かわな ますみ / 花冠同人

かわな ますみ の俳句
  ブログ句帳 

書評のページ ~ 俳誌「花冠」十一月号掲載

2009-10-15 20:00:00 | 書評
⑧『マエストロ(上・下)』ジョン・ガードナー 著

 世界に冠たる指揮者ルイス・パッサウが狙撃された。九十歳誕生日コンサートの直後である。氏はナチやKGBとの繋がりが取り沙汰されている。FBIとCIA、マフィアらがその身柄を追っていたが、マエストロを保護したのは、英国秘密情報部から遣わされたハービー・クルーガー、音楽愛好家であり、かつての秘密情報部部員であった。パッサウはハービーを友人と認め、自らの生涯を語り始める。
 規模の大きい物語であるが、派手なスペクタクルは少ない。高齢の指揮者と引退した諜報員の淡々とした回想が、千頁を超えて続く。それでも飽くことなく追憶に引き込まれるのは、ここで音楽が語られるからだろう。
 音楽を小道具に利用する小説は多い。あたかも読者へ聴こえるように描写する巧みな作家もいる。されど、実際の音波では表せない、ことばでしか伝えられない、音楽の部分を著した例は少ない。だが本来、音楽をことばにする意義は、その部分を書いてこそ生まれるはずだ。『マエストロ』で語られる音楽は、人物の付属品や情景描写の範囲を超えて、言語による音楽表現の真意に迫る。耳で聴く音の理解とは違う、文章ならではの音楽を読み手へ届けるのだ。
 パッサウが音楽を学び始めた際のエピソードはこうだった。師から『創世記』を手渡され「神が宇宙をつくりたもうた時、地球が揺れ騒ぐ音が轟いたと思うか」と訊ねられる。少年パッサウは「たくさんの物音が響きわたったに違いない」と想像する。答えは「音を聞いているものがいない限り、そこにはどんな種類の物音も存在しない。音とその音を聞く誰かの両者がなければ音楽はつくられない」だった。
 また、長い対話が終盤へ入り、パッサウとハービーが「同じ方向でものを考えて」いる様を呈するシーンも美しい。ハービーは頭のなかでマーラーの交響曲第九番を聴き始める。「自分の老いていくプロセスと格闘する気分」で、この「死という難問を表現する」曲を身の内に響かせる。さなか、別室のパッサウがレコードをかける。それは、シュトラウスの『死と変容』。
 綿々と書き連ねる心情より、音楽が的を射ることがある。鼓膜を通しては掴めなかった音楽のある部分が、ことばで染み渡ることもある。『マエストロ』は、その本質を追いかけて綴られた長篇スパイ小説だ。ハードボイルドの偏見にありがちな浅薄は、心配ご無用である。

【出版社】東京創元社【発刊年月】95/07【本体価格】1000円(上・下各)【ページ数】651P(上)641P(下)【ジャンル】ミステリ【形態】文庫【ISBN】4-488-20404-X(上)4-488-20405-8(下)
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書評のページ ~ 俳誌「花冠」十月号掲載

