住田功一のブログ

メディアについて考えること、ゼミ生と考えること……などをつづります

ラジオ番組『長崎市民は退避せよ』④ 放送室からの悲痛な叫び

2023-08-07 19:00:00 | メディア関連
<変貌していく内容〜放送室からの悲痛な叫び>////////////

ナレーション
当初、『防空情報放送』は、「甑島(こしきじま)上空の敵少数機は東進中なり」というように、敵機の動きだけをおおざっぱに伝えていたが、空襲が激しくなるにつれ、内容や形態も変貌をとげている。

効果音
・炎のイメージ音

リポーター
燃え盛る炎。夜空が真っ赤に染まる。
熊本が空襲された夜、佐賀市で放送を聞いた岩崎彰代志(あきよし)さんは、ラジオから流れた西部軍情報のその言葉に驚いたといいます。

ラジオを聞いた岩崎彰代志さんの証言
「いつもはだいたい西部軍管区ですか、そこの放送は非常に紋切り型の放送ですけど、その日の放送は非常にこう、実況放送みたいな感じの放送でした。特に、熊本市がいよいよ空襲が始まったと、焼夷弾が落ちたと、燃え始めたと、そして『熊本市民はさかんに防火に敢闘しております』という言葉だったですもんね」

リポーター
いつもの軍管区情報とは違う、呼びかけるような口調。そんな放送は実際にあったのでしょうか?
九州地区の防空情報を担当した、福岡放送局の石田吾郎放送員は、福岡が空襲された夜、手渡された、一枚の原稿についてこう話しています。

福岡放送局の放送員だった石田吾郎さんの証言
「最後の空襲の情報がですね、突然『福岡の皆さん』とこう書いてあるんですね。あれっと思って。それで、目でね、(原稿を)持ってきた人に聞いたわけですよ。目でね、これでいいのかっていったら。かまわないと。それを繰り返せと」
「正しくはないんですけども、『福岡の皆さん。敵機は福岡に大きな損害を与えております。そして、死傷者もかなり多数出ております。しかし、皆さんの意気は軒昂』といったのかな、『高まっていて、少しも挫けたところはありません』と、『みなさん頑張ってください』と、そういう文句なんですよ。さよならとは言わないんですがね」
「情報放送っていうのはね、当時は、戦意高揚っていうんですかね、柔らかい言葉は一切使っちゃいけない。敵機来襲せりとかね。我が方の損害軽微なり。敵に多大な損害を与えとか、決まり文句なんだけども。一枚だけ、『福岡の皆さん』って出てきたからね、びっくりしちゃったんですよこっちもね(笑)。なぜあそこでもって文章が変わっちゃたのかね」


ナレーション
各地の軍司令部と放送局は、早く、しかも混乱なく情報が伝わり、人心安定に役立つように工夫を重ねていく。
大阪・中部軍では、「岡山」と「和歌山」を聞き間違えないように「備前岡山」「紀伊和歌山」と区別した。

ナレーション
福岡空襲の際、次々に上空を通過する敵機におびえる佐賀県民に対し、佐賀地区司令官は、「今夜来襲している敵機は、全部福岡方向に侵入している。目下のところ佐賀県に影響はない」と、佐賀放送局からのローカル放送で、「安心するように」と放送している。

ナレーション
一方、東海軍管区と名古屋放送局は、防空放送を始める際、「文語体」にするか「口語体」にするかで意見が分かれた。結局、東京・東部軍と大阪・中部軍に放送員を派遣して、実態調査にあたらせた。大竹正(おおたけ・ただし)放送員は、文語体で放送していた東部軍に派遣された。

名古屋局の放送員だった大竹正さんの証言
「実際に東部軍管区司令部の放送を聞いてですね、やっぱり私の思っている文語体の方が、緊迫感があっていいじゃないかと。帰ってきて、文語体を主張したけども、聞き入れられなかったということですね。それまで空襲警報は大阪のが入っていたわけです。それが一般の耳には印象が深いわけですよね。それに司令部が、民衆対策というかね、なるべく、軍と民衆とをつけておきたいために、文語体ではいかにも軍がやっているような感じだということで、断固として参謀が口語体にせよと、こういうことだったんですね」

