話の種

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死について

2023-08-28 14:53:29 | 話の種

「死について」

古い話になるが、朝日新聞の声欄(2022/2/7)に13才の女子中学生の下記投稿があった。

□「死を思うことは恐ろしいけれど」

「死んだら、どうなるんだろう。私はよく、考える。
天国や地獄が本当にあって、そこで存在し続けるなら、そう願いたい。けれども、私の意識も、心も、何もかもが永遠に消え失せてしまうとしたら・・・。私は。底なし沼に沈んでいくような恐怖に襲われている。
まわりの友人に聞いてみるとやはり、恐ろしくて考えるのをやめるという。この恐怖からどう逃げたらいいんだろう。大人になったら、怖くなくなるのだろうか。
死は生き物すべての宿命だと改めて思う。生きるということは、死へ近づいて行くこと。恐ろしいが、しかしそれに気づいたからこそ、この命を何かのため、だれかのために使い切りたいとも思う。死ぬ時、私は十分頑張ったと思える人生にしたい。そのために、私はどうしたらいい?答えを見つけるべく、生きていこうと思う。」

この死の恐怖と言うのは誰しもが経験したことがあるだろうし、私自身も例外ではない。
しかし年を取ると不思議なもので、このようなことは余り考えなくなってきたし、それほど恐ろしいとも思わなくなってきた。年を取ってみて、これはどうしようもないことと達観していることもあるが、一方で、これ迄したいことは一応してきたし、もう十分ではないかと言う気持ちもある。

*当方最近がんの手術を受けたので、この時死を受け入れる覚悟が出来たせいもあるかも知れない。

*子供がいれば自分の分身(DNAは受け継がれていく)と言うことで、より死へのこだわりは薄れていくのではと思えるが、どうだろうか。

さて、この女子中学生の疑問に答える形で私の考えを記しておくと、

「死んだらどうなるんだろう(その先はどうなるのか)」
私の考えは「何もない」ということ。(とは言え、何かがあればという気持ちもあるのは確かだが)。科学的に考えればこのようになるが、一方宗教などは天国や地獄があるとし、中でも仏教などは輪廻転生の考え方をしている。
これはどちらが正しいかというものではなく、人の死生観というのは様々でどれが正解かというものはないと言える。要は自分の心が安らぐものであれば、(どこかの新興宗教のように他人に害を及ぼすものでない限り)それが正解だと考えられる。
(私の「何もない」という考えは、科学と同時に私の考えの根底にある実存主義が反映したものだろう。)

「意識も心も、何もかもが永遠に消え失せてしまうとしたら・・・」
ここで面白いのは、この子が、存在し続けるなら地獄でもよいと言っていること。(仏教などは、その教えの目的は、この世の苦しみから人々を救うこととしているのだが。)
これはともかく自分の存在が無くなってしまうことへの恐怖のようだが、このようなことは特に若い人たちに多いのではと思う。まだこの先経験してみたいことは沢山あり、楽しいこともいっぱいあるはずと、夢や希望があるからこそ恐怖を覚えるのだろう。

では、この恐怖を克服するにはどうしたら良いかということだが、答えは(当たり前のことだが)考えないようにするということ。(考えても解決できないことは考えないということ)
死が怖いと思うのは、死んだらどうなるのだろうと考えるからで、考えなければ当然怖いとは思わない。(つまり、この子の友人の「考えるのをやめる」というのは正解ということになる。)

*(自殺者は死を怖いと思わないから自殺するのだろうが、これは不幸なことだと思う。)

「大人になったら怖くなくなるのだろか」
これは、全く怖くなくなると言ったら嘘になると思うが、薄れていくのは確かだろう。
先にも述べたが、(年を取ると)これ迄したいと思ってきたことは一応してきたし、これから先もしたいと思うことはあまりないということで、生(存在)への執着は徐々に薄れていくと思う。

私がこの投稿で思ったのは、この子は非常に素直に今の自分の心情を吐露し、死は避けられないものだからと素直に受け止め、今ある人生を前向きに生きていくことが大事との結論を導き出しているのだが、とても13才とは思えず、しっかりしているなということ。

(参考)

*大阪の高校の先生の話(要旨のみ記載)

