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玄善允・在日・済州・人々・自転車・暮らしと物語

在日二世である玄善允の人生の喜怒哀楽の中で考えたり、感じたりしたこと、いくつかのテーマに分類して公開するが、翻訳もある。

写真集『写真で見る済州の歴史』紹介4

2020-11-22 17:09:01 | 済州一般
写真集『写真で見る済州の歴史』紹介4

2131 米国へ輸出する柑橘類、検疫作業
済州市海安洞の柑橘作物倉庫で、農林部国立植物検疫所済州支所検疫官と米国動植物検疫所検疫官とが共同で検疫作業を行っている。米国動植物検疫所は、自国の5州の柑橘集散地を病害虫から守るために、済州柑橘から発生するカㇰチボㇽレや柑橘クエンヤン病など4種を検疫対象に設定し、済州道内柑橘輸出団地での生果実病害虫調査を義務化した。米国は1995年から栽培環境、検疫、包装など特定の条件を守る場合に限定して、済州産柑橘の輸入を許容したが、カリフォルニア、フロリダ、ルイジアナ、テキサスなど柑橘主産地5州に対しては、搬入を禁止した。済州道はそれらアメリカの柑橘類の主産地である5州を除外した地域に、1995年から済州産柑橘を輸出しはじめて、その後も着実に輸出量を拡大してきた。

2132 済州の農業をリードする学生たち
済州道の未来の農業をリードする学生たちが集まって、1970年に第1回済州道営農学生修練大会を開いた。当時、済州道内の農業系高校生の中から、成績が優れた学生たちを選抜し、営農学生修練大会を終えてから記念撮影をした。前列左側から4番目が朴チュンフㇺ済州農高校長、一人おいて金学龍道教育委員会学務局長、金リョマン農協道支会会長、その次が姜ヨンジュン西帰浦農高校長、玄ファジン中文園芸高校校長である。

2133 1960年代、山川壇の黒松とその周辺
1960年代の山川壇一帯の様子である。真ん中に天然記念物第160号(1964,1,31)に指定された黒松と、その後ろにはセミオルㇺ(サㇺウィヤン岳)が見え、放牧した牛たちがのんびり草を食んでいる。黒松がある山川壇は1470年に牧使李約東が建てた漢拏山神墓をはじめとして農耕の災害予防を祈願する酺神墓があり、旱魃がひどくなると祈雨祭を祀っていたところでもある。「漢拏山神祭」は高麗時代から陰暦の2月に漢拏山頂上である白鹿潭北側の壇で、国泰民安を祈る祭儀だったが、冬に山に登った人が死ぬなどの事故がよくおこったので、先祖元年(1470年)に済州牧使の李約東が山川壇に墓壇を建立して、山川祭を奉行した。元来、そこには牧使の建てた墓壇と漢拏山神仙碑があったが、当時の碑はすべて消滅してしまった。その後、1989年には、地方文化人たちと李約東の子孫たちが共同で「牧使李約東先生漢拏山山神壇キジョク碑」と墓壇を新しく建立した。

2134 放牧場へ向かう済州馬(チョランマㇽ)
春から秋まで牧場や平原で放牧されていた馬が、冬が近づいてきたので自分の家に戻っているところである。昔から済州道では各地域に牧場があって、牛や馬たちを春から秋までは村の共同牧場で放牧し、冬が近づくと各自の家に連れてくる。村の共同牧場がない地域では、放牧のために山に送ったりもしていた。写真は1969年12月に旧左邑下道里のある住民が、その間、村の共同牧場で放牧していたチョランマルを家に追って連れ帰る場面である。

2135 農林長官の松堂牧場の視察
1957年10月5日に鄭ジェソㇽ農林部長官と李ウンジュン逓信部長官が松堂牧場を視察しているところである。大韓ニュース第134号(1957年10月6日制作)は鄭長官の国立松堂牧場視察のニュースを伝えながら、米国から輸入されたブラマンをはじめとする改良種の牛や羊、綿羊などの家畜たちを育てる姿も収めている。松堂牧場の肉牛ブラマンは韓米財団理事長であるベン・プリント将軍の故郷であるフロリダ州から輸入されたものである。松堂牧場は1956年6月、李承晩大統領が韓米財団の後援で済州道に国立牧場の建設を指示したのに伴って、1957年3月28日にベン・プリント大将によって国立牧場に選定された。1957年には5月23日と12月6日に李承晩大統領が松堂牧場を視察したこともある。

