文庫 麦わら帽子

自作小説文庫

秘密の花園 第5話 魔女のほうき 1

2011-12-30 | 小説 花園全集
第5章  魔女のほうき



わたしを叱って。
貴方の眼を見せて。
貴方の声で、叱って。
『心の闇』など、恐れるなと…。





     「あの生け垣は不便だね」
      ある日、リーレイが突然云いだした。
ふたりでクッキーを作っていたときだ。
焼きあがりを監視していた彼が見ていたのは、窓の外だった。
いい天気で、外は薔薇のかおりでいっぱいだ。
ちょうどローズが、庭を散歩しているところだった。
最近急に大きくなりだしたおなかを抱えて、ゆっくりと歩いている。
      リーレイが見ていたのは、母様だったのかも知れない、
とヴィオラは思った。
ヴィオラはクッキーに卵黄を塗り忘れたことに気づいて、
そのことを告げたが、彼は外を向いたままだった。
     「出入口がないし、ヴィオラとローズだけが出られない」
     「でもわたしたちは、お外にはあまり用がないから」
      ヴィオラはクッキーのことはあきらめることにした。
     「外へ出たいとは思わない」
     「…出たいときも、あるよ」
      そのことに触れるのは、本当はすこし怖いのだ。
薔薇の生け垣はびくともしない。
他の人たちが出入りするときはアーチを作ってくれるのに。
無理にこじ開けたらどうなるか、それは考えないようにしていた。
でも、薔薇たちに悪意は感じられない。
   「どうすればいいかな。ヴィオラが自由に出入りするために」
      少し首をかしげて、ヴィオラをのぞきこむ視線は真剣だった。
どうしてそんな簡単なことをたずねてくるのか、ヴィオラには判らない。
     「アーチを作ればいいじゃないの」
      ヴィオラは当然のことを答えた。
「生け垣の一部を壊して」
      それなのに、リーレイは「名案だ」という顔をしてうなずいた。 



     「あの生け垣をぶち壊してやろうか」
      クッキーがいい具合に焼きあがろうとしていた頃、
また唐突に彼が云いだした。
    「そんなことができるの」
     「ヴィオラの霊力が必要だけど。…協力してくれるか」
      もちろん、外へ出られるなら大歓迎だった。
母様だって、本当は外へ出たいのだ。
庭を囲っているあの深い樹海にでかけてみたかった。
いつも遊びにくる小鳥や栗鼠たちの巣や秘密の湖を探しにいきたい。
     「うん、いいよ。生け垣を壊そう」
      ヴィオラは簡単に答えたが、
その作業は予想だにしなかった苦痛をふたりに与え、
困難を極めた。
『薔薇の庭園』に突破口をひらく。
それはふたりに与えられた一番の難題であり、試練であった。
心穏やかに暮らしたいなら、眼をそらし続ければいい。
それなのにふたりは、硬い壁に挑み、傷を負うことを選んだ。
      決心を固めたリーレイはふっきれたような顔をしていた。
やっとクッキー作りの方へ意識を戻したようだ。
     「よし、焼けた」
      ミトンをはめて、熱いオーブンのなかから鉄板を取りだした。
     「完璧なできばえだ。腕を上げたな、ヴィオラ」
     「うん。クッキーに関しては、母様を越えられたよね」
     「ローズを呼んでおいで。お茶をいれよう」


      ヴィオラは、リーレイとふたりでお菓子を作ったり、
日曜大工をしたりする時間が大好きだった。
守人の少年はとにかくマメで、
どんなことでも辛抱強く付きあってくれた。
家のなかには様々なお菓子のレシピが貼られ、
甘いにおいが絶えなかった。
庭には造りかけのテーブルと椅子が転がっていた。
小鳥の巣箱も、ブランコもベンチも、
いつでもヴィオラたちが手を加えるのを待っていた。
      本当はなにをしていてもよかった。
とにかく彼がゆったりとした部屋着を着て、
この庭にいることが肝心だった。
彼が時々、戎衣と呼ばれる戦闘服に着替えて、
ひとを殺せる本物の剣を片手に庭を出てゆく時間が、なによりも怖かった。
      リーレイが成し遂げようとしていたことを、
ヴィオラは知らない。
理解しようともしなかった。
ただ、どうしても赦しがたい彼の一部分に対する嫌悪感が、
日増しに強くなってゆくのが怖かった。
それは少女の意識の中に、ひとつの闇の世界を創りだしてしまった。
      彼と共に挑んだ生け垣の破壊工作の傷は、
今もヴィオラを苦しめる。
悪夢を見るたびに心の闇は広がってゆくよう思えた。
先刻見た夢もそうだ。 
      
ヴィオラはいつも利き腕をつかまれていた。
蛇のように動きまわる薔薇の蔓を、滅茶苦茶に斬り裂いていた。
薔薇たちは、悪いのは自分たちではないと、泣きながら懇願する。
     そんなとき決まってリーレイが、
ヴィオラと薔薇たちの間に立ちふさがる。
彼は武器を持っていなかった。
ヴィオラの剣の刃を素手でとらえて、投げかける台詞も決まっていた。
     「俺は、こんなことは望んでいない」
      永久ニオマエタチヲ、コノ庭ニ閉ジコメテヤル。 
      激しい怒りと、絶望感のなかで、ヴィオラは今朝も眼を覚ました。




      ラムロワーズ先生の姿がなかった。
寝巻きがきちんとたたまれて枕の上に乗っている。
     外は一面の霧だがすでに明るい。
わたしは寝巻きの上に一枚羽織って、部屋を出た。
依頼人の屋敷に到着したのは、昨夜遅くのことだ。
先生はきっと、お庭の様子を見に行っているに違いない。
屋敷の主たちを起こさないように、そっと廊下を進み、
裏庭に出られる通用口を見つけた。
予想通り、先生は石段に腰を下ろして煙草をくゆらせていた。
    「よう、ヴィオラ。眼が覚めたか」
      わたしは先生の隣に座った。
「見てみろ、この庭は厄介だぞ。
話には聞いていたが、
ここまで魔女のほうきが蔓延しているとは思わなかったな」
  魔女のほうきとは、天狗巣病のことだ。
庭木のほとんどに病は蔓延していた。
枝の先端が細かく枝分かれして叢生し、葉は凹凸を生じて萎縮してゆく。
若葉が芽吹く前の今の時期は、叢生した枝がまるで烏の巣のように見える。
病原菌の白い粉が拡散する前に、患部を切りおとさなければならなかった。
先生が厄介だと云ったのには理由がある。
彼はこの白い粉にアレルギーがあり、くしゃみが止まらなくなるのだ。
    「ヴィオラ、魔女のほうきの駆除だけなら、
おまえひとりで充分だろう。
患部の焼却処分が済んだところで、私が薬剤を撒きにいこう。
庭の手いれはそのあとだ」
     「わたしひとりでやるとなると、二日はかかりそうね」
     「まあしっかりやりなさい。ご主人には了解を得ておくよ。
私はその間、子守りでもしていよう」
      先生は石段を降りようとしなかった。
絶対にアレルギーの庭には足を踏みいれないつもりらしい。
わたしはひとりで庭を歩いてみた。
奥様は庭木の下に、たくさんの球根花を植えている。
春になって一番に開花するのはクロッカスやムスカリだ。
今はまだ芝生のなかに小さな頭をのぞかせているだけだった。
     「素晴しいブルーガーデンになるな」
      遠くから先生が声をかけてきた。
群青の花は、咲かせるひとの想いが深いと云われている。
      春はブルーガーデンからはじまる。
徐々に色彩が増えていって、
夏には鮮やかな花房を伸ばす花たちが咲き乱れる。
クライマックスを迎える秋まで、花の時間を止めてはならない。
香りの庭と呼ばれるセンテッドガーデンのハーブの手入れや、
レンガの壁を這うつる薔薇の剪定。
魔女のほうきの駆除が一番の力仕事になりそうだ。
レンガの壁にぽっかりと開いたムーンウィンドウがある。
向こう側はプライベートガーデンで、庭師でさえ立ち入り禁止。
ご夫妻が楽しみながら作りあげた花園だ。
パラソルを広げたティーテーブルや、手作りの木馬が見えた。
多分あれは、ご夫妻がコレクションしているオールドローズに違いない。
  
   「昨夜はずいぶんうなされていたな」
      部屋へ戻りながら、先生が云った。
「少し顔色も悪そうだが、大丈夫かい」 
      哀しい夢を見た後は、ひどい倦怠感に悩まされる。
いつものことなので、気にしないようにしていた。
     「おまえ、リーレイの夢を見ているのだろう」
      ぎくりとした。
     「わたし、寝言まで云っているの」
      ラムロワーズ先生は口元だけで笑った。
「あいつと別れて、もう二ヶ月たったか。
寂しい気持ちは判るが、ちょっと鬱状態がひどいように見えるよ。
こんな時は自分としっかり向きあうことも必要なのだ。
魔女のほうきを叩きおとしながら、孤独を楽しみなさい」
      間もなくして霧が晴れた。
窓の下に、広大な庭園が姿を現した。
早起きの子供たちが、芝生の上を走りまわっていた。
ムーンウィンドウをくぐり抜けて、秘密の花園に入ってゆく。
ちょうど、わたしとリーレイくらいの歳の差がある兄妹だった。
     「わたしたちも、あんなだったのかな」
      眼をつぶると、孔雀石の眸を思い出してしまう。
剣を渡して、呪縛を断ち切ってくれと云ったひと。
自由が欲しいなら、その手で断ち切れと云ったひと。
どうしてだろう。
貴方の幻影に、心臓が竦みあがる。
その眼や声に、記憶がかき乱される。
燃えあがろうとしている、この感情はなんだろう。
わたしにはある種の危機感が芽生えていた。
      ブルーガーデンでは泣かないようにしよう。
群青色の花が咲いてしまったら困るから。
     「ヴィオラ、早く着がえなさい。私は先に下りているよ」
      階下から、香ばしいパンのにおいが漂ってきた。
わたしは作業服に着がえ髪を束ねた。
     寝台の上で、子羊のレイがこちらを見ていた。
     「心配しないでいいよ。わたしは頑張るって決めたのだから」
      わたしを育て、手放さなくてはならなかった貴方には、
どんな後悔もさせない。
わたしは貴方の誇りになりたい。
それが、唯一できる恩返しのはずだから…。





     ローズの胎児が突然、心臓の鼓動を止めた。
ふたりが《医務局》へ行って一時間もしないうちに、
胎児の堕胎手術が決定してしまった。
ここまで大きくなった赤ん坊は、
通常の出産と同じような手順で堕ろさなくてはならないらしい。
そのことを、ヴィオラはリーレイからの内線電話で知らされた。
あまりに突然のことだったので、
妹を失ってしまったという実感とは程遠かった。
ただ彼の声が、聞いたこともないくらい沈んでいたのが気になったくらいだ。
そのせいでなんだか落ちつかない。
      庭に出ると、つい先刻まではいい天気だったのに、
暗い雲が広がっている。
ヴィオラはいつもリーレイたちが出入りしている辺りの生け垣の前へ座った。
ローズはひとりではこの庭を出ることができない。
それが不思議なことに、リーレイが一緒だとなんの問題もなく、
薔薇たちはアーチを作ってくれるのだ。
ヴィオラは医務局へ同行するつもりでいた。
     ふたりが薔薇の門をくぐったところで後に続くと、
なんとヴィオラだけが足止めをくらってしまったのだった。
スルスルと伸びてきた薔薇の蔓がヴィオラの腕をつかみ、
思いもよらない力で、庭の内側へ押し戻してしまった。
薔薇の門は、呆然としているヴィオラの前で完全に閉ざされた。
救いを求めるようにリーレイを見たが、
彼はなにもしてくれなかった。
     「夕方一度戻るから、待っていなさい」
      それだけだ。
内心ものすごく腹が立っていたが、母親のことが気がかりだったので、
ダダをこねるわけにはいかなかった。
妹の生命の問題なのに。
      二ヵ月後には、この庭に新しい家族が増えるはずだった。
産まれてくる赤ん坊がはじめから女の子だと決まっているのは、
不思議なことだったが、とにかくヴィオラはうれしくてならなかった。
その子の名前まで決めていたのに。
切ない気持ちで胸が痛んだ。
胸の痛みが哀しみをとらえる前に、
眼の前に用意されている課題にとりかかることにした。


      数日前から、薔薇のアーチを作る計画を実行に移していた。
生け垣を壊すといっても、鉄でできた道具を使うわけではない。
そんな単純なやりかたでは、
薔薇は翌日にはすっかり元通りになっていることだろう。
二度と閉じない門を作る必要があった。
それには、霊力を使うしかない。
なぜかリーレイは一方的に、
ヴィオラの霊力のみに頼っている様子だった。
まだ子供のヴィオラの霊力など取るに足らないものである。
コントロールさえできなかった。
計り知れない霊力を自由にできるリーレイがすれば、
事は簡単に運びそうなものなのに、
彼は生け垣と向かいあおうとしない。
一定の距離を置いている様子すら見せるのだった。
      ヴィオラはまず深呼吸し、
薔薇の生け垣がほどけてゆくイメージを思い描いてみた。
薔薇たちはヴィオラの呼びかけに、すぐに反応を示した。
生け垣の真ん中に穴が開き、次第に大きくなっていく。
ヴィオラは霊力を使って、
その穴を大きく天空へ向かって開放した。
薔薇の鎖がほどけていく。
痛々しい光景だったが、薔薇たちは始終無言だ。
意識はひたすら高揚していた。
胸のなかいっぱいに開放感が満ちる。
しかしそれも、つかの間のことだった。
ヴィオラの作る門は、気をぬくとあっという間にもとに戻ってしまう。
その途端、先刻までとはうって変わって、
深い絶望感に苛まれるのだった。
      今回もそうだった。
ほんの少し呼吸を乱しただけで、薔薇のアーチは閉ざされた。
夢中になっていたらしく、陽が沈みかけていた。
楽しいゲームの後だというのに、
すぐには立ちあがれないほどひどい疲労感に襲われた。 
      ふと、ひとの気配を感じた。
振り返ると後ろにリーレイが立っていてので、
ヴィオラは飛びあがりそうになった。
     「い、今の見ていた? すごく大きく開けたのよ」
      リーレイはちょっと笑ってうなずいただけで、
生け垣のことには触れなかった。
     「立ちあってきた。…かわいい、女の子だったよ」 
      ヴィオラはたちまち、哀しい現実に引きもどされた。
八ヶ月ともなれば、かなり人間らしくなっていた頃だろう。
彼が「かわいかった」と表現したのも、不思議ではなかった。
     「今夜はローズのそばにいようと思うんだけど、
ひとりで大丈夫か。食事は一緒にしよう。すぐに用意するからね」 
    リーレイはヴィオラの心情まで察している余裕がなさそうだった。
ひとりで過ごす夜のことを考えると、
泣いて追いすがりたい気分だったが、こらえるしかなかった。
彼も相当まいっている様子だし、母様はもっと辛い思いでいるに違いない。
      夕食に用意されたのは、
ヴィオラの好物のタンポポオムレツと、ミモザサラダにコーンのスープだ。
首尾よくごちそうを並べてみせた彼は元気そうに見えたが、
さすがに食が進まない様子だった。
オムレツの山をスプーンのシャベルで崩すだけ崩すと、
ついに席を立ってしまった。
会話もない、寂しい夕餉だった。
      ヴィオラが食べ残されたオムレツを平らげていると、
真っ黒な戎衣に着替えたリーレイがキッチンに戻ってきた。
     「どこへ行くつもりなの!」
      ヴィオラは文字通り慄えあがって叫んだ。
彼の軍服姿には恐怖心に近いものを感じていた。
剣士が正装ででかけてゆく場所になにがあるかは知らない。
しかしなにか血生臭いものを感じずにはいられなかった。
そこに危険なものがあることは間違いない。
彼が戎衣を着て庭を出てゆくたびに、
ヴィオラは生きたここちがしなかった。
烏の濡れ羽のような黒い戎衣は見たこともなく、余計に不安をあおり立てた。
     「どこって、ローズのところだよ」
      彼はヴィオラの不安など、まるで気づいていない様子だ。
     「だってそんな戦闘服で」
     「ああ、これは礼服なんだ。君の妹を、弔うからね」
      リーレイは愛しい者を見るように、ヴィオラを見つめた。
「名前、決めたんだろう。なんて云うんだ」
      その名を口にするときになって、
哀しい感情の罠にとらわれてしまっていることに気づいた。
     「…リリアン」
      泣きだしそうだったので、小さな声で告げた。
「わたしも行きたい」
      リーレイはその言葉の後半部分を、完璧なまでに無視した。
聞き逃しただけなのかも知れない。
しかしヴィオラは、黙殺されたのだとしか思えなかった。
      ヴィオラは黙って生け垣まで彼を追い、
もう一度気持ちをぶつけてみるつもりでいた。
     妹を弔うこともできないなんて、あまりにも理不尽だ。
黙っているつもりはない。
      リーレイはいつものように、
なんの問題もなくアーチを作りくぐり抜けた。
ヴィオラは閉じかけた出口に飛こんだ。
電流が身体を駆けぬけたかと思うと、庭の内側に転がされていた。
予想はしていたもののひどいショックを感じた。
門はすでに閉ざされてしまっている。
生け垣の向こうのリーレイは、同情をこめた眼をして自分を見ていた。
積もりに積もった怒りが爆発したのは、その時だった。

     「なぜわたしだけ出られないの! ひどいじゃない、リリアンはわたしの妹なのに!」
    リーレイはなにかを考えている様子で、しばらく無言でいた。
雨の到来を予想させる湿った風が、ふたりの間を吹きぬけてゆく。
彼の長い髪が、風のなかでゆらゆらと踊っていた。
遠くで雷鳴が響いている。
     「どうして力を貸してくれないの。
生け垣を壊そうって云いだしたのは貴方なのに。
わたしひとりのちからじゃ、百年たってもこの生け垣は開けないよ」
     「なぜ、そう思う」
      真面目な顔をして、彼が問い返してきた。
ヴィオラは云いよどんだ。
     「…だって、わたしの霊力なんか」
     「君の霊力は、ぼくのと互角か、それ以上のはずだ」
      それ以下なんてありえない、と彼は断言した。
     「どうしてそう云い切れるの」
      彼はその問いには答えなかった。
代わりに、予想だにしていなかったことを口にした。
     「この生け垣を『閉じて』いるのは、ぼくの霊力だ。
だから協力はできない。
庭の外へ出たいなら、ヴィオラが努力する以外方法がないんだ。
きっかけは与えた。
後は君の頑張り次第だ。自分の力を信じろよ」
    ヴィオラの頭のなかはたちまち、様々な疑問符でいっぱいになった。
立ちつくしている少女のもとへ、
リーレイは生け垣をくぐり抜けて戻ってきた。
反射的に後ずさったヴィオラを、彼は構わずに抱き寄せた。
     「俺のなかに、制御できない力がある。
それをつぶして欲しい。
どうしても思うようにならないのなら、俺を殺すんだな。
そんなに難しいことじゃないだろう」
      恐慌を来たしたヴィオラは、激しく首を振り抵抗しようとした。
     「なにを云っているの。そんなこと、できないよ」
     「剣を取って、敵の息の根を止めろ。
『管理者』がいなくなればおそらく、この庭の全ての結界は破れる。
俺は君には手をあげられないからな」
      それだけ云うと、彼は身を離し再び生け垣の外へ出ていった。
ヴィオラは相変わらず立ちつくしていた。
突然、鋭い刃物で心臓を刺しつらぬかれた気分だった。
彼はもうヴィオラと眼を合わせようとしなかった。
     「明日の朝、一度戻ってくるよ。早く寝なさい」
     「…リーレイ」
      霧のような雨が、『薔薇の庭園』の上へ降りてきた。
白薔薇たちが甘い露に濡れ、歓喜の波動を広げた。

      ヴィオラ…剣ヲ取ッテ…ワタシタチヲ…解放シテ… 
      その言葉を、ヴィオラは聞かないようにしていた。




     魔女のほうきの駆除は、うんざりするくらい単調で退屈な作業だ。
ラムロワーズ先生が先ほど、顔を覆いながら庭を横切っていった。
プライベートガーデンから、ふたりの子供たちに呼ばれたからだ。
ムーンウィンドウをくぐり抜ける先生はとても嬉しそうだった。
弟子がひとりで仕事をしているというのに、まるでおかまいなし。
 木の上からは、プライベートガーデンを一望のもとに見渡すことができた。
奥様が芝生の上に、素焼きの鉢や、ストロベリーポットを並べている。
ご主人は温室から花の苗を運んできた。
子供たちも寄せ植えの講習に参加するつもりらしい。
真っ白な軍手をつけて、ラムロワーズ先生の手もとをのぞきこんでいる。
      わたしは魔女のほうきを切り落としていた。
のこぎりを引くたびに、白い粉が舞った。
   アレルギーではないと思うのだが、なぜか眼の前がくらくらした。
真下で芽吹いている植物たちを傷つけるわけにはいかないので、
切り取った枝は少し離れた場所へ投げなければならない。
思った以上の重労働だ。
しかしこんな作業で何日もつぶすわけにはいかない。
     わたしは黙々と作業に専念した。


