かわな ますみ / 花冠同人

かわな ますみ の俳句
  ブログ句帳 

俳句と私(俳誌『花冠』第368号掲載)

2023-01-07 21:50:00 | 散文
俳句を始めたのは二〇〇五年、ピアニストの活動を休み、長期入院中のことでした。高橋信之先生と正子先生に初歩から学べましたのは、この上ないご縁だったと存じます。両先生のお導きで俳句を知るうち、演奏ができなくても俳句なら音楽と同じ道を歩める、同じところを目指せる、と光を見出しました。投句のペースは落ちましたが、今なお「花冠」は希望の場です。

十二年前に父が急死して以来、傍らに死が続きました。祖母、主治医、母、愛猫、ピアノの師。かつては失えば生きられないと想った者の死を、図らず受容している自分に驚きを覚えます。それはおそらく、俳句を通して、自然や季節を見続けた結果なのでしょう。失うのではない、季節が巡るように重なりゆくのだ、そう死を捉えるようになっていました。

花の散る様を、ただ「落ちる」と詠んだ拙句に、正子先生から
 「散る」ことも「散る力」なのです。
とご指導をいただいたことがありました。進行性の難病ゆえ、体の機能はつぎつぎ衰えますが、今はそれも力であると信じられます。

音楽も俳句も命も、自然に倣い、同じ道をゆくのですね。迷わずに進めそうです。拙く遅い歩みですが、これからもどうぞよろしくお願い申し上げます。
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堀辰雄『美しい村』に聴く音楽

2007-06-10 10:00:00 | 散文
 六月十日、堀辰雄の短篇『美しい村』は、この日付から始まる。軽井沢をいつくしむ人々が、暗唱するごとく大切にしてきた物語だ。
 平成十三年から三年間、比較的、症状の落ち着いていた時期に、私は、軽井沢のエフエム放送局でクラシック音楽番組のパーソナリティーを務めていた。放送に携わるのは、まるで初めて。にも関わらず、企画から選曲、台本、司会、収録に至るまで、全てを自由に作らせて頂く貴重な経験を得た。
 今、俳句へ向かう自身を省みるにも、この放送の仕事は欠かせない。ここで私は、舞台と客席とは異なる、言葉で繋がる人との関係を知った。また、自然や歴史に由来する、その地方ならではの文化を学んだ。「軽井沢に相応しい番組」を想い描く内、音楽だけでなく、季節と自然と土地について考えるようになった。毎回、時候の挨拶から思い悩む。俳句を勉強していれば、もう少し良い番組ができただろう、とも悔やむが、この三年がなければ、のちの俳句への関心は湧かなかったかもしれない。
 さて、当時も小康状態とはいえ、軽井沢の滞在には医療者の付き添いが必要で、頻繁に訪ねることは難しかった。打ち合わせは電子メール、収録は自宅の防音室、編集の確認は音声データの交換と、放送局は負担のないよう整えて下さったが、その分、軽井沢から離れてしまう。住民の話や軽井沢の資料を求めたが、簡単に集まるものでもない。番組は、そうした不安を抱えたまま始まった。
 が、放送を重ねる内に、番組をお聞き下さった方から、リクエストに併せて軽井沢に纏わるエピソードが届き始めた。代々この地を守っていらしたご家族、東京で多忙なお仕事を務めつつも、週末は必ず山荘で過ごされるご夫妻、避暑のみの逗留から、退職を機に永住なさった方など、軽井沢との縁は様々。だが、頂いたお便りのほとんどに、立原道造と堀辰雄の名が記されていた。堀辰雄の『美しい村』に書かれた曲が聴きたい、立原道造が堀辰雄へ贈ったSPレコオドを聴いてみたい、そんなリクエストも頂戴した。
 軽井沢を慕った文士を、そして作品を、この土地の人々は愛し続けている。
 私は、軽井沢文学を学ぶことにした。お便りを下さった方々を通じ、軽井沢高原文庫軽井沢文学サロンをご紹介頂き、皆さまのお世話に預かった。この土地に惹かれ、集い、そして作品に綴った軽井沢文士には、前述の二人を筆頭に、まず、有島武郎、野上弥生子、室生犀星、福永武彦、中村真一郎、辻邦生、北杜夫、加賀乙彦らの名前が挙がるだろう。また、内田康夫、宮本輝、藤田宜永、小池真理子、水村美苗ら、最近のベストセラー作家も多い。私は、これら軽井沢文学と向き合い、作品に描かれた軽井沢を心に浮かべ、また、それを読み継ぐ土地の人を想った。
 そうして、ほどなく番組は、軽井沢文学に現れる曲を紹介する、また、軽井沢文学とそれに似合う音楽を組み合わせる、という方向を辿り出した。番組の副題へ「軽井沢文学に聴く音楽」と添えるようにもなった。
 軽井沢は避暑地、観光地として知られるため、四季折々、表情が大きく変化する。ゆえに番組では、その季節に応じた内容を心掛けていたが、軽井沢文学の世界は深く、年間を通し話題に困ることはなかった。しかしそれでも、堀辰雄の『美しい村』を取り上げた回の反響は特別だった。六月の放送を中心に、度々『美しい村』の件りを引用していたが、この小説がいかに軽井沢で愛されているかを確信した時、いっそ『美しい村』がテーマの一本を作ろう、との思いに至る。以下に転載するのは、その回の台本だ。拙さは隠しようもないが、文学と音楽と己の言葉を通して、リスナーと軽井沢を共感すること、それを専一に臨んだ想い出深い放送となった。
 自然と対峙し心揺さぶられる瞬間は、その季、その地ゆえに得ることも多いだろう。それが文学に遺されれば、後世においても追体験が叶う。殊に、同じ土地を愛する者にとって、文人との感性の共鳴は、この上なく貴い。句碑に出遇った時の、胸の高鳴りも同様と思う。私は番組を始めるまで、そうした文学の在り方、捉え方を知らなかった。土地、自然、季節をもとに、生まれ読まれる文学を学ぶ。私自身もその追体験に加わり、印象を語り、そこに沿う音楽を選ぶ。振り返ると、この仕事は、やがて俳句へと進む道であったようにも思われる。