ナレーション
防空情報放送は、様々な表現を模索しながらも、軍側が情報を発表し、その原稿を放送局の放送員が読むという原則には変わりはなかった。

効果音
・空襲警報のサイレン

ナレーション
ところが、空襲が激しくなってきた昭和二十年七月十日未明、仙台放送局は、異常な事態に直面した。

効果音
・ザァーッ(焼夷弾の落下音) さかまく炎の音

ナレーション
空襲警報発令直後から、東北軍管区司令部は、ばらばらと落ちてくる焼夷弾の雨にさらされた。建物周辺が、炎に包まれた。

ナレーション
やがて、軍司令部と仙台放送局との回線が切れ、軍管区情報は沈黙してしまった。東北一円のラジオが、黙ってしまった。

効果音
・(ラジオの無変調音)

ナレーション
しかし、やがてラジオから、やや緊張してうわずった声男性の声が流れ始めた。

ナレーション
当時結婚したばかりだった、山田あきさんは、宮城県北部の登米町(とよままち)で ラジオを聞いていた。

登米町でラジオを聞いた山田あきさんの証言
「『市民の皆さん落ち着いてください。落ち着いてください。頑張ってください。放送局も熱くなってきました。後ろの方が赤くなってきました』ってそういうようなことを言いましたけど。それを何度も繰り返しましたけども、それでもう(聞くのを)やめて、見に出て行きました。うちの中から仙台は見えませんから。川まで行って、川の土手から見ました」
「ぼうーっと夕陽のもっと赤いみたいに地平線が赤くなっていまして、ときおり火事のように、火事のもっと大きな爆発みたいなのが、ばーっ、ばーっと赤く見えますけど、音はなんにも聞こえませんでしたけど」

ナレーション
「『敵機は焼夷弾攻撃を行なひつつあり、仙臺市民は防火に万全を期せよ』ラジオは生々しい聲を叩きつけてきた」
翌日の青森『東奥日報』は、その夜の放送をこう伝えている。

ナレーション
マイクに向かったのは、仙台放送局の庄司寿完(しょうじ・じゅかん)副部長だった。

仙台局の副部長だった庄司寿完さんの証言
「我々は電波法の規定で放送できないんですよと言って反対したんですが、局長があの有名な、名アナウンサーで名を売った松内(則三)さんっていう局長で。松内さんは大変放送の使命感というのか、情熱を持っている人でしてね、そんな常識的なことを言ってどうなるかと、いま仙台がやられているときに放送が機能を持っているのに黙っている手があるかというふうに叱り飛ばされましてね。そして、仙台空襲実況放送をやれと、私はまあ厳命でやらされたっていうのが本当なんですよね。結局、『今我々の仙台市が敵の空襲を受けてやられております』ということを反復して言うしか手はないわけですよね。外にも出られない。出たって真っ暗でわからない。なんだかごうごうという音と、不気味な体に響くようなズシンというような地響きみたいなそういう状態の中で、『みなさん、これにめげずにがんばりましょう』ぐらいのことしか言うことないわけですよね。『仙台がやられております』というような、敵愾心からくる悲痛な叫び声だったんだろうと思いますねぇ」


ナレーション
防空情報放送の目的は、空襲を受けながらも、戦意を高揚し民心を安定させることにあった。
そして、より早く、より解りやすくと工夫が重ねられていった。しかし、その防空情報放送にも、問題点があった。

リポーター
初めは順調に機能していた防空情報放送も、戦争の末期になると後手後手に回ることが多くなったといいます。
中部軍に詰めていた、大阪放送局の酒井裕(ひろし)放送員は、こう話しています。