   お茶の時間になると、兄妹が焼き菓子とお茶を持ってきてくれた。
わたしが木を降りると、慌ててムーンウィンドウの中へ逃げていく。
全身に病原菌を浴びている庭師に近づくなと、
ラムロワーズ先生が忠告したに違いなかった。
わたしは手も洗わずにお菓子を食べて、冷たいお茶を一気に飲み干した。
おかわりはムーンウィンドウの下に置かれていた。
    「ご親切にどうも」
      お礼を云ってから、もう一杯お茶をいただいた。
     「三十分の休憩だ」 
     庭の奥でラムロワーズ先生の声がした。
わたしは片手で合図して、木陰の下に寝ころんだ。
まだ風は冷たいが、確実に春のにおいがする。
天空の蒼もやさしかった。
なにかを考えようとすると、意識はするりと身をかわす。
心の声で問いかけても、誰も答えてくれなかった。
強引に霊力を飛ばそうとしたが、
拒まれるのを恐れる気持ちがそれを赦さなかった。
心はこんなにすがりつきたいのに。
声を聞きたいのに。
諦めが疲労に変わって、わたしはうとうとしはじめた。
眼を閉じているのに、天空の蒼が染みこんでくるようだ。
      この蒼を、いつか見たことがある。
水のにおいがする風が、あの日のわたしたちを取りまいていた。
気だるい午睡のなかで、不安な未来の夢を見ていた。
両隣にいたひとを、わたしは探そうとしていた。

      ………。

      冷たいものに触れて、眼が覚めた。
それは温かな手でもなく、吐息でもない。
使いこまれたガーデンツールだ。
リーレイが外していった右手の武器の代わりに、
今自分はこれを握っている。
突然、胸の奥がビリッと痛んだ。
痛みは指先に駆けぬけて、よりいっそう疲労を重たくした。
その疲労のなかで、休憩時間は終わった。


   ラムロワーズ先生が、再び顔を覆って庭を横切っていった夕刻。
やっと一日の仕事が終わった。
おなかも空いてへとへとになっているわたしに、
奥様がにっこりと笑いかけた。
     「すぐに食事にしましょうね」
      シャワーを浴び、
身なりを整えてダイニングルームへ入ってゆくと、
待っていましたとばかりに、子供たちが飛びついてきた。
     「ねえ、チェスの相手をしてくれない? 」
      お兄ちゃんが右手をつかむと、妹は負けじと左手を引っぱった。
     「お人形さんで遊びましょうよ」
      ふたりはショコラ色の髪をしていた。
眼が大きくて、どちらも奥様に似ている。
すでにテーブルについていたご主人が、子供たちをたしなめた。
女の子が甘えるように膝の上へ上ってゆき、
「パパ」と呼んだのを聞いて、
わたしははっとした。
そうか、これがパパなのか。
奥様はたくさんのごちそうを用意していてくれた。
お手伝いさんはひとりもいないけれど、
裕福な暮らしをしている一家なのだと判る。
ご主人は政治家らしい。
口ひげが似合っていて、言葉遣いが丁寧でやさしかった。
     「政治家には腹黒いのが多いよ」
      ラムロワーズ先生は後になってそんなことを云っていたが、
彼は悪いひとには見えなかった。
     「樹木たちは、倖せそうだったわよ」
      わたしは、その日の作業日誌と、
患木カルテを書きながら云い返した。
「きっといい政治家に違いないわ」 
      ラムロワーズ先生は、なぜか意地悪く笑っていた。
     「少しは頭のなかを整理できたかい」
     「飛ぶように時間が過ぎていっただけ」
     『魔女のほうき』と書きながら、わたしはため息をついた。
「こんなふうに毎日が過ぎていったら、哀しいことも忘れてしまうのかな」
     「忘れたいことが、あるのかい」
     「哀しいことはたくさんあるけど、忘れたくはないわ」
     今にして思えば、過去の哀しみも痛みも、
かけがいのない思い出のような気がした。
誰が、あの地を『楽園』などと呼んだのか。
眼に見える敵と、見えない敵。
そんなものの存在から、わたしは護られて生きていた。
なにに対しても冷静で、強い心を持っていた庭の主。
身を盾に、わたしを護り続けてくれた庭の剣士。
そしてわたしは、故郷の全てを懐かしむことができる。
哀しみも、痛みも、やさしい思い出として。

魔女のほうき2に続く
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仔羊の名前 3

2011-12-08 | 小説 花園全集






 『薔薇の庭園』に帰る途中で、リーレイは対戦相手の少年と出くわした。
バンは、故意にリーレイをここで待ちうけていたようだ。
樹海の少年たちのなかでも一際長身の彼が戎衣をまとうと、威圧感が増す。
姿を見ただけで、リーレイは竦みあがりそうになっていた。
      「初試合の相手がおまえだなんて、これ以上の屈辱はないよ」
       バンは本気で腹を立てている様子だった。
「忠告しておくが、俺は手加減しない。
      心優しい誰かが、おまえのためにタオルを投げてくれるまで、
せいぜい頑張るんだな」
       立会人の判断で試合が中止になることはあるらしかった。
しかし今回は、
弱い血をつぶすための、間引き目的の試合になるかも知れない。
相手の名を聞いたとき、そんな懸念は確信へと変わっていた。
自分を救ってくれる者など、いるのだろうか。 
       いつの間にか、リーレイは肩で息をしていた。
せりあがってくる恐怖心をコントロールすることができなくなった。
ローズのもとへ急ぐ足が、次第に速くなってくる。
美しい庭園の真ん中に、いつものように自分を待っているローズを見つけると、
リーレイはもうこらえきれなくなった。
      「ローズママ、ぼくは、もうここへは戻れないかも知れない」
       ローズの呼び方も、前の状態に戻ってしまっている。
ローズは、久しぶりに自分の胸のなかへ飛びこんできた少年を見て驚いた。
試合の直前だというのに、こんなに弱腰でいていいはずがない。
今朝はもう少し落ちついていたのに。
      「貴方が帰ってこなかったら、私たちはどうしたらいいの。
ヴィオラを護れるのは貴方だけなのに」
       ローズは精一杯の笑顔で少年を見つめた。
「貴方が負けたらいけないわ。私たちは貴方に生命を任せているのだもの」
       ローズは最近になって決心を固めつつあることを、
今この少年に打ち明けるべきだと思った。
      「ひとつ私と約束して。
貴方が大人になったら、ヴィオラを連れてこの谷を出て欲しいの」
       予想外のことで、リーレイはびっくりしてローズを見返した。
      「どうして」
      「いずれ話しをするわ。
あの子の倖せがここにはないということなの。
あの子のために『秘密の花園』を見つけてあげて欲しいの。
…だから、レイ、負けてはだめ。生きぬいて」
  幼いヴィオラが家から出てきて、リーレイを見つけると駆け寄ってきた。
事情を把握できない少女は、いつものように甘えてくる。
リーレイはたまらない気持ちになった。
      ずっとこの子と一緒にいたいのに。
この庭で暮らしていたいのに。
      「ほら、私にしっかりと見せて。
凛々しい剣士になったね。
貴方は負けたりしないわ」
       ローズは懐かしそうな眼をする。
それから、間近にあった細い木の枝を拾うと、少年の前へ立った。
      「剣士よ、前へ。剣を合わせなさい」
       それは、試合前の儀式だ。
剣の側刃を相手のものと合わせ、次に剣先を地に向けて縦に立てる。
ローズはなぜそんなことを知っているのだろう。
それでも、彼女の笑顔をみたリーレイは、少し落ちつきを取りもどした。
       駄目なら駄目で、仕方のないこと。
だけど、このふたりに恥をかかせるような試合にだけはしたくない。
      『薔薇の庭園』を出るとき、ヴィオラが小さな花をくれた。
リーレイは少女にキスをしてから、その花を自分の胸元に刺した。
ローズが最後まで笑っていてくれたので、
少しは希望が見えるような気がした。
      「私の守人だった剣士様は、貴方と同じ血を持っていたわ」
       最後の最後に、ローズは語ってくれた。
「とても強い方だった。その血を信じて、内なる声に従うのよ。
私はここから見守っているからね」
       美しい庭園と、
そこに暮らす母娘の姿を眼に焼きつけてから、少年は踵を返した。 



         「剣士よ、前へ。剣を合わせなさい」 
       樹海の一角に、円形の緑のフィールドがあった。
頭上には天空が開けている。
下は柔らかな草がきれいに刈りこまれていて美しかった。
小さな蒼い花が、所々にコロニーを作って揺れていた。
ここへ来るのははじめてだ。
こんな美しい場所で、何人の剣士たちがつぶされていったのだろうかと、
理不尽な思いが湧いてくる。
試合に臨むふたりの剣士を取り巻くギャラリーの数は、意外に多かった。
樹海の少年たちはほぼ全員集まっている。
《研究院》の学者たち、杖をついて歩く『博士』もプリムラも来ていた。
大人の兵士も数人いる。
サシオンは彼らと近い位置に座って、フィールドを眺めていた。
カルパントラはひとりだけ離れた場所に、ひっそりと立っていた。
リーレイが眼を向けると手を挙げて合図を送ってきた。
       それにしてもこの観衆の数はなにを意味しているのだろうか。
間引き目的の試合に、《研究院》の学者が興味を示したりするものだろうか。
こんなに多くの人間の前で、無様に叩き殺されるのは嫌だと、
リーレイは身慄いした。
       黒い軍服の兵士の号令で、試合は開始される。
リーレイはどこかぼんやりしていた。
      もはや恐怖と緊張は臨界点を超えている。
諦めの境地で放心しているわけではなかった。
ただなんとなく、自分の存在すら感じられなくなっていた。
しかし、剣を合わせて相手の眼を見た瞬間に、
リーレイは我に返っていた。
いつも自分を追いかけまわす樹海の不良たちの顔を、
こんなに真剣に見たのははじめてだ。
眼を合わすことすら今までは出来なかった。
相手の目線ははるかに上だが、心の中を掴んだような気分になった。
相手は薄笑いを浮かべて自分を見ている。
悪意を感じ取った途端、背中がカッと熱くなった。
       今度は剣を立てる。
大人の試合ともなれば、木剣など使わない。
本物の、肉を裂く真剣での勝負だ。
自分はまだ剣士としてなにもしていない。
いつの間にか試合がはじまっていた。
       突然、視界からバンの姿が消えた。
陽が蔭ったかと思った瞬間、相手は天空から降ってきた。
右肩に衝撃を感じるまで、数瞬の間だった。
再びバンが眼の前に戻ってきたとき、
リーレイは右腕が全く動かないことに気づき愕然とした。
      「肩を外されたな」
       サシオンの近くで観戦していた兵士がつぶやいた。
ふたり連れで、ひとりは立派な顎鬚をたたえている。
樹海に侵入者の騒ぎがあったときに、
駆けつけてきた兵士のひとりだとサシオンは気づいた。
手首に銀のブレスレットが光っている。
『銀の獅子』だ。
サシオンは少し緊張し、彼らの会話に耳を傾けていた。
      「えらく一方的な試合だな。あの少年は手加減なしだ」
      「あのチビは負けるぞ。どうする、止めに入るか」
       その答えはすぐには出されなかった。
フィールドのリーレイは苦戦を強いられていた。
右腕はびくともしない。
緊張のせいか痛みはないのだが、ついに木剣を取り落としてしまった。
樹海の少年たちが大喜びして歓声を上げているのが聞こえてきた。
歯軋りするほど悔しいのに、身動きがとれなかった。
立ちつくしている間にバンが動いた。
      あっという間に眼の前に飛びこんできた相手は、
リーレイの額に渾身の力をこめて木剣を振り下ろしていた。
なにかが割れる音がした。
おそらく額を守る防具だろう。
その衝撃は凄まじかった。
卒倒しなかったのが不思議なくらいだ。
リーレイは身体を支えるだけで精一杯だった。
      「これは駄目だな。止めるなら今のうちだ」
       顎鬚の兵士は、黙ったまま動かなかった。
      「あのチビ、おまえの一族の子供だろう」
       もうひとりの兵士も言葉をかけるだけで、動く気はないらしい。
隣で聞いているサシオンの方が、業を煮やして飛びだしたくなるところだった。
      「あのバカ…、こんな時ですら、反撃できないなんて」
       握りしめた手のひらが怒りで慄えていた。
「なにをやっているんだよ、レイ。死にたいのか」
       リーレイは眼の前が真っ白になっていた。
額を叩かれた衝撃で、一時的なショック状態に陥っていたのだ。
カルパントラを探すことすら不可能だった。
少年を見守る老婆もこうなってしまった以上、手は出せない。 
       次の一撃で最後だ。
野次と歓声が、頭のなかでわんわんと響くなか、
リーレイは覚悟を決めていた。止めの一撃はどこから飛んでくるか判らない。
      「止めないのか」
       兵士はまだ悩んでいた。
「つぶすつもりでいるのか」
       ようやく、顎鬚の兵士がその問いに答えた。
      「生きていても辛いだけだろう。
《研究院》の連中はなにを期待して観戦しているか知れんが、
救う価値があるとは思えない」
       サシオンは耳を疑った。
「RYの血も、遂に廃れたか。ずっとあの子を見守ってきたが、
こんなに伸び悩む子ははじめてだ」
       裁決は下された。




      「Error遺伝子」
       杖をつく『博士』も、その時同時につぶやいていた。
プリムラははじかれたように振り返り『博士』を見つめたが、
彼はその言葉を撤回する様子はなかった。
      「かわいいやつだったのに、残念だな」
       少し哀しそうな顔をしていた。
プリムラは唇を噛みしめて、フィールドの少年を見守り続けた。
       これで、リーレイの死は決定したわけだ。
サシオンは一瞬、自分がこの試合を止めようかと悩んだ。
飛びこんで止めるのは容易いことだ。
しかしこの先、
負け犬の世話を一身に引き受けなければならないという面倒もある。
サシオンは全てを諦める選択肢を選んだ。
悲痛な願いは、
早くバン止めを刺してやってくれないかという願いに変わった。
       一方リーレイは、
その時になってはじめて呼吸法のことを思い出した。
試合がはじまってから、息をすることさえ忘れていた。
せめて最期の十秒間に賭けてみようと思った。
吐く呼気と吸う吸気。
それから、一番倖せだった瞬間。
はじめて逢ったときの、ローズの眸がなによりも先に思い返された。
五歳の頃だ。
『薔薇の庭園』が生まれていた。
庭の主は、自ら迎え入れる剣士を選んだと云った。
      「今日から、私たちは家族よ」
       それからは、特別な朝も夜もなかったような気がする。
毎日が幸福だった。
美しくやさしいローズと、
天使のようなヴィオラ。
特別な血を分けた、護るべき者たち。
リーレイは眼を閉じると、意識を呼吸の音に集中させた。
身にまとった戎衣から、香の気が立ち上ってくる。
カルパントラの意識は、すぐそばにあった。
       1…2…3…。
時の秒針が、呼吸に重なってくる。
      『ゆっくり、あせらないでいい』
       カルパントラが、リーレイの左手を誘導していた。
草地に膝をつき、左手を滑らせると、求める物に触れることができた。
その瞬間に、頭の上で気が逆流する音が響いた。
      カウントは8で止まったまま。
まだ二秒あったが、音の正体を確かめるべきだった。
眼を開けると、なにかがまっすぐに自分をめがけて落ちてくる。
その動きは妙に緩慢だった。
       あの時と同じだ、とリーレイは思った。
それに今度は動ける。
考えるより先に、地面を蹴っていた。
胸元に刺しておいた花が離れて、宙を舞っていた。
それが一瞬まばゆい光を放ったように見えた。
視力が戻っている。
相手は自分の間合いに踏みこんでいた。
      左手で拾い上げた木剣が、バンの左耳をとらえていた。
これを外すわけにはいかなかった。
左耳を強打されたバンは、バランスを崩して倒れた。
立場が逆転したのを確認したサシオンは、思わず立ち上がった。
      「レイ、止めを刺せ!」
       まわりをはばからぬ声で叫んでいた。
       相手が眼の前に倒れているのを見たリーレイは、
身体中の血が沸騰するのを感じた。
      これまでの苦い記憶が突然、脳裏いっぱいに広がったのだ。
今までよくも、という思いが怒りの感情を増幅させた。
その怒りは、
自分を痛みつけてきた樹海の少年たちに対するものばかりではなかった。
勝手に自分の意識を操る《中央》や、
ローズを苦しめる《研究院》の教授たち、
自分のまわりにはびこる敵の全てに対するものだ。
その怒りの矛先が、
たまたま眼の前に倒れている少年に向けられただけのことだった。
       リーレイは木剣を投げ捨てると、左手の針を抜いた。
試合はあくまでも与えられた剣を使わなければならなかったが、
そんな規則など頭のなかから消し飛んでいた。
       バンは痛みのせいで思うように動けなかった。
つい先刻まではひ弱な仔羊のようだった少年が、
突然牙を剥いてきた。
眼つきまで別人のようになっている。
その気迫に、バンははじめて恐怖を感じていた。
      「いかん、やはり止めるべきだ」
       顎鬚の兵士が突然云った。
待っていましたとばかりに、連れの兵士がフィールドに飛び出した。
フィールドでは、お互いに木剣を放棄した剣士たちが、
つかみあいになっていた。
リーレイが抜いた針が、いつ相手の心臓を貫くか判らない状態だった。
    相手の息の根を止めることで頭がいっぱいになっていたリーレイは、
自分を制する声にも気づかなかった。
すると、突然ふわりと身体が宙に舞い、地面に叩きつけられていた。
自分をねじ伏せているのは、大人の兵士だった。
      「チビ、試合はここまでだ」
       云うが早いか、彼は少年の脱臼した肩を、
あっという間に治していた。
あまりの痛みに悲鳴を上げたが、
おかげで正気を取り戻すことができた。
そこへ、もうひとり歩み寄ってきた者があった。
リーレイにはそれが、自分の血族である人間だということがすぐに判った。
銀のブレスレットはすぐに眼についた。
      「武器をおさめなさい」 
       彼はまずそう云ってリーレイの前へ片膝をついた。
「初試合おめでとう。これから先武術を磨き、不敗神話を築きなさい。
然るべき時に、称号は与えられるだろう」 
       リーレイは胸がいっぱいになっていて、
言葉を返すことすらできなかった。
ふたりの兵士が立ち去ると、すぐにサシオンが駆け寄ってきた。
      「大丈夫か、レイ」
         「サシオン、…ぼくは、勝てたのかな」
         「そうだ。バンを見ろ。
あの一撃で足腰立たなくなったようだ。鼓膜が破れた様子だな。
かわいそうに」
          リーレイはそれを聞くと、急激に怒りがおさまってきた。
      「気にするな。相手はおまえを殺すつもりでいた。
やらなければやられていたんだぜ」
     「ぼくは、また庭に帰れるの」
       サシオンは笑いながら少年を抱きしめた。
      「当たり前だ。おまえは『薔薇の庭園』の剣士じゃないか」
       以前のように、リーレイに野次を飛ばす者はもういなかった。
カルパントラが遠くで笑っているのが見える。
リーレイは自分の歴史が変わったことを知った。

      「小さな獅子が目覚めたな」
       一部始終を見守っていた『博士』が、プリムラに云った。
      「これだから、RYの血は面白いんだ」
       プリムラは答えなかった。
少年が自分のもとから去って三年。
言葉にできない感慨があった。


  その後、リーレイとサシオンの仲は、非常に親しい間柄に進展したが、
交友関係を続けられたのは一年余りのことだった。
成人する前に、サシオンはアンジェリカと共に、
レンデフロールを出ることになったからだ。
      「一度おまえとフィールドに立ちたかったな」
       サシオンは別れの朝にそう云った。
南の島で再会を果たすまでの十年間、
この後彼とは一切の音信を絶つことになる。





       悲願の称号を得たのは、十七の時だ。
さすがに苦戦して怪我もしたが、
称号の証として贈られる銀のブレスレットを、
ヴィオラに持って帰ることができた。
昨夜のなぞなぞの答えは多分それだ。
ヴィオラが別に欲しくはなかったと云っていたもの。
あれだけ苦労してもらえたものなのに、
なぜ彼女が喜んでくれなかったのかは判らない。
元来は男の持つ装飾品だから、デザインが気に入らなかったのかも知れない。
       駅に向かう道すがら、ぼくはずっと考えていた。
サシオンの後を追うように、あの谷を出で行く者は、後を絶たなかった。


