『川名麻澄の音楽のしっぽ』第七回原稿「モーツァルト」
〈オープニング〉
BGM:ブラームス『クラリネットソナタ第2番』第1楽章~FO
『川名麻澄の音楽のしっぽ』。皆様、こんにちは。川名麻澄です。
なでしこの花がひらき、軽井沢が最も賑わう季節となりました。年に一度だけ軽井沢を訪れる方も、きっと夏の頃にお越しになるでしょう。
軽井沢に人が集うこの折り、本日の「音楽のしっぽ」は、モーツァルトを特集いたします。往年のピアニスト、エドヴィン・フィッシャーは、「わたしは人に好意を示したい時、いつもモーツァルトの作品を演奏する」と語ったそうです。「音楽のしっぽ」でも、この夏、軽井沢にいらっしゃる皆様をおもてなしするために、モーツァルトをお贈りしたいと思います。
〈軽井沢の夜想曲〉
始まりのコーナーは「軽井沢の夜想曲」。軽井沢の夕べに似合いそうな音楽をご紹介しています。
本日の曲は、モーツァルト『ヴァイオリン・ソナタ』K.454から第2楽章。
加賀乙彦の長篇小説『永遠の都』に、軽井沢を描いたうつくしい場面があります。ヴァイオリンを学ぶ少女、央子が初めて軽井沢へ降り立った時のこと。央子は、さかんに鳴く小鳥に頬笑み、小川のほとりで立ち止まります。水や梢の立てる音に耳を澄まし、藻の揺らぎやきらびやかな木漏れ日に見入った央子は、「まあ、モーツァルト」と叫ぶと、そこでヴァイオリンを弾く仕種を始めるのです。この時、央子が音なく奏でていたのは、モーツァルトのヴァイオリン・ソナタ変ロ長調の2楽章でした。少女が、ふと軽井沢の空気から思い出した旋律を、今日はグリュミオーのヴァイオリン、ハスキルのピアノでお届けします。
[音楽]
モーツァルト『ヴァイオリン・ソナタ第40番』
アルテュール・グリュミオー(ヴァイオリン)、クララ・ハスキル(ピアノ)
アルテュール・グリュミオーのヴァイオリンとクララ・ハスキルのピアノで、モーツァルトのヴァイオリン・ソナタK.454から第2楽章を、お聴きいただきました。
これは楽屋話になってしまうのですが、小説『永遠の都』には、央子が軽井沢で奏でた曲について、モーツァルトのヴァイオリン・ソナタ変ロ長調とだけ記されていて、作品番号までは書かれてありません。けれど私はこのエピソードが好きだったので、一体、何番のソナタだろうと思い描き、演奏家の仲間にもしばしば本を片手に問いかけ、話題にしていました。それがこの度、思いがけなく軽井沢高原文庫を通じ、著者の加賀乙彦さんご本人へお尋ねすることができまして、こうして皆様へK.454番をご紹介するに至った次第です。
加賀乙彦の小説には、よくモーツァルトが現れますが、もう一篇、私が印象的なのは、『生きている心臓』と題された、心臓移植の物語の一コマです。手術中、それまでぐたっとしていたドナーの心臓が、※1 手術室にモーツァルトの弦楽四重奏『狩り』を流すと、まるで、心臓が音楽を聴いたようにぎゅっと動き、自然に拍動を始めたという挿話です。緊迫した場面に織り込まれた、たおやかなモーツァルトに心惹かれました。今、流れているのは、そのモーツァルト弦楽四重奏K.458『狩り』の第Ⅰ楽章、アルバン・ベルク四重奏団による演奏です。
(ここから10秒弱は、音楽のみ)
[BGM]※1から※2まで
モーツァルト『弦楽四重奏17番』『狩り』より第1楽章 ~FO
アルバン・ベルク四重奏団
「音楽のしっぽ」では、皆様からのリクエストをお待ちしております。軽井沢でお聴きになりたい曲や、音楽にまお話、またご質問など、どうぞお便りをお寄せ下さい。(略)※2
〈音楽挿話〉
続いてのコーナーは「音楽挿話」。本日のこのコーナーでは、モーツァルトの音楽を愛した人々のことばを添えながら、曲をお届けします。
初めにご紹介するのは、モーツァルト弦楽三重奏『ディヴェルティメント』から5楽章「メヌエット」と6楽章「アレグロ」。
『ディヴェルティメント』は、日本語で嬉しいの「嬉」に遊ぶの「遊」で『嬉遊曲』と訳される音楽です。詩人、尾崎喜八の随筆の中に、夫人がこの曲を聴いて「幸福な音楽とはほんとにああいう物を言うんですね」と目を輝かせる行りがありました。ウィーン・ムジークフェラインの演奏で、お聴き下さい。