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〈オープニング〉
  BGM:ブラームス『クラリネットソナタ第2番』第1楽章~FO
森の樹々が六月の靄に濡れ、繁り始めた新緑が鮮やかに映っています。
軽井沢で六月を迎える時、決まって思い出すのが、堀辰雄の小説『美しい村』。軽井沢が舞台のこの物語は、六月十日の日付で始まります。
「今月の初めから僕は当地に滞在しております。前からよく僕は、こんな初夏に、一度、この高原の村に来てみたいものだと言っていましたが、やっと今度、その宿望がかなった訣です」というモノローグが「序曲」として書かれた、堀辰雄の『美しい村』。本日は、この物語をテーマに、お送りいたします。
まだ人気は少ないけれど「もうすっかり夏の用意ができ、その季節の来るのを待っているばかり」、堀辰雄がそう称した六月の軽井沢で、どうぞ『美しい村』の音楽をお楽しみ下さい。

〈軽井沢の朝の歌〉
始まりのコーナーは「軽井沢の朝の歌」。毎回、軽井沢を語る言葉とともに、音楽をお届けしています。
本日は、堀辰雄の『美しい村』に綴られた軽井沢の自然から、それらと同じ題材を音にした曲をお送りいたします。
最初は、ギターの小品、『蜜蜂』と『雨だれ』です。
六月の『美しい村』には、蜜蜂が「ぶんぶんぶんぶん」唸って藤棚やアカシアの花のまわりに現れます。その蜜蜂の声は、主人公が「なんだか自分の頭の中の混乱と、その蜜蜂のうなりとが、ごっちゃになって」しまいそうだ、と語るほど。まだ人々が集う前の、うっかりすると淋しく感じそうな軽井沢が、実は、みなぎる自然に耀いている幸福に気づかされます。
そんな『美しい村』では、梅雨の晴れ間も、それは素敵に描かれます。寝床の中で雨音を聞き「また雨らしいな……」と雨戸を開けてみると、その雨音は、落葉松の細かい葉に溜っていた雨滴、雨だれが屋根に落ちる音で、外はまぶしい青空だった、という雨上がりの場面があるのです。
「ぶんぶん」唸る蜜蜂と、明るい雨だれを、今日は、ギターの小品でお聴き下さい。一曲目はバリオス作曲の『みつばち』、二曲目がリンゼイ作曲の『雨だれ』です。
 〔音楽〕
  バリオス『みつばち』 柴田杏里(ギター)
  リンゼイ『雨だれ』 山下和仁(ギター)

柴田杏里のギターで、バリオス作曲『みつばち』と、山下和仁のギターで、リンゼイ作曲『雨だれ』をお届けしました。
続いて、やはり堀辰雄の『美しい村』に見られる景色を、今度はドビュッシーのピアノ曲でお送りいたします。『美しい村』の主人公は、六月の軽井沢で、毎日のように村のさまざまな方へ散歩をします。山径で、若い外国婦人の押す乳母車に亜麻色の毛髪の女の児を見かけて互いににっこりとしたり、霧がひどく巻いている朝、流れに見え隠れする野薔薇やそれを見まもる老医師に気づいたり、峠の旧道で、藤や山葡萄や通草などの蔓草がややこしい方法で絡まっているのを見つめたり、たくさんの美しい情景を目にするのです。
亜麻色の髪の女の児、霧、蔓草、ドビュッシーもそれらをピアノ曲に紡いでいます。ドビュッシーの『前奏曲集』から『亜麻色の髪の乙女』、『霧』、そして唐草模様の『アラベスク』、ギーゼキングのピアノでお聴き下さい。
 〔音楽〕
  ドビュッシー『前奏曲集第1巻』より第8曲『亜麻色の髪の乙女』
  ドビュッシー『前奏曲集第2巻』より第1曲『霧』
  ドビュッシー『アラベスク第1番』 ワルター・ギーゼキング(ピアノ)

ワルター・ギーゼキングのピアノで、ドビュッシー作曲『前奏曲集』から『亜麻色の髪の乙女』『霧』、そして『アラベスク』第一番を、お届けしました。『美しい村』の景色と比べ、どうお感じになりましたでしょう。
堀辰雄の『美しい村』では、軽井沢のあちらこちらの場所が、魅力的な名前で記されています。「お天狗様」と呼ばれた「オルガンロック」傍の愛宕神社や、「ベルヴェデールの丘」と書かれた愛宕山の尾根など、つい足をのばして散策してみたくなる、夢のような名前です。
中でも引き寄せられるのは「水車の道」と名付けられた小径。かつてごとごと廻っていた水車場の跡があり、小川のせせらぎが聞こえるというロマンティックな通りです。『美しい村』の主人公が、この「水車の道」を少女と散歩する場面は、シューベルトの『美しき水車小屋の娘』を想わせます。シューベルトの歌曲『美しき水車小屋の娘』から『さすらい』と『涙の雨』を、ブロホヴィツのテノールでお聴き下さい。
 〔音楽〕
  シューベルト『美しき水車小屋の娘』より第1曲『さすらい』第10曲『涙の雨』
   ハンス・ペーター・ブロホヴィツ(テノール) \ コード・ガーベン(ピアノ)