2136 イシドㇽ牧場の農業技術院の竣工
 1970年10月15日、翰林邑今岳里のイシドㇽ牧場の農業技術院竣工式の模様である。テープカットする人士の中の、中央が創立者であるP.J. メックリンチ神父で、左側の異邦人は農業技術院技術顧問として2年余も済州に滞在していたニュージーランド出身のジェフリー・リである。当時、この農業技術院はニュージーランドの綿羊・種豚及び技術支援で開院したが、上級学校に進学できない中高卒業生を対象にした養豚・畜産などの教育を通じて、多くの畜産人を輩出した。漢拏山の中山間地帯の16万5千余㎡を牧草地とするこの牧場は、貧しい済州道民が自立の基礎を準備できるように、1954年4月にコルルムウェバン宣教会から済州道に派遣されたアイルランド出身のメックリンチ神父が、1961年11月に聖イシドㇽにあやかった名前を付けて、中央実習牧場を建立したのが始まりである。

2137 イシドㇽ牧場の養豚場
翰林邑今岳(クㇺアㇰ)里に位置するイシドㇽ牧場の姿である。写真の施設は養豚場である。済州地域で最初の専業牧場であったこのイシドル牧場については、上の2136の記述を参照のこと。

2138 1960年代、イシドㇽ協会の養豚の輸出
済州道での大規模養豚事業は、1962年に発足したイシドㇽ農村産業開発協会によるものが最初である。イシドㇽ協会はアメリカから余剰農産物であるトウモロコシ4万5千トンを輸入し、中山間村周辺に養豚開拓農家団地を造成して、翰林邑今岳里に大規模な繁殖豚と肥育豚の養豚場を開設、養豚開拓農家の養豚事業を後援し、済州産豚の初輸出もイシドㇽ協会によってなされた。1960年代末にイシドㇽ協会は肥育豚を生きたまま香港に輸出した。写真はイシドㇽ協会が豚を香港に輸出するために豚の検査と包装作業をしているところである。しかし、イシドㇽ協会の香港への生きた豚の輸出は、中国の豚ダンピング政策のせいで長くは続かなかった。しかし、イシドㇽ協会は1971年に日本への豚肉輸出を開始した。日本への輸出のために今岳里豚屠畜場と冷凍貯蔵施設を完備して豚肉の対日輸出を1977年まで継続した。

2139 草創期の畜産団地
表善面城邑里周辺に造成された主畜団地の様子である。左側のペグヤギ、タランスィ、東コムニ、ジャボミオルㇺなどが主畜団地の背景になっている。ぐるりと円をなして作られた畜舎を中心として、道が放射状に伸びている。元来、この主畜団地は鄭ウシㇰ知事が思い描いたもので、イスラエルのキブツ形式を基盤にして済州道の畜産発展に一役買うものとして始まったものだったはずが、結局は土地投機に変質してしまった。キブツはイスラエル集団農場の一形態であり、農業だけでなく食品加工、機械部品製造など、軽工業を含む場合が多かった。既存耕地の集団化よりも計画的な入植事業である点、徹底した自治組織に基礎を置いた共同体がその特徴である。

2140 城山周辺の綿羊
外国から導入した綿羊たちが城山周辺で放牧されている。遠くには牛島も見える。高麗の忠烈王の時代に馬とともにモンゴルの綿羊が導入されたというが、実際の飼育頭数に関しては正確な記録がない。20世紀になって1937年から1939年にオーストラリアから輸入された綿羊347頭が飼育され、農会を通して飼育と加工関連技術が普及したが、太平洋戦争などの影響で1946年には63頭しか残っていなかった。ところが1950年代の中盤に、松堂牧場が国立牧場として育成され、米国産のアメリカン・メリノ種を導入し、イシドㇽ牧場ではオーストラリアからコリデイル、ニュージーランドからロムニマアスィ種を導入・飼育した。しかしながら1990年に1163頭だった済州道の綿羊は、1995年には100頭、2000年にはほんの10頭に過ぎなくなり、観光用に飼育されているだけである。