      「貴女たちをこの楽園から追放します」
       ローズが冗談めいた言葉で告げたのは、
ヴィオラが十三の節目を迎えたころだ。
       ぼくたちはあのレンデフロールを、
皮肉をこめて「楽園」と呼んでいた。
      「この国を出たら、もう後ろを振り返ってはダメよ。
未来だけを見て、眸を曇らせずに進みなさい」
       それがローズの手向けの言葉だった。
彼女は、自ら《研究院》へ向かった。
《中央》の眼を引きつけるために、ひと騒動起こしてやると云っていた。
泣いてすがりつくヴィオラに、彼女は潔く背中を向けた。
      「早く行きなさい、ヴィオラ」
       彼女は一度も振り返ってくれなかった。
カルパントラが最後までぼくたちを見送ってくれた。



      「誰も追ってなんかこないよ」 
       ぼくの背中に顔を埋めて泣いていたヴィオラがつぶやいた。
「リーレイ、走らなくてもいいよ。
母様だって、霊力を無駄に使う必要なんてないのに」
      「どういう意味だ、ヴィオラ」
      「昨夜、杖をついた博士に逢ったの。
わたしに、倖せになれよって云っていたもの」
       あの男は、ぼくたちの逃亡計画を察していたのだろうか。
出発の数日前、ぼくは『博士』の呼び出しを受けて、《研究院》を訪れていた。
『博士』はぼくを一台の端末の前へ座らせると、
簡単に操作の方法を教え、
そこから膨大な数の外界のデータを取りだしてくれたのだ。
戦争、犯罪、環境汚染、疫病、不吉な世紀末論…。
      「外の世界も、また地獄だ」
      『博士』はそれだけ云った。
それでも行くのかと、問われているようだった。
       だけど、そこには別の形の希望がある。
だから彼は、旅立つヴィオラに倖せを願ったのかも知れない。
       ぼくは走るのをやめ、背負っていたヴィオラを地面に下ろした。
      「歩こうか、ヴィオラ」
       彼女はうなずいてぼくの後をついてきた。
険しい道だったが、彼女には歩き通せる強い足があった。
本当はローズも連れてきたかった。
しかし、彼女自身がそれを望んでいなかった。
ローズは、思い出のなかでしか生きられないと云った。

       
       雪に染まる白い道を進みながら、
ぼくはあの日の少女の言葉を反芻していた。
      『母様と別れるのは辛いけれど、怖くはないよ。
リーレイがいてくれるのだもの。
わたしね、ずっと考えていたの。
外の世界で庭師になろうかなって。
そうすれば、たくさんのお庭を見て回れるでしょ。
『秘密の花園』も見つかるんじゃないかと思って』

      「私は花園の伝説を信じているぞ」
       ラムロワーズの言葉に、ぼくは我に返った。
「これでも意外にロマンチストだからね。
…心配するな、あの子は必ず『秘密の花園』に送り届けるから」
       汽車の出発までもう間がなかった。
ラムロワーズは最後にぼくの手をとって云った。
      「おまえから預かった7ガインは、
必ずヴィオラの伴侶となる男に手渡すよ」
      「お願いします。お元気で、先生」
       それ以上の言葉はなかった。
汽車に乗りこみ、もう一度師匠を振り返ったとき、
ぼくの眼にヴィオラの姿が映った。
彼女は寝巻きの上に外套だけ羽織った格好で走ってくる。
冷気で頬を真っ赤に染めた少女は、あの仔羊を抱いていた。
      「リーレイ!」
       ヴィオラは元気いっぱいにぼくの腕のなかに飛びこんできた。
      「ヴィオラ、どうしたんだ」
      「どうしてもお礼を云いたくて。
…ありがとう、リーレイ、わたし、心から…」
      「ありがとうなら、もう聞いたよ」
      「今度は別の意味のありがとうなの」
       その時、発車のベルが鳴った。
ヴィオラをラムロワーズに手渡すと同時に、扉が閉まった。
後を追ってきたアークも、ぎりぎりで顔を見ることができた。
      「わたし、頑張るからね。立派な庭師になるから」
       貴方は、倖せに。
       彼女の口が、そんなふうに動くのを見た。
ぼくは笑顔で三人に手を振った。
       ヴィオラの泣き顔が、あっという間に遠ざかっていった。
 
       ぼくのなかで、ひとつの時計が止まった。
       窓の外は真っ白になり、もうなにも見えなかった。
       一生の義務とされた兵役が、こうして十四年で終わった。
       気が抜けてしばらくその場を動くことができなかった。
通路の壁にもたれていつまでも白い窓を見ていた。
       白い雪が薔薇の花弁に見える。
世界が白い花弁に埋もれてゆく幻想が広がってゆく。
       そこには揺れる木立や、水のにおいがする透明な風があった。
       娘のためにクッキーを焼く庭の主がいた。
       長い髪の美しい女神と、いつも笑っていたかわいい天使。 

       さらなら、ローズ。
       さよなら…、ヴィオラ。
       ぼくの気持ちは変わらない。
       この生命が尽きる日まで。 
ずっと、貴女たちを、愛し続ける。 



    

       ヴィオラは、白い仔羊を抱いたまま、
雪のなかに消えてしまった汽車の音を聞いていた。
凍りつくような冷気のなかで、仔羊だけが暖かい。
それはリーレイの手のぬくもりを残していた。
まるで、ひだまりのようなぬくもりを。
      ラムロワーズとアークが、
少女をいたわるように両脇に立っていた。
  「そんなぬいぐるみを抱いて歩いているところは、まだまだ子供だな」
       アークが冗談めかした様子で云った。
      「大体、そんな物を選んで贈るやつの精神構造が理解できんよ」 
       これはラムロワーズだ。
ヴィオラはにっこり笑って、仔羊を抱きしめた。
    「だってこれは、わたしたちには最高に思い出のあるものなんだもの。
…Reyっていうの。むかし、家にあった羊さんも、同じ名前だったのよ。と
ても好きだったひとの名前をつけたの。…わたしやっと思い出したんだ」
       だから、貴方に伝えたかった。
         「ありがとう」って、云いたかった。

    まるで魔法のように、わたしが欲しいものを用意してくれた貴方からの、
最高の贈り物は…、
        『生命』だったんだね。


第4章   仔羊の名前   完
コメント
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仔羊の名前 2

2011-12-08 | 小説 花園全集
第4章  仔羊の名前  






 
      ヴィオラは本当に具合を悪くしていた。
ぼくが食事を持って部屋に入ってゆくと、毛布にくるまったまま、
少し恥ずかしそうな顔をする。
     「寒気がするの。身体がだるくて、気が滅入ってきちゃった」
    「気づかなくてごめん。ご機嫌ななめなのかと思った」
     「そんなに子供じゃないよ」
     「少しでも食べられるか」
      ラムロワーズがヴィオラの好物を把握していて、
クラムチャウダーとマフィンを注文していてくれた。
お腹がすいていたらしく、ヴィオラはすぐに食べはじめた。
ぼくはベッドの横に椅子を引きよせて、その様子をながめていた。
師匠たちはまだ下で飲んでいる。
ぼくたちふたりに時間をくれたのかも知れない。
話さなくてはならないことはたくさんあるのに、
最初の言葉がみつからなかった。
     「明日はとうとうお別れだね」
      先に口火を切ったのはヴィオラだった。
言葉にした途端食欲をなくしてしまった様子で、
     食べかけのマフィンをトレイに置いてしまった。
ぼくはトレイを下げると、
買ってきた仔羊のぬいぐるみを、彼女の腕の中へ入れた。
記憶力のいいヴィオラは、その仔羊のことをちゃんと覚えていた。
  「この子、わたしが小さい時に持っていた羊さんと同じだ。どうして」
     「ヴィオラのことだから、きっと覚えていると思ったよ」
      結局、ぼくが選んだのはこんな羊のぬいぐるみだった。
人形ばかりを取り扱う舗でこれを見つけたのは、奇跡のようなものだ。
まだヴィオラが幼かったころ、
《総管理局》のクラウンベリーおじさんから買ったものと、全く同じ物だった。
   「リーレイは、いつもわたしが一番欲しい物を用意してくれたよね。
魔法みたいに」
      ヴィオラはあどけない笑顔でぼくを見ていた。
ローズ譲りの大きな眸を、ぼくは直視できない。
あの庭での生活の思い出の全てが、あふれ出してしまいそうになる。
 「わたし欲張りだから、もうひとつリーレイにしてもらいたいことがある」
     「いいよ。最後のわがままだから、聞いてあげる」
      考えなしに答えていた。
ヴイオラはしてやったりという表情になった。
    「それじゃ、今夜はわたしと眠って。
むかしみたいに、腕枕して、わたしが眠るまでお話をして、歌をうたって」 
      失敗した。
あれこれ言い訳を考えてみたが、ヴィオラが先手を打った。
     「最後のわがままでしょ。聞いてくれるって云ったじゃない」
     「でも先生たちが帰ってきたらびっくりするよ」
      ラムロワーズが云うことは大体予想がつく。
     「どうして。一緒に眠るだけなのに。一体なんの心配を?」 
      ヴィオラは明らかにひとをからかうような表情をしていた。
抱えた膝の上に顔を乗せて挑発的にぼくを見ている。
     「守人の剣士様、最後の仕事ですよ」
     「からかうなよ」
     ぼくは一気に酔いが回ってきたような気がした。
あんなに飲むべきではなかった。
やはり最後まで気を抜くものじゃない。
     「リーレイ、寒くないの。息が白いよ」
      寒気は再び忍び寄りつつあった。
ぼくたちの体質は全く冬を知らない。
この国はあまりにも寒くて、寿命さえ縮まる思いだった。
部屋の電熱器はまるで役に立っていない。
食事をして一度は暖まったのに、足の先からまた冷えはじめてきた。
     「今夜はふたりで眠ろう。その方が暖かいよ」
      ぼくはヴィオラが望むようにすることにした。
彼女を腕のなかに包みこんで、安心するのはぼくの方だ。
こんな時はいつも、鳥のような暖かい翼があればと思ったりする。
ずっとこの子を、この翼の下で眠らせてきた。
数ヶ月前から、ラムロワーズかぼくたちの様子を見かねて、
寝台を分けるように云うまでは。
     『血の繋がりのない男女が、抱き合って眠るとは何事か。
ヴィオラはもう赤ん坊ではないのだから、いい加減離れなさい』
 ぼくたちの血の位置関係を、もしかしたら彼は察しているのかも知れない。
しかしヴィオラの前では、今はまだ最大機密だ。
そんな話もするべきだったが、ヴィオラの笑顔を見ていると辛くなってきた。
香腺が開いてしまってから、ぼくはヴィオラの性を意識しすぎている。
自分のなかで壊れかけているものの存在がひたすら怖かった。
ローズの魔法の威力を、もっと信頼できたらいいのに。
     「今までわたしが欲しい物をたくさん用意してくれたけれど、
ひとつだけ、見当違いのものがあったのよ。なんだか判る? 」 
      今度はなぞなぞがはじまった様子だったが、
緊張感と寒気が遠いた後、ぼくは急激な睡魔に襲われたところだった。
     「それは銀色で、とてもきれいなものでした。なんでしょう」
      銀色。なんだろう。眠い。頭が働かない。
     「リーレイ、わたしの父様は誰」
      彼女は突然、質問を変えた。
一瞬、ぼくの心臓は激しく血潮を吐いたが、
泥のようにまとわりつく眠気を追い払うことはできなかった。
     「…羊」
      とだけ、ぼくは答えた。
寝ぼけていたわけではないが、
ヴィオラはぼくが寝言を云ったと思ったらしく笑っていた。
寝言でも冗談でもなかった。

      本当にこの子は、かわいいな。

  ヴィオラの笑い声を聞きながら、ぼくはそのまま眠りこんでしまった。






    「むかしはこの谷も、ひとが多くてにぎやかなところだったのだよ。
男も女もみな健康で、大きな街を作りつつあった。
生命の秩序を乱すきっかけとなったものは、
後に長い間に渡って女たちを苦しめた、あの病だ。
出生率が激減し、産まれてきた子供も育たなくなった。
原因は不明のまま。
人口が半分以下まで減ったとき、谷の血がこのまま絶える運命であることを、
誰もが予想した。この美しい人種は淘汰されるのだとね。
素晴しい霊力も、消えてなくなってしまうのだと。
植物たちとの平和な共存世界が壊れてゆくのが、恐怖だった。
私たちにとっては、この惑星ひとつが消滅するのと同じことだからね。
誰もが、植物界の心配までしていたよ。
そして、学才のある者たちが集まって、谷の科学力を集結させ、
この淘汰を食い止めようと動きはじめたんだ。
      それまでの自然な結婚形態が崩壊し、
健康体の女たちを囲う『箱庭』が生まれたのはそれからだ。
出産を望めない女たちは間引きされ、
健康な子宮を持つ女たちだけがひととして扱われるようになった。
戦力になる男たちは外からの勢力に備えて軍事を任されたが、
弱い男たちはその兵士たちの手でつぶされていった。
より霊力の強い者の遺伝子だけが重宝され、
人為的に培養されるようになった。
《中央》は強い血を管理しているつもりだったが、
いつしかその血を、手に負えないほどに狂わせてしまった。
彼らがなにをしでかしたのかは判らない。
しかし、根源にあるのは霊力だ。
あれは人の手で操作してはいけないものだったのかも知れない。
       最初は『箱庭』の数も多かった。
一時はひとりの剣士がいくつもの『箱庭』を管理していたものさ。
谷は花で溢れかえって、この谷の環境だけは健全でまさに楽園だった。
       だけど私たちは地に堕ちた。
やはりこの淘汰は、食い止めることができないようだ」
      そんなことを語ったのは、カルパントラだ。
リーレイが呼吸法を教わりに訪れたときだった。
普段は無口な老婆が、珍しく自分からこの谷の歴史を繙いてくれたのだった。
     彼女が暮らしている小さな家も、
かつては箱庭だったらしい。
花の生け垣はすでない。
     家だけが取り残されて、そこにカルパントラが住みついたという。
     「どうしてだろうね。なぜ谷の血は狂ってしまったのだろう」
      カルパントラは、その運命を嘆いているわけではなさそうだった。
常に冷静で、心を開いている彼女は、
全ての状況を甘んじて受け入れる態勢でいる。
そんな前向きな体質が、彼女の寿命を支えているのかも知れなかった。
     「なぜ、血が血を喰らう現象が起こってしまうのだろう」
      彼女はただ、不思議でならない様子だった。
     「血が血を喰らうって、どういうこと」
      リーレイは状況をあまりよく理解していなかった。
カルパントラはこの無知な子供をある意味では愛しそうに眺めて、
にっこりと笑うだけだった。
     「今は知らなくていい。
それより一ヵ月後の試合に備えよう。
レイ、呼吸法から得られることは、不動の平常心だ。
どんな状況においてもパニックに陥らないこと。
     冷静であれば、それまで見えなかったことまで見えてくるものさ」
      リーレイは生真面目にうなずいてみせた。
そう云えばひとつだけ不思議に思っていたことがあった。
先日の樹海での騒動のときだ。
     「あの時犬に追いかけられて、
一瞬、犬の動きがすごくゆっくりと感じられたときがあったんだ。
ぼくはパニクっていたけれど、頭の一部が妙に冷静で、
こう防御すべきだとか、こう反撃できるな、とか考えていて…、
でも身体は全然動かなかった」
      少年はがっくりと肩を落とし、ため息をついた。
     「ほお、それなら話は早いよ。習得すべき点は、大体そんなものだ」
      カルパントラは破顔一笑した。
焦りは禁物だ。
この子は後ろからあおり立てると、たちまちバランスを崩してしまう。
多分今までは、この子の歩調に合った教育がなされていなかったのだろう。
     「試合を画策したのはSA_-シオンだってね。
不利な試合と判っていて、なぜ受け入れた。
おまえには辞退する権利があるのに。
大体、時期として早すぎる。
通常、剣術試合は十三の節目を迎えてからなのに、
《中央》はなにを意図して許可を出したのだろうな」 
      不利な試合と聞いて、ますます少年は落ちこんだ。
     「サシオンに嫌われたくないというのが本音かも知れない。
それに、彼が云ったことは正論だと思ったから。
ぼくは自分の存在価値を確かめたい」
      カルパントラは眼を細めて聞いていた。
「サシオンってすごいんだよ。文武両道って云うのかな。
他のやつと違って強いだけじゃないんだ。
《研究院》にだって入れたんだよ。
ぼくはバカだから学者にも医者にもなれないし、
この世界で認められなければ、本当に谷で生きてゆく権利さえないんだ」
     「おまえにはRYの一族の血が流れているのだよ」
     「みんなはなにかの勘違いだって云っている」
     「おまえはどう思う」
    「ぼくも勘違いだって思う」 
      少年があまりにも素直に答えたので、
カルパントラは笑いだしてしまった。
     「RYは和の一族と呼ばれていてね。戦力だけでなく、
谷の調和のためにも一役かっていたのだよ。
生きるか死ぬかという状況に陥ると、谷の治安も乱れがちだ。
特に軍の中心部は殺伐としていて、些細なことで諍いが絶えなかった。
そのなかで谷の平和が保てたのは、
外剛内柔、温柔で平和主義的な気質のRYの存在があってこそだった。
逆にSA-JNNEの一族は嗜虐性が強く出て、手がつけられなかった」
     《研究院》主任に籍を置く男も、その末裔だという。
飛んだり跳ねたりする足の力があれば、兵役についていただろう。
狭い施設のなかに身を置くならおとなしくしていればいいものを、
あの男も常にトラブルメーカーだ。
カルパントラはそう云って笑った。
     「あの獰猛な血をうまく中和していたのも、またRYだ。
ふたつの血は、うまく陰陽のバランスがとれているのだろう。
SA-シオンがおまえを放っておけないのも、
そんな血の関係が関与しているせいかも知れない」
      しかしリーレイは、
サシオンはとうに自分に愛想をつかしてしまったのではないかと危惧していた。
彼はケニイが死んでしまうと、その亡骸には眼もくれなかった。
弱い者はつぶすという理念が、きっと彼のなかにはあるのだ。
だから弱い自分は永遠に認められることはない。
それなのになぜこんなにも、あの少年を慕ってしまうのか、
リーレイは自分が不思議でならなかった。
     「おまえにはRYの気質がよく出ている。
真の強さは、求めなければ与えられない」
      眼を覚ませ、とカルパントラは云った。
老婆の皺だらけの手のひらが額に触れたとき、
少年のちいさな心臓がトクンと鳴った。


      「試合まであと二週間。レイの対戦相手が決まった」
      《中央》が選んだのは、バンという名の少年だった。
いつもリーレイを追いかけまわしている樹海の不良のひとりだ。
サシオンが予想していた通り、ふたりの力の差は歴然としていた。
年齢も五つも離れている。
      「レイを噛ませ犬にするつもりですか」
「まだ八歳の、しかも成績最下位のレイを試合に参加させると決めた君だって、
そういうつもりだったのではないか」
      『博士』はいつものように端末の画面に向かったまま云った。
「どのみち今のままじゃ誰を選んだって同じだろう。
どうなんだ、レイ変化は起こったか」
       サシオンは黙って首を振った。
何度か木剣の訓練に立ち合ったが、上達した兆しもなく、
実戦訓練となれば相変わらず立ちすくみ、話にならない有様だ。
しかし、『博士』はあの少年のなかで起こりつつある、
変化の予兆を見つけていた。
   「先日、《研究院》の内部でちょっとした事件があったんだよ。
あのレイが主任を切りつけたんだ。
信じられるかい、あの鬼教授に怪我を負わせたんだよ」
       その話をはじめて聞いたサシオンは心底驚いた。
『博士』は愉快そうだった。
      「ローズが受精卵を受け取りに来ていたときでね、
手術台の上で少し取り乱したんだな。
あの娘には時々そういうところがあって、
我々は慣れていたのだが、
外で待機していたレイが何事かと思ったらしく飛びこんできたんだ」
       ローズの取り乱しようが普通ではなかったので、
リーレイはとっさに、
身近にいた教授がなにか彼女に危害を加えたものと勘違いしてしまったらしい。
ほとんど無意識による行動だった。
ローズが殺されるとまで思った。
自発的に針を抜いたのはそれがはじめてだった。
       切りつけられた教授は、突然視界に飛びこんできた少年が、
あの危険な武器を抜いているのを見て、
はじめて自分が負傷しているのに気づいた。
痛みは感じなかった。もっとも後半は、怒りで我を忘れてしまっていたせいだ。
驚いたのはローズも同じで、すぐにリーレイに制止の声をかけた。
我に返った少年は、自分がなぜそこにいるのかさえ判らない状態だった。
ぼんやりしているすきに、教授に殴りつけられていた。
      「あの鬼教授、短銃を隠し持っていてね、
もう少しで引き金をひくところだったよ」
       鬼教授と呼ばれている男の本性を、サシオンは察していた。
はじめから学者肌ではないのだ。その男の怒りを静めたのは『博士』だった。
      「その子は純血種の子供です。
撃ち殺してしまったら、我々は貴重な子種を失うことになりますよ」
      『博士』は端末の別の頁を開いて続けた。
      「あの子の戦力を徹底して調べてみたんだ。
まる一日かけて計測にあたった者は疲労困憊したけれどね、
おもしろい結果が得られたよ。
速力ひとつとってみても、
普通なら計測の回数を重ねれば疲労して記録が落ちてくるものだが、
あの子はその逆だ。
次第に記録を更新してゆく。
疲れ知らずと云うのかな、なんというかあの子は、
状況に慣れてコツさえつかめば、どこまでも成長できる体質なのかも知れん。
これはカルパントラからの助言なのだが、
あの子が気を散らす環境じゃ、どんな訓練も教育も意味がないってことなんだ」
       そこまで話して、『博士』はやっとサシオンに向き直った。
「残りの二週間、あの子は他の子供たちと隔離して指導する。
樹海の不良どもに伝えてくれ。
試合当日までレイに手を出すことは禁止だ。
あの子は生命をかけている。
我々も全面的にサポートすることに決めた。
だから規則を破った者には容赦しない」
       サシオンは笑みを浮かべてうなずいた。


