カトリック教会の問題

公会議後の教会の路線は本当に正しいのでしょうか?第二バチカン公会議後の教会の諸問題について、資料を集めてみたいと思います

民主主義と「シオン」

2017-06-02 16:09:17 | エキュメニズム
民主主義と「シオン」

 『最高のシヨン』のシヨニストたちは社会問題だけに取り組んでいるのでしょうか。いいえ、違います。聖ピオ10世はこう言います。

「この問題に関して、カトリックの教義上の原理は定められている。そしてキリスト教文明の歴史はその福祉的な繁栄性を証明している。」

 教皇レオ13世は「そのすばらしいページの中で社会問題を取り扱うカトリック者が研究し、常に目前に置かねばならない原理を記憶に呼び起こさせてくれた。彼は、特に『階級がよく構成づけられた国(Civitas)の確実な特性であるので』キリスト教民主主義が『階級のさまざまな違いを維持し』なければならないこと、『人間的社会のために、人間的社会の作者である天主が人間的社会に息吹いた形と特徴を望まねばならないこと』(Graves de commni)を教えた。また彼は、『社会の中で人民にその主権を帰属させ、諸階級の廃止と均等化を追求するまでに退廃したある種の民主主義』を非難した」のです。

 ところが、シヨニストは「レオ13世が思い起こさせた社会の基本的原理についての教えを排除し、権威を人民におき、あるいは権威を少しずつ廃止し、実現すべき理想として諸階級の均等化を支持している。彼らはカトリックの教えとは反対を行き、排斥された理想へと向かっている」のです。

 彼らは、「自然で伝統的な土台を変え、別の原理のうえに立てられた将来の国を約束して、彼らは、それが現代のキリスト教的国がそのうえに乗っている原理より繁栄をもたらし、より福祉的であるとあえて宣言している」のです。

 「各人がそれぞれ教師かつ立法者と思い込んでいるこの社会的知的無政府状態の時において、天主が社会をお建てになったのとは別のようには社会を建設することができないことを力強く思い出させる」必要がある、と聖ピオ10世は言います。さらには、

「もし教会が社会の土台を敷き、その仕事を指導しないなら人は社会を建設し得ないだろう。否。文明とはもはや発明するものではない。新しい国も雲の上に建てるものでもない。文明はかつてあり今でもある。それはキリスト教文明であり、それはカトリックの国である。それを、邪悪なユートピアや、反乱、不敬虔の常に新たに生まれる攻撃に逆らい、自然的かつ天主的な基礎のうえに常に作り上げ復興させねばならないだけである」と続けています。

 シヨンはまず第1に政治的権威を人民におき、この権威は人民から派生し統治者に行くと言います。しかし同時に、たとえ権威が統治者に行ったとしても、権威は人民にあり続けると言います。

 しかしこの考えをレオ13世は回勅 Diututnum Illud の中ではっきりと厳しく排斥しています。

 レオ13世はこう言います。「多くの近代人たちは前世紀『哲学者』と自称した人々のわだちを歩きつつ、すべての権能は人民からくると、そしてその結果、社会の中で権力を行使する人々は自分固有のものとしてそれを行使せず、人民によって委託されたものの権威として、その権威を保持している人民の意志によってこの権威が取り上げられ得るという条件の元にあると、宣言する。これはカトリックの考えとは全く反対である。カトリック者は命令する権利を、自然的かつ必要なその原理として天主から由来させる。」

 「きっとシヨンは、自分たちがまず人民におくその権威を天主から天下らせたかもしれない。しかしそれはこの権威が下から上に行くようにまず人民に行っている。しかし、教会の組織においては権力は上から下に行くために天下るのである。」

 そうです、委託というのは上から下へと行くのが正常であって、下から上に行くというのは異常なのです。

 レオ13世は既に前以て、カトリックの教えを『哲学主義philosophism』の誤謬と和解させようという試みを排斥します。

「ここでこのことに注意するのは大切である。国家の統治の座に座る者は、何らかの場合には、群衆の意志と判断によって選ばれ得る。それはカトリックの教義に逆らいも反対もしない。しかしこの選択が統治者を指名したら、人民は統治の権威を彼に委ねるわけでもなく、権力を委託するのでもない。人民は権威を身に帯びるべき人を指名するのである。」 つまり、天主が授けてくださる権威をこの人に授けてほしいと指名するのです。

「もし人民が権力を保持しているとしたら、権威はどうなるだろうか。」聖ピオ10世はこの問を発しています。

「そうなったら、固有の意味での法も、従順もない。シヨンはそれを認めている。なぜならシヨンは人間の尊厳の名によって、政治的・経済的・知的な3重の解放を求めているからだ。シヨンがそのために働いている将来の国には、主人も召し使いもいないだろう。そこでは市民はすべて自由であり、すべては友人であり、すべては王であるだろう。…命令あるいは法律は自由を妨害するものであり、いかなる目上への従属は人間の減少であり、従順は堕落であろう。尊敬する兄弟たちよ、教会の伝統的な教えがわたしたちに提示する最も完全な国の中における社会関係はそのようなものであろうか。独立し、かつ自然本性的に不平等な被造物達の社会は、すべて彼らの活動を共通の善へと指導するある権威が、そしてその法律を押し付ける権威が必要ではないだろうか。そして、もし社会内に、いつもいくらか存在するのであるが、退廃した者共がいるとすると、これらの悪人共の利己主義が(他の人々を)脅かすのであればあるほど、権威はそれだけ強くなければならないのではなかろうか。」

 聖ピオ10世は、これと反対を支持することは、「自由というものの観念を全く取り違えていること」だと言います。


(シヨン運動について:5)


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