2009-09-04 10:00:00 | 書評
⑦『投球論』川口和久 著

 野球を語った書物の筆頭に、山際淳司『江夏の21球』を挙げるファンは多い。一九八〇年の著作であるが、我々は、その一編によって、野球が運動能力だけに因る勝負でない事を知り、また、投球の組み立てという新しい知性に興味をそそられた。そして『江夏の21球』から二十年近くが経ち、ようやくその回答とも言うべき作品が現れた。江夏の後、広島東洋カープ左のエースを務めた、川口和久の『投球論』である。
 この『投球論』は、嵐山光三郎により、本の情報誌(『青春と読書』一九九九年十二月号)において称賛されている。ピッチャーの日常の心理を綴ることで「人生論ではなく、技術論でもなく、スポーツそのものに内在する面白さ」を描いた新書と評された。まさに本書は、投手とは何かに絞って論じられた、希少な一冊なのだ。
 『投球論』では、川口の分析力に圧倒される。まず彼は、自らを、打者と戦うタイプの投手と称する。投球の際、インハイなら打者のグリップエンド、低めなら打者の膝というように、打者を標的に狙いを定めるのだ。従って川口は、ブルペンでも打者を立たせて投げるのが常だった。それに対し、同じ広島の北別府は、ベース板と勝負のできる投手だと述べる。北別府の場合、ボールをベースの角に通すか、或いは縫い目一つ分をはずすか、といった戦い方をする。よって、投球練習に打者を必要としないのだという。こうした川口の分析は「松井は人と戦い、高橋はボールと戦う」のように、打者達へも向けられる。また彼は、晩年、読売ジャイアンツでリリーフに転向したが、その経験から、先発と救援の違いも緻密に論じている。
 本書では、投球の事実だけが淡々と追究され、あえて物語には触れまいとしているようだ。しかし、事を一つ究めた者のことばは、やはり胸に響く。最後に「投手はどのような存在か」に対する、川口の答えを紹介したい。
 「ピッチャーには、自分の理想とする球道がある。自分の作り出したボールの芸術に、自分で酔える、酔っ払いじゃないと、いいピッチャーにはなれない。」

【出版社】講談社【発刊年月】1999/9【本体価格】640 円
【ページ数】188P【ジャンル】ノンフィクション・スポーツ
【形態】新書(講談社現代新書)【ISBN】4-06-149460-0

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書評のページ ~ 俳誌「花冠」八月号掲載

2009-07-08 21:58:44 | 書評
⑥『賞の柩』帚木蓬生 著

 「ノーベル賞は妙なもので、いくら素晴らしい業績をあげても、同じ分野で四人以上の人間が横一線に並んでいると、その分野は対象からはずされるのです。受賞は三人以内と決まっていますからね」
 一九九×年度ノーベル医学・生理学賞は、一人の英国人学者に授与された。共同研究の盛んな昨今、単独受賞は奇跡に近い。大部分が複数の同時受賞である故に、この独走の重みは増す。だがほんの四、五年前まで、同分野の研究には、四人の学者が名を馳せていた。彼らは抜きつ抜かれつの接戦を演じており、共同受賞も予想されていたのだ。
 その四人の内一人は、日本の生理学者、清原である。しかし既に清原は、不慮の病気により死去していた。清原の弟子で、神経内科医の津田は、不運な恩師の論文を繰る内、残る二人の学者もが、同時期に研究の場から消えていることを知った。津田は、彼らの消息を尋ねる旅へ挑む。
 こうして始まる物語は、まず、偉大な賞を巡るサスペンスである。だがそこで帚木蓬生は、研究者という人物を、緻密に且つ愛情を湛え描きあげてゆく。敗者や犯罪者となる彼らも、皆、未知を究めんと欲する、強烈な情念を抱いている。研究者たるべきその情念は、美しく危うい。彼らの語ることばは、学者としての信念に隙がなく、緊迫に満ちている。
 清原の綴った一節。「研究者がどの程度の技量を持っているかは、実験についての二、三の苦労話を聞くだけで判別がつく。剣客同士が、刃先を触れ合わせたのみで腕前を見抜くのと同じだろう。」曾て津田は、清原に励まされた。「研究は才能ではない。粘りだよ。」しかし津田は体得する。「清原の仕事振りをみていると、そもそも粘り自体が才能なのだ」と。
 ノーベル賞を得た博士が語る。「懸命に仕事をする学者ほど頭のどこかに自分の祖国というものを考えるものです。ピカソがゲルニカを描き、カザルスが鳥の歌を演奏したように、祖国を思う気持が科学者を逆境から這い上がらせます。」
 また、教授を失った研究所の主任はこう嘆く。「研究というものには勢いが必要で、いったん翳ってしまうとなかなか元には戻らないものです」「一流の学者というのはどこか似ていますね。教授も、繰り返しを強調していました。バレリーナが飛行機の中でも練習を欠かさないように、お前たちも毎日が大切なんだと。」
 読者は、研究者の気迫に圧倒されながら、謎解きに引き込まれてゆく。『閉鎖病棟』で精神病患者を丹念に紡いだ作者の情愛が、ここにも伺える。研究者の極限を求める意志、表裏一体の狂気、これらを品位をもって錘ぐ作家は、多くは居まい。人間を手厚く見守る、帚木蓬生ならではの佳品であろう。