ブロホヴィツのテノールとガーベンのピアノで、シューベルト作曲『美しき水車小屋の娘』から『さすらい』と『涙の雨』をお送りしました。旅を愛する青年が少女と並んでせせらぐ小川を見おろす、そんな儚い情景を、堀辰雄もシューベルトも、愛したのでしょう。

〈音楽挿話〉
続いてのコーナーは「音楽挿話」。音楽にエピソードを添えてお届けいたします。
本日の「音楽挿話」は、堀辰雄の『美しい村』にタイトルが綴られた、二曲の音楽をご紹介いたします。
一曲目は、小説『美しい村』はこの曲から生まれた、と言われる、バッハのト短調「小フーガ」。『美しい村』では、ある雨の晴れ間、主人公が水車の道のほとりを散歩していると、チェッコスロヴァキア公使館の別荘から、バッハのト短調遁走曲を練習するピアノの音が聞こえてきます。
「一つの旋律が繰り返され繰り返されているうちに曲が少しずつ展開して行く、それがまた更に稽古をしているために三四回ずつひとところを繰り返されているので、一層それがたゆたいがちになっている」そのピアノのたゆたいがちな音が、小説を考え悩んでいる主人公のもどかしい気持さながらであった、と描かれます。
オルガン作品であるこの曲、ピアノでの録音は少ないのですけれど、今日はぜひ『美しい村』の気分で、ピアノ編曲版をお届けいたします。バッハの「小フーガ」、ニコラーエワのピアノでお聴き下さい。
 〔音楽〕
  J.S.バッハ=高橋悠治編『小フーガ』ト短調 BWV578
   タチアナ・ニコラーエワ(ピアノ)

タチアナ・ニコラーエワのピアノで、バッハ作曲『小フーガ』ト短調をお届けしました。
『美しい村』の主人公は、六月の軽井沢を毎日散歩するうちに、知らず健康になってゆく自分に気づきます。やがて彼は、都会にいた頃は自分の不幸を誇張し過ぎて考えていたのではないか、何もあんなにまで苦しまなくともよかったのだ、とさえ思うようになるのです。
その時、彼の心を一杯にした感動は、『田園交響曲』の第一楽章が人々に与える快い感動に似たものであった、と書かれています。初夏の高原が自分に深く呼吸をさせ、幸福を喚んでくれると知った時、心に広がった音楽、ベートーヴェンの交響曲第六番『田園』第一楽章を、本日は、ワルター指揮コロンビア交響楽団の演奏でお送りいたします。
 〔音楽〕
  ベートーヴェン『交響曲第6番』Op.68『田園』より第1楽章
   ブルーノ・ワルター(指揮) \ コロンビア交響楽団

ブルーノ・ワルター指揮、コロンビア交響楽団の演奏で、ベートーヴェン作曲交響曲第六番『田園』から第一楽章をお届けしました。
「幻像(イマアジュ)ばかりが心にふと浮んではふと消えてゆく」、その迷うような発展が主人公の心を捉えた、バッハのト短調「小フーガ」と、そして、いつの間にか生き生きと呼吸している自分を見出して、その感動を想い起こした、ベートーヴェンの『田園』一楽章。どちらも『美しい村』の六月の描写には欠かせない、軽井沢の自然とそこに触れる者の想いを奏で尽くす音楽のように感じます。

〈クラシック聴き比べ〉
「クラシック聴き比べ」、ここでは、一つのテーマで作られた幾つかの音楽、また、同じ曲の異なる演奏やジャンルを超えたアレンジなど、毎回、様々な「聴き比べ」をお届けしています。
本日は、堀辰雄の『美しい村』で、特に大切なモティーフとして綴られる「野薔薇」を主題に、聴き比べをお楽しみ下さい。
小説『美しい村』には、白い小さな野薔薇が繰り返し現れます。堀辰雄は、軽井沢の野薔薇の茂みを、音楽になぞらえました。灌木の間に雑りながら、いくらかずつの間を置いては並んでいる、その秘密めいた自然の配置が、ほとんど音楽のようにリズミカルな効果を生じさせる、と語るのです。
今日は、ゲーテが詠った『野薔薇』の詩に、音楽が添えられた歌曲をご紹介いたします。同じ歌詞で歌われる、ウェルナーとシューベルトの『野ばら』、ウェルナーはウィーン少年合唱団の合唱で、シューベルトはフォン・オッターのメゾソプラノです。
 〔音楽〕
  ウェルナー『野ばら』 ウィーン少年合唱団
  シューベルト『野ばら』D.253
   アンネ・ソフィー・フォン・オッター(メゾソプラノ) \ベンクト・フォシュベリ(ピアノ)

ウェルナー作曲『野ばら』をウィーン少年合唱団の演奏で、続いて、シューベルトの『野ばら』をアンネ・ソフィー・フォン・オッターのメゾソプラノとフォシュベリのピアノでお送りしました。
このウェルナーとシューベルトの『野ばら』、矢野顕子が二曲をあわせてジャズの弾き語りにしています。ベースはマーク・ジョンソン、気持ちのいいアレンジです。
 〔音楽〕
  矢野顕子『Röslein auf der Heiden』
   矢野顕子(ピアノ&ヴォーカル) \ マーク・ジョンソン(ベース)

矢野顕子の弾き語りとマーク・ジョンソンのベースで、ウェルナーとシューベルトの『野ばら』をあわせたアレンジ『Röslein auf der Heiden』をお送りしました。
『美しい村』の主人公は、毎朝、生墻に間歇的に簇がりながら花をつけている、野薔薇の音楽的効果を楽しむためにと、散歩へ出掛けました。
皆さまも、今から野薔薇の音楽を求めて、朝のお散歩などいかがでしょうか。