2141 スェアッベ(縄綯え)
 老人がオルㇾで「スェアッベ」を綯えている。「スェッベ」とか「スェアッベ」と言い、新西蘭(済州では「シンサラ」と言った)の葉を乾かして綯えて作る綱であり、軽くて頑丈である。その綱は牛を育てる時に、牛の首に綱を巻き、その綱に杭をつなぎ、大地に打ち込む。そうすると牛はその綱の範囲内で草を食むことができる。「スェアッベ」は牛に荷物を載せてつなぎとめる綱でもある。

2201 「テウ(済州の伝統筏)」と「チャリ(スズメダイ漁)」
テウ(テべ)でスズメダイ漁をしている。テウは伝統的な「テべ(筏)」のことで、チャリとはスズメダイを指す済州語である。済州ではチャリ漁をする際には、テウとクックチャサドゥルと呼ぶ網を使った。チャリは群れをなす習性があって、一定の場所で網を張るだけで大量に獲ることができた。チャリ漁は普通4月から9月までだが、卵を持った6月のチャリが「???」でおいしいと言う。チャリをとることをチャリ・・・・・この写真は1929年に朝鮮総督府から発刊した『生活実態調査 2 済州島』に掲載されている。

2202 テウとスズメダイ漁用の網(クックチャサドゥル)
漁の季節が終わった「テウ」が陸に引き上げられた姿である。涯月邑下貴里海岸らしい。テウの上に櫓が置かれて、・・・円形に組み立てられたまま船に連結された綱とともに、路面に少し斜めに固定しておかれている。テウは筏式の船であり、チャリ漁、釣り、海藻類採取などに利用した。長さ5m程度の丸太8~14本を並べて、つないでつくる。丸太の直径は25~40cmほどである。木はあらかじめ刈っておいて、1~3か月乾燥させてから使う。テウをつくるには、丸太をくりぬいた穴の中にクヌギで作った?チャンスェ?を入れて、丸太を相互につないだ底板をつくるのが第一である。底板が完成すれば、前側から・・・・・等が設置され、甲板にあたる部分をつくる。中間部分に設置される碇台は、チャリ網を下ろして引き上げる装置を付着させておく場所である。・・・冬には解体して保管し、翌年に改めて修理したり組み立てたりして、使用する。

2203 網(クックチャサドゥル)でスズメダイを掬いあげる独特な漁法
テウに乗って沖に出た3人のボモン里の漁師たちが、巨大なサドゥㇽ(網)を海に垂らしている。手ぬぐいを頭に巻いた女性の漁師も見える。スズメダイを掬いあげる方法は地域によって異なる。山北(漢拏山の北側)と山南(漢拏山の南側)ではスズメダイを獲る方式が異なる。山北では網を深く垂らして引き上げて獲り、山南では碇を降ろさず、大きな網を下に敷いておいてそれを引き上げて獲る方法が支配的である。済州の独特な伝来漁法として、水中に置いた網をそのまま引き上げるので、チャリドゥルマン(チャリを引き上げる網)とも言う。スズメダイは伝統的に敷き網に属する網(クックチャサドゥル)を利用して、主に春と夏に漁をする。この漁法の基本原理は、円形枠の網を岩や水中に下して、スズメダイを誘引して掬い上げて獲る方法である。気候が暖かくなると、スズメダイは水面に浮かび上がってくるので漁が容易になる。

2204 1970年代の北村浦口と帆掛け舟
1970年代の朝天邑北村里の浦口である「トゥイッケ」に入ってきたトッタンべ(帆掛け船)の姿である。帆を下ろす人と櫓をこぐ人の呼吸がよくあっていそうである。浦口の向こうの榎が、浦口の情緒をますます際立てている。この北村の浦口は昔から戦争に必要な装備を備えた舟でも隠せるほどの浦口として、「クンソンチャン(大船蔵)」などとも呼ばれてきた。