 
 『博士』が単独で『薔薇の庭園』にやってくるのははじめてのことだった。
先日の事件のこともあり、彼の姿を見つけたローズはにわかに緊張した。
リーレイはカルパントラのもとへでかけている。
庭にいるのは、ローズとヴィオラの母娘だけだ。
      「本当にここはきれいな庭だね」
      『博士』は事件のことにも、
あの日無駄に捨てられた受精卵のことにも触れなかった。
      庭のなかに入る気もないらしい。
      「用はすぐに済むよ。
一年間、君には休暇が与えられることになった。
受精卵の提供は休止ということだ。ゆっくり身体を休めて、来年に備えてくれ」
       それはローズにとってはなによりの朗報だった。
しかしなぜ、突然そんなことになったのか判らない。
      「レイの申し出が受理された。
交換条件で、あの子は十日後の試合に出ることになったよ。
この試合の意味が、君には判るよね」
      「…私のために?」
       ローズの声が震えていた。
『博士』は肩をすくめてみせた。
     「試合は本人のためだ。
どうせ生命を賭けるのだからと、あいつも考えたのだろうな。
      この条件を《中央》に突きつけてきた。
君が休暇を辞退しても、あの子は試合をやめたりしないだろう。
男の子だから仕方ないよ」
     のところずっと、リーレイとはろくに会話も交わしていなかった。
外に出てゆくのが、試合に備えての訓練のためだったとは、
ローズが知るはずもなかった。
それにあの子は、もう以前のようには自分に甘えてこない。
時折思いつめている様子は見られたがなにも語ってはくれない。
男の子だから仕方がない。
ローズもそう思っていた。
      「あの子は、勝てるの」
      「無理だね、今のままでは」
      『博士』は、庭で遊ぶヴィオラを眺めていた。
そしてふいに、話題を変えた。
      「ひとつだけ確認しておきたいことがある。
君はこの先、もう妊娠しないつもりでいるのか」
      『博士』は少女を見つめたまま云った。
「受精卵も問題ないし、健康体の君が妊娠できないなんて妙な話だ。
女は望まない妊娠はしないとか、そんなことを云う輩もいる。
実際のところどうなんだ」
       無神経な男の言葉に、ローズは怒りを覚えた。
誰があんな形での妊娠を望むだろう。
      「それでは、私が希望すれば、
貴方は私にネルの遺伝子をくれるというの」
      「ネルの遺伝子だって?」
      『博士』は真正面から、ローズの孔雀石の眸をとらえた。
「君は彼の子供を望んでいるのか。
冗談はよしてくれ。
彼は君の守人だった男、つまり君とは一番血の繋がりの濃い男だぞ。
それに彼は、もうこの世の人間ではない」
      「純血種の遺伝子よ。
貴方たちが最も利用価値を認めているRYの血だわ。
培養して保存してあるのでしょう」
      『博士』はしばらく黙ってローズを見つめていたが、
にわかに笑いだした。
      「君たちもご多分にもれず禁断の恋に陥ったというわけか」
      『博士』の笑い声は、耳に障るような嘲笑に変わった。
「これはまったく気づかなくてすまなかった。
彼が服毒死をはかった時は、さぞ辛かったろうに、ローズ」
       この男が真面目に取り合うとは思っていなかった。
それでもローズは、長い間ずっと胸に秘めてきた想いを、
このまま風化させてしまうわけにはいかなかった。
笑われても誰かに告白しておきたかった。
      「…私は、あの恋を恥ずべき行為だとは思っていない」
      「恋愛の魔力とは恐ろしいものだ。それで君たちは結ばれたのか」
      「くちづけを交わしたわ」
       あまりにも正直にローズが答えたので、
彼は逆に怖気づいたようだった。
      「私たちはそこで、残り全ての想いを凍結させた。
貴方たちの思い通りにはならない」
      「どういう意味だ」
       最初で最後のくちづけと抱擁の後で、剣士は云った。
彼はひとつの疑問と、それに対するひとつの確信を、
最愛のローズに語っていた。
      『私たちは意識を操られているかも知れない。
血が血を喰らうなんて不自然な現象が、
連鎖して多発するなんて説明のしようがない。
この破滅劇の裏で糸を引いている者がいるのではないか』
       産まれた子供の教育には《中央》も関わっていた。
いつの日か子供が生まれたら彼らの手に渡すべきではないと、
彼は忠告を残していた。
      「我々研究員の努力も空しくなるようなご推論だね。
どう教育しても箱庭内の近親相姦が絶えない現状に、
我々がどんなに頭を悩ませているか察してほしいよ。
制し得ない情火の火種の責任まで問われるなんて心外だ。
母性や父性を育てても情念には勝てないらしいな。
…でも、ネルの推理もばかにはできないかも知れない。
《研究院》のなかには、あの鬼教授みたいな危険人物もいる。
彼は破壊工作が大好きだからね」
     「しらじらしい。貴方だって、怪しいものだわ」
      強気なローズの発言に、『博士』は苦笑をもらした。
      「なぜ、私が? 《研究院》のなかで一番の長生きだからか」
       ローズは、彼の身の上を話題にしたくなかった。
しかし、ローズの一言は『博士』の逆鱗に触れてしまった。
      「私があの場で、ひとの二倍も三倍も長く生きているからか。
不毛な挑戦を続けているうちに、気が狂ってしまったとでも」
      『博士』が生け垣越しに腕を伸ばしてきた。
それはあやうく、ローズの細い喉をつかむところだった。
彼を止めたのは、生け垣の薔薇の細い蔓だ。
それは思いもよらない力強さで、彼の腕を締めあげていた。
       幼いヴィオラが、仔羊を抱いたままこちらを見ていた。
その眸のなかに、燃えあがるような感情を読み取った『博士』は、再び笑った。
      「たいした霊力だな、チビちゃん」
      『博士』が怒りを静めると、薔薇の蔓は自然に外れた。
しかし少女が、彼から眼を離すことはなかった。
『博士』はヴィオラの霊力のデータをまるで把握していなかった。
それはこの庭の幼い剣士が、
《中央》と少女の接点を完全に断ち切ってしまっているせいだった。
彼はどんな呼び出しにも全く応じようとしない。
なにかにつけて立場の弱いあの少年は、
この件に関する限りは、一歩も譲歩を赦さなかった。
      危うきに近寄らず。
『博士』は感情を抑えた。
    「すまない。私は君たちがうらやましいんだ。
力いっぱい闘える剣士たちも、子供を産める箱庭の女たちも。
生きるための闘いに参戦できる身体がある君たちを、私はただうらやましい。
研究者なんてあくまでも脇役だからな。
どんなに辛い恋愛でも、それができる君たちの意識は自由ではないか。
身体や心に傷を負っても、記憶は残るだろう。
愛し愛された記憶が。…私は、それが望めない」
    舞い散る白い花弁のなかで、ローズはひたすら沈黙を守った。
この男の身の上もまた過酷だ。
心穏やかに、この地で暮らせる者などいるのだろうか。
      「ひとより成長が遅いせいで長命なのに、
ずっと傍観者でしかいられない。
私には誰かを愛したいという感情も、子孫を残すための子種もない。
なにもかも投げだしたくなる時はあるさ。
あの強い血をつぶしてやろうかと、考えるときも」
  それでも、ローズはこの男に対する疑念を拭い去ることができないでいた。
この男の一部は確かに狂っている。
      『博士』はそれだけ云うと、庭を離れていった。
ヴィオラが、ローズのもとへ駆けてきた。
ローズは娘を抱きあげて頬擦りした。
     「ママを守ってくれたんだね。ありがとう、ヴィオラ」
   愛し愛された記憶という言葉だけが、ローズのなかに残っていた。
       最後の夜に、あの剣士は云った。
      『いつの日か子供が産まれて、君の庭に幼い剣士がやってきたら、
君はその子に魔法をかけてあげなさい。なににも負けない、強い愛の魔法を…』
       愛の力に勝るものなど、ないはずだから。
       その言葉を残して、あのひとは生命を絶った。
そうでもしなければ、私たちの恋を終わらせることができなかったから。
多分、私たちは破滅していただろう。
お互いの血が愛しく、食べつくさない限りは満たされなかった。
それは赦されることではなかった。
       私は、思い出だけで生きていける。
       それだけ強い愛を、もらったから…。

        あの日無念にも、死の選択をした剣士が抱いた疑惑に、
感づいた者がもうひとりいた。
カルパントラのもとで、呼吸法を習得しようとしていたリーレイだ。
深い入静の状態に至っていた少年が、ひとつの真実のしっぽを捕らえていた。
      「誰かが、ぼくたちの意識をいじっている…」
       カルパントラは驚いて少年を振り返った。
彼はたった今覚醒したような様子で、ぼんやりと眼を開けていた。
      「薔薇の生け垣を操っているのは、…ぼくだ。
あれは薔薇たちの意思なんかじゃない」
      「どうしたのだ、リーレイ、突然」
      「あの庭にローズを閉じこめているのは、ぼくだ。
無意識で、あのひとを逃がしてはいけないと思って、薔薇たちを動かしている。
頭のなかに消せない暗号がある。…誰かが植えつけた」
       カルパントラはそっと少年を抱きしめた。
リーレイは覚醒しているわけではなかった。
意識と身体が分裂するほど、深いところにいるようだ。
細工と封印が施された、意識の小部屋の鍵を開けてしまったのだ。
カルパントラは冷静に、ゆっくりと少年を誘導し、
現実世界に引き戻した。
我に返ったリーレイはすっかり青ざめて、カルパントラにすがってきた。
     「怖いよ、おばあちゃん…、助けて」
       カルパントラは強く抱きしめてやった。
吐き気がすると訴えながら、少年の身体の慄えはなかなか止まらない。
      「頭のなかに暗号が入ってくる。
ひとつだけじゃない、たくさん、次々に、無理やり入りこんでくるんだ」
      「幻覚だよ。今は誰もいない。忘れてしまいなさい」
      《中央》が霊力の管理をしているのを、
カルパントラは知っていた。
管理者に『庭の生け垣に鍵』をかけさせたのも、政策の一環であろう。
しかし連中が、どこまで多岐に渡り、
その意識を支配しているかまでは知れない。
勿論、無意識に対する働きかけなので、
本人には気づかれずに遂行すべきはずのことであった。
全ての管理状況を正確に把握している者などいるわけがない。
       なんてことだろう。
今、こんな状況下で、面倒な意識が眼を覚ましてしまった。
少年は落ちつくどころか、すっかり怯えてしまっている。
       こんな状態では、とても無理だ。
       カルパントラは、リーレイの力の限界を悟っていた。
       サシオン、おまえの期待通りにことは運びそうにない。
これはあまりにも、無謀な賭けになるだろう。
       試合の前日にこんなことになるなんて…。







      「リーレイ、起きろ。汽車の時間に間に合わなくなるぞ」
       ラムロワーズの声で、眼が覚めた。
カルパントラの家にいると錯覚したが、そこは宿の一室だった。
隣ではヴィオラが、丸くなったまま眠っている。
今日これからしなくてはならないことを思い出して、
ぼくは一気に力が抜けてしまった。
      「なにをぼんやりしている。さっさと起きるのだ」
       ラムロワーズが、ものすごい勢いでぼくの荷物をまとめていた。
      「くそっ、全員で寝過ごすとは」
    アークも寝台の上に起き上がったまま、まだ動けない様子だった。
      「昨夜は飲みすぎた」
    独り言のようにつぶやいている。
      「部屋へ戻ってみれば、おまえはなんの仕度もせずに、
ヴィオラと一緒にそこで…」
       ラムロワーズは、けしからんとばかりにぼくを睨みつけてきた。
「ぎょっとしたぜ。別れを前に錯乱したのかと…、
おい、時間を確かめてみろよ、
      さっさと仕度をせんか、ばか者!」
       時間を確認したぼくは、やっと眼が覚めた。
かなりまずい状況になっていた。
どんな云い訳をしても、列車は待ってはくれない。
電熱器は作動していたが、部屋は凍りつくほど寒く感じられた。
外は明け方から降りだした雪で白くなりはじめていた。
急いで仕度をしていたぼくは、
その時になって、ヴィオラがひどい熱を出していることに気づいた。
昨夜から寒気を訴えていたし、
やはり風邪をひいてしまっていたらしい。
こんな日に別れなくてはならないなんて。
なにもかも放りだしたくなってきた。
      「ヴィオラ…」
       ぼくは寝台の横にかがみこみ、ヴィオラの髪を撫でた。
      「その子は心配しないでいいよ。後で医者に連れてゆくから」
       アークが云った。
だけどぼくはその場から動けなくなっていた。
      「…こんな時に、出発なんてできません」
      「なにを云いだすのだ」
       思いもよらないことに、ラムロワーズの張り手が飛んできた。
「しっかりしろ。おまえよりも、辛いのはこの子だろう」
       ラムロワーズはいつになく厳しい顔をしていた。
      「先生」 
       云いかけたぼくの背に、彼は手早く外套を回した。
      「寝過ごして正解だったな。
名残を惜しむ時間があったら、出発などできやしない」
       その時、ようやくヴィオラが眼を覚ました。
熱っぽい眼でぼくを見つけると、慌てて寝台を降りようとした。
      「ヴィオラ、時間がないからな。別れは手短に」
       ラムロワーズとアークは部屋を出て行った。
気を遣ってくれたのだろう。ぼくはすぐにヴィオラを抱きしめた。
    「昨夜はたくさん話をしたかったのに、うっかり眠ってしまったな」
      「わたしもずっとリーレイを見ていようと思ったのに。
でも、いい夢を見たよ。
あのお庭でクッキーを食べたり、湖までお散歩したりするの。
なぜかこの羊さんが本物で、わたしたちの後をどこまでもついてくるの。
一緒に眠っていたせいだよね。
暖かい、春の夢だった。
なんだか、わたし、
貴方の霊力の一番暖かい場所に護られているのだって、感じていたのよ」
       ぼくたちふたりは、しばらく黙っていた。
      「君に伝えなければならないことが山ほどあるけれど、
ひとつだけ話をしておくよ。
…レンデフルールにむかし、アンジェリカという女の子がいたんだ」
       ヴィオラは彼女のことをあまり覚えていない。
箱庭は各々独立していて、交流はあまりなかったせいだ。
ぼくが南の国で死なせてしまったサシオンのことも、
よく覚えていないようすだった。
      「谷を出た後、あのふたりの身に起こったことを、
ぼくたちの間で繰り返すわけにはいかないんだ。
そのことは、いずれ君も知ることになる。
あの谷の秘密は、全世界に知れ渡ることになるから。
君の疑問は、全て明らかになるよ。
でも悲観しないで、過去のことは全て思い出に変えてしまいなさい。
あの谷の因縁を越えたと確信したときぼくは君に逢いにくるよ」
      「逢えるの。これが最後ではないんだね」
       最後にしてしまったら、
永久にこの場を立ち去れそうになかった。
またいつか逢えると思えば、
どれだけ勇気づけられることだろう。
ぼくの決心は、最後の最後にくじけてしまった。
次の再会が、どんな事態の引き金になるか判らないのに。

       ヴィオラの右手に装着していた武器を外した。
それは小さな手には、とても重そうに見えた。
ヴィオラは自由になった手を不思議そうに眺めている。
      「この世界では必要ないものだから、外していくよ」
       そう云いながら、自分はまだ外せずにいた。
黒い手袋の下に隠している。
これを外せる日がいつくるかさえ、判らないでいた。
      「もうひとつだけ教えて。わたしの父様は誰」
       ぼくは昨夜の質問にまだ答えていなかった。
「リーレイは羊だって、寝言で」
  「ヒントをあげようか。むかし、君がかわいがっていた仔羊の名前」
      「そんな、名前まで覚えていないよ」
      「思い出してごらん。
でも、その人物は遺伝子学的に父親の位置にあるだけで、
ローズの夫だったわけでもない。
君の父親を名乗るのは筋違いだし君には必要のないひとだ」
       ヴィオラはぼくの答えに押し黙ってしまった。
時間が差し迫っていた。
       谷特有の鳶色の髪と、孔雀石の眸を持つかわいいヴィオラを、
今日を限りに記憶の奥に封印してしまおうと思った。
多分、この子は大丈夫だ。
《中央の中の誰か》の悪質な洗脳は受けていないはずだ。
あの『薔薇の庭園』でローズと共に護りぬいてきたから。
      今となっては一番の危険人物と化した自分が、
この子から離れれば全てはうまくいく。
      この子は、必ず倖せになれる。
      「さよなら。立派な庭師になれよ」
       ぼくはもう一度強く、彼女を抱きしめた。
もう顔を見ることはできない。
そのままヴィオラから離れた。
      「リーレイ…!」
       一度だけ、ヴィオラが叫ぶようにぼくを呼んだが、
振り返らずに扉を閉めた。
       外ではラムロワーズとアークが待っていた。
アークとはここでお別れだった。
汽車のなかで食べるようにと、朝食を用意していてくれた。
      「ヴィオラを頼みます」
       ぼくたちは握手を交わした。
      「元気でな。困ったときは、いつでも連絡をよこしなさい」
       彼はいつまでも手を振っていてくれた。
      ぼくとラムロワーズは駅へ急いだ。
舞い落ちる雪が激しくなっていて、
もうヴィオラのいる部屋の窓は、見えなくなっていた。 





       試合当日。 

       初陣に臨む者が身につけたという、古い戎衣が用意されていた。
身なりを整えにカルパントラの家を訪ねたリーレイは、
否応なしに厳粛な気持ちにさせられた。
緊張感も高まってくる。
高ぶる気持ちをほぐそうとするかのように、
柔らかな香が焚かれていた。
       カルパントラはリーレイの髪を束ね、
純白の長い布を頭に巻きつけた。
布のしっぽは長く背中の方へ垂らしておくのが正装だった。
額の布の間に薄い石を忍ばせたのを、リーレイは不思議に思ってたずねた。
      「これは額を木剣で割られないための防具だよ」
       聞かなければよかったと後悔した。
そんなに激しい戦闘になるのだろうか。
      「石には大きな眼の絵が描きこまれていてね、
両目をつぶされても、第三の眼が働くようにとのお呪いもこめられている」
       少年は、もう説明は充分だというように両手を挙げた。
      「それより、対戦相手は誰に決まったんだろう」
       相手の名は、試合当日までふせられていた。
カルパントラは苦々しい思いで、バンの名を告げた。
それは少年が咬ませ犬として戦場に立たされることを意味している。
      「どうして、バンなんだ。かなうはずがないじゃないか」
    カルパントラが危惧したとおり、リーレイは慄えあがってしまった。
      「落ちつきなさい、相手が誰であろうと、戦法は変わらない。
試合中は呼吸を整え、意識の声に忠実に。
相手の言葉にも、まわりの野次にも耳を貸すな。
自分の呼吸と声だけを聞くのだよ」
       カルパントラも平静を装いながらも必死だった。
「呼気と吸気それだけだ。
意識が乱れそうになったら、今までで一番幸福を感じた瞬間を思い出せ。
いいね、落ちついて。私も試合に立ち合う。
離れたところから誘導するから、どうしようもなくなったら、私を探しなさい」
       リーレイは無言でうなずいた。
呼吸を乱すとたちまちパニックに陥る。
それはこの一ヶ月の間で、唯一体得できたことだった。
暴れだす心臓も、呼吸ひとつで静めることができるのだ。
      「まだ時間がある。一度お庭にお帰り。
私は試験場で待っているよ」
       祭壇で清めておいた木剣を手渡してから、
カルパントラは暗澹たる思いで少年を見送った。
試合に欠くことのできない、
一番肝心なことすら学ばせてあげられなかった。
あまりにも時間がなかったせいだ。
それは、闘いに挑む者の気迫だ。
気迫どころか、少年は怯えきっている。
これまでに何人もの少年剣士を指導してきたカルパントラだったが、
      こんなに悔いを残したまま試合当日を迎えたのははじめてだった。
       大体、あの子は幼すぎる…。
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秘密の花園 第4話 子羊の名前1