〈エンディング〉
  BGM:ブラームス『クラリネットソナタ第1番』第2楽章~FO
本日は、堀辰雄が六月の軽井沢を紡いだ物語『美しい村』をテーマに、お届けいたしました。堀辰雄は「『美しい村』のノオト」に、こんな手紙を遺しています。
「僕は音楽家が非常に羨ましくなっている。音楽はそのモチイフになった対象なり、感情なりをすこしも明示しないで、表現できるんだからね。だから、今度の作品を、そんな音楽に近いものにして、僕のそんな隠し立を間接にでも表現できたら、とてもいいと思うんだ。」そうして生まれたのが、この『美しい村』。
少し湿った空気に野薔薇の香りがきこえる、軽井沢の六月が、また巡ってきました。
それでは、また来週、ごきげんよう。

放送
2003年6月1日(日)午前8時~8時58分
2003年6月8日(日)午前8時~8時58分


青空文庫 / 堀辰雄『美しい村』

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河野一志さまを偲ぶ

2006-03-29 22:00:00 | 散文

只今、河野一志さまのご悲報に接しました。
水煙に入会してから一年余り、俳句も人生も世間も、何も知らない私に、おおらかで深い俳句と優しい選とで、そっと導いて下さった大先輩でした。句会の記録を読み返し、その大いなる御句とお人柄を偲んでおります。
この一年二ヶ月、ご一緒させて頂いた句会で、私の覚束ない互選に一志さまの御句を頂きましたのは、次の十一句です。たどたどしいコメントも、当時そのままに写します。

花が散る花見る視線横切りて  河野一志
弔うと黒一色の大暑かな
薄墨の秋雲重く山抑え
降り立ちて鶺鴒雪をたたきたり
寒波来る空は溢れる日の光

秋天は山幾層の奥にあり
 遠近の厚みに圧倒されました。遙かまで余さず見通すことができるのは、お心の深さゆえなのでしょう。とても及びませんが、精進したいと改めて感じました。

屋根ごとに光を反す今日の月
 少し高い場所から街を見た時、それぞれの屋根や窓や車に暮らしが息づいていて、天はその全てを照らしているのだなぁ、と感じる瞬間が好きです。そんな想いを、御句に示していただいたようで、嬉しく存じます。

小寒に太陽一日雲の中
 陽の見えない一日、まさに寒に入った冬の厳しさが伝わります。それでも、太陽はないのではなく「雲の中」にある、と詠まれた姿に希望を感じ、好きな句です。

短日や鳥は塒に戻りしか
 全てが早く終わってしまう今の季節。日が暮れる頃には、鳥の動きも見られなくなっています。「塒に戻りしか」のお言葉に、共感いたします。

冬の雨店の灯りの亙らざる
 暮早い頃、早くから店の灯りをともしながらも、雨にゆらいで光が届かない。雨が降るのは春近い兆し、などと思いつつ、「亙らざる」静けさや孤独感を味わっている様子が浮かびます。

ブランコを調子合わせて知らぬ人
 知らない相手とでも、隣り合えばつい調子を合わせて漕いでしまう。ぶらんこの大らかさを感じる、好きな句です。

こうして読み返しますと、なんと穏やかに深遠を詠まれた句かと、あらためて沁み入ります。私の拙い互選では、他に見落としてしまった佳句も、多くあることでしょう。それでも、自然を己の心で捉えることによって俳句が人を励ます力を持つ、という事実を、一志さまの御句に実感としてお教え頂きました。

また、勿体ないことですが、後進のご指導とお考え下さったのでしょう、句会で、一志さまに拙句をお選び頂いたこともございました。ふり返ってみますと、一志さまが俳句に求められたもの、そして、稚拙な句の中にもそれを見出そうとなさったことが、幾許かわかる気がいたします。一志さまの選を頂戴した拙句は、以下九句。二句には、ご講評も添えて頂きました。

ぶらんこや笑顔を天と地にかえす
この橋を渡ればわが家春の川
夏料理水の色なる大き皿
息止めて朝に消えゆく白富士を
笑顔らし母も抱っこの子もマスク
にごりなき明日立春の茜雲
春昼のビルあざやかにビル映す

眠る芽の寝息ふくらむ枯木立
 冬の植物も休養期でしょうか、ゆっくりと休み新たな新芽に期待したいと思います。(一志評)

楽器持つ人ら寒夜をいさましく
 楽器を演奏する方々は何時も勇敢に音楽に挑戦されているものと思います。それが環境に支配されない強さでしょう。堂々と音を楽しんでください。 (一志評)

このお言葉が、私にとって、一志さまのご遺言となりました。私が迷い彷徨っていること、全てをお見通し下さったかのような、貴いご助言を賜りました。「ゆっくりと休み新たな新芽に期待したい」、「勇敢に音楽に挑戦」「環境に支配されない強さ」、そして「堂々と音を楽しんでください」、拝読するほどに胸を衝かれ、涙が溢れます。

この世の句会で直接にお導き頂く機会は、悲しいことに、もうなくなってしまいました。けれどこれからも、一志さまの俳句を拝読し、頂いた選やお言葉を思い返し、精いっぱい活かすことが、僅かなご供養になるかと存じます。そうして、いつか再び句会をご一緒させて頂く折りには、もう少しましな投句や選句をご覧頂けますよう、精進してまいります。相変わらず至らぬ私ですが、どうかその時まで、お待ち下さいませ。一志さまには、今はお身体の苦痛から解かれ、天より、さらに広やかな俳句を詠まれていることと念じております。