2205 チャリドㇺ(スズメダイ)漁
1990年代のスズメダイ漁。テウを利用していた昔とは違って、一隻の大きな船と二隻の小さな船を活用して網を上げる作業をしている。西帰浦市甫木洞沿海のソㇷ゚島(森島)付近で撮影したものである。昔からチャリ漁では、摹瑟浦とこのポモㇰ(甫木)洞が有名だった。潮流が激しい海で捕った摹瑟浦のチャリは大きくて棘が固く、焼き物や煮つけにされたが、ソㇷ゚島(森島)とチグィ島の間で捕る甫木のチャリは、小さくて骨が柔らかく、カンフェ(湯がいたセリ・ネギなどで蒸し肉・野菜を棒状に切ったものを束ねたもの、酢を入れたコチュジャンをつけて食べる)やムㇽフェ(冷スープ刺身、刺身汁)、あえ物にして食べる。その味が非常に有名で、毎年、5月から6月末まで、ポモㇰ浦口に浪市が立つほどで、村ではそれを利用して、2000年から「甫木水産逸品 チャリ大宴会」を開催している。チャリテウ漕ぎ体験、チャリ試食、ポモㇰ水中生態探訪、船上びっくり釣り、チャリ魚拓造りなどで構成されたこの祝祭は2009年に10回目を数えた。

2206 マカジキの捕獲
日本の植民地期に西帰浦でマカジキを捕獲する場面。滑車を利用して捕獲したマカジキを引き上げている。マカジキはマカジキ科の海魚であり、体の全長が3mほどで、肌は青黒く、身は桃色に光り、食用する。写真に見えるように、マカジキはくちばしが細くて槍の刃のように長く、韓国・日本・米国のハワイやキャリフォニアの近海に分布する。写真は1929年朝鮮総督府で発刊していた『生活実態調査』(2、済州島)に掲載されたもの。

2207  植民地期の鯨の肋骨
日本の植民地期の西帰浦邑内の随所にあった約15~16尺もの鯨の肋骨。日本の植民地期には捕鯨船があり、年間50~60頭の鯨が捕獲されていたと記録されている。1909年には東洋捕鯨株式会社が設立されて、蔚山、清津、大黒山島、巨済島など、そして1918年には済州島にその事業所を拡散していった。

2208 1060年代末、健入洞のアㇷ゚ドンジの魚市場
1960年代末に撮影した済州市建入洞アㇷ゚ドンジの西埠頭水産市場の様子である。木でできた舳先と古くさい服装のおかみさんたちが、魚を入れるヒサゴをさげて立っている。広げられた鯵が目を惹く。このあたりは今でも早朝5時にもなると朝市ができて、20余名の商人たちと新鮮な魚を安く買おうとする住民たちでにぎわう。現在、済州市水産業協同組合水産物競り市がある「チョルラク岬」の右側の浦口には、主に客船の操船のような小舟が碇泊する船着き場があったが、そこが「トンジモリ」である。写真で見える鯵は済州道沿岸に生息する回遊性の鰺である。稚魚から成魚まで食用として利用するが、油気が多くて、味がよくて、昔も今も鍋、焼き物、煮つけ、刺身などに利用する。特に塩焼きが逸品である。

2209 網で上げられた(愛らしい)スズメダイの群れ
済州の夏の珍味であるチャリ。カンフェやムㇽフェ、煮つけ、焼き物にしたり、塩辛にして食べる済州の郷土食の名物である。その小さくて愛らしいチャリ漁は、特な伝来漁法で行われる。写真は1990年代に西帰浦市甫木洞でチャリを水揚げする場面である。杓子の網を利用してチャリを水揚げしている。このチャリの群れを一挙に収穫した老漁夫の視線が真剣である。済州道では伝統筏船である「テウ」を利用してチャリ漁を行っていた。

2210 メル(イワシ)の掬い上げ
海辺の村の人々がメル(イワシ)を捕りに出てきて、オマン(漁網)やテバグニ(竹籠)などの道具でイワシを掬う作業を見事に撮っている。イワシをウォンダㇺ(石などで積んだ垣)内で捕ることを、済州の人々は「メルコリンダ(イワシを掬いとる)」という。ウォンダㇺは沿岸に広々と丸く積んだ石垣のことで、原始形の石垣網の一種と言える。太刀魚などの魚類に追われたイワシの群れがウォンダㇺに入ると、村民たちは各自で網や籠などを持ってきて掴む。イワシを捕って満面の笑みを浮かべる姿が、この作業の楽しみをよく示している。