[音楽]
モーツァルト『ディヴェルティメント』K.563より第5・6楽章
ウィーン・ムジークフェライン四重奏団
ウィーン・ムジークフェラインの演奏で、モーツァルト『ディヴェルティメント』K.563から5楽章「メヌエット」と6楽章「アレグロ」をお送りしました。
この喜びの音楽は、軽井沢で過ごす文人達にも愛されたようで、軽井沢ゆかりの文士、福永武彦も『ディヴェルティメント』に纏わる洒落た随筆を遺していますし、詩人、水上紅は『かるいさわいろ』という軽井沢と文学がテーマの対談集へ「モーツァルトの嬉遊曲K.563番を捧げる」と序文を寄せています。この曲には、軽井沢がもたらす幸福感と似たところがあるのかもしれません。
こうして幸せを紡ぐモーツァルトは、また、哀しみについても、哀感そのものと思われるような音楽を書いています。次にお送りするモーツァルト『ピアノ協奏曲』K.488の第2楽章は、私の最愛の曲で「死ぬ時はこの曲を聴いて逝きたい」などと願っているのですけれど、この作品は、表現者の訴えとは違う、純粋な哀しみの音楽ではないかしら、と感じます。
そういえば、宮本輝の小説『錦繍』にも、主人公がモーツァルトの音楽に「どうして悲しみと喜びの二つの共存を、言葉を使わずに教えることが出来るのか」と問うシーンがありました。それでは、モーツァルト『ピアノ協奏曲』K.488から第2楽章を、ペライアのピアノと指揮、イギリス室内管弦楽団の演奏で、お聴き下さい
[音楽]
モーツァルト『ピアノ協奏曲第23番』K.488より第2楽章
マレイ・ペライア(ピアノ&指揮)、イギリス室内管弦楽団
マレイ・ペライアのピアノと指揮、イギリス室内管弦楽団の演奏で、モーツァルト『ピアノ協奏曲』K.488第2楽章を、お聴きいただきました。
日本画家の東山魁夷は、この曲を聴いて「一頭の白い馬が、私の風景の中に、ためらいながら、小さく姿を見せた」と語っています。東山魁夷が一九七二年に描いた、白馬が現れる十八点の風景画、『白い馬の見える風景』の連作は、この音楽から生まれたそうです。
〈クラシック聴き比べ〉
さて、最後のコーナーは「クラシック聴き比べ」。今日は、モーツァルトのピアノ曲から、ロンドを二曲、ニ長調とイ短調のロンドを「聴き比べ」したいと思います。
私がモーツァルトを演奏する際に、決まって取り出す詩集、谷川俊太郎の『モーツァルトを聴く人』の中に「ふたつのロンド」という詩が収められています。六十歳を過ぎた谷川俊太郎が、亡き母親の記憶を、モーツァルトの二曲のロンドに重ねて紡いだ詩です。初めに現れるのは、ニ長調のロンド。著者が幼い頃、夏の夜に、浴衣を着た母が弾いていたそうです。が、母親は、やがて幾年もの入院を経た末に、亡くなります。そののち、病室の母が映ったビデオを見る彼の後ろで、今度は、イ短調のロンドが鳴るのです。谷川俊太郎は、若い母が奏でたニ長調のロンドを「子どもが笑いながら自分の影法師を追っかけてるような旋律」と表わし、そして、老いた母の顔を見ながら聞いたイ短調のロンドを「人間ではない誰かが気まぐれに弾いているようだ」と書きました。
本日は、まずニ長調のロンドを梯剛之、次にイ短調のロンドをルドルフ・ゼルキンのピアノで、続けてお届けします。梯剛之は、17歳の初のスタジオ録音、ルドルフ・ゼルキンは、75歳の記念コンサートで、それぞれ収録した演奏です。「影法師を追いかける子ども」と「気まぐれに弾く人間ではない誰か」、17歳の梯と75歳のゼルキンのピアノが、両者に近い姿を見せてくれるかと思います。
[音楽]
モーツァルト『ロンド ニ長調』K.485
梯 剛之(ピアノ)
モーツァルト『ロンド イ短調』K.511
ルドルフ・ゼルキン(ピアノ)
梯剛之のピアノで、モーツァルト『ロンド ニ長調』K.485を、ルドルフ・ゼルキンのピアノで、モーツァルト『ロンド イ短調』K.511を、お聴きいただきました。ピアニストの一生はモーツァルトに始まりモーツァルトに終わる、ということばを思い起こします。
〈エンディング〉
BGM:ブラームス『クラリネットソナタ第1番』
第2楽章 ~FO