悲しいお報せに触れて間もなく、心急くまま書きつけました乱文、お許し下さい。
遥かにご冥福をお祈り申し上げます。

幾層の奥には花の散らぬ世も
かわなますみ

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季語に魅せられ

2006-03-06 19:00:00 | 散文


 俳句を始めて一年ほどの私が季語を語るなど、全く不相応だ。先生、先輩方はもちろん、将来の自分が見ても、きっと苦笑することと思う。それでも、この題目を選んだのは、私が俳句に興味を持つきっかけが、季語だったからだ。初心の気持ちは、今しか遺せない。そう思い立って、書き記すことにした。

 俳句に心を留めたのは二〇〇四年、三十二才の病床。
 それまで私にとっての俳句は、五七五の極小の韻文、かつ季語を含む詩、というだけの認識であり、また、そこへ疑問を抱いてもいた。限られた短詩型に、なぜあえて季語を入れるのか。季語の分だけ、表現できる字数が減るはずではないか。
 だがその時、自分なりの答えを得たことで、私は、俳句に惹かれ始めた。

〈文学の遺産〉

 当時、私の出した答えは、こうだった。俳句は、季語ゆえに、十七文字で詩たり得る。
 古来、四季は、日本人に共通して流れてきた。そして季語とは、その廻る季節の中で積み上げられた、永き日本文学の遺産である。
 季語は、単なる言葉ではない。四季において綴られた、数多の文芸の余韻を含み、また、読者にそれを呼び起こすものが、季語である。読み手は季語から、歴史上その語に紡がれた、あらゆる美を想像し得る。よって俳句は、十七文字が十七文字を超えて詩となり、古今を通して訴えることができるのだ。

 例えば、ちょうど今の時刻を示す「春の宵」という季語。
 この語に、我々は、すぐ蘇東坡の一節「春宵一刻値千金 / 花有清香月有陰」を思い起こす。そこから連想して、唱歌『花』の歌詞「げに一刻も千金の眺めをなににたとうべき」を口ずさんだり、歌舞伎『楼門五三桐』の名台詞「絶景かな、絶景かな、春の眺めは値千金とはちいせえ、ちいせえ、(略)まことに春の夕暮れに花の盛りも又ひとしお」が聞こえるような気もする。もちろん、蕪村の「公達に狐化けたり宵の春」、虚子の「目つむれば若き我あり春の宵」など代表的な俳句、また、万葉集の立春の歌「うち靡く春を近みかぬばたまの今宵の月夜霞みたるらむ」から、与謝野晶子の「人かへさず暮れむの春の宵ごこち小琴にもたす亂れ亂れ髪」まで短歌も浮かぶ。さらには、中原中也の『春宵感懐』、岡潔の随筆『春宵十話』、上村松園の美人画『春宵』を思う人もいるだろう。

 つまり「春の宵」は、ただ気候と時刻を限定するだけではない。私達は、この言葉から、過去の様々な芸術の情趣を、重層に感じることができる。「春宵」一語が、季節や景色のみならず、読み手の感傷、そぞろ心まで誘うのだ。
 もしこれが散文で、今を「三月某日の午後七時」と書いたらどうだろう。「春宵」の雰囲気を伝えるには、「寒さが過ぎて花ほころび、陽の西に傾く今は、絶品です。月も朧に翳ってまいりました。ゆっくりと暮れるにはまだ早い頃ですから、ひとときが貴重に感じられます。また、命の芽吹く時期ゆえか、或いは、生暖かい風のせいか、どうも艶めかしく、それでいて憂いを感じる時の中です」とでも記すだろうか。
 が、ここまで筆を尽くしても、「春宵」の持つ伝統の厚みには、とても至るまい。

 季語という、確固たる一語を据えるからこそ、俳句は、残る字数において、それを深めるも、また、少し離れるも可能となる。そうして、五七五は、遥かに世界を拡げてゆくのだ。なんという、豊かな文学であろうか。
 季語の豊饒さにふれたこの時、私は、俳句を知りたい、と願うようになった。

〈季語と季節の言葉〉

 ほどなく私は、歳時記を手にした。当初は、自分で句を詠むつもりはなく、ただ季語への興味で頁を繰っていた。そして、季語が、単に季節を表す言葉とは異なることへ、強く惹かれていった。

 幾つか例を挙げよう。
 まず、大気中に浮遊する水蒸気。ほぼ一年中見られるこれを、季語では、春の「霞」、秋は「霧」と呼び分ける。古今和歌集の「春霞かすみていにし雁がねは今ぞ鳴くなる秋霧の上」を思い出すとわかりやすいが、たしかに「霞」とあれば、万葉びとが大和に詠った「春霞」が浮かび、そして、芭蕉の「春なれや名もなき山の朝がすみ」が続く。また「霧」とあらば、百人一首の「村雨の露もまたひぬ槇のはに霧たちのほるあきのゆふ暮」や、源氏物語の「秋果てて霧のまがきにむすぼほれあるかなきかにうつる朝顔」などの歌がまとう。
 同じ気象現象でも、「霞」「霧」と季語になることで、それぞれの歴史により、異なる趣を醸すのだ。このような奇跡は、古今の芸術の結晶たる、季語にしか起こりえまい。例えば、避暑地から「靄が山荘を白く覆っています」と手紙にしたためても、それは報告だ。気象の言葉は数あれど、季語とは区別されよう。