2211 メルクドㇰ(イワシ籠)を提げた女性
近頃では漁船操業がすっかり一般化して、ウォンダㇺ(海中の垣)を利用したイワシ捕りを目にするのは難しくなったが、1970年代までは海岸村でよく見られる済州の風物詩だった。イワシ掬いは、太刀魚などの魚類に追われたイワシの群れが海岸に押し寄せて、石を積んだウォンダㇺに追い込まれると、これを見た村民が村を回って「イワシが入ったぞ」と知らせて始まった。その声を聞いた住民は我も我もとイワシを掬うための籠や網などを持って駆け付けて、一人か二人が片方にイワシを追い込み、ほかの人々が網などで魚を掬い取る方式でなされた。写真はウォンダㇺで獲ったイワシを籠に入れた姿で、後ろ側はイワシを掬った網が見える。

2212 漁船の帰りを待つ人々
1930年代初め、山地港アプドンジに漁船が入ってくるのを待っている人々。そのほとんどが白いチマチョゴリ姿で、魚を買うために竹籠を提げている。右側には洋傘を開いている人もいて、石垣にもたれて座っている母親とズボンを下ろした子供の姿が異彩を放っている。

2213 海草の手入れをしている人々
1940年代の海辺の風景で、海女たちが海辺でヒジキとホンダワラなどの海藻にまつわる作業を共同で行っている。左の下側に小さな伝馬船が見えることから、海で採ったヒジキやホンダワラを陸に上げて、各自に分けて、チゲ(背負子)にのせて帰る準備をしている。腕組みしながら見物している人、叺を腰につけて背負い駕籠に海藻をいれようとしている人、何かと口出ししている人、その光景を後ろ手で眺めている少女などが異彩を放っている。昔はヒジキなどの海藻は「豚堆肥」や「牛舎から運び出す堆肥」の次に大事な堆肥だった。国立民俗博物館資料では、「網の手入れ」していると記されている。

2214 西帰浦漁港の朝
徹夜で漁労作業を終えた小さな漁船群が次々と西帰浦漁港に戻ってくると、白い手ぬぐいを頭に巻き、籠を提げた女性たちは魚を買いに集まってくる。男たちが暇そうに後ろ手で立っている姿から、典型的な昔の浦口の情趣を感じることが出来る。左側で櫓をこぎながら船が入ってきている。服装から見て夏のようで、水養生(防水処理のことか?)がまともになされていないことから見て、1960年代であろう。背後の小さな島のように見えるのは今の西帰浦漁協の場所と思われ、その後ろには天地淵へ通じる道がはっきり見える。

2215 西帰浦の夏の浦口
1970年代の夏に撮った西帰浦天地淵下流の浦口の様子である。多くの人々が押し寄せていることから見て、朝に船いっぱいに魚をのせた漁船が入ってくる時の場面であろう。海辺に集まった人の大部分は魚を買いに出てきた人々だろう。青々とした海の反対側は緑陰が濃く、絶壁の上には草家が趣をたたえて立っている。

2216 スズメダイ(チャリ)を載せた船と人々
城山邑城山里の右側の海岸でスズメダイをのせた船を待っていた人々が、船を迎えているところである。スズメダイをもらっていこうと籠、たらい、さらにはリンゴ箱まで提げてきている。スズメダイを売買する姿が面白くて、こっそりと眺めている子供もいる。上側で砂遊びに没頭する子供たちは、別世界の子供のようである。チャリとはスズメダイのことで、塩辛や刺身スープや刺身や、焼きものにして食べる高級魚である。

2217 海藻を拾い上げる海女たち
台風で海は大荒れである。カジメやホンダワラやテングサなど、海中で育つ海藻が根から切れて浮かんで、流されてくる。水中に入って苦労もなしに海藻を手に入れるチャンスで、済州の海女たちはこの機会を逃さない。台風が過ぎ去ると海女たちは高い波にもかかわらず海に出て、波で流されてくる海藻を命懸けで拾い上げる。海に出た海女たちは、波が引いていく際に海に入って急いで海藻を取り出し、波が押し寄せてくると、急いで海から出てくる。波に乗ってやってくる海藻をそのまま放置しておくわけにもいかず、危険を顧みずに海に入っていく海女たち、そして思い切って海に入っていけない海女たちの方は、気がせきながらもそれを見つめている。1980年代中盤の大静邑沙渓里海岸で撮影した写真である。