【出版社】新潮社【発刊年月】1995/8【本体価格】476 円
【ページ数】324P【ジャンル】小説・ミステリ【形態】文庫
【ISBN】4-10-128805-4
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書評のページ ~ 俳誌「花冠」七月号掲載

2009-06-13 18:38:12 | 書評
⑤『中央公論社と私』粕谷一希 著

 粕谷一希は、一九五五年に中央公論社へ入社。『中央公論』及び『歴史と人物』の編集長を歴任し、一九八七年、退社した。この間、中央公論社は『風流夢譚』事件を発端に、『思想の科学』廃棄事件、労使問題等をひき起こし、衰亡の過程を辿る。本書は、内紛の渦中に身をおいた氏が、中央公論社終焉に際し、初めて語った証言である。
 まず「はしがき」から、胸を突かれる。そこには「言論・報道・表現の自由を扱う機関は、単なる企業ではない」とある。出版・新聞・テレビ等でつくられるのは、モノではない。それは人格そのものに関わる。人権は流行語だが、人権よりも人格が大切だ。著者は冒頭にそう宣言する。
 本文では、まさに粕谷一希の人格が著される。
 六十年代、中央公論社には、社内外の左右勢力から強い圧力が加わった。だが彼は、左右両極の過激な思想を拒み、穏健なリベラリズムの立場を一貫する。よって、著書の中で、特定の人物や団体を口汚く罵るような真似はしない。
 ただし「言論とは人格にほかならぬ」という信念のもと、品性にもとる言論には手厳しい。猥談好きな論壇の雄に辟易した思い出を打ち明けたり、さるマナーなき評論家について「不潔感で居たたまれなくなった」と語るなど、その潔癖さは際立っている。また、総合雑誌においては、巻頭論文と創作欄こそが、時代の思想や感受性を決定する、編集の根幹であると述べ、近年流行のオピニオン誌に対し「創作欄を重視しないその編集は、学問への敬意が感じられず、それゆえ文章に品位を欠く」と痛論する。
 そして、著者が入社した当時、「中央公論社の中心は、明らかに品位のある活気に満ちていた」と、古き良き出版の時代を回想するのだ。
 しかし好事魔多し、という。この絶頂期から、既に中央公論社転落への序章が始まっていた。一九六一年の『風流夢譚』事件が、その後の問題を誘発し、やがて、社の死命を制するまでの、体質の変化が起こるのである。
 本書において、著者は、この興亡の過程を、冷静にそして公平に描写する。抑えた文章が、会社を愛惜する痛みをいっそう強く伝えるようだ。内訌のさなか、社長へ捧げた入社以来の敬意が、内から去ってゆくのを感じるくだりなど、限りない寂しさを覚える。
 この訥々とした回想記では、いわゆる感動的な煽り文句は、放たれていない。しかし、人格を大切にすること、それだけで、ことばが人の心を動かし得るのだと、本書は教示する。編集者による実録は珍しくないが、センセーショナルなそれらとは一線を画する作品だ。

【著者】粕谷一希【出版社】文芸春秋【発刊年月】1999/11
【本体価格】1714円【ページ数】245P【ジャンル】ノンフィクション【形態】単行本【ISBN】4-16-355830-6