大阪局の放送員・酒井裕さんの証言
「監視哨と中部軍管区司令部との間は、有線電話連絡だったんです。で、監視哨担当の下士官が司令部の中におりまして、それが監視哨と密接に連絡を取っていたんですけど、なにせ電話のことですからね、放送の方がずっと早いわけですよ。とうとうしまいには、監視哨に対する連絡ですね。これも、両方で会話する必要のない一方的な通話で済むような連絡は、どんどんラジオを使いました。」
「あまりいい例じゃないんですけども、監視哨を叱りつけたりするようなこともあったように覚えていますけどね。『お前のところの情報は遅い!』と、『もっと迅速に情報を送れ』ということをラジオでやったわけです」
「アメリカ軍の方も、電波探知機に対する防御策を講じたらしくて、侵入してくるまでわからなかった。末期などは、たしか岡山、岡山ははっきり覚えていますが、四国も高知だったでしょうか。全く警報なしにいきなり空襲を受けたということも度々ありました」
「監視哨から、『なんか岡山の地方が真っ赤だぞ』っていうんで、だいぶ中部軍管区司令部の人たちもあわてたらしいですね。私はどうせ、放送室に詰めっきりですから、司令部の中の状態はもちろんわからなかったんですけども、見てきた人の話では、かなり狼狽していたという話です。もういきなり空襲警報ですからね。空襲警報出したときにはもう燃えてるんですよ」

リポーター
西部軍で、電波警戒機を担当していたた大石勇少尉も、情報収集の問題点をこう指摘しています。

西部軍少尉だった大石勇さんの証言
「あれはたしか10万ボルトぐらいの衝撃波っていう電波をぶつけて、それが戻ってくるのをブラウン管でつかまえて、方向と高さと大体の数をあれして、送ったわけですね」
「ただ、当時の性能からいって200海里で捕まえろっていうのが案外捕まえられなくて、150キロになっちゃったりね、あるいは100キロになっちゃったり。だから捕まえたころにはもう敵が来てるとか、いうふうなことがあったと思うんですよ。
それでこんど、(陸上に)入っちゃうと、こんどはわかんなくなっちゃって。内地を追跡はできなかったと思うんですよ、この警戒機はね。あとは目で見るか、音で聞くか。対空監視哨がね捕まえる(捕捉する)以外ないと思うんですよ。
あの音は敵機である。あの音は味方だという、まず音の訓練を受けてるでしょ。それから形ね、飛行機の形であれは敵だ味方だと。そういうのを対空監視哨は訓練されてるから…。
今の世の中だったらレーダーでちゃんとね、あれするけど。そのころは雲の中入っちゃったら、おそらくわかんなくなっちゃうんじゃないですか」。

リポーター
この頃になると、日本本土の制空権は米軍の手に落ちていたと、拓殖大学の秦郁彦・教授はいいます。

秦郁彦教授 解説
マリアナ基地からのB29だけではなくて、20年6月に沖縄が陥落しますと、沖縄からも、大型機、中型機、小型機、これが西日本に毎日のようにやってくる。
合間には、アメリカ機動部隊の艦載機もやってくる。こういう三つ巴の状態になりまして、日本中どこかの時間帯にはアメリカの飛行機が飛び回ってるというような、そういう状態になりますと、防空担当者も一般国民もだんだん不感症になってくる。
そういう状態の時に、広島に原爆機が飛んで来た。
で、前の日に、夜に、B29は西日本の宇部とか今治、その他いくつかの地方都市にですね焼夷弾による攻撃を加えておりまして、関係者はもうそれで不眠不休。疲れ果てて、というところへ8月6日の朝を迎えると。

一応、新型爆弾が次に使われることを阻止するということを考慮して、大本営としてはですね、単機または少数機のB29の行動に警戒せよと。
それから要地の上空は戦闘機で哨戒せよという指示を出しています。しかし、すでに日本の戦力は枯渇状態にありましたから、この通りに末端までその指示が徹底していたかどうか、ということは非常に疑問ですね。

➡️ ⑤八月九日、長崎<2>につづく

----【目次】-------------------------------

ラジオ番組『長崎市民は退避せよ〜防空情報放送は何を伝えたか』について
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/afb253570114e98ddc000d5120068743

①プロローグ〜奇妙な退避放送
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/b09ad1a93be448d330325aae4e919894

②八月九日、長崎<1>
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/e67a9aec6430e55282e5dc78a4353e74

③終戦前年に始まった「防空情報放送」
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/ca399be29520ddf6bda4ce5046f8f59e

④放送室からの悲痛な叫び
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/90448a443b5fd4d6f043a6031b176f60

⑤八月九日、長崎<2>
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/e704ec92a9161925a03d7f1739179110

⑥エピローグ〜最後の「防空情報放送」
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/dae1cfaf8ec2a0bebee13100e14cb269


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