⑧『マエストロ(上・下)』ジョン・ガードナー 著
世界に冠たる指揮者ルイス・パッサウが狙撃された。九十歳誕生日コンサートの直後である。氏はナチやKGBとの繋がりが取り沙汰されている。FBIとCIA、マフィアらがその身柄を追っていたが、マエストロを保護したのは、英国秘密情報部から遣わされたハービー・クルーガー、音楽愛好家であり、かつての秘密情報部部員であった。パッサウはハービーを友人と認め、自らの生涯を語り始める。
規模の大きい物語であるが、派手なスペクタクルは少ない。高齢の指揮者と引退した諜報員の淡々とした回想が、千頁を超えて続く。それでも飽くことなく追憶に引き込まれるのは、ここで音楽が語られるからだろう。
音楽を小道具に利用する小説は多い。あたかも読者へ聴こえるように描写する巧みな作家もいる。されど、実際の音波では表せない、ことばでしか伝えられない、音楽の部分を著した例は少ない。だが本来、音楽をことばにする意義は、その部分を書いてこそ生まれるはずだ。『マエストロ』で語られる音楽は、人物の付属品や情景描写の範囲を超えて、言語による音楽表現の真意に迫る。耳で聴く音の理解とは違う、文章ならではの音楽を読み手へ届けるのだ。
パッサウが音楽を学び始めた際のエピソードはこうだった。師から『創世記』を手渡され「神が宇宙をつくりたもうた時、地球が揺れ騒ぐ音が轟いたと思うか」と訊ねられる。少年パッサウは「たくさんの物音が響きわたったに違いない」と想像する。答えは「音を聞いているものがいない限り、そこにはどんな種類の物音も存在しない。音とその音を聞く誰かの両者がなければ音楽はつくられない」だった。
また、長い対話が終盤へ入り、パッサウとハービーが「同じ方向でものを考えて」いる様を呈するシーンも美しい。ハービーは頭のなかでマーラーの交響曲第九番を聴き始める。「自分の老いていくプロセスと格闘する気分」で、この「死という難問を表現する」曲を身の内に響かせる。さなか、別室のパッサウがレコードをかける。それは、シュトラウスの『死と変容』。
綿々と書き連ねる心情より、音楽が的を射ることがある。鼓膜を通しては掴めなかった音楽のある部分が、ことばで染み渡ることもある。『マエストロ』は、その本質を追いかけて綴られた長篇スパイ小説だ。ハードボイルドの偏見にありがちな浅薄は、心配ご無用である。
【出版社】東京創元社【発刊年月】95/07【本体価格】1000円(上・下各)【ページ数】651P(上)641P(下)【ジャンル】ミステリ【形態】文庫【ISBN】4-488-20404-X(上)4-488-20405-8(下)
世界に冠たる指揮者ルイス・パッサウが狙撃された。九十歳誕生日コンサートの直後である。氏はナチやKGBとの繋がりが取り沙汰されている。FBIとCIA、マフィアらがその身柄を追っていたが、マエストロを保護したのは、英国秘密情報部から遣わされたハービー・クルーガー、音楽愛好家であり、かつての秘密情報部部員であった。パッサウはハービーを友人と認め、自らの生涯を語り始める。
規模の大きい物語であるが、派手なスペクタクルは少ない。高齢の指揮者と引退した諜報員の淡々とした回想が、千頁を超えて続く。それでも飽くことなく追憶に引き込まれるのは、ここで音楽が語られるからだろう。
音楽を小道具に利用する小説は多い。あたかも読者へ聴こえるように描写する巧みな作家もいる。されど、実際の音波では表せない、ことばでしか伝えられない、音楽の部分を著した例は少ない。だが本来、音楽をことばにする意義は、その部分を書いてこそ生まれるはずだ。『マエストロ』で語られる音楽は、人物の付属品や情景描写の範囲を超えて、言語による音楽表現の真意に迫る。耳で聴く音の理解とは違う、文章ならではの音楽を読み手へ届けるのだ。
パッサウが音楽を学び始めた際のエピソードはこうだった。師から『創世記』を手渡され「神が宇宙をつくりたもうた時、地球が揺れ騒ぐ音が轟いたと思うか」と訊ねられる。少年パッサウは「たくさんの物音が響きわたったに違いない」と想像する。答えは「音を聞いているものがいない限り、そこにはどんな種類の物音も存在しない。音とその音を聞く誰かの両者がなければ音楽はつくられない」だった。
また、長い対話が終盤へ入り、パッサウとハービーが「同じ方向でものを考えて」いる様を呈するシーンも美しい。ハービーは頭のなかでマーラーの交響曲第九番を聴き始める。「自分の老いていくプロセスと格闘する気分」で、この「死という難問を表現する」曲を身の内に響かせる。さなか、別室のパッサウがレコードをかける。それは、シュトラウスの『死と変容』。
綿々と書き連ねる心情より、音楽が的を射ることがある。鼓膜を通しては掴めなかった音楽のある部分が、ことばで染み渡ることもある。『マエストロ』は、その本質を追いかけて綴られた長篇スパイ小説だ。ハードボイルドの偏見にありがちな浅薄は、心配ご無用である。
【出版社】東京創元社【発刊年月】95/07【本体価格】1000円(上・下各)【ページ数】651P(上)641P(下)【ジャンル】ミステリ【形態】文庫【ISBN】4-488-20404-X(上)4-488-20405-8(下)