2218 トッ(ヒジキ)干し
涯月邑下貴1里である東下貴里の漁村契のメンバーたちが採取したヒジキを、空き地に広げて干している。建物の後ろ側にはこの村の浦口である「ハンゲ」がある。済州道でのヒジキ採取は陰暦3月に漁村契のメンバーたちの共同作業で行われる。万一、不参加の場合には、人に頼んで代わってもらったり、欠席料を出さねばならない。現在では、採取したヒジキのすべてを日本に輸出している。

2219 出漁準備中の漁村の家族たち
海辺村の漁夫と家族が出漁の準備をしている。中庭の片側に漁具がいっぱいに積まれ、延縄に夫婦が熱心に餌をはめ込んでいる。その横では、子供たちが父の手作業を興味深そうな表情で見守っている。目で漁業の仕事を学ぶ子供たちは、成長したら家業を継ぐことになるだろう。漁村の中の家らしく、古くて使わなくなった網で屋根を覆っている。中山間村と比べて、海辺村では屋根に戴くロープを入手するのが容易ではなかったので、毎年、屋根を新しく葺く中山間村とは違って、2年に一回だけだった。そのために、使わなくなった古網のようなもので屋根をより頑丈に補って、なんとか荒い海風にも打ち勝つことができた。

2220 網の手入れに忙しい漁師の家族
夏の旧左邑下道里で会った漁夫夫婦が、風の通る日陰で座って作業をする姿である。夫は網の修繕をし、妻は服の繕いをしながら、片足で「アギクドㇰ(赤ちゃんの揺り籠)」(赤ん坊を寝かせて揺すってあやす、竹製の器具)を揺り動かしている。モンソㇰ(浮き)が立ててあり、台所の戸の横に薪、水台(水甕などを置く台)の上には水籠(水甕を入れて運ぶ籠)、その下にはホボㇰ(水甕)がそれぞれ置かれている。網の手入れをしながら、眠っている子供を眺める父親の視線、手と足で別々の仕事をしている勤勉なお上さんの姿。

2221 1946年、済州港に残された日本軍の遺物
1946年1月の済州港の光景である。海流までもが静かに見える。しかし、冬の港は荒々しい。陸には日本の植民地期に日本軍が使用していた「クルマ」が見え、醸造工場の上にはところどころに家並みが見える。この写真は米軍政の文教部長であるユージン・クネズ博士が朝鮮民俗学会の宋ソㇰハ先生一行と一緒に、済州島の民俗研究のために済州島を訪問した際に撮影されたものである。

2222 海岸絶景の西帰浦港
1960年代の西帰浦港の様子である。干潮時の西帰浦埠頭には数隻の船が碇を下ろしている。?水養生?の錨を結ぶ木杭に、魚夫らしい男が足を組んだまま、暇そうに座っている。その横ではコムシンを履いた老人が海の彼方を眺めている。その後ろには勇壮な海岸絶壁が港と対照をなし、西帰浦港の美しさを際立たせている。特に、西帰浦港周辺にはソㇷ゚島(森島)、ムン島(蚊島)、ポッソㇺ(虎島)、セソㇺ(鳥島)などの島々と海岸絶壁が調和して、観光美港としてますます高く評価されている。

2223 スマポ(水馬浦)と城山
城山とその西側に接した浦口であるスマポ(スメミッ)の1976年の光景である。浦口の漁船のそれぞれにたくさんの人たちが乗りこんでいるのを見ると、今から出漁するか、或いは逆に入港してきたところと思われる。「スマポ」は東側の「トジンモㇰ」と連結しているのだが、そのトジンモㇰという名前は「裂けた入口」だったことから付いた名前である。実際、1940年代初盤までは城山里は潮の干満にしたがって路が閉じたり開いたりしていた。そこで、住民と行政当局が工事を始め、陸地が完全につながって今日のように自由に往来できるようになった。

2224 1968年度の漁船進水式
1968年4月頃の城山浦港での「請求権資金による漁船建造進水式」の様子である。漁港に大極旗を掲げて並ぶ漁船越しには食山峰が見える。この事業は1965年6月に韓日基本条約の締結と同時に調印された「財産と請求権に関する問題解決と経済協力に関する協定」によって、政府が日本から受け取った資金を利用して取り組んだ漁船建造支援事業の一環だった。当時、城山浦漁港は自己負担20%、政府支援30%、融資50%のこの事業で、20トン級と10トン級をそれぞれ2隻、5トン級6隻を建造して、船主たちに渡した。当時のこれら漁船建造のために建立された造船所は今でもその命脈を保っている。