「なぜ私がこのようなことを書いたのかを言いますと、最近妻を亡くし、このことがをきっかけに死後の世界について考えるようになったからです。 私たちが認識できる世界は、「生」の世界ですが、一方で「死後」の世界もあるのではないか。「生と死」の二つの世界があり、私たちが存在している世界の対極に「死」の世界が存在しており、世界はこの二つの世界に支えられているのではと思うようになりました。」

「妻が生きていた時は、死ねば肉体も魂も滅び「無」となると考えていました。この「無」というのは「無くなる」という意味です。死後の世界の存在を否定的に考える傾向が強かったのですが、しかし、妻が亡くなってからは妻の存在の大きさに気づかされています。」
「私の中に生きている妻は「思い出」としての妻。「死」によって解放された妻は別の世界で生きていると思うようになってきています。 死後の世界がどのようなものかは、誰にも分かりません。しかし、知らないからといって、その世界を否定することは出来ないと思います。」

*東北福祉大学の千葉公慈学長(曹洞宗の僧侶でもある)の言葉
(これ迄述べてきたことについて参考となる要旨のみ記載)

「お釈迦様は、地獄とか天国とかいうものにとらわれること自体を避けておられます。」
「今の世の中からの連続性、これを「縁起」と言いますが、その連続性の中であの世があるのだと、お経では説いています。人の間(人間でいる間)に、人としての正しい生き方をするための一つの方法論として、あの世をお説きになったんです。このポイントは「あの世があるかどうか」よりも「今この世界をどう生きるか」にあります。」
(そして、逸話として、ある若者がお釈迦様に十の質問をする話をするのだが)

「お釈迦様は、これら十の質問に対して、口をつぐみ、無言をもって答えたと言います。言葉によっては表現できないということですね。」
(そして、例え話しを挙げた後)

「人の世には限りがあり、はかないものだ。終わりが必ず来る。だとすると、人の間に(人間でいる間に)自分がなすべきことをなさないと無益なものになるであろう。大事なことは、解決できない問題に頭を悩ますより、今自分が何をなすべきかを考え、実行することにある」とお釈迦様は語ります。」

「死に対する恐怖は、信じている宗教や民族、国、文化が違っても、同じなんだと思います。死は理不尽なものです。立派に生きていても、泥棒や殺人を犯しても、平等に訪れます。その「死」をどう意味づけし、納得するかは、世界の宗教や哲学に共通のテーマです。」

(参考)

(この女子中学生の投稿について、その後新聞社側が「死とは。生とは。ご意見をおよせ下さい。」と読者の投稿を求め、寄せられたものをいくつかを掲載していたが(2022/3/16)、それらの中で、私が今後このブログのテーマとして取り上げようかと思っていることに関連するものを2つほどピックアップしておく。)

□(76才の男性)
「死について考えることは、いかに生きるかの原点のような気がします。死を見つめてこそ生も充実するかと。本を読み、友と交わり、学び、働き、旅をして、遊んで---経験を積む中で、きっとあなたはこの世の深さや広さ、複雑さを知るでしょう。
よいことばかりとは限りません。矛盾に悩む日も、挫折もあるかも知れませんが、様々な経験を重ねてこそ「生きる力」が育まれると私は信じております。
お薦めしたいのは、自分のこころの中を文字にすることです。私の場合、書くことでモヤモヤが薄らぎ、進むべき方向がくっきり見えてきたように思います。
私たちがこの世に生まれてきたこと自体に意味があるのではないでしょうか。
人生を理解するには、生きつくす必要がある。それが今の私の正直な心境です。」

□(詩人・谷川俊太郎さん、90才)
「若いころの死の感覚は、とても抽象的でした。90才の今は、足がおぼつかなくなってくるとか、視力が落ちてくるとか、匂いや味の味覚が薄れていくとか、そういう老化が死と結びついてきているわけですよ。死が親しみやすくなってきているといえば変な言い方だけど、身近になっています。死はどういうことかわからないからやっぱり一種の恐怖も残っていますが、それはだんだん薄れていて、好奇心がある。
死が怖いというのは、自分がいなくなるのが怖いんでしょ。それが僕にはあんまりありません。
僕自身は、生と死はつながっているいう風に思っているんですけどね。」(要旨のみ記載)

 

 


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