2011-12-08 | 小説 花園全集

第4章 仔羊の名前





      ママ、お願い、クッキーを焼いて。
星やお花や、鳥やお月様のかたちのクッキーを。
たくさん、たくさん、焼いてほしいの。

 
      ヴィオラは時々、そんなおねだりをしていた。
大抵、クッキーの缶が空になると、
空き缶片手にママに告げにゆくのだった。
「いくつか約束があるよ」
ママは釘を刺していた。
「うん。いつもおやつの時間に、
決まった数のクッキーをミルクと一緒に食べる。
約束するよ」
ママは笑ってうなずいてくれたけれど、
そのおねだりは、彼女にとっては少々酷な注文だった。
彼女は病みがちで足も弱く、長時間キッチンに立つことは稀であったからだ。
それでも、翌日にはぎっしりクッキーがつまった缶が、
テーブルの上に置かれていた。

ある朝、ヴィオラはママとの約束を破って、
缶のなかのクッキーを食べつくしてしまった。
あの谷では珍しく、冷たい雨が降っていた朝だった。
それは無理もない話で、いつもの朝食の時間になっても、
ママが寝室から出てこなかったからだ。
ヴィオラはおなかを空かせて、一心不乱にクッキーをほおばっていた。
当時のリーレイはまだ火を使うことも赦されておらず、
ミルクひとつ温めることもできずにいた。
やがてヴィオラがすべてのクッキーを食べつくして落ちつきを取り戻した後、
ふたりはそっとママの寝室のドアを開けた。
彼女はまだ、寝台のなかにいた。
ヴィオラが駆け寄ると、青ざめた顔をあげようやくといった感じで云った。
「おなかが痛いの。ドクターを呼んで」
ただならぬ様子を察して、リーレイは部屋を飛びだした。
同じようなことは過去に何度かあった。
なにが起きようとしているのかも判っていた。
こんな時は、《研究院》の『博士』を呼びださなければなけない。
不測の事態に備えているのは常に彼だ。


緊急の連絡を受けて、医師たちはすぐにやってきた。
白衣の男たち数名は、まっすぐにママの寝室へ向かった。
ひとりだけキッチンに入ってきたのはプリムラだ。
持ってきたシチューをすぐに温めてくれているようだ。
「おなかが空いているだろう」
プリムラが云うと、
ヴィオラはうれしそうな顔をしてしがみついた。
名前で呼ぼうとはせずに、なぜか「ママ」と呼んでいた。
プリムラは否定しないが、女の性を捨てた人間だった。
そういう、元は女性だった人はこの谷にはたくさんいる。
谷では、女性の出生率が極めて低い。
その上、健康な子宮を持つ者も少なかった。
子宮が石化する奇病が、女性たちを苦しめていた。
残酷な病で、生命の危険はないものの、
常に不快な痛みがつきまといひどく情緒不安定になる。
大抵の女性は子宮をつぶし、精神の面からも性を捨てることを選択した。
学才のある者は研究者となったが、
基礎体力の低い者たちは兵役にも就けず、身の置き場がなかった。
彼女たちが行き場をなくして樹海の奥へ消えても、
それを助ける者はこの谷には存在しない。
その厳しい現実を、リーレイはカルパントラから聞いていた。
カルパントラもまた、生涯子供に恵まれなかった女性だ。
才知と徳行に優れながらも、《研究院》には入らず、
彼女独自のスタイルで生きのびてきた。
この谷では一番の長老で子供たちには「おばあちゃん」として慕われ、
大人たちからも一目置かれた人物だった。
カルパントラも、プリムラも、
生き延びる道が拓けていてよかったとリーレイは思った。
しかし、健康な子宮を持つ、ローズという名のママもまた、
過酷な状況下に置かれていることにも気づきはじめていた。

「プリムラ、ローズママは大丈夫かな」
シチューの皿を前にしても、リーレイは不安で食べる気にはなれなかった。
「おまえが心配してもしかたないよ」
プリムラはいつだってクールだ。
当然だが、救いのないことを平然と口にする。
でもその眼はやさしかった。
谷特有の孔雀石のような眸が、包みこむように少年を見ていた。
「与えられる試練はそれぞれだから、
ひとの分までおまえが背負いこむことはない」
それから、早くシチューを食べるように促すのだった。
リーレイが心配していた通り、
ローズママは切迫流産の兆候があると診断され、
急遽《医務局》に搬送されることになった。
「先月移植した受精卵がうまく育っていないようなんだ」
いつも杖をついて歩いている『博士』が、診断結果を告げた。
「今回もだめかも知れない。数日入院することになるから、
ヴィオラを頼むぞ。食事はプリムラが作りにくる」
その『博士』はいつも子供たちに対しては好意的な男であったが、
リーレイはなぜか打ちとけることができずにいた。
度の強いメガネの奥の眼がどうしても好きになれなかった。
将来、この人物を敵に回すことになろうとは、
子供には知る由もないことだったが、
宿命じみたものを感じとっていたのかも知れない。
名前を聞いたこともあったが、いつも『博士』と呼んでいた。
若手の研究員だった。

その『博士』の台詞通り、ローズママはその日の夜に流産してしまった。
冷たい雨が続いていてヴィオラもリーレイもひどく寂しい思いをした。
ローズママの身に起きたことを薄々ながらも理解できるリーレイはことさらに、
その日の雨を冷たく感じた。
誰かがうわさしていた。
受精卵は完璧だった。
何度健康な卵を植えつけても、ローズは流産してしまう。
彼女は健康体のはずなのに。

『おそらく、彼女自身が、妊娠を望んでいないのさ』






氷雨の降る街へ来ていた。
ぼくとヴィオラは、この国の国境で東と西に進路を分ける。
出発は明日の予定だ。
あの谷、『レンデフルール』を出て一年、
ぼくたちを取りまく環境は一変していた。
意識のなかではいつまでも幼かったヴィオラは、
もはや子供ではない。
ぼくの香腺も開いてしまった。
ぼくは、かつてローズが命がけでかけてくれた魔法が、
消えてゆくのを恐れるようになっていた。
家族ゲームはもう終わってしまっている。
カルパントラが乙女たちに語っていた新天地、
『秘密の花園』まで、ヴィオラを案内することを断念したのは、
奇跡のように巡り逢えた師匠のおかげだ。
この世界で庭師を志したいと希望したヴィオラにはなくてはならない、
高名な庭師だった。
今後の彼女の未来に必要なのは、彼であってぼくではない。
別離を明日に控え、ぼくは街に出ていた。
お世話になったふたりの師匠と、
かわいいヴィオラに、なにかを贈りたいと考えたからだ。
師匠たちの分はすぐに決まった。
だけど、ヴィオラにふさわしい物が、なかなか見つからないでいた。
最近髪が長くなってきたヴィオラに、
少し高価な櫛でも買ってあげようかと思いつき、
一軒の舗の前で足を止めた。
舗の主人は、手鏡と櫛がセットになったものを出してきてしきりにすすめた。
「東洋からの輸入物ですよ」
鏡の裏の彫刻が繊細できれいだった。
しかし、鏡に映った自分の眼を見るや、
すっかり買う気も失せてしまった。
この世界では目立ちすぎる眼の色がやけに気に障ったせいだ。
それに短髪の自分にまだ見慣れていないこともある。
ぼくは頭を下げて鏡を主人に返し、店を出た。
横殴りの冷たい雨が、外套をずっしりと重たくしていた。
傘をさしていても、その下をかいくぐるようにして入ってくる。
冷気で耳が痛くなり、少し吐き気がしてきた。
この寒さには慣れそうもなかった。
首の後ろから入りこんだ冷気は背中を冷やし、
どんどん体温を奪っていく。
ぼくは咳きこみながら、足早に歩きはじめた。


髪を伸ばすように命ぜられたのは、八歳の頃だ。
あの長い髪を切ることは、ヴィオラとの絆を断つことを意味している。
しかし、面倒な事態を引き起こす霊力は、
明らかに弱まっていた。
街路樹たちは、凍てつく季節のなかで静まり返っていた。
元気がいいのは、樅の木ぐらいのものだろう。
派手な飾りをつけられた樅の木たちだけは、
舗の軒下や大広場で、雪を降らせと天に向かって歌っていた。

『そこで凍えている者、こちらへおいで』
弱くなっているはずのぼくのアンテナに波動を投げかけてきたのは、
大広場の中央に立てられた巨大な樅の木だった。
ぼくは促されるままに近づき、その幹にもたれた。
エネルギーを分けてもらわないと、宿までたどり着けそうになかった。
『そんなに寒いのは心のせいだよ』
樅の木はずばり指摘してきた。
『心の中に誰かがいるね。おまえを凍えさせるのは、
その子との別離か』
ぼくは黙っていた。語ったところで、どうにもならないことだ。
眼を閉じると、真っ先にあの子の笑顔が浮かんでくる。
云うまでもなく、ヴィオラはローズに似てきた。
そして自分と重なってくる部分も持っている。
似ないわけがないのだ。
なぜなら、あの子は…。
「力を分けてくれ、寒くて死にそうだ」
喉の奥でひどい音がしている。
咳きこむたびに、軽い眩暈に襲われた。
『もっとその子の幻影を見せておくれ。かわいい子だ。
エネルギーが溢れ出ている。見ているだけでこちらまで元気になる』
樅の木が、心のなかをのぞいている。ぼくは少し笑った。
『その子のエネルギーは、寒い国に春を呼び、
砂漠化した大地に緑を呼び戻すだろう。
でもまだ幼い。いい環境で育んできたのだな。
心に闇がないよ。いい未来が開けているといいね』
カルパントラのようなことを云う。
地球上の植物たち全ては意識の根で繋がっている。
彼はカルパントラのことを知っているだろうか。
たずねる気にはならなかった。
故郷のことはもう誰にも語りたくない。
身を離すと、樅の木は『もういいのか』と心配した。
「ありがとう、もう充分だ。
あの子に、アナタのことを伝えておこう。
ここに来るように云っておこうか」
『おまえの想いをのぞいただけで満たされた。
ここへ来る必要はない。
死に急いではいけない、銀の獅子』
突然の言葉に、ぼくは驚いて大樹を見あげた。
『おまえの力も、この惑星には必要なのだ』
樅の木は話を終えると、
また先程の雪を呼ぶ歌をうたいはじめた。
周りの小さな樅の木たちも、彼にならって歌声を合わせた。
ぼくは大広場を後に、雨のなかを歩きだした。
ローズやヴィオラのためにまだなにもできずにいた、
名ばかりの少年剣士だった頃を、懐かしく思い出す。

あの頃のぼくは、『銀の獅子』になりたいと思っていた。








その称号は、優秀な剣士に与えられるものだった。
基礎体力や、強靭な精神力、総合的戦力と、
人知を超えた霊力を産まれながらに持っていた少年たちは、
谷の軍人としての教育を受けることになっていた。
しかし当然その戦力には個人差があり、
力関係による身分の違いは歴然としていた。

    当時のリーレイは、『薔薇の庭園』を出ることに恐怖すら感じていた。
特定の庭に暮らさない少年たちは、樹海のなかで集団生活を送っていた。
総合訓練のときは一緒に過ごす同じ立場の少年たちだったが、
なぜか仲間意識が育たなかった。
樹海の少年たちは常に団結しており、
リーレイのように特別に庭を与えられた者を特別視していたし、
力の弱い者の存在を認めようとはしなかった。
彼らは好んで汚れた戎衣をまとい、《中央》からの食物の支給さえ拒んでいた。
誰からの拘束も受けない生活を誇りにしている彼らは、
箱庭で暮らし《中央》の徹底した管理の下で生きている者を、
ことさらに嫌悪していた。
成人すれば否応なしに、軍のキャンプに身柄を移されることになるのに。
《中央》はそんな少年たちを、十三歳という一定の基準に達するまでは、
なにをしようと黙認することに決めていた。
少年たちはなにかにつけて凶暴だった。
「チビのくせに、ろくに戦えないやつが女を囲っていやがる」
彼らは、庭を出るリーレイをつかまえては、
痛めつけるようになっていた。
リーレイは平均値よりも身体が小さく、
実戦となるとまるで役に立たない少年だった。
博士たちは、素質はあると繰り返していたが、
本来持っているはずの力を発揮できずにいたのだ。
「おい、レイ、おまえは本当にRYの一族の血を受け継いでいるのか」
少年たちは交代で、この小さな少年を容赦なく殴った。
標的はいつも無抵抗だった。
少年たちが自分の血の由来を、なにかの勘違いだろうと笑っているのに、
口答えひとつしない。
RYの一族と云えば、『銀の獅子』の称号を手にする者が多い、
剣士の名門だ。
その血を受けた者がこんなに軟弱とは不甲斐ない。
反撃すらしないなんて。
一方リーレイはなぜ少年たちがあらぶる血を制御できずにいるのか、
理解できなかった。
彼らは常に何かに苛立ち、殺戮を好んだ。
樹海の小動物をむやみに殺してしまうのも彼らだ。
少年たちは利手に装着された針を、いつ抜いてやろうかと、
そればかり考えているようだった。
少年たちが無秩序に樹海の動物を殺してしまうので、
神聖な樹海が死臭で満ち、一時はひどい状態になった。
無干渉を決めこんでいた《中央》もさすがに見かねて、
理由もなく動物を狩ることを禁止したほどだ。
規則を破った者は厳しく罰せられ、
それでも治らない者は、強制処置と呼ばれる手術を受けることになる。
頭に包帯を巻いて戻ってきた者は人が変わったように大人しくなるという。
大抵は樹海での生活に拒否反応が生じて、
軍のキャンプに逃げこむようになっていた。
少年たちはそれを「腐刑に処せられた者」と中傷し二度と相手にしなかった。

無秩序な狩りを制限されてから、
リーレイに対するいわれのない暴力はエスカレートするばかりだったが、
大人たちはそれを黙認していた。
反撃できずにいる方が悪いのだ。
大人たちは無力な少年がどんなに傷ついていても、
救いの手を差し伸べることはせずに、
いつもなにか云いたげにため息をつくだけだった。
そのなかで、唯一味方らしい行動をとる者がひとりだけいた。
少年剣士たちのリーダー的存在であるサシオンだった。
あと数年で成人を迎えるサシオンにはもはや子供らしさはなく、
樹海の少年たちともある程度の距離をおいていたが、
淡々とその無秩序な集団を取りまとめていた。

「おまえたち、いいかげんにしておけよ」
大抵は黙って見物していた彼も、
気が向いたときだけは助け舟を出してくれた。
「進歩のない連中だな。
こんな弱い羊の子みたいなやつを襲ったって面白みもないだろう」
冷静沈着だが一番好戦的な少年で、
彼も特別な庭を管理していた。
彼は絶対的な強者であることが、
リーレイとは大きく違っているところだった。
「たまには大人たちのキャンプに出向いて、
試合を申し出たらどうだ。
真剣に相手をしてもらえるぞ。
少なくてもおまえたちが、このチビをぶちのめしたくらい手加減なしでな。
その方がずっと面白いだろう」
少年たちはその言葉に沈黙を返しただけだった。
誰だって自分が痛い目にあうのはごめんなのだ。
かばってくれる様子を見せながらも、サシオンもまた、
この名ばかりである少年剣士を殴りつけるのもしばしばだった。
「いつまでやられているつもりだ、チビ。
おまえだって剣士の血が流れているんだろう」
彼の行動もひどく粗雑だったが、
リーレイはこの少年にだけは気を赦していた。
「…サシオン」
「RYの一族の血が泣くぞ。悔しくないのか。
あんなやつら、殺してしまえばいいのに」
サシオンは涼しい顔をして酷なことを云った。
少年たちを従えながらも、彼らをかわいがっている様子はなかった。
ただ単に、上からの命令で、
ひどく規律を乱す者を力で統制しているだけだ。
しかし、なんとなくリーレイに対しては接し方が違っていた。
誰の眼も見ようとしないサシオンは、リーレイとだけは視線を交わす。
それは心を見せているのと同じことだった。



サシオンならともかく、
他の少年たちと出くわすと厄介なことになる。
だけど今日はどうしても《医務局》に行かなければならない。
ローズが流産してしまったのは三日前のことだった。
もうそろそろ庭に戻って来られるはずだ。
黙っていれば《医務局》はいつまでもローズを帰してくれない。
毎日食事の支度をしに来てくれるプリムラに聞くと、
彼女は訳知り顔でうなずいた。
「ローズは《研究院》に移されたよ。
待っているだけでは、連中のいいようにされるばかりだね」
大きな声では云えないが、迎えに行けということだ。
ママを恋しがるヴィオラの精神状態も限界に達している。
感情をコントロールできない幼児は、無意識に霊力を解放し、
むやみに植物たちを枯らしてしまう。
薔薇の生け垣を壊すわけにはいかなかった。
この生け垣を護るのも剣士の役目だ。
なぜか、この庭にはじめて足を踏み入れた日から、
常に生け垣に注意を払っていた。
壊してしまったら大惨事だという強迫観念に似たものが頭のなかにある。
ヴィオラがママを呼ぶたびに生け垣はあっという間に花を散らしてしまうのだ。
壊れた生け垣の修復作業も三日目となるとうんざりしてきた。
「ヴィオラ、もう泣くなよ。今日ローズママを連れて帰るから」
「本当に? ママに逢えるの」
「いい子に待っていられるかい」
庭の外にヴィオラを連れ出す勇気がなかった。
なにが起こるか判らないし、
また、無様にぶちのめされる自分を見せたくないという本音もあった。
ひとり置いてゆくのも心配だったが、すぐに戻ればいい。
リーレイはひとりで《研究院》へ向かうことにした。



薔薇の生け垣は、
少年がくぐり抜けようとするとするりと動いて小さなアーチを作る。
リーレイはそれが、薔薇たちが意思を持って、
自分を通してくれているものと勘違いしていたが、
他ならぬ少年の霊力の一部だった。
無意識で薔薇たちを動かしていたのだ。
彼は門扉のないこの庭園に、『博士』たちが自由に出入りできるのも、
薔薇たちの意思だと信じている。
この庭を自由意志で出られないのは、ローズとヴィオラだけだった。
なぜ薔薇たちが庭の主であるふたりにそんな意地悪をするのか、
理解できなかった。
幸い、外に少年たちの気配はなかった。
庭を振り返ると、毛布を握りしめたヴイオラがじっとリーレイを見ていた。
「眠いなら部屋に戻って寝るんだよ。外に出たらいけないよ」
その言葉に、ヴィオラは黙ってうなずいた。



