カトリック教会の問題

公会議後の教会の路線は本当に正しいのでしょうか?第二バチカン公会議後の教会の諸問題について、資料を集めてみたいと思います

スータンの禁止の弊害

2017-06-20 16:25:09 | 公開書簡
 さらに、スータンをなくそうと言うことは、まだ存在している宗教感情を誤って判断することです。私たちが事業において、あるいは偶然に、出会う人々が皆宗教とは関係なく生きているなどと思うことは全く根拠がないのです。エコンを卒業した若い司祭は、また匿名の思潮に身をゆだねなかった人は全て、そのことを毎日経験します。現実はその全く反対です。道路で、駅で、人々は、若いエコンの司祭を呼び止め、彼らに話しかけるのです。しばしばそれは、ただ、この人たちが司祭にあってうれしいという喜びを伝えたくて、彼らを呼び止めるのです。

 新しい教会では対話を強く勧めています。では、もし私たち司祭が、対話の相手となる人々の目から隠れようとしていて、どうして対話を始めることができるでしょうか。

 共産主義独裁において最初に指導者たちが配慮したことはスータンを禁止することでした。なぜかというと、スータンを禁止することは、宗教を窒息死させるために考えられた手段の一部だからです。その反対もまた真なりと考えなければなりません。外見の身なりによって、自分の身分をそのまま表す司祭は、生きる説教そのものなのです。大都市においてそれと見分けのつく司祭がいないことは福音宣教のきわめて大きな後退であるのです。

 まさにスータンを着ないと言うことは、革命の有害な事業の続きであり、教会と国家の分離という悪法の続きなのです。

 さらに、スータンは司祭を悪から保護してくれるということを、スータンが司祭にふさわしい態度を取らせ、司祭にいつでも自分の地上における使命を自覚させ、誘惑から守ってくれるをいうことを付け加えましょう。

 スータンをいつもきている司祭は自覚を失うということがありません。信者は信者で、自分が誰のところに行けばよいか知っています。なぜかというとスータンは司祭が正真正銘の司祭であると保証してくれるからです。カトリック信者たちは私に、告解の時に、背広を着ている司祭に告白すると、自分の良心の秘密を普通の人に打ち明けているようで非常に嫌であるといいます。告解とは司法行為です。ところで世俗の裁判でさえ、裁判官が特別の裁判官の服を着なければならないというのがなぜかを考えていてください。


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