今中 慎二(イマナカ シンジ) 表記 今中 背番号 14
1971年3月6日生まれ 大阪府出身
身長 182cm 体重 73㎏ 血液型 A 左投げ左打ち 投手
球歴 大阪桐蔭高校を経て1989年ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団
通算成績 233試合登板 91勝65敗5セーブ 防御率3,15 1129奪三振
タイトル・表彰・記録
最多勝 1回
最多奪三振 1回
沢村賞 1回
ベストナイン 1回
ゴールデングラブ賞 1回
オールスター出場 4回
選手概要
1990年代最高のサウスポー投手。
日本球史上1、2位を争うスローカーブの使い手。
そのスローカーブは変化はとてつもなく大きく、球速も80㎞/h台と遅かった。
ストレートは140㎞/h台後半で当時中日の監督だった星野氏にカミソリと言わせた位の切れ味だった。
ストレートもスローカーブもリリースが全く同じだったためストレートとスローカーブでの緩急を使った投球術を駆使し、対戦する打者はストレートの後のスローカーブで体制を崩しながら空振りをした。
細身の体ではあるがスタミナは抜群でコントロールも良かった。
元々右利きではあるが幼い頃に近所のおばちゃんに貰ったグローブが左利き用だったためそれを使って練習をして左投げになったという。
天才と呼ばれる一方怪我も多く、ガラスのエースと呼ばれた全盛期が短かったことが惜しまれる。
1990年に2年目でありながら10勝をマーク。
1991年にはシーズン最終日の広島ろのダブルヘッダーまで最優秀防御率争いを佐々岡投手(広島)と繰り広げ2試合連続で登板し1戦目は1失点で完投勝利。
この時点で今中氏は防御率2.48で佐々岡投手は2.55で今中氏が2試合目を4回無失点で切り抜ければ最優秀防御率のタイトルを獲得できたが1回に野村氏(元広島)にタイムリーを浴び初回で夢は断たれた。
1993年は大活躍をし、チームメイトの山本昌投手(中日)と野村氏(元大洋)と共に17勝で初の最多勝、1990年台では最多の247奪三振で初の最多奪三振、さらに初の沢村賞・ベストナイン・ゴールデングラブ賞を受賞。
7月6日のヤクルト戦では1試合16奪三振のセリーグ記録を樹立と1993年は今中氏の年だったと言っても過言ではない。
1994年には伝説の10.8で先発投手を務めたが4回5失点で敗戦投手となってしまう。
1996年のシーズン途中に肩を痛め以降は不振に陥る。
1999年に左肩を手術する。
2001年に久々にマウンドに上がったが以前の球威は戻らずこの年限りで30歳の若さで引退。
2002年から星野氏のツテでNHKの野球解説者になり、野球評論家も務める。
1971年3月6日生まれ 大阪府出身
身長 182cm 体重 73㎏ 血液型 A 左投げ左打ち 投手
球歴 大阪桐蔭高校を経て1989年ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団
通算成績 233試合登板 91勝65敗5セーブ 防御率3,15 1129奪三振
タイトル・表彰・記録
最多勝 1回
最多奪三振 1回
沢村賞 1回
ベストナイン 1回
ゴールデングラブ賞 1回
オールスター出場 4回
選手概要
1990年代最高のサウスポー投手。
日本球史上1、2位を争うスローカーブの使い手。
そのスローカーブは変化はとてつもなく大きく、球速も80㎞/h台と遅かった。
ストレートは140㎞/h台後半で当時中日の監督だった星野氏にカミソリと言わせた位の切れ味だった。
ストレートもスローカーブもリリースが全く同じだったためストレートとスローカーブでの緩急を使った投球術を駆使し、対戦する打者はストレートの後のスローカーブで体制を崩しながら空振りをした。
細身の体ではあるがスタミナは抜群でコントロールも良かった。
元々右利きではあるが幼い頃に近所のおばちゃんに貰ったグローブが左利き用だったためそれを使って練習をして左投げになったという。
天才と呼ばれる一方怪我も多く、ガラスのエースと呼ばれた全盛期が短かったことが惜しまれる。
1990年に2年目でありながら10勝をマーク。
1991年にはシーズン最終日の広島ろのダブルヘッダーまで最優秀防御率争いを佐々岡投手(広島)と繰り広げ2試合連続で登板し1戦目は1失点で完投勝利。
この時点で今中氏は防御率2.48で佐々岡投手は2.55で今中氏が2試合目を4回無失点で切り抜ければ最優秀防御率のタイトルを獲得できたが1回に野村氏(元広島)にタイムリーを浴び初回で夢は断たれた。
1993年は大活躍をし、チームメイトの山本昌投手(中日)と野村氏(元大洋)と共に17勝で初の最多勝、1990年台では最多の247奪三振で初の最多奪三振、さらに初の沢村賞・ベストナイン・ゴールデングラブ賞を受賞。
7月6日のヤクルト戦では1試合16奪三振のセリーグ記録を樹立と1993年は今中氏の年だったと言っても過言ではない。
1994年には伝説の10.8で先発投手を務めたが4回5失点で敗戦投手となってしまう。
1996年のシーズン途中に肩を痛め以降は不振に陥る。
1999年に左肩を手術する。
2001年に久々にマウンドに上がったが以前の球威は戻らずこの年限りで30歳の若さで引退。
2002年から星野氏のツテでNHKの野球解説者になり、野球評論家も務める。