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書評のページ ~ 俳誌「花冠」六月号掲載

2009-05-06 14:18:06 | 書評
④『中学生の教科書~死を想え』

 『中学生の教科書』では、七科目の教科が語られる。国語外国語に島田雅彦、理科に養老孟司、道徳に池田晶子、美術、数学、音楽、社会、それぞれに情熱を抱く者が、各科の神髄を述べる。これらの科目をなぜ学ぶのか、その問いへ、筆を極め答えてゆく。
 本書に登場する七人の侍の内、ここでは、数学者の野崎昭弘氏を紹介したい。
 数学を苦手とぼやく中学生は多い。野崎氏は、まず彼らへ「きみも数学の資質を持っている」と呼びかける。「数学の資質」とは何か。それは「抽象化して考える力」である。「二×四」の二が、二枚のハンカチか、二日か、二㎝かは省き、何であろうと二が四つあれば八になる、その要点を抜き出すことが「抽象化」の要領だ。
 それでも、数学など役に立たない、とみなす声は絶えない。されど数学者は、役立つからでなく、好きだから研究するという、自身の意志を発し続ける。数学の何が面白いか。「わかった」という嬉しさが大きい所がいい。それまで焦点のぼやけていたものの核心が、突然わかり、全てを見通せるようになる。
 こうした数学の定理は、はかない人間の命とは違う、永遠の真理なのだ。新しい定理を発見したときは、山の頂に立つような、さわやかな気分を味わえるという。数学において、応用が広く簡潔な定理を「美しい」と表現するが、さらに、それが自分の作った概念であれば、砂を噛むような定理の名前さえ、親バカのごとく、実に気持ちよく響くらしい。
 なるほど。ここまで惚気られれば、関心のない読者も、数学は楽しいものかもしれないと興味を起こすだろう。少なくとも、数学に惚れ込んでいる人物が確実に居ることは、認めざるを得ない。何しろ彼は、こう宣言するのだ。「数学は、その蜜の味を知る者の花園、知を愛する冒険者を待つ大海原である。私は一生を数学に賭け、少しも後悔していない。」
 本書は序章に、学校とは何か、の答えを掲げている。嫌でもあってしまう、人間の「知りたい」という欲求を満たすため、学校は在るのだ。さらに、全ての教科が、それぞれの根底で、人間の「生き死に」を抱え込んでいることを、あえて示す。各科目において、その知に憑かれ、深淵へ臨み、死と対峙した者でなければ、この問題を汲んだ「教科書」を書くことはできない。そこを知る七人による、貴重なテキストである。

【著者】島田雅彦・布施英利・野崎昭弘・宇野功芳・養老孟司・宮城まり子・池田晶子【出版社】四谷ラウンド
【発刊年月】1999/12【本体価格】1200円【ページ数】218P【ジャンル】教育【形態】単行本【ISBN】4-946515-41-0