『川名麻澄の音楽のしっぽ』第七回目の今日は、モーツァルトの音楽とそれを語る声を、お送りして参りました。最後に、加賀乙彦がアンソロジー『私のモーツァルト』に綴ったことばをご紹介いたします。
「どんなにこの世が暗くても、モーツァルトがあるかぎり、生きるに価する」
それではまた来月まで。ごきげんよう。
◇◇◇
《その足跡》
放送から約二十年、学生時代からの演奏家仲間に原稿を読んでもらい、お喋りしました。
結婚後、海外を転々としながら子育てを続けている友人は、まず「しばらくモーツァルトと遠ざかっていたから、前世のよう。思い浮かべただけで涙が出る。ベートーヴェンは聴けるのに。穢れているのかも」と語りました。
「モーツァルトは、弾くのも聴くのも環境がいる。たとえば今、とんかつを揚げた後で換気扇が回っていて、こういう時には聴けない」とのこと。学生時代のように、音楽だけを考えていた頃とは変わりました。すると、よりモーツァルトが特別であることがわかります。
ある在京オーケストラで仕事をしていたヴァイオリンの友人は、「モーツァルト弾きのピアノの巨匠が、定期演奏会でコンチェルトの暗譜が飛んでしまったことがある。しばらくオケが頑張ったけどどうにもできなくて、何番からって指揮者が」と記憶をよみがえらせ、皆で震えあがりました。
彼女は、「技術的には余裕があるけれど、でもモーツァルトが一番こわかった。団員もものすごく研ぎ澄まされているから、音を出すのが恐ろしくなった」と続けました。
「モーツァルトはこわい」とは、演奏家がよく口にすることですが、経験を重ねるほど、恐れも増すように感じます。
私の最愛の曲として紹介した、K.488のピアノ協奏曲2楽章について、幼少をオランダで過ごした友人が「アムステルダムのコンセルトヘボウで、ルプーが、可能な限りの弱音で弾いた。順番に音を鳴らしているような、とつとつとした感じで」と教えてくれました。
「モーツァルトは、あまり抑揚のない方がいい。音の並びだけでもう、いいんだよね」という意見に、私たちも「そう、派手なモーツァルトはいや」と共感。「指揮者にも、ここが盛り上がってますよ、とってもロマンチックですよ、とわかりやすいのがウケると信じてる人がいる」「そういう人は、とんかつの匂いがしても演奏できる人かもね」などと話が盛り上がりました。
俳句に興味を抱き、インターネット上で花冠に出逢った時、その作品とモットー「明るくて深い」を、モーツァルトのようだと感じました。
私にとってモーツァルトの音楽は、自然です。説明や主張ではなく、美しい季節に風土、幸福や哀感、そのものだと思います。モーツァルトの譜面は、あくまでシンプルで平明です。けれど、自然と向き合うのと同様に深く、時に恐れを覚えます。「わざと盛り上げない」「面白がられようとしない」、そうした感覚も、花冠の俳句とモーツァルトに共通するかもしれません。
花冠の教えの中でも、信之先生のお言葉、「よい生活を、ということを心がけていただきたい、と願っています。芸術や文化の活動は、やはり作者個人の心の奥へどんどん入ってゆくものなので、それだけに社会とのつながりが希薄になりがちです。」は、殊に心に残っています。年を経るにつれ、「よい生活」を送ることの難しさも、知るようになりました。「とんかつの匂い」は一つの喩えですが、私も生活が煩わしくなると、俳句にもモーツァルトにも向き合えなくなります。以前、俳句の気持ちになれない時、正子先生に「それも人間らしい暮らしでしょう。」と仰っていただき、安心したことがありました。それと同時に、毎日、途切れず投句なさる句友の方々、ご指導くださる先生への尊敬の念が増し、また、久しぶりに句座へ戻られた方をお迎えする歓びも高まりました。
雑多な生活を経て尚、自然の意味を読もうとすることで、信之先生の仰る「大きな、深い人生観が伴った自然感」が生まれるのかもしれません。俳句の「まこと」は、その先にあるのでしょう。
音楽の学びは「モーツァルトに始まり、モーツァルトに終わる」と言われます。私にとっては、花冠も、俳句の始まりから終わりまでを学ぶ場になるでしょう。貴い場に出逢えましたことを、幸せに存じます。
(二〇二四年十一月九日記)
川名 麻澄(ますみ)