 また、春と秋の対比といえば、「春愁」「秋思」の季語もある。どちらも、やはり一年中起こる物思い。だが、「春愁」のそこはかとない哀愁と「秋思」の淋しい情懐は、やはり、その文学の道程ゆえに違う。そして、同じもの思いでも、他の季節では、こうした季語の力を引き出すことは敵わない。「冬愁ふ」「夏思ふ」は、ただ現状の説明である。
 そういえば、当時読んでいた本に、「秋愁」という言葉を季語として認めるか、との話題を見かけ、身近な人へ尋ねたことがあった。私と同じく俳句を知らない者達だったが、「語呂も字面も気持ち悪い」などと、まず感覚からして不評であった。「春に愁いがあるなら他の季節にも」という安易な造語は、季語にはない。「秋愁」には、言葉の意味があるだけで、我々が共通して感じ取ることのできる、伝統の厚みを持たないのだ。

〈句作を始めて〉

 さて、歳時記を読み進む内、句作にも関心が湧き始めた。入院中で、外出、会話はもとより、当時は筆記も困難だったため、インターネットを頼り、そして、水煙に出会った。以来、まるで大昔から居るかのような厚かましい顔をして、お世話になっている。

 きっかけが、季語に魅せられ、であったので、私は、できるなら歴史の豊かな季語、一部にせよ自分でその背景を感じられる季語、を使いたいと思い、句作へ向かった。
 憧れももちろんだが、季語の力に頼らなければ、自分が詩を紡ぐなど、無体と考えたからだ。人生も句歴も若輩の私が、歴史の浅い、或いは、字面しか知らない季語を使えば、まるで薄っぺらな十七文字になるだろう。類句は多かろうが、拙句をどなたかにさしあげて、その季語にだけでも、目をお留め頂けるようになれたら、との理想であった。
 当然、始めてみれば、理想通りになど行くわけがない。
 「季語の遺産をどこまで引き出せるかは、作者次第」という予想はしていたものの、実際の私のレベルでは、せっかくの季語を、ただの季節の言葉に変えてしまう。背景のない十七文字など、文章の切れっ端。季語だけでも伝えることができたら、などとはおこがましく、これなら、歳時記の説明文を添えて「こんな季語がありますよ」とお贈りするほうが幾らかましだろう。

 ともあれ、続けなければ何も知り得ない、と一年余り。先生や皆さまのおかげで、僅かながらわかってきたこともある。
 まず、季語を生きたものとするためには、季節を実感として捉えること、そして、それに動いた自分の心を鋭く知ることが、不可欠だ。先生の教示をお借りすれば「季感」、そして「こころをせめる」ことである。
 季語がどんなに貴い遺産を有していようと、それを獲得するには、やはり、自然と人間が対峙する力、また、その感動が欠かせない。言葉を弄るだけで、言葉を超えることが、あるとは思えない。季語よりもまず季感、とはこの意味もあろうかと考える。

 そして、十七文字が詩たるためには、季語はもちろん、全ての言葉に、意味以上の深さが求められる。だが、言葉の奥とは、綴るも読むも、独りよがりの世界となりがちだ。双方が自分の思い込みで、全てを解釈するのでは、表現は成り立たない。
 俳句は、自然を対象とし、季節を感じ、季語を用いることで、作者も読者も同じ土台を得る。この共通認識が存在してこそ、我々は、言葉の奥、すなわち生命の反応を、深く見つめることが許される。
 さらに、それを読み合う場として、句座がある。師のもとで、ともに季節を感じる者達が、互いの言葉の奥を汲み取ってゆく。季語の伝統を継承し、そして、五七五が人に伝わる詩として完成されるには、師系や句会という、座を経る必然があったのだろう。俳句は、伝承し、読み合うことで成立する、関係性の文学といえるかもしれない。

〈俳句と私〉

 俳句を始めて一年が過ぎ、今、私は、句を詠むことを、こう考えている。
 自然の輪廻において、季節が、自分の心へ如何に働きかけるか。それを掴まえることで、言葉に言霊を宿らせる。その作業が、句作ではないかと。

 そしてそれは、純粋に楽しい。
 自然を見ること、季節を感じることは、生き物としての糧であり、それらが自分の心をどう揺さぶるかを知ることは、生命の確認でもある。容易ではないが、こうした喜びのためなれば、それも励みとなる。
 その上に、句座なる場がある。水煙のおかげで、外出も会話もままならない私が、句会の末席に列座できる。私の拙い発見や感動に、共感下さるかたがあり、また、自分では捉えられない季節を見せて頂き、その刺激を共に受けることもできる。座に集うことで、感性の足し算、また掛け算まで成し得る。
 人の言葉の奥、心境を読み取るなど、日常なら、きわまった事態のことであろう。しかし、句会では、それが、互いの生命力を確め合うような、美しい形として繰り広げられるのだ。こんな幸せは、そうはない。

 十代の頃より病を得ている私が、最も体力の衰えていた時期に、季語を知った。演奏も、文筆も、語ることも、それまでの自分にとっての、全ての表現が閉ざされた時、俳句を始め、再び芸術の喜びを得た。
 現在は少しばかり回復し、こうして拙文を書きつけるまでに至っているが、どんなに弱っても、俳句だけは、最期まで残るだろう。そう信じることで、私は、不安を抱かずにいられる。句作も励みだが、俳句という存在そのものが、希望である。
 永い歳月によって培われた、この俳句という詩を、私は今、生きること、表現することの、拠り所としている。大切に守ってゆきたい。そうしていつか、俳句の携える美しき伝統を、たとえ季語一語でも、拙句でお贈りすることができれば、やはり幸甚かと思う。

 