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書評のページ ~ 俳誌「花冠」五月号掲載

2009-04-17 21:04:11 | 書評
③『サイレント・ガーデン』武満徹 著

 これほど静かな病床日誌を、かつて読んだことがない。死後、発見された本稿は、おそらく誰に見せるつもりもなく、病床で書きなぐられたようなノートだったという。しかしここには、彼の音楽と同様、武満徹を措いて描かれることのない、美しく静寂な世界がある。
 一九九六年、六十五歳で天逝した武満徹は、二十世紀を代表する作曲家であるとともに、芸術家のことばで音楽を語る、文筆家としても高名であった。一九五七年、『弦楽のためのレクイエム』を作曲した際には、次のように自作を説いている。
 初めも終わりも定かでない、人間と世界を貫く「音の河」の流れから、任意の部分を取り出したものがこの曲である、と。
 武満の作曲理論は、既存の機能主義を排してはいるものの、雑音をも拾い集める前衛音楽とは異なり、自分の内なる坑道を降りてゆくことで「音の河」に意味を与えようとする作業であった。
 さて、本書『サイレント・ガーデン』は、武満徹が死の半年前、抗癌剤投与のための入院先で、私的に書き留めた記録である。「滞院報告」と題された前半は、体重・体温・検査結果などを含む、病中の日録。後半の「キャロティンの祭典」は、色鉛筆による丹念なイラストを添えた、料理のレシピ集。難解な音楽論とは、無縁の本だ。
 しかし、この『サイレント・ガーデン』こそ、まさに文章における『弦楽のためのレクイエム』を、体現しているのではあるまいか。
 本書には、病床での様々な断片が綴られている。詳細な病状の経過。家族や見舞客への感謝の思い。「曇り。重い灰色のガスが街をつつんでいる。都会の朝は醜悪だ。」といった日々の天候。作曲については、「退院したら小さな組合せの精緻な作品が書きたい。李朝白磁のように吸いこまれるような深さを持った、それで余分の全くないもの。均整。」と記す。思いついた作品のタイトルを残すこともある。また時には、阪神タイガースの勝敗を気にしたり、「もはや対岸の火ではない/対癌の日のはじまり」など遊び心も覗かせる。そして最後に、彩りある創作料理が五十一種。
 これらは、病床の「河」の流れから、任意に取り出された切れ端である。しかし、雑多な印象はない。
 それは、武満が、作曲においてそうしたように、病床という世界へ自らを貫き、自身に喚びかけることによって、内なる世界の「河」を意味づけた帰結ではないだろうか。
 かつて、表現とは世界の中の自己を確認すること、と定義し、世界を喚ぶには自分に喚びかけるしかない、と著した武満ゆえの病床日誌であろう。

【出版社】新潮社【発刊年月】1999/10【本体価格】3200円
【ページ数】200P【ジャンル】エッセイ【形態】単行本
【ISBN】4-10-312909-3

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書評のページ ~ 俳誌「花冠」四月号掲載

2009-03-25 21:22:10 | 書評
①『パリ左岸のピアノ工房』T.E.カーハート 著・村松潔 訳

 この本は実録らしい。だが、おとぎ話のようだ。それもいっとう上質な。これほど魅力的な、店と人と挿話に出逢えたら、虚実に関わらず夢心地になる。
 アメリカ人の「わたし」が住む、パリの狭い通りに〈デフォルジュ・ピアノ――工具と部品〉と書かれただけの、小さな謎めいた店がある。ピアノが好きで、でも、長年それを所有したことがなく、そして、二十年ぶりに弾いてみたいと願っている彼は、この店の奥まったアトリエに「蠱惑的に光り輝く中古ピアノの黄金郷」が潜んでいることを知る。彼はその聖域へ惹きつけられ、やがてそこで恋するピアノと出逢い、その楽器を「わたしの人生」へ迎え入れるのだ。
 以来「わたし」は、定期的にアトリエへ立ち寄るようになる。ここには、芸術と商売を融合している希有な店の主人、午前中にしか仕事のできない酒呑みの調律師、音楽学者から車の修理工まで種々の人物が集まってくる。とりとめのない話題でも、出発点と到達点は、ピアノへの共通した興味に支えられていた。
 縁は広がり、彼は、かねて望んでいた「自分が音楽に見いだした喜びを深め、感覚をひろげてくれる」レッスンを受けるようになる。また、子どもを通わせるにふさわしい、競争主義を放棄した、音楽の楽しさを発見させようという音楽教室を見つける。さらに、高名なマスタークラスを聴講する機会、そしてついには、世界最高のピアノと称される、新たな名器に触れる好機まで得るのである。
 この筋書きだけでも胸が躍る。だが『パリ左岸のピアノ工房』の最大の魅力は、ほかにある。登場人物らがピアノを語る、その誠実で豊かな表現が染み入るのだ。「わたし」は、初めてのピアノの記憶をこう綴っている。「この奇怪な巨人の前に坐って指をあちこち動かすだけで、どうしてこんなにきれいな音が呼び出せるのだろう(略)ただ単に音を出すために、大人がこんな大げさな仕掛けを、こんなに巨大な堂々たるものを考えだすなんて信じられなかった。」ある教師は、ミスを恐れ動きが緊張してしまう、大人の生徒に語りかける。「たしかに自然な動きのほうが危険が大きい。けれども、人生には危険が付きものだし、音楽は人生の一部なのだ。」
 ピアノとは、これほどに美しい物語を紡ぎ、うっとりとことばを光らせることのできる楽器であったのか。

