杉浦 忠(スギウラ タダシ)表記 杉浦 背番号 21
1935年9月17日生まれ(2001年11月11日没) 愛知県出身
身長 176cm 体重 71kg 血液型 ? 右投げ右打ち 投手
球歴 挙母高校-立教大を経て1958年に南海ホークスに入団
通算成績 選手時代 577試合 187勝106敗 防御率2,39 1756奪三振
監督時代 520試合 223勝271敗26分
選手概要
日本プロ野球史上最強のアンダースロー投手。
当時バッテリーを組んでいた野村監督(現楽天監督、元南海・ロッテ他)に今まで受けてきた投手の中で最高の投手と言われた。
元々大学時代に肩の怪我をするまではオーバースローで怪我をしてからアンダースローに転向、そのためアンダースローでありながら肘の使い方がオーバースローのままであり、それがボールに独特の回転と切れを与え、加えて天性の関節の柔らかさがアンダースローにぴたりとはまり、流れるようなフォームから威力抜群の快速球を生む要因となった。
その球威はアンダースローでありながら速球の球道は全く沈むことが無く、手元でホップしたと言う。
その速球に加え、切れ味鋭く変化の大きいカーブ・シュートも武器とした。
コントロールも抜群で他のアンダースローの投手と同じようにスタミナも抜群だった。
1958年に1年目から27勝12敗、防御率2.05と驚異的な成績で新人王を獲得。
セリーグでは同じ大学出身で同期の長嶋氏(元巨人)が新人王を獲得し、同大学出身の選手が同じ年に違うリーグで新人王を獲得すると言う記録が生まれた。
杉浦氏は勝利数、長嶋氏は本塁打数、どちらが多いかということを勝負し、杉浦氏は27勝、長嶋氏は29本で杉浦氏が敗れた。
1959年に38勝4敗、防御率1.40、336奪三振、9完封、勝率.905と投手主要タイトル全てを総なめにし、史上5人目の投手五冠王(現在では最多完封のタイトルはないので4冠王)を達成。
9月15日から10月20日まで54回3分の2に渡り連続無失点、この54回3分の2イニング連続無失点はパリーグ記録である。(日本記録は金田氏国鉄時代の1958年に挙げた64回3分の1イニング連続無失点。)
南海自体もリーグ優勝を果たし、MVPにも選出される。
日本シリーズでは巨人を相手4連投4連勝(第二戦のみリリーフ登板)の驚異的な活躍を見せる。
この活躍でシリーズMVPを獲得し、故鶴岡氏(当時南海監督、元南海)には「神様、仏様、杉浦様」と呼ばれ、杉浦氏自身も記者に囲まれたとき「一人になって泣きたい」と有名な言葉を残した。
初のベストナインを獲得。
1960年には317奪三振で2年連続の奪三振王を獲得。
1961年に5月6日の西鉄戦での勝利で通産100勝達成。
入団してから3年1ヶ月での通算100勝でありこれは日本球界最速記録で永遠に破られることの無い記録である。
この年は20勝9敗でプロ入り最初の4年間で挙げた116勝、年間平均29勝と驚異的な記録を達成、この記録も永遠に破られることは無い。
1962年以降は1961年に患った右腕の動脈閉塞、連投による血行障害の影響でそれまでのような活躍ができなくなる。
長いイニングが投げれなくなった選手生活の後半は球界初と言われるストッパーに定着し活躍する。
1970年に現役引退。
1971年3月大阪球場での巨人とのオープン戦が引退試合として行われ、親友・長嶋茂雄の打席のところで登板。
長嶋氏は記者の質問に「思い切り振って三振するよ」と答えたが、結果は引退試合の「お約束」である三振ではなく、センター前ヒットであった。
これは長嶋氏の餞であり、友情の象徴とも言われる。
その後は近鉄バファローズで投手コーチを経験した後、1986年に南海ホークスの監督に就任する。
1987年には監督として南海を優勝に導く。
1988年にチームはダイエーに売却され福岡に移転。
南海ホークスとしての地元の大阪球場での最終試合は球場は満員になり、行なわれたセレモニーではスピーチで「長嶋君ではありませんがホークスは不滅です。福岡に行ってまいります」と南海の最後に杉浦氏らしい名言を残した。
初代福岡ダイエーホークスの監督になる。
1989年の福岡ダイエーホークスとしての1年目は4位でまずまずの成績であったがこの年限りで監督を辞任する。
1990年からフロント職に就き、1994年に退職する。
後は九州朝日放送の解説者を務める。
2001年にマスターズリーグの大阪ロマンズのヘッドコーチに就任。
しかし11月11日に遠征先の札幌市内のホテルで急逝、享年66歳。
杉浦氏の功績を称えマスターズリーグの最優秀投手に与えられる賞の名は「杉浦賞」と名づけられた。
1935年9月17日生まれ(2001年11月11日没) 愛知県出身
身長 176cm 体重 71kg 血液型 ? 右投げ右打ち 投手
球歴 挙母高校-立教大を経て1958年に南海ホークスに入団
通算成績 選手時代 577試合 187勝106敗 防御率2,39 1756奪三振