「やっぱり迎えに来てしまったか」
真っ先に出迎えたのは、いつも杖を着いているあの『博士』だった。
「ヴィオラが寂しがっているんです。
このままじゃ薔薇の生け垣が壊れてしまう」
「それは困るなあ。あの子の霊力もたいしたものだね。
もうそろそろここへ出向いてもらわないとな。
あの子のデータを把握しておく必要がある」
なんとなくリーレイは警戒していた。
この場所へヴィオラを連れてきたくなかった。
意味もなくこの『博士』の眼に、あの子を触れさせたくないと思う。
それは明らかに一種の嫌悪感だった。
『博士』はすぐにローズを返してくれると云った。
危険を冒してまでここまで来た甲斐があったと、リーレイはほっとした。
「ついでだから、君の髪を採取しておこうかな。こちらへおいで」
いつものことなので、リーレイは素直に彼の言葉に従った。
『博士』は消毒室から出してきたメスで、少年の髪を少しだけ切り取った。
それを受け取ったのはプリムラだ。
いつものように少年にお菓子の包みを渡すのを忘れなかった。
クールだが基本的に子供好きで《研究院》内では子供たちの養育係でもあった。
リーレイも五歳までプリムラに育てられていた。
「レイ、もう髪を切るんじゃないよ」
『博士』は、少し長くなってきていた少年の髪を器用に束ねながら云った。
「その方が、霊力が育ちやすいから」
君は生傷が絶えないなあ、と痛いところをついて笑うのだった。
ふたりは別の仕事を控えているらしく、
ここでローズを待つように言い残して部屋を出て行った。
どれだけ待たされただろうか。
集中力に欠けた八歳の少年は、じっとしていることが苦手だった。
この《研究院》の雰囲気は到底好きになれない。
白い壁には息が詰まりそうになった。
その時、とても微かな聞き慣れない音が少年の注意を引きつけた。
廊下の奥、階下から昇ってくるようだった。
ひとの気配もなかったので、リーレイは音の正体を確かめてやろうと思った。
防音設備の整った部屋から漏れた、
普通の人間の聴覚には引っかかるはずのない小さな音だった。
それは地下室の一番奥の個室から、
透明な腕を伸ばして少年を引き寄せた。
近づくにつれ、音ではなくひとの声であることが判った。
ひどく獣じみた、誰かの悲鳴だった。
リーレイは扉の前まで来てはじめて恐怖を感じたが、
その途端に声は断ち切られたように消えてしまった。
それに代わって再び漏れてきたのは、またしても奇妙な声だった。
「ギィ‥ギィ‥」
そんなふうに聞こえてくる。
なにかがいる。
リーレイは再び頭をもたげてきた好奇心をおさえることができなくなった。
扉は施錠もされておらず、中に入ることは簡単だった。
強烈な消毒液と血のにおいが出迎えた。
なかは幾重にも白いカーテンが張られ、
右に行くべきか、左に進むべきか混乱させる。
少年はとっさに床を這うかたちで、声のする方向へ行ってみることにした。
数人のひとの気配は部屋の奥に集中していて、
なにかの作業に追われているようだ。
声の主はなぜか狭い空間に放置されていた。
作業台の上に、白い布で包まれた赤い生き物がいた。
泣いているのは、確かにその生き物だった。
それがたった今産み落とされたばかりの人間だとはとても思えなかった。
それほど凄まじい奇形の赤ん坊だったのである。
唯一人間らしいのは、孔雀石のような美しい眸だった。
それでやっと、この子が人間なのだと判った。
ここは分娩室であり、
最初に聞いたのは出産にのぞむ女のひとの声だったのだろう。
それはひどい苦痛を伴うと聞いていた。
この赤ん坊を生んだひとは、この子を見たのだろうか。
呆然としている少年の頭のなかに、その時鮮烈な言葉が飛びこんできた。
〈助けて〉
リーレイはびっくりして赤ん坊を見つめた。
喋るはずのない赤ん坊が、直接意識に語りかけてきたのはすぐに判った。
ほとんどひとの形をしていないのに、この子は強い霊力を持っている。
その眼は、まっすぐにリーレイを見ていた。
なにかにつき動かされるように少年は赤ん坊に手を伸ばした。
そしてそこで、『博士』に取り押さえられてしまった。
「レイ、悪い子だ。なぜここに入った」
珍しく彼は本気で怒っているようだった。
そこへプリムラも現れた。
慌てた様子で、赤ん坊を布でくるみ抱き上げた。
「助けてって云うんだ。すごい霊力を持っているんだよ」
プリムラは背中を向けたまま答えなかった。
〈ママに逢いたい〉
また赤ん坊が叫んだ。
「ママに逢わせてあげて。ねえ、プリムラ、ママに返してあげてよ」
プリムラの背中が哀しそうに見えたので、
リーレイはますます不安に駆られた。
「できそこないだ。どうせ長くは生きられない」
『博士』が云った。
できそこないという無神経な表現に、悪意がこもっていた。
それと同時に、今まで感じたことのない、
強烈な恐怖と絶望感が頭のなかに拡散した。
言葉にならない赤ん坊の感情に違いなかった。
死を察知したのだ。
「私のように足が一本ねじれているくらいならまだしも、
身体全体がねじ曲がっているあの子に、どう生きろと云うのだ」
『博士』の云うことは正しかった。
プリムラは赤ん坊を抱えて、部屋の奥へ消えた。
リーレイは、自分を押さえつけている『博士』の手を振り払い、
彼の眼を正面から見据えた。
「なんだ、そんな挑むような眼をして。
君は最近よくそんな顔をして私を睨むが」
『博士』はなぜか愉快そうに笑っていた。
「なにか気にくわないことでもあるのかい」



帰り道はすっかり暗くなっていた。
いくらか憔悴したように見えるローズは、
長いスカートの裾に注意をはらいながら、
ゆっくりと歩いている。
一歩一歩が小刻みに震え、自分の体重を支えるのもやっとの様子だ。
彼女の足がどれほど弱いか、リーレイははじめて理解したような気がした。
それでもローズは、庭に帰れるのがとてもうれしそうだ。
残してきたヴィオラの心配もあって、
ふたりは一刻も早く庭にたどりつきたかった。
その時、樹海の高い位置から仔羊の鳴き声が響いてきた。
勿論、そんな場所に羊がいるわけがなく、
声を真似ているのは樹海に住む少年たちに違いなかった。
リーレイをからかっているのだ。
事情を知らないローズは、
不思議そうに暗い樹冠のなかへ眼をこらしている。
少年たちの姿は全く見えなかった。
「気にすることはないよ。早く行こう」
リーレイは平静を装って、ローズの手を取った。
誰かが笑っている声が聞こえる。
鼓動が高鳴って苦しかった。
恥ずかしくて顔も上げられない。
いつまでこんなことが続くのだろう。
少年たちは襲撃こそしてこなかったが、
『薔薇の庭園』の間近まで追ってきている様子だった。 




      家につくと、ヴィオラの姿が見えない。
毛布が庭に投げ出されように置いてあった。
ふたりは家中を探し回ったが、少女は意外な場所で見つかった。
薔薇の生け垣の中だった。
リーレイが難なく通り抜けたように、自分も外へ出てみようとしたのだろう。
鎖のようにからまりあう薔薇の蔦に囚われたヴィオラは、
抵抗もむなしく身動きのとれない状態のまま、
力つきて眠ってしまったようだった。
薔薇のなかからそっと取り出したものの、
顔や手に無数の傷がついた。
リーレイはすっかりいたたまれない気持ちになってしまった。
本当にこの薔薇たちは意地が悪いと思う。
やがてぱっちりと眼を開いたヴィオラは、
ママの姿を認めるといきなり泣き出した。
三日間の寂しさと緊張感がいっぺんに解けたせいたろう。
ヴィオラには甘えることのできるママがいる。
だけどあの子は、一度も母親の胸に抱かれることもなく死んでいく。
赤ん坊の眼を思い出して、リーレイは急に泣きたくなった。
それになぜか、『博士』の声まで執拗に思い返されてくる。
心臓がどくどくと血潮を吐いていた。
少し熱っぽくなっていることに気づいた。
哀しいと身体は冷えてゆくものなのに、
背中や手のひらが不自然なほどに熱い。
彼は気づかなかった。
哀しみの裏で、火の手を上げようとしていたもうひとつの感情に。

     『銀の獅子』になりたかった。
その想いが、日増しに強くなっていった。




宿に戻ったのは、夕刻だった。
師匠たちは食堂に下りてきていて、食事をはじめようとしていた。
「リーレイ、よかった。最後の晩餐だというのに、
じいさまふたりだけじゃ様にならないと話していたところなんだ」
ヴィオラの姿がなかった。
聞けば気分が悪いといって、部屋から出てこないらしい。
迎えにいくべきだったが、そっとしておこうと思いなおした。
ラムロワーズもアークも、同じ気持ちでいるようだった。
「新しい生活は物入りだろう。大体の物は揃ったのかい」
細かいことまで配慮してくれるのは、樹木医のアークの方だった。
数ヶ月、仕事と生活を共にしてきたが、彼もこの国で、
ヴィオラとラムロワーズとは進路を分ける予定だ。
「生活に必要なものは街についてから揃えるつもりです。
荷物にもなるし。実は先生たちに渡したいものがあって」
ぼくは先刻買った贈り物を、ふたりの師匠に手渡した。
ラムロワーズには、方位磁石がついている懐中時計。
彼が持ち歩いている時計は大抵止まっていて、
時々不便そうにしていたからだ。
アークには名前を彫りこんだ万年筆にした。
「ずいぶん高価な時計だな。
これから金がかかるというのに気を遣わせたね」
ラムロワーズは方位磁石がついているのを気に入ってくれた様子だった。
アークは、万年筆を握ったまま涙ぐんでいた。
ぼくは居心地が悪くなって、とりあえず濡れた外套を脱ぎ、
暖炉の近くに干しに行った。
戻ってみると、ラムロワーズがぼそぼそとアークになにか耳打ちをしている。
こんなことで泣くやつがあるか、そんな言葉が聞こえてきた。
「リーレイ、おまえの気持ちはよく理解しているつもりだ。
ヴィオラのことは心配しなくていいよ。
それよりも、行員になるという話は本当なのか」
ラムロワーズはうまいタイミングで話題を変えた。
「適職だとはとても思えん」
自分だって思っていなかった。
しかし、兵役以外はなにをしても同じような気がした。
「よく考えてみろよ。
例えば今までの経験を生かして、陸軍に入隊するとか」
アークも気を取りなおしたらしく、話題に入ってきた。
「はあ…。でもよその国のために尽くす気なんて毛頭ないし、
それに、マーガレットの紹介なんです。
彼女の遠い親族にあたるひとが、大きな銀行の頭取らしくて。
そんなに大きな会社に就職するなんて大変なことらしいですよ。
いい話だと思うのですが」
実際はいい話どころか、どうでもいいことだった。
マーガレットが好意でしてくれたことなのに、
申し訳ないという気持ちでいた。
ぼくはどこか投げやりになっているのかも知れなかった。
マーガレット・ハミルトンは、
弱冠二十歳のウエディングアイランドの総支配人であり、
一時はぼくのマスターだったひとだ。
島を出るとき、彼女はその頭取のいる街を紹介してくれた。
向こうへ着けば、住む場所まで手配してくれるという。
「身元の保証人にまでなってくれて、
名前まで拝借しているんです。谷の名前はここでは通用しないと云われて」
「へえ、なんというの」
好奇心旺盛なアークは身を乗り出してきた。
「レイモンド・ハミルトン。住所は決まりしだい連絡します。
今後はこの名前を使って呼び出してください」
「なんか妙な気分だな」
ラムロワーズが独り言のようにつぶやいた。
本当にそうだ。
他人になってしまうような気がしてくる。
谷で暮らしていたレイはどこへいってしまうのだろう。
「しかし、君が行員に…。勤まるのかな」
アークはうっかり本音をもらしてしまった。
「一年持つかどうか」
ラムロワーズは相変わらず手厳しい。
「賭けてみますか」
ぼくは強気に出た。
「忍耐力はありますよ」
「仕事に必要なのは、情熱だ」
アークが主張した。
「それに、妥協と惰性」
これはラムロワーズ。
アークが批判的な眼で睨みつけても、彼はおかまいなしだった。
ぼくたちは運ばれてきた暖かい料理を食べながら、
いつもよりも饒舌になって話し続けた。
明日の別離を意識して、少し気分が高揚していたせいだろう。
「マーガレットの紹介だから、そう簡単に辞めるわけにはいきません。
それなりに覚悟を決めています」
ぼくの台詞に、ふたりは重々しくうなずいた。
気持ちの半分はそこになかった。
テーブルの空席が気になってしかたなかった。
明日ヴィオラと別れる。
十四年間、離れたことがなかった。
何度か自分に「死」の危機が迫って、
その時はさすがに死別を意識したことがあったが、
それでも心の奥底には動かない願望があった。
別れなど永遠にやってこない。
ずっとひとつの家族として、『薔薇の庭園』で暮らしていける、
なんていう幻想が。
だけど、ぼくはローズとの約束の半分は、
こうして守ることができた。

『レイ、約束して。生き抜いて、大人になったら、
ヴィオラを連れてこの谷を出るのよ。あの子の倖せはここにはない。
あの子に必要な秘密の花園を見つけてあげてほしいの』
死を選択しようとしていた弱い自分がいた。
そのぼくに、ローズが救いを求めて云った台詞。
『貴方が負けたらいけない。
私とヴィオラは貴方に生命を任せているのよ』
花園探しは師匠のラムロワーズにまかせてしまうが、
あの谷からヴィオラを連れ出すことはできた。
ほくとの絆を断てば、谷の因縁から解放されることになる。
この別離が、自分に課せられた最後の義務になるのだ。

いつの間にか、あの〈仔羊〉は死んでしまっていた。
食い殺したのは〈獅子〉だ。
獅子が目覚めた瞬間のことを、ぼくは今でもはっきりと覚えている。
「どうした、もう酔ったのか」
アークは心配しながらも、次々とワインを注ぎ足してくる。
それをなにも考えずに水のように飲んでいたぼくは、
いくらか酔っていたのかも知れない。
ラムロワーズが何度も、もうやめるように云っていたのを、
なんとなく聞き逃していた。
ぼくの意識は、遠い過去と現在のテーブルの上をぐるぐる回っていた。
「別に酔ってなんかいません」
「そうだよな、もっと飲め。景気づけて明日に備えるのだ」
「そんな景気づけは必要ない。
こいつは飲みなれていないのだ。またひっくり返るぞ」
ラムロワーズの怒声がなんだかおかしかった。
あの羊を殺してしまってよかった。
あいつには、ローズとの約束を守るだけの力がない。
だけど、『銀の獅子』の称号に一体何の意味があったのだろう。
あの猛獣は樹海を出ては生きられない。
都会で鉄でも喰らって生きのびろというのだろうか。
だけど、ローズとの約束の半分は果たせた。
まるで許しを請うように、何度も彼女の幻影に呼びかけた。


これで良かったのか、ローズ。
谷に残って闘った方が、ふたりの為にならなかったか?
あの谷でやり残したことが、大きすぎる。
実際、なにもしなかったに等しい。
称号を得るためだけに、フィールドに立ち続けた九年間。
ただ逃げ出すだけで、『薔薇の庭園』の主を、救うことすらできなかった…。





侵入者に対して樹木たちの反応は敏感だった。
霊力のある者ならどこにいても、彼らの信号をキャッチすることができる。
『薔薇の庭園』に暮らす三人も例外ではなかった。
最初に異変に気づいたのは、ローズだった。
「…樹海に誰かが入ったみたい」
危険信号を受信した彼女は、
とっさにヴィオラを抱き上げると家のなかに駆けこんだ。
「ぼくは様子を見てくる」
「気をつけなさい、レイ。かなりの人数だわ。武器も持ってる」
ローズの警告は正しかった。
その日の侵入者は総勢三十名。
軍事用に訓練された犬が二十頭。
そして全員が武器を持っていた。
こんな時は《軍部》の大人たちが対応に動く。
まだ教育途中の少年たちはかえって彼らの足をひっぱるだけの存在だ。
ましてまるで使い物にならない自分が駆けつけても、
迷惑なだけなのは十分承知だった。
だからと云って、家に隠れているのではあまりにもふがいない。
無力ながらも、樹海に住む少年たちがいち早く行動をとっているだろう。
せめて大人たちが到着するまでの間、時間稼ぎくらいはしなくては。
犬一匹、『レンデフルール』に入れてはならない。
銃声を聞いたのははじめてだった。
それは樹海の樹々の葉、一枚一枚に轟きわたり、
少年たちをパニック状態に陥らせた。
リーレイも後ろから髪をはじかれるのを感じた。
連中は無差別に銃を乱射している。
先に攻撃したのは少年たちに違いない。
殺意を感じた彼らが、報復攻撃に出たのだ。
最初からこれだけの装備でやってくるということは、
この谷の軍事力をある程度は把握しているのだろう。
武器を携えてくる者の目的が、平和的接触でないことは明らかだった。
これは侵略行為に他ならない。
このようなことははじめてではなかった。
彼らの目的は様々だ。
そしてその目的が果たされることは一度もなかった。

     『レンデフルール』は深い樹海に守られた秘境の小国である。
心ない外部からの侵略に備えて、選ばれた者たちが軍隊を編成した。
その軍事力は、秘境の小国だからとは決してあなどれないレベルだった。
しかし、少年たちに向かって容赦なく発砲した事例は、
これまでにはないことだった。
「ケニイ、動くんじゃない!」
サシオンの声が響いた。
少年兵のケニイが、銃を向ける男のひとりに踊りかかったところだった。
ケニイはすでに武器である針を抜き、相手を負傷させていた。
男は体勢を崩しながらも、銃口を少年に向けている。
そして引き金をがく引きした。
銃声が響き、ケニイが倒れた。
駆け寄ろうとしたサシオンを止めたのは、三匹の犬だった。
今にも飛びかかろうと牙を剥き、サシオンの動きを完全にふさいでいる。
ケニイを撃った男は、今度は動けないでいるサシオンを狙っていた。
サシオンが危ない。
リーレイがそう思った時、樹木の裏側から現れた軍人が、
音も立てずに男を倒していた。
やっと大人たちが駆けつけたのだ。
その後の戦闘は一方的なものだった。
大人たちはどこにいるのか、まるで判らなかった。
樹木や植物の陰に入りこみ、気配すら見せない。
いつの間にか敵の背後にまわりこんでいる。
現れては消えるという戦法で、
現場に駆けつけた兵士が何人いるのかさえ把握できなかった。
五分もたたないうちに全ての銃声が途絶えた。
残ったのは狼のような軍用犬で、
それはちりぢりに散って少年たちを追いかけまわしている。
「いい機会だ。犬は自分たちで始末しろ」
立派な顎鬚を生やした軍人が、少年たちに向かって云った。
大人たちはとうに武器をおさめてしまっていた。
慌てたのはリーレイだ。
自分も例外ではなかった。
自分よりもはるかに大きな犬が、牙を剥いて追いかけてくる。
たちまちパニックに陥った。
「犬に背を向けるんじゃない、レイ、落ちつくんだ!」
サシオンの声は届いていたが、どうしたらいいのか判らなかった。
頭のなかを恐怖感で支配されたリーレイは、
自分が武器を持っていることさえ忘れてしまっていた。
いくら逃げ足の速さを誇れるとしても、犬の脚力にはかなわない。
たちまちその距離は縮まっていった。
「落ちつけ! 武器を抜け、防御しろ!」
やがてサシオンの声すら遠のいた。
聞こえるのは、間近に迫った犬の呼吸音だけだ。
とうとう、リーレイは樹木の根に足をとられて転倒した。
振り返ると同時に、犬は地を蹴っていた。
その瞬間の状況を、コマ送りのように捉えていたリーレイは、
それでも金縛り状態から抜けでることができなかった。
犬の前足が胸にのしかかって、その太い爪の感触まで鮮明に感じた。
泥がついていて、少し冷たかった。
逆に喉に立てられた牙は熱く感じられた。
「レイ、針を抜け!!」
サシオンは力の限りに叫んだが、状況は変わらなかった。
仰向けに倒された少年は失神寸前だ。
しかし、犬の牙は少年の首にそれ以上くいこむことはなかった。
際どいところでサシオンの武器が犬の急所を捕らえていたのだ。
犬は悲鳴も上げずに絶命していた。
「この…、ばかやろう!」
次の瞬間に飛んできたのは、いつもの強烈な一撃だった。
「どうして武器を抜かないんだ、この腰抜けめ!」
リーレイは本当に腰を抜かしていたが、
それを笑う者はひとりもいなかった。
仲間のひとりが死んでしまったのだ。
ケニイは頭部に銃弾を受けて即死していた。
少年たちはうつむき、唇をかんでいた。
「弱い者や、判断を誤った者は死ぬ。おまえも死んだほうがよかったな」
サシオンの一言には容赦がなかった。
全てを終えたときになって、
現場に駆けつけた軍人は三人だけだったことが判った。
他の少年たちもどうにか全ての犬を倒したようだ。
樹海に再び静寂が戻っていた。
時として樹木たちはこのように、
外界の人間たちの侵入を故意に赦すことがある。
『レンデフルール』の秘密を暴こうとして、
好奇心でこの谷にやって来る者は後を絶たない。
最初から悪意を持ってやってくる人間の素性を、
大抵樹木たちは見抜いているものだ。
実害のない人間なら、道に迷わせて追い払われるだけだろう。
それを樹海の深部まで導いたのは、なにかしらの意図があってのことだった。
「こういう人間は生きて帰せば、
次には面倒なほどに勢力を広げて戻ってくる」
顎鬚の軍人が説明した。
日焼けした太い腕に、銀細工のブレスレットが光っていた。
それに気づいた少年たちはにわかに緊張し、こっそり目配せを交わした。
侵入者の死体は、大人たちの指示で、
《研究院》裏手の廃棄物処理場に埋めることになった。
その時、サシオンがリーレイの手を引いて、そっとその場を離れた。
「レイ、おまえにはなしがある」
叱られるとばかり思っていたリーレイは、
サシオンが少し哀しそうな顔をしているのを見て意外に思った。
ふたりは樹木の陰に身を隠すようにして話をはじめた。
「おまえ、例えばヴィオラが狙われても、戦わないつもりなのか」
サシオンは地面に張りだした樹木の根に座ったので、
リーレイの目線よりも低い位置からたずねてきた。
リーレイは精一杯の気持ちで首をふった。
「自分を守れないというのは、そういうことだろう。
おまえが死んだら、誰が『薔薇の庭園』を護る。
血の繋がりのない者が、あの聖地に踏みこんでくるのを、
おまえは赦せるのか」
サシオンもまた、箱庭の管理を任されている守人の剣士だった。
「俺は、おまえの気持ちが判らない。
本気であの庭を護ろうという気があるのか?
事の重大さを理解していないようだな」
サシオンは眼をそらさずに続けた。
「俺は自分が死ぬことが一番怖い。
この手でアンジェリカを護れなくなるのが、なによりも怖い」
リーレイはまっすぐなサシオンの視線を見返すことができなかった。
力のない自分が、逃げてばかりいる自分が恥ずかしかったからだ。
「この国では、戦えない男も、
子供を産めない女も生きていけない、そういうところだ。
例えこの谷で認められたボディを持っていても、
常に闘っていなければつぶされてしまう。
みんな強い血だけを護ろうとして必死になって生きている。
女たちがどんなに過酷な状況で生かされているか、
ローズがどんなに苦しくて辛い思いをしているか、
おまえだってとうに気づいているはずだ。
女たちは種の保存のために、望みもしない出産を強いられている」
流産ばかり繰り返しているローズ。
そのたびにひとりで泣いている彼女の姿を、何度も見ていた。
それでも、《中央》は次の出産の準備を一方的に進めてしまう。
誰かが云っていた。
ローズが流産を繰り返すのは、彼女自身が出産を望んでいないせいだと。
男たちはどこまでも無神経だった。
誰も彼女の心のなかを探ろうとしない。
彼女の身体をいたわろうともしない。
誰がそんな不自然な出産を望むだろう。
彼女の細い身体は、どれだけのダメージを受けているだろうか。
「ローズはおまえのママではないんだよ。
おまえのその純粋な血を培養するために、あの庭に囲われているんだ。
遺伝子学的には、『妻』になる。
もっとも、そういう概念すらこの谷にはないけどな。
でも相性が合えば、将来夫婦になることは可能だ」
ふたりの会話を聞いている者がひとりいた。
顎鬚の兵士だった。
「今、俺たちは滅びの路の岐路に立たされている。
闘えない男はこの谷には必要ない。
レイ、おまえも自分がこの谷に必要な人間か試してみるべきだ」
もはや、サシオンの言葉に逆らうことはできなかった。
彼の云うことは全て真実だ。
今のまま大人になっても、
自分はローズやヴィオラになにをしてやれるだろう。
いつまでもぬるま湯のような環境のなかで、
ローズに甘え続けるわけにはいかない。
それは判っていた。
「一ヵ月後の剣術試合に出ろ。相手は《中央》が選ぶだろう」
リーレイは一気に緊張した。
試合の参加は任意であり、サシオンにはなんの決定権もない。
しかし彼に逆らえる状況ではなかった。
「木剣の訓練を積んでおけよ。
生半可な気持ちでいれば、致命的な怪我を負うぞ。
惨敗すれば二度と庭には戻れない。
《中央》は間違いなくおまえから箱庭の管理権を剥奪するだろう。
覚悟を決めておけ」
そこまで聞いてから、兵士はそっと少年たちから離れた。
サシオンはそれだけ云うと立ち上がった。
リーレイは一言も言い返せなかった。
それがあまりにも無謀な行為であることは明らかだった。
実戦力のないリーレイにとっての試合は、死を意味する。
他人の試合さえ見学したことすらなかった。
死者が出ることも多々あることで、弱者は間違いなく負傷する。
勿論、死者を出さないことは前提としてあっても、
あまりに弱い者は、噛ませ犬としてその場でつぶされる。
公認のもとでの一種の間引きである。
将来を期待される者なら、助け舟が出されることもあるだろう。
しかし、自分はどうか、リーレイは全く自信がなかった。
誰も救ってはくれないかも知れない。
孤独と恐怖心に打ちのめされたまま、リーレイは庭に戻った。
少年の安否を気遣うローズは、ずっと庭に出て待っていた様子だ。
彼女はリーレイが首から血を流しているのに気づくと、
傷ついた少年を抱き寄せようとした。
リーレイはその手をとっさに振り払ってしまった。
「たいしたことない、…ぼくは大丈夫だから」
いつものように、ローズに甘えることができない。
樹海で起こった事件のことも、
自分に課せられた試合のこともろくに話せないまま、
リーレイはローズのそばから離れた。