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音楽、そして俳句

2005-12-16 11:35:41 | 散文
◆「音の河」という思想

 音楽美学に「音の河」という思想がある。
 作曲家、武満徹(1930-1996)が、自作について「はじまりもおわりも定かでない、人間とこの世界をつらぬいている河の流れのある部分を、偶然にとりだしたもの」と解説したところから、この言葉が生まれた。
 「音の河」は「日常の無限に生成消滅する音、流れゆく音」を指す。だが、単に日常のノイズを、全て音楽と見做すわけではない。その点で、騒音と楽音を等価に扱う類の、前衛音楽とは異なっている。さらに「音の河」とは「感覚の欺きがちな働きかけから身を翻し、自分の内なる坑道から掘起するもの」であるという。つまりそれは、情感や情緒を越えた先に在る。従って、音楽を内的感情の表出として捉えていた、従来の思想にも反するのだ。

 それでは、「音の河」思想の特性とは、何であろうか。
 私の言葉でいうならば、自然と人間を貫く流れの中から「精神によって捉えられた音」だけを提示する、その作業を「音楽」とする考え方が、「音の河」の思想である。

 事実、武満にとって、作曲とは、世界を貫いている「音の河」に意味づけをし、音達が劇的に出合う環境を創る行為、であったという。
「音楽にかぎらず、ぼくたちの仕事は、精神において触れえた事物を提示することにある。芸術は、創造精神の具体化に他ならない。」
「音楽の本来あるべき姿は、観念的な内部表白だけにとどまるものではなく、自然との深いかかわりによって優美に、時には残酷になされるのだと思う。」
 著作にそうある通り、武満にとっては、精神の捉える音以外、音楽とはならず、また、抽象的な訴えを音に置き換えることも、音楽の創造ではなかった。
 自然と人を貫く「音の河」から、精神に触れえた音を採取し、具体化することにこそ、作曲の意義があったといえよう。


◆「音の河」との出逢い

 私は、音楽高校の授業で、上記の音楽美学に出逢い、強い感銘を受けた。
 ピアノ専攻の私は、当時に主流であった、感情の吐露のためにピアノを弾く、という向きへ違和感を覚えていたからである。例えば「ショパンが恋人に捧げた曲だから、自分も恋人への愛を込めて弾く」と自称するような演奏を、私は嫌っていた。作曲のきっかけは恋愛であっても、それは作品において、既に昇華しているだろう。表現である以上、独り言であってはならないが、しかし感情の伝達のために音楽を利用するなど、プロとして品性に欠ける。十代の潔癖さも手伝って、私はそう主張していた。

 当時は、作家、村上龍がデビューした頃で、私は友人と回し読みした小説の内、次の件りに心を留めたのを、今もよく覚えている。
「ガラスみたいになりたいと思った。そして自分でこのなだらかな白い起伏を映してみたいと思った。僕自身に映った優しい起伏を他の人々にも見せたいと思った。」(『限りなく透明に近いブルー』)
「完璧なメロディというのは作られたもんじゃなくて、切りとられたものなの、宇宙とかそういう流れを、正確にある長さだけ切り取ったものだと思うの」(『音楽の海岸』)
「表現する契機を考える時に、「モニカ」が看視するのは、自意識の働き方に他ならない。観察せよ、それに尽きる。ある事象を、ある人間や動物をよく観察し、声や音に耳を澄ませ。」(『モニカ』)

 私は、音楽家、ましてクラシックの演奏家として勉強する以上、自己顕示を目的にすることには抵抗があった。古典なる名曲を自分に映し、それを誰かに見せることができればいい。作品自体が、もとより自然から切り取られ、映されたものなのだ。自分は、楽譜に記されたその音を、正しく美しく響かせるために、譜面を読み込み鍛錬するだけ。それが、私の音楽に対する姿勢だった。

 もちろん、そこには独自性を問う反論もあろう。感情の表白なしに「自分らしい演奏」はどうなるのだ、と。しかし、幼児期よりの専門教育を知る者は、大方、その答えを体験している。
 我々は、まず「楽譜通り」に弾くことを叩き込まれる。楽曲分析の解釈も、まず師の型をなぞることから始める。いずれ独自に譜面を読む訓練として、その方法を学ぶべく、一通りの先達の型を教わる。
 しかしそれでも、コンクールや音楽教室の試験で知るのだ。同じ課題曲を楽譜通りに、先生の解釈通りに弾いていても、自ずから、その奏者らしさが表れてしまうことを。そしてそれは、教えられた楽譜や解釈を、子どもながら主体的に見詰めることによって、より個々を際立たせる方へ進む。「作曲家は、どうしてここにフォルテを記したのか」「先生は、何故このフレーズを目立たせろと指示したのか」そう考え始めるだけで、どんな小さな子の演奏にも、差異は生まれてくる。そうでなければ、なぜ子ども達の演奏に試験など行えよう。
 作曲家も然り。音楽に独創性という観念のなかった時代にも、バッハはバッハと知れる曲を遺している。音楽へ臨む前提に独自性など、本来、不要ではないだろうか。

 「音楽に必要なのは、自意識よりも観察力だ。」
 そう信条を言い立てていた十代の私が、「音の河」の思想と出逢った。惹かれないわけがない。音楽美学の講義を聞きつつ、自分の目指す音楽はこれだと感じた。
 作曲家は、自然と人間を貫く「音の河」に意味づけをし、楽譜として提示する。演奏家は、それを確かに再現すべく、まず譜を読み込み、さらに、その「音の河」を映すための、最も相応しい響きを求めてゆく。それには、作曲時とは違った「現代」における、人と世界を貫くものを、見定める務めも必要となるだろう。こうして、今の舞台に「音の河」を乗せることが、演奏者の役割なのだ。
 自己顕示欲など、入る余地もない。自己は、結果に表れるかもしれないが、それは前提ではない。
 人と世界を貫くもの、自然との深い関わり、それに身を投じることの方が、どれほど大きいか。私は、自分の歩んでいる音楽の道に、果てしない幸せを確信した。