監督時代 520試合 223勝271敗26分
選手概要
日本プロ野球史上最強のアンダースロー投手。
当時バッテリーを組んでいた野村監督(現楽天監督、元南海・ロッテ他)に今まで受けてきた投手の中で最高の投手と言われた。
元々大学時代に肩の怪我をするまではオーバースローで怪我をしてからアンダースローに転向、そのためアンダースローでありながら肘の使い方がオーバースローのままであり、それがボールに独特の回転と切れを与え、加えて天性の関節の柔らかさがアンダースローにぴたりとはまり、流れるようなフォームから威力抜群の快速球を生む要因となった。
その球威はアンダースローでありながら速球の球道は全く沈むことが無く、手元でホップしたと言う。
その速球に加え、切れ味鋭く変化の大きいカーブ・シュートも武器とした。
コントロールも抜群で他のアンダースローの投手と同じようにスタミナも抜群だった。
1958年に1年目から27勝12敗、防御率2.05と驚異的な成績で新人王を獲得。
セリーグでは同じ大学出身で同期の長嶋氏(元巨人)が新人王を獲得し、同大学出身の選手が同じ年に違うリーグで新人王を獲得すると言う記録が生まれた。
杉浦氏は勝利数、長嶋氏は本塁打数、どちらが多いかということを勝負し、杉浦氏は27勝、長嶋氏は29本で杉浦氏が敗れた。
1959年に38勝4敗、防御率1.40、336奪三振、9完封、勝率.905と投手主要タイトル全てを総なめにし、史上5人目の投手五冠王(現在では最多完封のタイトルはないので4冠王)を達成。
9月15日から10月20日まで54回3分の2に渡り連続無失点、この54回3分の2イニング連続無失点はパリーグ記録である。(日本記録は金田氏国鉄時代の1958年に挙げた64回3分の1イニング連続無失点。)
南海自体もリーグ優勝を果たし、MVPにも選出される。
日本シリーズでは巨人を相手4連投4連勝(第二戦のみリリーフ登板)の驚異的な活躍を見せる。
この活躍でシリーズMVPを獲得し、故鶴岡氏(当時南海監督、元南海)には「神様、仏様、杉浦様」と呼ばれ、杉浦氏自身も記者に囲まれたとき「一人になって泣きたい」と有名な言葉を残した。
初のベストナインを獲得。
1960年には317奪三振で2年連続の奪三振王を獲得。
1961年に5月6日の西鉄戦での勝利で通産100勝達成。
入団してから3年1ヶ月での通算100勝でありこれは日本球界最速記録で永遠に破られることの無い記録である。
この年は20勝9敗でプロ入り最初の4年間で挙げた116勝、年間平均29勝と驚異的な記録を達成、この記録も永遠に破られることは無い。
1962年以降は1961年に患った右腕の動脈閉塞、連投による血行障害の影響でそれまでのような活躍ができなくなる。
長いイニングが投げれなくなった選手生活の後半は球界初と言われるストッパーに定着し活躍する。
1970年に現役引退。
1971年3月大阪球場での巨人とのオープン戦が引退試合として行われ、親友・長嶋茂雄の打席のところで登板。
長嶋氏は記者の質問に「思い切り振って三振するよ」と答えたが、結果は引退試合の「お約束」である三振ではなく、センター前ヒットであった。
これは長嶋氏の餞であり、友情の象徴とも言われる。
その後は近鉄バファローズで投手コーチを経験した後、1986年に南海ホークスの監督に就任する。
1987年には監督として南海を優勝に導く。
1988年にチームはダイエーに売却され福岡に移転。
南海ホークスとしての地元の大阪球場での最終試合は球場は満員になり、行なわれたセレモニーではスピーチで「長嶋君ではありませんがホークスは不滅です。福岡に行ってまいります」と南海の最後に杉浦氏らしい名言を残した。
初代福岡ダイエーホークスの監督になる。
1989年の福岡ダイエーホークスとしての1年目は4位でまずまずの成績であったがこの年限りで監督を辞任する。
1990年からフロント職に就き、1994年に退職する。
後は九州朝日放送の解説者を務める。
2001年にマスターズリーグの大阪ロマンズのヘッドコーチに就任。
しかし11月11日に遠征先の札幌市内のホテルで急逝、享年66歳。
杉浦氏の功績を称えマスターズリーグの最優秀投手に与えられる賞の名は「杉浦賞」と名づけられた。
僕も戦後くらいの時期の投手だと杉浦氏が一番好きです。
病気さえ患わなければ確実に300勝は達成されてたでしょうね。
実は父が野球少年だった頃、杉浦投手の大ファンだったそうで、
草野球でピッチャーをやるときは彼の影響でアンダースローだったそうです。
その影響があるかどうかはわかりませんが、僕が一番好きな昭和の投手は杉浦投手なのです(山田久志投手も大好きですが)。
テレビなどで見る彼のフォームは大好きでした。
2001年、台湾で行われていた野球W杯の中継の最中に
杉浦さんの訃報を聞いたときは本当ショックだったのを覚えています。