ぬいぐるみや人形が埋め尽くす暗い部屋の中、人形を抱いた少女が寝間着のまま、テレビを眺めていた。テレビはプリキュアの華やかな活躍を映し出している。
彼女の名前はつむぎといった。踊ることが大好きだった彼女は、小さい頃からバレエの練習をはじめた。上達は素晴らしかった。つむぎにとって、踊っている時が最も幸せだった。踊っている時は嫌な事も全てを忘れられたし、辛い練習も、新しい技を軽々とこなせる自分を想像すると苦ではなかった。皆が感嘆の表情で自分の踊りを見つめることは、彼女の自尊心を満たした。
ある日の練習中、突然彼女は崩れるように座り込んだ。足が全く動かなかった。病院に行き、原因不明と告げられ、リハビリに打ち込みつづけ、それでも結局足は全く動かないということを認めざるを得なくなるまでには時間がかかった。彼女はもう決して踊れないのだった。彼女はぬいぐるみと人形で埋め尽くされた自分の部屋に引きこもり続けた。
サイアークを倒し、満面の笑顔でテレビのインタビューに答えるプリキュア達。その姿はまぶしい程に輝いていた。つむぎは無表情のまま、リモコンでテレビの電源を切った。
「みんな幸せ?…私は、全然幸せなんかじゃない」
これまで毎日流し続けた涙は枯れることもなく、今日もまた少女の両目からとめどなく溢れ出し、彼女の抱く人形は今日もまた涙に濡れた。
プリキュアがどんなにサイアークを倒しても、プリキュアがどんなに理想を説いても、テレビの中のプリキュアがどんなに輝いていても、つむぎの足は治らない。そして、つむぎが足を治そうとどんなにがんばっても、治らないものは治らない。
今回の映画でプリキュアが対峙するのは、「つむぎ」という非情な現実である。
プリキュア映画はこれまで寓話的な表現が一般的で、新キャラクターが登場したとしても妖精、異世界の住人といった間のキャラクターであった。人間の少女をフィーチャーして、ファンタジー抜きであり得る悲劇をストレートに描いたのは今回が初めてではないだろうか。少女をフィーチャーした作品としてはNS1が思い起こされる。確かにNS1とハピプリ映画は脚本が同一作家ということもあり、似ているところもある(そういえば、冒頭でプリキュアの活躍をテレビで見ていたことも同じだw)。ただ、あゆみちゃんの場合は「望まない引っ越しに伴う疎外感」という、比較的些細な(それゆえ誰しも似たような経験をしたことがあり、共感しやすい)ものであったのに対し、今回は「踊るのが大好きだった少女の足が動かなくなる」という「絶望的な不幸」を描いている点で一線を画している。
プリキュアにおける戦闘の「プリキュアと敵」という構図は「現実における私たちとその前を阻む困難」のメタファーと見なせるが、プリキュアが敵に打ち勝っても、「プリキュア以外の人間が敵に打ち勝つ」ことは意味しない。
一方で、当初「ヒロインとして世界を救う」というよりも「自分達の日常を守る」方向に重きが置かれていたーーそれゆえ、前述のメタファーが効果的であったーープリキュアは、近年その力を以て「世界を幸せにする」といった役割を担わされている。「敵」の設定を「悪の幹部によって怪物化された人間」とすることによって、「プリキュアと敵」の構図に「人助け」のニュアンスを追加するだけでは、そのギャップは埋められない。今回の映画でテーマとなったのは、まさにそのギャップであった。
(つづく)