文庫 麦わら帽子

自作小説文庫

緑の指と 魔女の糸 『閻魔様の涙』

2016-08-23 | 詩歌
緑の指と 魔女の糸 『閻魔様の涙』 



今日も、凛が、夏ちゃんと一緒に帰ってきた。

夏ちゃんのお母さんが、仕事で7時までかかるから預かって欲しいというので、

快く、承諾。

二人は、帰るなりヒソヒソと内緒話した後、

「母さん…」と、一冊の絵本を見せてきた。

「借りてきた、凄い怖い本なんだけど…」

なんと。地獄の絵本だ。

「ここに描いてあるのは、本当の事ですか?」

恐怖に怯える、実にいい顔だ。

「閻魔王は、本当にいますよ」

絵本を受け取りながら云うと、ふたりの恐怖心はヒートアップ。

「では、地獄は、存在するんですね」

夏ちゃんが、真っ青な顔をしていて、面白くてしかたなかった。

「無意味に、生き物の命を奪うなどをした者が落とされる地獄、等活地獄。

一番浅い階層の地獄です。

ここに落とされた者は互いに武器で殺し合い、

また殺し合わない者も鬼によって体を引き裂かれます」

夏ちゃんが後を続けた。

「黒縄地獄…殺人や盗みを犯した者が落とされる。

墨縄という木材に線を付ける道具で体に幾重もの線を付けられ、

その線に沿ってのこぎりで切られる、という罰を受けます…」

「嘘をついたら、舌を抜かれます。…私は、もう、嘘をついてます」

凜が、真っ青になって云った。

へええ、凛が、嘘を? でも、それって、優しい嘘、じゃないの?

私は、とりあえず、ふたりにかばんを降ろさせて、落ち着かせた。

パンケーキを焼いてやる。それと、甘い、ミルクティー。

涙ぐんでいる二人を、愛しく想う。

「私、閻魔様に出会ったことあるの。聞く?」

ふたりは、顔を見合わせて私を凝視した。

「本当?」

「閻魔様は、人として初めて死を体験し、死後の世界を最初に見たひと。

私は、4才の時に、彼に会ったわ」



そう、あれは、

高尾山で、初めて滝行したとき。

真冬で、水は、身を切るように冷たくて。

本当に、刃物で背中を裂かれるように痛かった。

耐えていられる時間は少なく、あっという間に目の前が、真っ白になった。

私はその場で意識を失い、

三日間、意識を失っていたのだ。

閻魔様に出会ったのは、その時だった。





閻魔様は、想像とは全く違った。

とても、美しく、

優しい方だった。

鳳凰が浮き彫りにされた、赤に染められた衣を、綺麗に着こなされ、

漆黒の髪がお似合いだった。彼は、馥郁たる白檀の香りを纏い、

きれいに整理された長机に着いていた。

優しい面差しで、私をみていた。そして、その声は、人を恍惚とさせる。

私は、たちまち、その方の声に、酔ってしまった。

「骨の髄まで冷え切っているが、おまえは、まだ生きる」

あの時の私は、厳しい修行に嫌気がさして、

「嫌です」

と、駄々をこねた。

「こんな苦しい修行は、我慢できません。私をこのまま、極楽へ送って下さい」

閻魔様の声は、透き通る、極上の音楽。

「おまえは、まだ、犯した罪もなく、得もない。

その時ではない。少しここで休んで、…生きるのだ」

生前の罪を浮かしぼりにする浄玻璃の鏡には、なにも映ってなかった。

「修行は厳しいものだ。しかし、おまえには、

業がある。完成させなきゃならない、業が。耐えて、生きよ」

私は、絶望感で脱力し、その場に崩れ落ちた。

閻魔様はゆっくり立ち上がり、

着物の袂を鳴らしながら、傍にきた。

私を抱き寄せるその手は、とても、

とても、暖かかった。

「しばし休んで、この場で何が起こるのか、学びなさい」

閻魔様は多忙で、次々現れる亡者を、裁いた。

私は、三日間、彼の膝の上で、裁きを見届けた。

貧しくとも、美しく生き抜いた人。

己の欲で、人を殺め、死罪になった者まで。

浄玻璃の鏡の前では、誰もが嘘をつけなかった。

全ての罪人が、罪を悔やみ、自分の身の上を嘆いた。

「地獄は、嫌だ! 嫌です、閻魔様!!」

怜悧無情な声が、罪人を悟らせ、地獄へと、堕とす。

無明世界で、存分に楽しんだのだろう?

ただ、幻の中を、おまえは、好き勝手にやっただけ。

どうだった? 愚かな、その世で溺れた、愚者よ

鬼が、罪人を、地獄へと運んだ。

閻魔帳と呼ばれる帳簿に、黙々と判を押しながら、

閻魔様の手は、震えていた。

振り返ると、彼は、泣いていたのだ。

ゆるい刑でも、釈放まで9125年 。

閻魔様は、地獄で、死者を裁く裁判官の10人(十王)のお一人。

とてつもなく美しく、

優しいお方だった。

その方の涙を、私は、この頬に受けたのだった。

「何故、泣くのです?」

「あのような過酷な場所に人を送ることは、辛いのですよ」

「地獄、にですか」

「人が想像して作り上げた地獄はありません」

閻魔様は、少しお疲れのようだった。

「あれは、人の妄想。実際にある、地獄と云われるものは、あんなものではありません」

もっと、残虐で、恐ろしく、惨い場所です。

私は、その言葉にゾッとなった。

「とても、正気を保って送れるような場所ではありません。

私にも、耐えられない夜が、あるのですよ」

「意外です…」

閻魔様が心痛に悩まされること。

自分が知っている地獄とういう場所が、はるかに恐ろしい場所であったこと。

「人の子よ」

閻魔様は、そっと私を抱いてくれた。

「おまえにも、春が来る。花を咲かせる春が」

「信じられません。きっと、私は、厳しい修行の途中で、のたれ死ぬのです」

「そんなことはないよ」

閻魔様が、ふっと笑った。白檀の香りが、僅かに強く通った。

「花を咲かせなさい。私は、ここから、おまえを見ているよ」

そして、続けた。「辛い事があっても、罪を犯さぬように。間違いを犯すようなら、

その場から、お逃げ。…決して、罪を、犯さぬように」



それから、私は、人間世界で眼を覚ました。

暖かな布団。暖かな風。澄んだ流水音。

でも、閻魔様がいないことが辛くて、私は泣いた。

それに気づいた、山伏が、「重湯を拵えよう」と立ち上がった。

美しくも、残酷な優しい世界。

存在するのだ。

私は、知ってしまった。

閻魔様の、強さと弱さを。




閻魔様、蠟梅の咲くこの季節に

貴方は、確かな、春を届けてくれた。

この花の美しさを、私は、知ってしまった。

生きねば、ならぬ。

生きねば…

『生きる』ことに、皆が辛労するのですね。

私だけに、限ることではなく…。




ふたりは、しばらくポカンとしていたが、

私は、想う。

生きることに、甘美な罠が張りめぐらされた、この世に、

服従されてみるがいい、と。


私は、いつものように、紅茶を淹れる。



覚醒するまで、ひとは、愚かに繰り返す。

この、私もまた同じ。

美しい波動を放つものに、ただ酔いしれ、

一時、浮世の裏側を、

忘れるのだ。








緑の指と 魔女の糸 『閻魔様の涙』  完 

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