 「作曲家は音において自由である。耳は自然と巧をあらそふ人智の秘密を聞きとらなくてはならない。聞きとつてこそ、音といふ珠玉は耳から生活の場にころがつて鳴る。けだし生活のよろこびである。」という石川淳の言葉に、心を衝かれたのも、この頃であった。

◆そして、俳句

 音楽高校の講義から十五年、私は、それまで何の縁もなかった俳句を始めた。
 当初は、俳句に興味を持ったことすら不思議であったが、今、こうして、自分の音楽への指針を思い起こすと、俳句に繋がってゆくことが当然の帰結とも思えるような、一致を見ることができる。俳句については初心者ゆえ、語るに覚束ないのだが、先生方の言葉をお借りして、ここに音楽との整合を綴ってみたい。

 作曲の本質が「音の河を切り取ること」であり、演奏家の基礎が「楽譜を正確に再現すること」であるのと同じように、俳句の基本も「自然の写生」であるという。
 「川本臥風先生の言葉に『自然を対象とする限りこれほど深みのある芸術が他にあるだろうか』がある。自然を対象とし、写生を繰り返しておれば、その俳句は、次第に深くなってくる。自然の深みを取り入れるからだ。」(デイリー句会『俳句の勉強⑫』)
 この教えの通り、俳句の作り手は、まず自然を写す。自然は、その深さゆえに、作者個人の心の奥へと沁みる。作者の個は、自然への主体性によって、自ずから俳句に表れてくるのだろう。
 音楽も、自然との深い関わりによってなされる芸術であり、その勉強は、俳句と非常に近い道程を辿ってゆく。

 そして、自然を写生するということは、「ただ心を澄し、感能を鋭くして自然を如実に見る」だけでは済まされない。「大きな、深い人生観が伴った自然感」、つまり「自然を感じる事、自然の意味を読む事」に、俳句の「まこと」があるという(『芭蕉とネットの時代』P.38)。
 音楽と同様、俳句においても「精神において触れえた事物のみを意味づけること」が、創作となるのだろう。
 武満の著書にある、「私たちの生きている世界には沈黙と無限の音がある。私は自分の手でその音を刻んで苦しい一つの音を得たいと思う。それは、沈黙と測りあえるほどに強いものでなければならない。」という一節は、まるで俳人の言葉のようにも感じられる。

 さらに、俳句と「音の河」思想との共通点に「虚と実」がある。
 武満は、作品音楽以外にも、『怪談』『砂の女』『心中天網島』等、百本を超える映画音楽に携わっている。「清らかなものと俗っぽいもの、両方がないと本当でない。映画には、制約があり民衆の欲がある。それに対し舞台へ乗せる作品は、ピュアで混じりけがない。だが本来、健全な姿とは、社会的バランスを有した状態だろう。」それが、彼の映画音楽へ向かう姿勢であった。
 武満徹が、俗なるものにおいても「精神において触れえた音」を厳選していたことは、秋山邦春が『キネマ旬報』に述べており、それを読むと、彼は、映画という、制約や欲のさなかにある、いうなれば作品音楽よりも遙かなる「音の河」に挑んでいたことが、推測される。
 「音の河」は、作品音楽の、純粋なそれだけに限らない。「音の河」には、清らかなるものと俗なるものが併存しており、そこから「精神によって捉えられた音」を掬いとることにおいて、社会と切り離されることはないのである。

 このことを思えば、すぐに『芭蕉とネットの時代』の第一章が浮かぶ。「『俗談平話を正す』ということは、俳句作家にとって、日常との関わりがどうあるべきか、を教えてくれる。(略)俳句を生活や自然の営みと切り離してはならないのであり、そのことによって、俳句という文学は、現代社会において力を得ることであろう」(P.14)
 また、「よい生活を、ということを心がけていただきたい、と願っています。(略)芸術や文化の活動は、やはり作者個人の心の奥へどんどん入ってゆくものなので、それだけに社会とのつながりが希薄になりがちです。」(デイリー句会『俳句の勉強⑦』)にも、通じるだろう。
 俳句も音楽も、健全な社会的バランスを有した状態にあり、その上で「精神に触れえたもの」、即ち「一なる」ところの「ほんとうのこと」を求めて突き進むものと、私は捉える。それは、なんと高く美しい志だろうか。「風雅の誠」を本質とする、俳句と音楽の求道を、たとえ自分には歩めなくとも、私は深く愛している。

 そして、その求道ゆえに、俳句や音楽は、単なる自己顕示や自然賛美に終わらず、「生の確認」や「生きていることを感知するよろこび」(『芭蕉とネットの時代』P.52)を許されるのだ。音楽、そして俳句に出逢えた感謝を、この拙文の結びとしたいと思う。

 詩と音楽の関係は、未だ神秘的である。
 河合隼雄は、谷川俊太郎の次の詩を「武満の音楽にインスパイアされて書いたのかと思う」と著し、引用している。
「みみをすます / きのうの / あまだれに / みみをすます
 みみをすます / きょうへとながれこむ / あしたの / まだきこえない /
 おがわのせせらぎに / みみをすます」
 また、瀧口修造は『未然の構図 ―― 武満徹に』の中で、こう書いている。
「言葉を物に… / 音を物に…
 普段は / 物を言い、物音を聴き / しているのだが」

 音楽だけを学んできた私が、詩と出逢えたことの幸甚を、今、深く感謝している。


かわな ますみ
20 November 2005
コメント (5)
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