カトリック教会の問題

公会議後の教会の路線は本当に正しいのでしょうか?第二バチカン公会議後の教会の諸問題について、資料を集めてみたいと思います

万人司祭主義の影響の下に

2017-06-20 16:22:25 | 公開書簡
 全ての宗教において、宗教の指導者はそれとわかる区別の印を身につけています。人が重要視している人類学もそのことを証明しています。[司祭階級の存在しないはずの]イスラム教徒でさえも、別の服や、襟首の違い、指輪などで指導者を区別しています。仏教徒も黄色の長い服を着たり、頭を特別に剃っています。パリやそのほかの大都市には、仏教を信じてしまった青年たちがいますが、特別の服装をしていたからといって何の非難も起こりません。

 スータンというのは、軍服や、平和部隊の制服と同じように、制服として聖職者、修道士、修道女という身分を保障するものです。もちろん、軍人と修道者では違いがあります。軍人は平服に戻ればその他の人と同じ市民になります。しかし、司祭は社会生活のいかなる場合においても区別の印であるスータンを必ず身につけていなければならない、という違いです。

 実に、司祭が叙階式の時に受けた聖なる刻印は、司祭をして、世の中にありつつも、世のものではないものとして生きさせるのです。このことは聖ヨハネの福音に書いてあります。「あなた達はこの世のものではない。私があなた達を選んでこの世から取り去った。」(15章19節)

 司祭の服は区別の印となり、それと同時に、質素、慎み、清貧の精神で選ばれなければなりません。

 スータンを着る第2の理由は、私たちの主の証をする義務が司祭にはあるからです。「あなた達は私の証人となれ」「灯火は升の下に置くものではない」と主は言われました。

 宗教とは、東欧諸国の指導者たちがもう長きにわたって発布してきたのと同じように、香部屋に隔離するものではありません。キリストは私たちの信仰を外に表すことを命令されました。主は、皆が見、皆が聞くことのできる証明によって、信仰を目に見えるもののすることを命じられました。確かに司祭にとって、服装による証明よりも言葉による証明の方がより本質的なものでしょう。しかし、この言葉の証は、司祭職の明らかな顕示によって非常に容易になるのです。そしてこの司祭職を明らかに示すものがスータンなのです。

 教会と国家との分離は、受け入れられてしまい、時には、最高の状態であると考えられ、教会と国家との分離のために、日常生活の全ての分野に無神論が少しずつ浸透してしまいました。そして多くのカトリック信者は、司祭までも、カトリック宗教の正確な場所が市民社会においてどこにあるのかもはや分からなくなってしまっています。世俗主義が全てを侵略してしまいました。

 この種の社会に生きる司祭は、この社会に自分はよそ者であるということをますます印象づけられ、次に、邪魔者であるように感じ、過ぎ去った過去の証人であり、消え失せなければならないものだと思うようになるのです。司祭の現存は黙認されるにすぎず、少なくとも彼はそう考えています。だからこそ彼はこの世俗化した世界に身を寄せようと願うのです。大衆の中に混じり込もうとするのです。この種の司祭は、私たちの社会よりもまだあまり非キリスト教化していない国々を旅行したことがないのです。彼には特に自分の受けた司祭職に対する深い信仰が欠けています。


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