あの夜は、心が騒いで眠れなかった。
庭に突き出た露台で柱にもたれて夜を明かしてしまった。
ローズは心配して、夜中に毛布を持ってきてくれたが、
不思議と背中が熱くて必要なかった。
ずっと星が移動してゆくのをながめているだけだった。
そのうち天空が白みはじめて、疲れきったぼくは眠りに落ちた。
意識のなかではもう決まっていることがあった。
やるだけやって駄目なら、仕方がないということだ。
だけどどうしても、ヴィオラのことが気になった。
サシオンが苦しいほどに思いつめていたように、
ぼくのなかにもその想いは芽生えていた。

     『あの子だけは、護りぬきたい』


      それは死を覚悟したぼくとは、完全に矛盾した一部分だった。


2に続く
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永遠の花園4

2011-12-07 | 小説 花園全集
魔力


そのぬくもりは もうわたしを 待ってはくれない
ふたりの心が覚醒した日
わたし達が 狂った夜
紅い月が 照らしていた

わたし達は 花園を 蹴散らした
その狂気を 魔力に変えて

わたし達は 花園をねじ伏せた
この愛しさを 否定したくて

それでも赦されぬことなら
歩む意味さえないと
弱音を吐くことさえ
 赦されぬことなら

わたしは もう ただやみくもに
この魔力を 解放して
愚かに叫ぶのでしょうか



 
      完成パーティーは、
海がサンセットオレンジに染まる日没に合わせてとり行われた。
この巨大なウエディングアイランドの建設に携わった、
全てのひとたちが招待されている。
     会場はホテルの裏の、ガーデンパーティー用の大きな庭で、
西に海を見渡せることもあり、その時間帯には絶景が広がる場所だった。
      ヴィオラは、会場を眼下に見渡せる、
一面ガラス張りのメイクルームにいた。
パーティーは立食式で、
テーブルにはすでにごちそうが用意されているのが見える。
ひともまばらに集まりはじめていた。
ヴィオラが待っていたのはマーガレットだ。
今日はジルとの婚約発表も兼ねていることもあり、
支度に時間がかかっていた。
ヴィオラは予てから選んでおいた菫色のドレスを着て、髪も結ってある。
うっすらと化粧もした姿は自分ではないような気がして、
はやる気持ちをおさえられずにいた。
     「ヴィオラ、待たせてごめんね」
      マーガレットはコーラルピンクの細いドレスに身を包んで現れた。
髪は高く結いあげ、真っ赤な生花を散らしてある。
まぶしいくらいにきれいなマーガレットに、ヴィオラはため息がでた。
しかし、無邪気にはしゃぐには色々なことを知りすぎた少女は、
かける言葉も見つからない。
マーガレットも落ちつきなく、真下に広がる会場を一瞥している。
しばらくすると、彼女は意を決したように明るい笑顔でヴィオラを包みこんだ。
     「ヴィオラ、本当に色々なことでごめんなさい。
でも貴女と今日を迎えられたことはとてもうれしい。
これからも友達でいてくれる? 」
     「それはもちろんだけど」
      ヴィオラは云いよどんだ。
ジルがマーガレットを殴りつけた場面が、頭をかすめていった。
     「これでいいの。…あれは、愛の行為じゃなかった。
マーガレットがわたしに伝えたかったものは、別のものでしょう」
     「それを判ってもらえたなら、もういいのよ。
貴女は、私のようになってはだめ。
抱いてもらいたいのはスピリットだということを忘れないで。
男は違うのでしょうね。相手の考えに妥協してはいけないわ。
本心で結ばれたいと思ったひとでなくちゃ、気持ちを赦してはだめよ。
身体の感覚に任せていたら、過ちにも気づかない。
心の眼を開いて、相手を見極めるのよ」
     「貴女が見極めたのは、ジークでしょう。まだ手遅れじゃない」
      マーガレットは、唇の前にひとさし指を立てた。
これは永遠の秘密だと云うように。
     「私は、ここの花園で暮らしたいの。これでいいのよ」
  しぼんだ風船のように、
ゆらゆらしているマーガレットの存在感が哀しかった。 



    いつもは泥だらけの作業服の庭師たちも、今日はスーツを着ている。
ラムロワーズもアークも、一張羅の背広にタイを結んで現れた。
彼らはドレスアップした愛弟子を見つけると、大げさなほどの歓声を上げた。
     「これは驚きだ。どこのお姫様かと思ったよ」 
      ラムロワーズはヴィオラを抱きあげようとして、
あやうく腰を痛めるところだった。
アークはすでに一杯加減になっている。
教会エリアの仲間たちも次々に冷やかしにやってきた。
     「リーレイはどこ」
      ヴィオラはそこに彼の姿がないのに気づくと不安になった。
     「ドリンクを配って歩いていたよ」
      庭師のひとりが教えてくれた。
     「わたし、探してくる」
      まるで迷子の子犬みたいに、
四六時中リーレイを追い求めるヴィオラを見て、
ラムロワーズとアークは不安を隠しきれない。
ふたりは顔を見合わせると、どちらからともなく嘆息した。


  ヴィオラはまだ、短髪のリーレイに慣れていなかった。
あの長い髪がいい目印だったのに、
今ではひとごみのなかから彼を探しだすことは困難だ。
彼が思い切り潔く髪を切ってしまったとき、
ヴィオラは少なからずショックを覚えた。
谷の男にとって、長い髪は特別な意味がある。
それは霊力の源でもあり、
植物との交信にも欠かせないアンテナでもあった。
それを切り捨ててしまった彼の心情を探るのが怖いような気もした。
しばらくして、灰白のスーツを着た彼を見つけたが、
ヴィオラはしばらく逡巡して、その後姿を眺めているだけだった。
 リーレイはバーテンダーの男性からシャンパンの注ぎ方を教わっていた。
細いグラスには蜜色の透明な液体が、まっすぐに泡を立てて光っていた。
やがてバーテンダーがヴィオラに気づき、リーレイに耳打ちした。
ヴィオラを見つけたリーレイは、おいで、と云って身をかがめた。
ヴィオラは久しぶりにちゃんとした抱擁と口づけを受けた。
単純にそのことがうれしかった。
あの夜のことは別として、このところずっと距離を置かれていた。
     「ヴィオラ、とてもきれいだよ。花嫁さんみたいだね」
      ストレートな誉め言葉に、少女は赤面した。
いっぺんにご褒美をもらった気分だ。
     「リーレイもすてき。このネクタイ、ライラにもらったものでしょ。
似合うねえ」
     「口紅も塗っているのか」
     「マーガレットにもらったの」
  リーレイの指先が唇に触れてきたので、ヴィオラは思わず身を硬くした。
彼は何かに取り憑かれたような眼で自分を見ている。
それからふいに顔を近づけてきた。
ヴィオラがぎゅっと眼を閉じて固まっていると、
額と額がぶつかる音がした。
リーレイが笑っていたので、ヴィオラはほっとした。
     「ファーストキスを戴いてしまおうかと思った」
     「からかわないでよ」
      耳まで真っ赤になっている少女を、彼は地面に下ろした。
     「パイナップルジュースでもいかがですか、お姫様」


      ほどなくしてから、パーティーがはじまった。
副支配人がはじめて庭師たちの前へ姿を現し、彼らの労をねぎらった。
そしてその後に続く婚約発表。
ドレスを着たマーガレットがジルの隣に並ぶと、観衆の間からため息がもれた。
いつの間にかジークフリークがヴィオラの隣に立っていた。
彼は不機嫌極まりない表情で、ワインを暴飲している。
ふたりの婚儀は三日後。
つまりこの式場の記念すべき一組目のカップルは彼女たちだと知り、
会場は拍手喝采に割れんばかりになった。
マーガレットは大きなダイヤの婚約指輪を披露して微笑んでいる。
ジークは顔を上げようとさえしなかった。
ヴィオラとリーレイはもちろんのこと、ラムロワーズやアーク、
教会エリアの仲間やうわさを聞いた者たちは、遠まきにジークを見ていた。
     「俺を見るんじゃねえ」
      ジークはぼそりとつぶやいた。
ヴィオラはそんなジークを気にしながらも、
マーガレットの肩を抱いて笑っているジルから眼を離せないでいた。
     「なにを考えている」
      頭の奥がジンとしびれてきたところへ、
リーレイの言葉が割りこんできた。
ヴィオラはぎくりとした。
彼もまたジルを見ていた。
     「また霊力を解放するつもりか」 
      リーレイの手の中で、グラスの氷がイライラと音を立てている。
ヴィオラには、ジルへの怒りをコントロールするのが難しかった。
しかしそのたびに霊力を暴走させるわけにはいかない。
妙な癖をつければ、今後どんな事態の引き金になるか判らない。
それに、リーレイに自分の心の闇を悟られるのも怖かった。
怒りの対象から眼をそむけるのも、時には必要なことだ。
     「俺のことを哀れむなよ、ヴィオラ」
      その様子を見ていたジークが云った。
「ふったのは俺の方だ。本当のはなし」
      会場の拍手はしばらく鳴りやまなかった。 




      その後は、談話や飲食で、
ひとびとは自由に場所を移動しながらパーティーを楽しんでいた。
ヴィオラは一番先にアントルメのテーブルに行き、
ケーキや果物を大皿に取りわけはじめた。
ジークフリークも楽しそうに、その作業を手伝っている。
     「ヴィオラ、先に食事をしないか」
      リーレイはあきれた顔でふたりを眺めていた。
ふたりは真剣そのものでケーキを選んでいる。
     「かたいことを云うなよ、リー。
俺とヴィオラはここでケーキの食べ放題に挑戦する。
おまえは向こうで焼きパイナップルでも食べてきたら」
      リーレイはジークフリークには取りあわないことにした。
     「ヴィオラ、後で大切な話がある。
食べ終わったら、砂浜で待っていてくれるか」
      大切な話、という台詞に心当たりがあるヴィオラは、
黙ってうなずくだけだった。
     「限界まで詰めこむんだぞ」 
     ジークが少女に耳打ちした。 

       


  アークとラムロワーズは数人の庭師たちと談笑していたが、
リーレイを見つけるとすぐにやってきた。

     「花の方は問題なさそうだな」
      ラムロワーズが声をひそめて云った。
「教会前のSummer・Snowが新しい蕾をつけていたよ。
婚儀にはちょうどよく花を開くだろう。よくやってくれた」
        「頑張ったのはヴィオラです。
ぼくは手を貸しませんでしたから。…これからはどんなときでも、
自分ひとりで解決しなければなりませんからね」
      リーレイはそこで一端言葉を切った。
「先生、今日これから、ヴィオラに話をします」
      この島での仕事を最後に、
ヴィオラの将来を師匠のラムロワーズに託して去るつもりでいた。
いよいよ、その話を伝えなければならない。
最後の共同作業が、破壊してしまった庭園の修復とはおそまつな話だったが、
もう二度と、ふたりで力を合わせることもないだろう。
ヴィオラの霊力は想像以上に成長していた。
そして、その力は未知数だ。
少なくても自分と互角かそれ以上だとは予想していたが、
ここまでだったとは思いもしなかった。
     まだ力に振りまわされてばかりのヴィオラだが、
やがて心身の成長とともに落ちついてくるだろう。
そこが、男と女の最大の違いだった。
男は落ちつくどころか、精神の崩壊を招きかねない。
 「先生、後のことはお任せします。ヴィオラを、よろしくお願いします」
      リーレイは深々と頭を垂れてそう云った。
ラムロワーズは無言でうなずくだけだった。
     とうとう、その日が来てしまった。
はじめてふたりに逢った夜のことが懐かしい。
あれから一年がたっていた。
ヴィオラの、仕事への意気ごみもその成長ぶりも、予想以上のものがあった。
あの子には持って産まれた素質がある。
磨きあげればすばらしい宝石として輝くだろう。
しかし、ラムロワーズは、
ここから進路を分けて生きてゆくリーレイの心配を
しなければならなくなっていた。
     「おまえさんの就職先はどうするのだ」
      どうやらアークも同じ気持ちでいたらしい。
     「マーガレットに身元保証人を頼んで、
勤め先を探してもらうことになりました。
職種は問いません。兵役以外はなにをしても同じですから」 
   ラムロワーズは、リーレイの左手に装着されたままの武器を見ていた。

     「もしよかったら、私の助手になってはくれまいか」 
      アークは思いがけない提案をしてきた。
「おまえさんはきれいな字を書くし、頭も切れる。
樹木医の助手としてもやっていけると思うのだがね」
      しかし、リーレイはふたつ返事でその申し出を謝絶した。
それではいつまでも、ヴィオラとの縁が切れない。
二人をつないでいる鎖は、完全に断ち切らなければならなかった。
     ラムロワーズもアークの考えには否定的だった。
年に数回は仕事をともにする仲間だ。
そのたびふたりが顔を合わせるようでは、
ヴィオラはいつまでたっても自立などできやしないだろう。
     「でもな、今まで家族のように暮らしていた者が、
変な別れかたをするものではないと私は思うのだ」
      アークは続けた。
「居場所だけでも、私たちには知らせてくれるか。
私は次の場所が決まるとラムロワーズに欠かさず連絡する。
彼も同じだ。旅をして定住しない者同士がはぐれたら、
もう一生逢えない可能性もある。
生きていれば、
逢わなければならないどうしようもない事態も起こりうるだろう。
だから居場所だけは知らせておくべきだよ。約束してくれるかい」
     ラムロワーズもそれにはうなずけた。
     「ヴィオラには黙っているよ。私の胸にしまっておくから」
      リーレイはふたりの好意を受けることにした。





      ヴィオラは約束通りに、砂浜で待っていた。
太陽の色は、水平線に近ずくにつれ鮮烈になる。
ヴィオラは額をオレンジ色に染めて、黙ってその光景を眺めていた。
     昼間の熱気をはらうように海風が吹いていた。
リーレイは少女の横に座ると、しばらくの間同じようにして海を眺めてみた。
遠くに、潮を吹く鯨が見える。しかしふたりは無言だった。 
     この島で過ごした初日は、波の音で眠ることができなかった。
潮風も不快だった。
いつの間にか、海の音にもにおいにも慣れてしまっていた。
明後日には、この島を離れる。
そして、別々の道を歩きはじめる。
最初の言葉が、どうしても見つからない。
      もう少し時間があったなら。
その思いは否定できない。
ローズもそれは重々承知であったはずだ。
     『もっとたくさんの時間の猶予を与えるべきだったのに、
ごめんなさい。私が、ただ私のわがままで、
どうしてもヴィオラを、十三までは手もとに置きたかったの』
      ローズがいつかそう云っていた。
『貴方の変化は、時を選んではくれないと判っていたのだけど…』
     「お別れなのね、リーレイ」
      突然、ヴィオラが云った。
「もう一緒にはいられないのでしょう…?」
      リーレイはヴィオラの肩をつかむと、自分の方へ引きよせた。
     「ごめん、ヴィオラ…、ごめんね」
      その声が慄えていた。
彼のにおいに包まれて、ヴィオラは頭のなかが真っ白になった。
     「ぼくは、君を、『秘密の花園』まで、案内できない…」
判っていた。泣いてはいけない事も十分に判っている。
「あ、太陽が‥」
ヴィオラが声を上げたので、リーレイは水平線を見やった。
「沈んでゆく。太陽は、いつも海に帰っていたのね」
ヴィオラの声は、思ったより落ち着いていた。
「谷で暮らしていた頃は、太陽も星も森に沈んでゆくんだと思ってた。
森の向こうには、こんなに大きな海があったのね」
気丈な言葉が出ないのは、リーレイの方だった。
「‥もう少し、ここで夕日を眺めていようよ」
リーレイはうなずいた。
「もう少し、夜がくるまで、ここにいよう」
二人は、重ねた手を離さなかった。






      明日はとうとうこの島を離れる。
ラムロワーズの一行は、とうに荷物をまとめて、
この島での最後の時間を思い思いに過ごしていた。
      アークは日がな一日ネット・ルームにこもって、
秘密のホームページにのめりこんでいた。
ラムロワーズは完成した全ての庭園を見て歩いている。
セント・リリー教会の白薔薇は蕾もふくらみ、
支配人たちの婚儀には花を開きそうだった。 
ヴィオラはジークフリークの旅支度を手伝っていた。
他の庭師たちはあっという間に島を離れていってしまい、
心細くてならなかった。
だからといって、リーレイのそばにも近寄りがたい。
あの告白の衝撃も大きかったが、
あの時肩に感じた彼の泪の感触が忘れられなかった。
身体を慄わせて哀しみに耐えていた彼の痛みが、
少女を怖気づかせていた。
この哀しみの大きさは、母の死別を超えている。
なぜだろう、あの時よりもずっとつらい。
ふたりはその後、ろくに会話も交わせなくなっていた。


      ハーフムーンと呼ばれる海岸で、
ぼんやりしていたリーレイを呼んだのはマーガレットだった。
婚儀の準備に追われるなか、彼女は急ぎ足でやってきたのだった。
     「貴方にお客さんが来ているわよ。正面玄関で待っているみたい」
  この島までわざわざ自分を訪ねてくる者の心当たりが、
リーレイには全くなかった。
マーガレットは少し声をおさえて続けた。
     「二十代後半って感じの男性よ。
サングラスをかけていたけれど、ちらっと見えたの。
…その、貴方みたいな孔雀石の眸が。同郷のひとじゃないかしら」
      それを聞いたリーレイはにわかに緊張した。
だとしたら、ひとりだけ心当たりがある。
     彼の予感は的中していた。