【出版社】新潮社【発刊年月】01/11/30【本体価格】2000円
【ページ数】318P【ジャンル】芸術・美術【形態】単行本
【ISBN】4-10-590027-7


②『知性の磨きかた』林望 著

 「名前は知らないけど、きれいなお花」「音楽はわからないけど、素敵な曲」
 子どもと呼ばれる年齢を過ぎると、こうした感想を口にすることに、抵抗を覚えるようになる。他人へ無教養をさらす羞恥はもちろん、何より自分自身が、未知の世界を好き嫌いだけで閉じてしまうことに、飽き足りなくなるのだろう。新しいものへ触れた時、それを感情の判断に留めていてはつまらない。鑑賞ではなく認識することで、知的な喜びを得たい。年齢とともに、いつしかそんな欲求が湧くようになってくる。
 感性に反応したものを、さらに知性へと発展させる、そのための優れた指南書が、本書『知性の磨きかた』である。
 著者の林望は、書誌学者にしてエッセイスト。お馴染みのイギリスものの他、近頃は、能や絵画、音楽についても著している。加えて、自ら絵筆を取ったり声楽を披露することもあり、多芸多才と称される作家だ。
 しかし本書において、著者は、自らを「ただ一つ、学問の方法というものを身につけているにすぎない、まったくの一芸の主」であると語る。
 では、学問の方法とは何か。本書は、学問の基本を「研究史と注釈」としている。研究史とは、その対象が過去にどう分類されてきたかを知ること。注釈は、対象を細かなファクターに分けて分析することだ。著者は、この二つが学問の普遍的な方法で、結局、知性というものは、その方法の有無に係わるのだと説く。
 例えば、林望が、ジョン・コンスタブルの解説者として、美術番組に出演を依頼された際の話がある。彼は専門家ではないので、その時点での美術の知識はおぼつかない。なれど、学問の方法を当てはめることにより、どう勉強すべきかの筋道はわかる。まず、コンスタブルについての従来の研究を調べる。次に、コンスタブルの作品中、ある表現が何を意味するかを、一つずつ確かめていく。すると、おのずから、コンスタブルに関し、独自の解釈を述べられるまでに至る。そしてそれは、一定の方法論に基づいているために、素人でも独り善がりになることはない。
 この普遍的な方法は、言うまでもなく、著者が、長年、書誌学へ携わる内に獲得したものである。しかし、彼が仮に、書誌学の「知識」だけを学んできたのであれば、知識のない美術を解説することは、不可能だったろう。自分の力で進むための「方法」を身につけたがゆえに、これらの応用が敵うのである。
 従って、林望は、現象的な意味での「物知り」になることは避けよ、と唱える。知識だけを得ても、その先には進めない。まずは一つのことに邁進せよ。そこでじっくりと修行し、揺るぎない方法を自分のものとすれば、将来、応用がきくのだから。ひたすら、そう呼びかけるのだ。
 本書は、学問の愉しみの他、読書や遊びについての興味深い記述も満載だ。また、講釈筆記で、あたかも語りかけるような文体が、読者をより知性へ親近させる。知的な喜びを求める、全ての大人に薦めたい。

【出版社】PHP研究所【発刊年月】1996/11
【本体価格】660円【ページ数】214P【ジャンル】エッセイ
【形態】新書(PHP新書)【ISBN】4-569-55340-0


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