DEEP DIVER

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球人コラム 15回 落合博満編

2006-04-07 10:36:57 | 球人コラム
落合 博満(オチアイ ヒロミツ) 表記 落合 背番号 6→60→3
1953年12月9日生まれ 秋田県出身
身長 178cm 体重 80kg 血液型 O 右投げ右打ち 三塁手・一塁手・二塁手
球歴 秋田工高-東洋大学(中退)-東芝府中を経て1979年、ドラフト3位でロッテオリオンズに入団。

通算成績 7627打数 2371安打 打率.311 本塁打510 打点1564

タイトル・表彰・記録

三冠王 3回    
首位打者 5回    
本塁打王 5回    
打点王 5回     
最多勝利打点 3回      
最高出塁率 7回     
シーズンMVP 2回     
ベストナイン 10回     
オールスター出場 15回
     

選手概要
メジャーも含めて史上唯一の三冠王3回を達成した大打者。

独特の神主打法アッパースイング、驚異的なバットコントロール、非常に柔らかいリストを使ったボールを弾き返す打ち方で広角に打ち分けた。

その驚異的なバットコントロールで取材に来たカメラに打撃練習の打球を狙って当てたり、死球を当てられた仕返しとして強烈なピッチャー返しを意図的に狙って投手に当てたこともある。
現在ではそのバットコントロールとロッテ時代に河野氏(元阪急・中日他)のノックを受けて守備技術を学んだ経験を生かして荒木選手・井端選手を相手に12球団1といわれる地獄ノックをやっている。

驚異的な広角打者で通産本塁打510本中176本がライトと本塁打の3分の1はライトに運んでいる。

本塁打は狙って打てたようで通産安打の500本・1000本・1500本・2000本を全て本塁打にしている。

投手の球種を読むことにも長けていた。

周囲の言動に左右されず、自分の持つ野球の技術を伸ばし磨くのに最も良いと思った方法を貫く姿勢は「オレ流」と呼ばれ、生意気だと批判される一方、人気も博した。
しかしロッテ時代に面倒を見てもらった稲尾氏(元西鉄)を氏と仰ぎ、唯一従う。
これは現役時代に部屋内練習場で長時間にわたるバッティング練習を終えたところ、落合氏の指が感覚を失い、バットから離れなくなってしまう事態が起こった、その時物陰から落合氏を見守っていた稲尾氏が姿を現し、指をゆっくりとバットから離してもらったことがきっかけとなっている。

現役時代は一匹狼のように思われがちだがチームメイトには優しく、面倒見が良かったため清原選手(オリックス)や小笠原選手(ファイターズ)、矢野選手(阪神)等信奉者は数多く、仲の悪いと言われた星野氏(元中日)も「大変優しい選手だ」とコメントしている。

個人プレーに徹していたと思われがちだが実際はチーム第一に考え、状況に応じてヒット、ホームランを狙い分け、試合に勝つためにノーサインで送りバントを成功させたこともある。
元祖珍プレーの宇野氏(元中日)も「落合さんが中日に来て初めてチームバッティングとはどういうものかを教わった」と発言している。

現役時代は全てを野球に捧げており、息子の福嗣が深夜に庭で父が素振りをする音で目が覚めた、遠征先のホテルでチームメイトが部屋を訪ねると裸でバットを持ったまま出てきたなど、数多の練習エピソードがある。

監督としては滅多に選手個人を責める事は無くマスコミにはそのようなコメントはほとんどしない。
しかし負けこんでくると貝になってしまうこともあり、徹底した秘密主義もあいまってあまり記者たちには人気がない。

しかし記者が野球を理解できる人と判断したならばその記者に限り饒舌になる。

妻には有名な9歳上の信子婦人がおり愛妻家(恐妻家)として知られる。
信子婦人は落合氏が巨人に移籍して四球が多くなったことに対して落合氏が弱音を言っていた時に「死ぬならグランドで死ね」や落合氏が中日から監督のオファーが来た時に悩んでいる様子を見て「このグズ」等の発言をしている。

高校時代は上下関係、精神主義を嫌って頻繁に野球部を退部、大会前に入部。合計で入部8回退部7回をしたが野球は好きだったので一度も退部届けは出していない。

大学には入ったものの野球部の不可解な上下関係の厳しさに反発して大学を中退。
ボウリング場でバイトをしながらプロボウラーを目指すもプロテストの直前、運悪く初心者マークの付け忘れで警察に捕まり、プロテスト用に蓄えてあった貯金を罰金として取られる。

その後東芝府中に入社し2年ぶりに野球を再開。
25歳の1979年にロッテオリオンズへ入団する。

入団直後は当時の監督でレベルスイングの本尊といえる人物の山内氏からアッパースイングである落合氏は「使えない」と言われ、前監督の金田氏(元国鉄・巨人)からも面と向かって酷評されキャンプを見に来ていた評論家からも酷評されたが自分の信念を貫きアッパースイングを変えなかった。
ちなみに落合氏が名球界に入ってない理由の1つにこのときに酷評した人物である金田氏が中心であることともう1つは「その記録に達しなくても優れた選手が多くいるのに、長くやっていればできる記録が判定基準になっているから」という基準の不公平さに異論を唱えるとともに、名球会入りできなかった大選手に配慮してということです。