      黄金の門扉の外で待っていたのは、
十年前にアンジェリカという名の乙女と共に谷を出ていった剣士、
サシオンだった。
懐かしい気持ちよりも、
あまりに変わり果てた仲間の姿に、
リーレイは言葉を失ってしまった。
かつての精鋭の面影はそこにはない。
彼をとりまいていた神秘的な雰囲気も、
華も力強さも感じられない。
まるで立ち枯れた植物のようだった。
      その理由はすぐに判った。
サングラスを外したサシオンの孔雀石の眸は白濁し、
左は視力を失っているようだった。
かろうじて見える右眼でリーレイを確認し、サシオンははじめて口を開いた。
     「逢えてよかった」
      その声も消え入りそうだった。
彼を取りまく死のオーラを見て、リーレイは全てを察した。
     「…服毒したのか、サシオン」
      剣士に持たされるあの死の丸薬だ。
時間をかけて、身体の機能をひとつひとつ腐らせてゆく。
彼はすでに視神経をやられていた。
やがてその毒は身体の自由を奪い、心臓を止めるだろう。
解毒剤はこの世には存在しない。
     「どうしてこんなことを」
     「昨夜のことだ。
あのホームページのおまえの呼びかけに先に気づけばよかったのにな。
     この生命が持つかどうか判らなかったが、
どうしてもおまえに、知らせなくてはならないことがあったから、
ここまで来た」 
      真夏の太陽が強すぎるようなので、
リーレイは彼を木陰へ移動させた。
聞きたいことは山ほどあった。
     「カルパントラが死んだ」
      サシオンは急くように話をはじめた。
「殺されたのかも知れないが」
      リーレイは唇を噛みしめてうなずいた。
     「彼女はいくつかの予言を残していたんだ。
そのなかに、おまえとヴィオラに関するものがあった。
…レイ、おまえには救いの道が開けている」
        「俺に…?」 
     「救世主が現れる。女神の名は、ローズ」
      耳を疑うような話だった。
ローズは死んでしまったのに。
なにか云いかけたリーレイを制して、サシオンは先を続けた。
     「ヴィオラには警告だ。
天から舞い降りる花は魔物。
下界では、男が手にする花には常に下心が隠されている。
薄汚いエゴのかたまりの下心がな」
     「ヴィオラには気をつけさせる。
だけど、ローズのことはなんだ。彼女は死んだはずだ」 
      
ローズの死を知ったのは、ヴィオラの霊力を介しただけで、
不確かなことではあった。
     しかし、サシオンは僅かな希望をあっさりと断ち切ってしまった。
     「確かにローズは死んだ。自殺に近い死に方だったらしい。
一切の食事を拒否するようになって、
しばらくはブドウ糖で生命をつないでいたが、
あんな状態ではまっとうな出産は望めない。
《中央》は途中で彼女の延命装置を外したんだ」
      リーレイは愕然として、サシオンを見つめていた。
日ごとに小さくなっていく母親の鼓動を、ヴィオラは聞いていた。
なす術もなく泣きながら聞いていた。
     「彼女は研究院の裏に埋葬されていたよ。
…正確には、廃棄物処理場に、あのできそこないたちと共に、捨てられたんだ」 
      その言葉に、リーレイは燃えあがるほどの怒りを覚えた。
     「サシオン…」
     「結果的には、彼女もできそこないだったわけだ。
《中央》であれほど莫大な金を費やして囲ってやっていたのに、
まともに産まれたのはヴィオラだけだった。
もっとも最後は流産と死産の繰り返しで、
母体はぼろぼろだったらしいがな。
娘を逃がしてからは一気に錯乱が進んであのザマだ」
      リーレイは死人同然のサシオンを殴りつけていた。
しかし、サシオンは笑っていた。
この男はすでに、狂気に陥っている様子だった。
     「おまえ、月を焼く三日間を迎えたな」
      サシオンは倒れたまま、起き上がろうともせずに続けた。
「香腺が開いているじゃないか。いいにおいがする。
そんな無防備にふりまくものじゃない。
制御の方法を知らないのか」
      リーレイは自分に起こった変化に、まだ順応しきれずにいた。
教育は受けているはずだった。
しかし自分に関することにはあまりにも無頓着な性格が災いして、
知識はほとんど記憶に残っていない。
自分がそんなに芳しいにおいをふりまいて歩いている自覚すらなかった。
     「指先が冷たくなるまで手首を締め上げろ。
一番いいのは全身水につかることだ。
たちどころにおさまるだろう。
そのにおいは今後トラブルのもとになる。
蜂を呼ぶ花の戦略と同じだからな。
女たちが服を脱ぎたがって困惑するぞ。ヴィオラにはまだ強力すぎる」
      サシオンはふいに口をつぐんだ。
リーレイは左手に装着された武器を右手で押さえていた。
まるで暴走しようとする左手をなだめるかのように。
サシオンはとうにその武器を捨てていた。
リーレイを激怒させればひとたまりもないだろう。
戦う力なんて、もう残っていない。
考えようによってはそれも好都合な気がした。
     「アンジェリカはなにをしようとしている。
彼女を『秘密の花園』に届けたんじゃないのか。
なぜ彼女は、レンデフルールに戻ったんだ」 
      リーレイは視線をそらさなかった。
サシオンは力なく樹木に寄りかかった。
     「アンジェリカを新天地まで案内した。
その土地で彼女は伴侶を見つけ俺たちは別れた。
だけど、俺は忘れられなかった」
サシオンは、喉をざらつかせながら笑った。
「俺が、忘れられなかったんだよ」
    彼女はその新天地で生まれ変わろうとしていたのに。
他ならぬ護衛の剣士であるサシオンが、
谷の悪い因縁を断ち切ってやれなかったのだ。
まるで過去の人間たちの過ちをそのまま倣うように、
庭の守人が乙女の聖地を犯してしまった。
アンジェリカの花を踏みつけて。
     「やがて、彼女は妊娠した。俺との間にできた子だ」
      リーレイは嫌悪感を露わにして、狂った剣士を睨みつけた。
     「胎児は育つ力もなく、腐り落ちるように母体から出てきた。
凄まじい奇形の、肉のかたまりだった。
…当然だ。俺たちの血が濃すぎるせいだ。
アンジェリカは俺自身だからな。性別だけを人為的に変えられて、
俺の血がそのまま流れている。
彼女を抱くことは自慰行為と同じだ。
俺は彼女を愛したわけではなかった。
自分の血を慰めようとした。その欲望をおさえられなかった」
      リーレイの左手が震えはじめていた。
血は意志を持たない。
なのにその燃えたぎる血をどう静めればいいのか判らなかった。
     「アンジェリカの結婚生活は破綻したんだ。
彼女は錯乱している。
あの谷の秘密を全世界に暴露して俺を殺すつもりだ。
《中央》の連中の抵抗勢力もあったが、
彼らもすでに前途の希望を捨てている。
これ以上どう人為的に操作したって谷の血を守ることはできない。
     彼らはしくじったのさ。
より純粋な血を培養しようとして、逆に破壊してしまった。
健康な母体も確保できない。
乙女たちが谷を出てゆくのを連中が黙認していたのも、
全てを諦めていたせいだ。
例えその血が下界の人間と交わって淘汰されようとも、
乙女たちが健全な世界で生きていければと願ってのことだったかも知れない。
それとも、いずれは守人の剣士が、
乙女たちの血を喰らうのは止めようがないと投げだしていたのかもな」
  リーレイは自分に起こりつつある変化に対し、はじめて恐怖心を抱いた。
剣士が心を狂わせて乙女を陵辱するのは、血のせいではない。
意識をうまく操れば最悪の事態は回避できるはずだ。
     「おまえとヴィオラだって同じだ。
守人なんて名ばかりの存在だ。
いつかは自分のものにするために、
悪い虫が寄ってくるのを追いはらうだけの役目さ。
《中央》の教育で父性を植えつけられたって、
いつかはこの血に目覚め、乙女たちを喰らうのだ。
自分しか愛せずに、破壊工作を好むただの殺人者、
それが俺たちの本性だ」
     「それは思い違いだ、サシオン」
      リーレイが声を荒げて彼の台詞を遮った。
「確かに、この血に目覚めて霊力の全てが覚醒したとき、
気が狂れる男は多いと聞いている。
だけど、狂った情念を乙女に向かわせるのは、血のせいじゃない。
俺たちの霊力の一部や意識を、《中央》が操っていたことを知っているだろう。
頭がおかしくなった誰かが、破滅のプログラムを組みこんだんだ」
      
「乙女を犯したのは、洗脳のせいだというのか」 
      
サシオンは笑いだした。
「連中が俺たちの霊力を制御していたのは事実。
しかしそれは俺たちに必要な制限だった。
特に血を管理されている者の霊力は膨大で、
個人の意思に任せていたらどんな事態を引きおこすか判らない。
だからこそ連中は、その者の霊力のデータを把握し、
徹底した管理を続けていた。
この血を守るために、
連中がどれだけ死に物狂いだったかおまえは判っていない。
この血を絶やそうとする者が、あの場所にいるはずがない」
     「おまえは連中にいいように飼いならされたようだな。
この疑惑に関わった者は俺ひとりじゃない。
真相を突き止めようとして殺された者もいる。
プリムラがそうだ。彼女はなにかをつかんでいた。
《中央》には別の権力が存在する。
それに気づかずに、意識を操られるままにこんな過失を犯すとは」
      リーレイの怒りは頂点に達した。
     「恥を知れ、サシオン!
 おまえに谷の剣士を名乗る資格などない!!」
      かつては弟のようにかわいがっていた少年の怒号を受けて、
サシオンは凍りついた。
リーレイの眼は、完全に正気を失っていた。
一端この血に目覚めてしまえば、意識は怒りの感情になによりも敏感になる。
怒りに触発された霊力は、コントロールが効かない。
サシオンは自分の死を察した。
そしてそれを望んでいたことにも気づいた。
     「おまえは毒など飲む必要はなかった。
アンジェリカの誅戮を受けるべきだった」
      リーレイは、サシオンの眼の前で左手の針を抜いた。
あまりに細い針は、サシオンの弱った視力では捕らえることができなかった。
背後にまぶしく反射する砂浜があり、光のなかに溶けこんでしまっている。
しかし、その武器を抜いた剣士の身体が、
不自然なほどに慄えているのには気づいていた。
彼のなかに、迷いが残っている。
津波のように押し寄せてくる殺意を、
すんでのところで押しとめているようだった。
     「彼女の代わりに…、俺が、おまえを、‥」
     「おまえだって同じ過ちを犯すはずだ。
この血は、女の身体を持った自分の血を喰いあさって破滅する運命なんだ。
じきに判るだろう。おまえは、ヴィオラを忘れることなどできない。
麻薬中毒者みたいに、求めるのは彼女から得られる快楽だけだ」
     「俺はこの先、ヴィオラとは別の道を歩む。
おまえのようにしくじったりするものか」
       挑発をやめないサシオンの本心を、リーレイは見抜いていた。
彼は死を望んでいる。
今ここで一思いに刺してやった方が、彼のためになるのかも知れない。
それが今はどうであれ、
むかしは心から慕っていた同志に対する慈悲というものだろう。
十年前の、彼の快活な笑顔がよみがえった。
厳しいばかりだった彼の言動の全てが、
幼かった自分をひたすら前へ進めたのだ。
彼のお陰で、自分はひとりになっても戦える力を手に入れた。
ひとを護る強さを手に入れた。 
      リーレイは痩せ細ったサシオンの腕をひねり上げ、背後へ回った。
サシオンは全く抵抗しなかった。
針の痕跡は残らない。彼の死は服毒死として処理されるだろう。
燃えあがる殺意は遠のかないのに、眼の前がぼやけてきた。
彼は中途半端に髪を伸ばしたままだ。
白髪が目立っている。
リーレイは後頭部の髪を乱暴につかんだまま、躊躇していた。
     「俺たちの血は妥協しないぜ。純粋といえば聞こえはいいが、
求める女以外は受け入れられない。
いずれはその香腺も、ヴィオラ以外の女には反応しなくなる」
      リーレイが、何事かつぶやいたのが聞こえた。
乱れた呼吸の音で聞きとれないほどの声だった。
髪をつかむ手に力が入った。
サシオンは眼を閉じた。
     「女神が現れようと、おまえは彼女を忘れられない。
とうに愛しはじめている」 
      ヴィオラの幼い笑顔が、最後の自制心を粉々にした。
    「黙れ、サシオン!」


        その声を聞いた者はいない。
ただ、遠く離れた場所にいたヴィオラだけが、
異変を感じて海の方向を振りかえっただけだった。
     「リーレイ…?」
      海面は穏やかでなんの変化もなかった。
潮風が庭園に吹きこみ花たちを揺らしていた。
     ヴィオラは白い薔薇の前へ座りこみ、力なく眼を閉じた。
胸いっぱいに広がる孤独と絶望感で、立ちあがることができなかった。
      母様、助けて…、わたしたちを、正しい方向へ導いて…。
      その様子を見ていたのはマーガレットだ。
純白のドレスを着た物憂げな花嫁は、
ガラス張りの部屋から庭園を見下ろしていた。
そこから黄金の門扉の外は見えなかったが、
あのふたりの間に起こったことは察しがついていた。
その後、海岸の変死体の件で、島は一時騒然となったが、
服毒していたことが明らかだったので、騒ぎは夕刻にはおさまってた。

     支配人は永遠に沈黙を守ることを決めたらしい。
あの客人が死にかけていたことは、彼女の眼にも明らかなことだったからだ。



      ラムロワーズ一行と共にする食事もこれで最後という夕刻。
ジークフリークは、その席にリーレイの姿がないのをいぶかしんだ。
食堂にはもう人影はない。
ラムロワーズたちが食堂の隅の方で、会話も少なく食事をしていた。
ヴィオラはもちろんのこと、ラムロワーズもアークも、
昼間の変死体の騒ぎについて、なにかを知っているようだった。
誰もがその話題に触れないようにしているのが、
なによりの証拠だった。
その上、リーレイがいないことにも気づかないような素振りだ。
ジークフリークも食事中は、彼らに調子を合わせることにした。
仲良しだった庭師たちが次々と島を去っていくなか、
泣き通しだったヴィオラもすっかり疲れきっている様子だ。
これ以上この子を刺激するのはかわいそうだ。
      しかし、食事を終えて席を立ったジークを、
ヴィオラが追いかけてきた。
     「リーレイを探してくれるの。
ごめんなさい、こんな時、わたしはどうしたらいいのか、さっぱり判らないの」
     
「心配するな。俺に任せろ。男同士の方がいい時もあるからな」 

      ジークは快活に受けあった。





島中を探し回った結果、リーレイを見つけたのはセント・リリー教会だった。
彼は最前列の席に座り手を組んで顔を伏せていた。
ジークは意外に思いながらそっと声をかけた。
     「…まさか、懺悔をしていたとか」
      その声にリーレイは顔をあげた。
ひどくぼんやりしている様子だった。
うたたねをしていたのだと判ると、ジークは笑いだしそうになった。
そうできなかったのは、彼の様子が少しおかしいと感じたせいだ。
     「どうしたんだよ、食事もしないで」
      実際、リーレイはひどく疲れていた。
左手にはまだあの感触が残っている。
ひとを殺めたいという最大の欲求が満たされたというのに、
なかなか意識の渇きが癒えない。
いつまでも息苦しく、指に力が入らなかった。
      思い返されるのは遠いむかしの彼の姿ばかりだ。
彼はサラブレッドだった。
その眼も、声も、髪も、全てが美しかった。彼の霊力は、比倫を絶していた。
彼を師と仰ぐ気持ちは消えない。
そのサシオンの最期に、自分がこんな形で関わろうとは。
 ジークフリークが隣に腰かけたので、リーレイは思わず彼から顔をそむけた。
自分がしたことの罪深さを、
この純粋な男に悟られるのは耐え難いことだった。
     「ヴィオラと別れるそうだな」 
      ジークは相変わらずひるむことがなかった。
「あのホームページにもあったが、血がひとの意思を操るなんて、
俺は信じられないな。
そんな事本気で云うやつがいるとしたら、
     自分の意思の弱さを言い訳しているだけだと思う。
人間は理知的な生き物だ。本能で生きている動物とは違う」
      その台詞にようやく反応したリーレイだったが、
彼の眼から絶望感は消えてはいなかった。
自分は殺意をコントロールできなかったのだ。
それは意思の弱さとして片付けていいものだろうか。
身をもって体験した恐怖を、この男に伝えられないもどかしさがあった。
     この先自分はどうなってゆくのだろう。
谷で発狂した男たちを何人も見てきた。
嗜虐性が強く、未来など考えてもいないような眼をしていた男たち。
だけど、霊力だけは純粋だった。
《中央》は、狂気と隣り合わせにあるその力をなによりも尊重していた。
     「ヴィオラに心を奪われてどうしようもなくなる日が来ても、
純粋な自分の意思だと自信を持てよ。
想いを断ち切るのはたやすいことじゃないが、
みんなそうなんだ。血がおまえを狂わせているなんて、
ばかな事を信じてはいけない」
   さすがに洗脳の事実までは、素人たちは気づいていないようだった。
あれはあくまでも内部のわずかな人間だけが気づいた、
罠の一部。
そして、『レンデフルール』の歴史に組みこまれた、小さな歪み。
その歪みから、全てをひっくり返そうとしている邪悪な人間の狂気だった。
それだけなら勝てるかも知れなかった。
なぜなら過去に、意識にプログラムされたひとつの呪縛を破った経験がある。
『薔薇の庭園』にかけられた鍵は壊せた。
ヴィオラは幼い霊力で、
リーレイの無意識に埋めこまれた呪詛を断ち切ってくれた。
不可能なことではない。 
      ヴィオラは、娘同然の、自分の分身だ。
      リーレイは強く自分に云い聞かせた。
不毛な愛情など、抱くはずがない。
       「ヴィオラを愛している、本当に、心から」
      リーレイがしぼりだすような声で云った。
     「あの子がかわいくてしかたない」
     「そうか。おまえ、本当にいかれちまっているんだな」
      ジークフリークはこれでも真面目に答えていた。
「そうだ、俺はいかれている。でもこの想いは本物だ。
あの子は大切な家族だ。血を分けた大切な同胞なんだ。
この気持ちは変わらない。判ってくれるか、ジークフリーク。
この想いは、永遠に変わらない」
     「俺はおまえを信じるよ」
      ジークは笑顔でリーレイの想いを受けとめた。
「困ったことが起きたら俺に連絡しろ。いつでも力になる」
      彼は自分の名紙に、次の滞在先を書きこんでいた。
     「俺はこの街にいる。就職先が決まったら、必ず知らせてくれ。
おまえとは友達でいたいんだ。ヴィオラとは三日に一度は交信する予定でいる。
本当はラムロワーズについて行きたいのだが、俺は嫌われているからな」
     「ヴィオラは君によくなついていたな」
      リーレイは名紙を受けとった。
ジークフリーク・ラテ。
彼もまた流浪の庭師だ。
連絡を怠れば、二度と逢えなくなるかも知れない。
     「ヴィオラの相談に乗ってやってくれるか」
   「もちろんだ。おまえも俺を信じろよ。必ずおまえたちを助けるから」
      彼はそう云って笑った。
 


     翌朝。 

      ヴイオラたちは花園を後にした。
いつまでもマーガレットやジークフリークの手を離せないで
泣いているヴイオラを、リーレイの手がやさしく叩いた。
     「ほら、シャンとしろ、ヴィオラ」
      彼はもう、遅れるヴイオラを待ってはくれない。
かける言葉も一度きりだ。
 ヴィオラには不思議と感じることがあった。
自分と彼の間には、強くて濃いつながりがある。
それは生半可な意志では断ち切ることはできない。
母が亡くなってもなお自分とつながっているように、
生きる場所を変えたとしても、彼の存在は自分を励ましつづけるだろう。
      今はそれだけを考えることにした。
      明日も生きていける。



      その道程は、長い。




エピローグ



      全ての友人が去った夜。
明日に婚儀を控えていた花嫁は、
教会の屋根から身を投げて生命を絶った。
式の準備を終えて、彼女自身、明日を迎えるつもりでいた。
発作的な行動だった。
巨大な孤独と絶望感が、彼女を教会へと走らせていた。
      もしかしたら、彼女は予想していたのかも知れなかった。
      肩を大きく出した、
純白のRobe・de・Marieeにシフォンのショール。
     ほどいた髪が、海風になびいていた。
星まで吹き飛ばされそうな夜だった。
この島を飛び立つ幻影を見ていた。
手を引いてくれるひとがいた。
だから飛び立とうと決心したのだった。 
    彼女が絶命した瞬間に、何事か叫びながら駆け寄る者の姿があった。
大きな身体の男で彼はまだ島を離れていなかったのだろう。
彼女にもう一度だけ、話しておきたいことがあった。
     「投げだしてしまう生命なら、なぜ俺にあずけてくれなかった」
      男は花嫁の身体を抱いて泣いた。
      教会前の白薔薇が、返り血を浴びて染まっていた。
彼女が望んだ通りの赤に。 
     
 彼女は予想していたのかも知れなかった。

      男は間に合わなかった。 


      天上に、永遠の花園は存在するのだろうか。 

      あるとすれば、それは彼女を救うだろうか。

      彼女を狂わせた疑惑が、愛するひとの裏切りではないと、

彼女を慰めるだろうか。
    

      だとしたら、救われる。 

      私も、貴方も…。



第3章  永遠の花園  完
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