイラブ♪」とやはりアイドルであった早見優の曲を同学年らしき女の子3人ほどが合唱していたことがあります。
 今だと問題になりそうな迷惑行為ですが当時は野田あたりのバス路線ではよくあったのどかな光景です。
 わたくしは「はて?誰の歌だったっけ」とこのお店のポスターをしげしげ眺めたのを覚えています。
 
 後年、松本伊代と早見優が線路内不法侵入で書類送検されたとの報道を聞いたときこのバス停の光景を思い出しました。



  
 その次が「下根」(シモネ)でした。
現在野田市のコミュニティバスまめバスのバス停が付近に設けられていて、
近くに逆井商店といういかにもバス停が置かれるに相応しいたたずまいのお店がありますが、東武時代はここではありませんでした。



 
 陽光が激しい線状となって映りこんでいて恐縮ですが、先のお店の隣の消防団建て屋のそのまた隣に、
やはりコカコーラのロゴと一緒にひらがなで「とりや」と書いた看板が付いている個人商店が当時はあり、
店のまん前にバス停ポールが立っていました。
 バス停は店側すなわち東宝珠花行き側にしか設けられていないので
野田市駅行きに乗りたい人は道の反対側の何にも設けられていない方に、地べたに荷物を直か置きしてバス待ちしていました。

「とりや」自身は今日廃絶したようで現地にはブロック塀に囲われたただの民家しかなく、
塀にある古いホーロー看板がわずかにかつての路線バス停留所の残照として残っています。


 
 また道路反対側は比較的新しい家が並んでいるように見えますが当時は家などなくただ葉物か根菜かの畑のみが広がり、
そのど真ん中にはポツネンとお地蔵さんの小さいお社がある、ふと遠くを見れば筑波山の稜線と山岳測候所の白い建物が垣間見える、
昭和の原風景がそこにはありました。

 
コカコーラ製か否か忘れましたが「カプリソーネ」という名前のジュースが当時ありました。
これは缶でも瓶でもペットボトルでもなく容器が今日のウイダーインゼリーのような素材で、
別添えの短いストローをぶっ刺して飲むという、妙ちくりんな飲み物でした。

このお店のガラス窓には、80年代アイドルブームのパイオニア、松田聖子がビキニ姿でへそを出し首を傾けてカプリソーネを掲げるポスターや
「天使の輪っか」の三田寛子のシャンプーのポスターがありました。

この先に出てくる木間ヶ瀬郵便局から木間ヶ瀬小学校の間にもバス通りには個人のお店屋が賑わしく並んでいて、
ククレカレーのマッチの「甘口辛口中辛 君はどれ?」と書かれたポスターやらアラレちゃんのゲームウォッチのCMに出てた北原佐和子のやら
バスからボヤっと外を眺めているだけで夥しい数のアイドルポスターが目に飛び込んできたものです。 
 
 バス停を一つ一つ丁寧に思い出すことが後世のためと思ってますが、余計なことまで思い出してまた長くなってしまいました。
 
 しかし80年代アイドルブームは、紅白の舞台に口パクで出てきて過呼吸起こして騒いでる現代のアイドルブームに比ぶれば、
質・量ともに桁違いで疾風怒濤の、そして田舎の路線バスに乗っていても巻き込まれそうになるほどの、あたかも一大社会刷新運動の如き感があったな、と
80年代路線バスの記憶とともに懐かしく思うのです。


 80年代のアイドルは皆結婚してしまいましたが、
今改めて下根を歩いていると茨城・境の結婚式場の看板がありました。
当時からあったものかどうか思い出せませんが、ずいぶん退色してるので相当古そうです。

 なんとか次回は終点東宝珠花までお話したいと思います。


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