入団3年目の1981年に初のタイトルとなる首位打者を獲得。
オールスターにも出場し、二塁手としてベストナインを獲得。

翌年1982年に史上最年少記録となる28歳で三冠王を達成。
初の最高出塁率を獲得し、この年も二塁手としてベストナインを獲得と共にシーズンMVPを獲得。

1983年も3年連続で首位打者を獲得し、初の最多勝利打点(現在は無い)も獲得。
一塁手としてベストナイン獲得。

1984年はブーマー氏(元阪急・ダイエー)が三冠王となり無冠に終わる。
三塁手としてベストナイン獲得。


1985年に1983年の三冠王の内容(打率.325、32本塁打、99打点)はレベルが低すぎるとの評価を受けたことと前年にブーマー氏にタイトルを独占されたことに奮起して全部門で2位に大差を付けて文句の付けようのない打率.367、52本塁打、146打点を記録して2度目の三冠王を達成する。
最高出塁率・最多勝利打点も獲得し、2度目のシーズンMVPにも選ばれ三塁手としてベストナイン獲得。

1986年にも打率.360、50本塁打、116打点で2年連続三冠王を達成。
これで王氏(現ソフトバンク監督、元巨人)の持つ三冠王2回の記録を抜き、メジャーにも皆無の通産3回の三冠王を達成。
最高出塁率と三塁手としてベストナイン獲得。
同オフに高騰し続ける年俸と観客動員数がネックとなり中日の牛島氏・上川氏・平沼氏・桑田氏と1対4のトレードで中日に移籍する。
プロ野球史上初となる一億円プレイヤーになる。(その後初の二億円・三億円・四億円プレイヤーにもなる。)

1987年は移籍1年目と初のセリーグということで無冠に終わる。

1988年の対巨人戦で9回裏1死まで斉藤氏(元巨人)にノーヒットノーランピッチングをされるもそこから音氏(元中日・広島)がチーム初安打で出塁、四球とヒットで1点を返し1対3となり2死ながらもランナーが二人いる状況で落合氏に打順が。
ここで見事に逆転サヨナラスリーランホームランを打ち、あわやノーヒットノーランの試合をサヨナラ本塁打での勝ち試合にした。
この年中日はリーグ優勝を果たす。
移籍後初のタイトルとなる最多勝利打点・最高出塁率・一塁手としてベストナインを獲得。

1989年に自身初のサヨナラヒットを記録。
打点王・最高出塁率・三塁手としてベストナイン獲得。

1990年に本塁打王・打点王の二冠に輝く。
最高出塁率・一塁手としてベストナイン獲得。

1991年に古田選手兼監督と激しい首位打者争いを繰り広げるも僅差で敗れてしまい、両リーグで首位打者獲得は達成できなかった。(達成しているのは元中日・ロッテ他の江藤氏のみ)
首位打者は逃したものの本塁打王・最高出塁率・一塁手としてベストナイン獲得。

1992年・1993年はタイトルは獲得できなかったが1993年にFA権を獲得。
落合氏は「一番お金を出してくれたチームに行く」と公言していて一番金額の高かった巨人に入団。

1994年、落合氏はチームを優勝させれなかったら引退すると公言していてあの伝説の10.8で2回に今中氏(元中日)から先制のツーランホームラン、同点に追いつかれた3回には決勝点となる勝ち越しタイムリーを放つ。
3回裏の守備で足を痛めてベンチに退くが、巨人は槙原氏(元巨人)・斎藤氏・桑田投手(巨人)のリレーで6-3で勝ち、落合氏は公約通り優勝に導いた。

1995年・1996年もタイトルは無し。
1996年に清原選手が西武からFA権を行使して巨人入りに伴い、プレーの場を求めて自由契約を申し出てファイターズに入団する。

1998年のオフに自由契約を言い渡されてそのまま引退する。

引退後は2001年まで朝日放送で解説者、その後はフリーとなっていた。

2004年、中日ドラゴンズの監督に就任。
「この1年は補強を凍結し、個々の選手の能力を10%底上げして日本一をとる」と公約し、川崎氏(元ヤクルト・中日)を開幕投手に指名しチームの結束を深める、森選手(中日)をシーズン途中にスイッチヒッターに転向させる等数々の「オレ流采配」と結果として選手が大活躍するような「オレ流野球」が炸裂し監督就任1年目でリーグ優勝を果たす。
日本シリーズでは伊東氏(西武監督、元西武)との監督就任一年目でリーグ優勝を果たした監督対決となったが日本一に王手をかけたものの3勝4敗で敗れてしまう。

2005年は凍結を解除し、T.ウッズ選手の獲得、関川選手(楽天)や小山投手(楽天)ら4人を新規参入の楽天に無償トレードする等の大量リストラを行なった。
T.ウッズ選手の乱闘による10試合の出場停止処分、パリーグアレルギーによる交流戦での大きな負け越しがあって終盤阪神に追いついたものの2年連続リーグ優勝を逃す。









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