2225 浦口の補修をしている女性たち
1960年代末の翰林邑帰徳1里の浦口を補修するために、お上さんたちが素手で石を運んでいる。労力奉仕に動員された村民は自分の能力に合わせて、素手で石を背負ったり、腰紐に結んだり、抱きかかえたりして運んでいる。お上さんたちが履いている白いコムシンと黒いコムシンの足取りが重い。男衆は石垣の上から指示している。翰林邑帰徳1里には、「ボクトㇰケ」と「モサㇽゲ」の二つの浦口がある。

2226 新興浦口の築造工事
朝天邑新興里の村民たちが石を運び、「スェムㇽカㇰ」という浦口をつくっている姿である。遠くに見えるのが咸徳里に位置する犀牛峰(ソウボン)である。人々は浦口を築造するために、女たちは背中に叺を背負い、少し軽めの石二つを背負って運び、男衆は素手で重い石を脇に抱えて運んだ。人が運ぶのには難しそうな大きな石の場合には、起重機で持ち上げている。人々は新興里の浦口を「スェムㇽカㇰ」と呼んでいるが、『南槎日録』(1680年)などでは「倭浦」と記録されている。村の名も浦口の名に由来するのか、古地図には「倭浦村」と記録されている・

2227 牛島の浦口とケダン(海辺の神堂)
済州道の海岸村には大小の浦口が築造され、浦口の構造と築造方法もまた本土の渡船場とは異なり、済州の厳しい波に負けないための知恵を窺うことができる。典型的な済州の浦口は、村を背景にした場所にあり、その周囲に灯台、ケダン(海辺神堂)、塩田、ウォン、烽隧や煙台などもある。浦口の前には激しい風と波を防ぐ嶼や岬などの自然物が位置する。浦口は陸から「アンケ、チュンケ、パッケ」で構成されている。アン(内)ケは「内側に位置するケ」という意味で、台風に備えたり船の修理のための場所で、チュン(中)ケは「船を少し長く停泊させるための場所」、バッ(外)ケは「船がいつでも自由に往来できる空間」を言う。写真は牛島面周興(チュフン)洞浦口で、その前に防邪塔が立っている。チュンケと呼ぶこの浦口の名前は、未亡人の息子「ソンジュンイ」の悲しい故事に由来するものと言われる。浦口の両側にはケダン(海辺神堂)がある。

2228 梨湖(イホ)のカムンモサㇽゲ(黒砂ビーチ????)
済州の昔の浦口築造の特徴は、「アンケ、チュンケ、パッケ」を分ける仕切りである。間仕切りを互いに食い違うように作って、激しい海流の力を殺ぐ知恵を発揮している。アンケとチュンケを分ける間仕切りが右側を長くしているのに対し、チュンケとバッケを分ける間仕切りはそれと反対に左側を長く造って、真っ向から押し寄せてくる海流を少しでもなだめようとしている。また、バッケの前には波の力を殺ぐ障害物がある。その障害物の役割を嶼がする場合もあれば、岬がする場合もあり、島がする場合もある。写真は済州市梨湖洞の「カムンモサㇽゲ」である。梨湖洞にはクン(大きな)ゲ、ベッケ、カムンモサㇽゲ、ウォンジャンゲがある。クンゲは東の集落と西の集落に、カムンモサㇽゲ(村の海べの砂が黒いから付いた名前)とウォンゲは玄沙(ヒョンサ)マウㇽにある。この浦口もアンケ、チュンゲ、バッケに分けられて築造されているのだが、浦口を作る際に使用した石は「ウォンジャンゲ」や遠く吐坪(トピョン)から背負って運んできたと言う。

2229 済州港の漁船専用埠頭
1990年代の済州港内港の漁船専用埠頭の姿で、済州市漁協の建物と総合魚市場の案内板などが見える。済州港の内港は48万8千㎡規模で、その5分の1ほどが「漁港分区」に指定され、漁船専用埠頭として利用されている。現在、済州港では2012年を目標にクルーズターミナル、国際コンテナターミナル建設なども含む外港20万9500㎡が本格的に開発されており、内港も2015年までに観光・休養型のウオーターフロントとして開発される予定である。


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