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祖母の歌

2013-08-30 | 雑感

母方の祖父が今年はじめに亡くなった。

祖父は92歳だった。2人の娘をもうけ長年、本当に長年寄り添ってきた夫婦である。祖母は葬儀場で布団に横たわる、すっかり小さくなって微動だにしない骸に寄り添い、その顔をじっと見ていた。

祖母は86歳、頭はしっかりしているとはいえ、体力は衰え記憶力も落ちている。祖父が体調を崩してから、思うように体が動かない自分へのふがいなさ、ストレスで時に感情的に周囲に当たる祖父の世話に、口には出さないものの、かなり参っていたのかもしれない。

昨年末に入院して急激に衰えた祖父は、一旦危篤状態に陥った。その姿はあまりにも小さく哀れであった。そこから医者も驚くほどの回復を見せた祖父だったが、入れ歯を外した口で昼夜を問わず喚き続け、点滴の管を外してしまう祖父が付き添いの家族も手を焼いていたが、静かになってしまうよりは余程安心だった。
その後、一旦病院から施設に移ることになり、このまままたしばらくは安泰か、というところで突然の訃報であった。

夫を失ったショックが、祖母の心身の健康になんらかの悪影響を与えるのでは、という懸念があった。
一人になった祖母は、祖父の生前と同様、近くに住む叔母の世話になったが、母もまた月1度の割合で地元に帰省して祖母の面倒を見ることにした。今年のお盆に、姉夫婦と従兄弟も帰省して、祖母の周りは、短期間ながらまた少し賑やかになった。

祖母の前でピアノを演奏した姉に、祖母は「仰げば尊し」を弾けるかと尋ねた。珍しいことを、少し場が沸いた。姉はリクエストに応じてその曲を弾いた。祖母はその旋律に合わせて歌い始めた。母と叔母は驚いてその歌を聴いていた。祖母が歌を歌うところなんて、これまで聞いたことがなかったのだ。お婆ちゃん歌えるんだね、皆は笑顔で拍手した。

祖母がなぜその歌を思い出したのか、それまで歌ったことのない祖母がなぜ歌ったのかはわからない。

 


「少女の頭部」ピカソ 1926年

2013-08-29 | 芸術

理解できない事象には自分を変える力がある。なぜならそれは自分の外側にあるものだから。その事象は、夏の雷のように突然現れ、人を散々脅かしては短時間で去っていく。時には雷は自分の殻を直撃して、それを破壊する。

意味不明で奇怪な美術作品群。これもまた、理解不能な「雷」のようだ。とりわけ、タイトルに挙げたパブロ・ピカソの作品は、彼が20世紀最大の画家と呼ばれてから既に何十年が過ぎ去ろうとしている現代においても、大概の人間にとってはそのようなものに見える。
事象の多くが、区切ることさえ困難で曖昧な“体験”として現れるのに対し、絵画作品は、たかだか数メートル四方の四角形に区切られた小さなモノであり、それは恰も体験を閉じ込めたカプセルだ。「その体験が与えてくれるであろう世界」への希望。雷が私の殻を破ってくれることへの期待。それが、私の美術作品への憧れの小さくない部分を占めていることは恐らく間違いない。

モノクロで描かれた「少女の頭部」。あどけなさを残しつつも端正で無表情な顔。その右半分は仮面を被っているようで、その表情はうかがいしれない。「仮面」の顎のような曲線はチョークで描かれたぼやけた線に繋がり、首のラインをなぞる。
その仮面と少女は同一人物でありながら、その2つの横顔の唇は1本の曲線で区切られ、キスをしているようにも見える。そう見ると、不思議と 仮面のような右の目は、単純にキスをするときに閉じた眼のようにも見えてくるし、中央の曲線とその真ん中に位置する小さな丸は、もしかしたら彼女の乳房と乳首なのかもしれない。

画家が一体何を考えてこのような構成に至っているのか、彼の絵を初めて見たのは多分小学生の頃だったと思うが、その頃から一貫して全くわからない。しかしそのシンプルで明確な線で区切られた構成は、どんなに謎の形状を描いていても、決して一つの作品としての統一感を失わず、さらには美しさと質感までも感じさせる。これはこの線一本一本の意味を理解せずとも、感じられる作品のメッセージである。小さく、無名で完成度の高いとは言えないこのような作品であっても、ピカソの「迫力」を雄弁に語ってくれる。

先に、「憧れの小さくない部分を占めている」と書いたが、私の美術への憧れを構成するもう片方は、人を何万年も前から育んできた自然の風景が、人に言いようもない感動を与えるのと同じように、理解のフィルタリングを意に介さずダイレクトに人の根源に飛び込んでくるその普遍的な「美」であることは間違いない。優れた美術作品は、人の殻を破ることなく、人の心にしみいり、その中から自分を変えていく。


「メガネをかけたら」感想

2013-08-26 | 文学

突然、メガネをかけるように言われた。嫌だ。どんなメガネもかけたくない。そんな少女のささやかな成長物語が「メガネをかけたら」である。

メガネの装着を躊躇う少女に奇跡が起こった。「奇跡」について詳細は、ネタバレを避けるために書かないでおくが、その「奇跡」に驚いた少女は、かけていたメガネを通して担任の先生のウインクに気づく。そして同時に少女は担任教師の粋な計らいに気づいたのだった。彼女は忌み嫌っていたメガネの長所と、そんな彼女を励ます担任の暖かい心に同時に気づくことができたというわけだ。

 この物語の小さな奇跡を通じて変わったのは、彼女が忌避していた外的な要因ではなく、彼女自身である。物語は彼女の翌日の姿までを描いていないが、読者には容易に想像することができる。翌日、彼女が枕元のメガネを見て、好奇の目で見られることを思い出すであろう。しかしそんな彼女を取り巻く愛情も、同時に思い出すだろう。その愛情が彼女を確かに成長させたのである。

 彼女の気持ちがわからないメガネユーザーは、極端な話、円形脱毛症になって学校に行く気持ちを想像してみればいいと思うが、この物語における「メガネ」は、単純にマイノリティを表す記号に留まらない。「馬を水飲み場に連れて行くことはできるが、水を飲ませることはできない」という。同様に、「メガネを買い与えることはできるがメガネをかけさせることはできない」。嫌だと思えばメガネを外して窓から投げ捨てることだって容易い。継続的な使用には、確実に自主的な意志が必要になる矯正器具だ。メガネをかけるために必要なのは、メガネをかけようと思う気持ちである。

 いずれにせよ、彼女の不快感や葛藤は決して小学生女児に特有のものではなく、人生における普遍的なイベントである。だからこそ、ラストに描かれた「小さな奇跡」の暖かさは、読者の老若男女を問わずじんわりと胸を打つはずだ。

EhonNavi 「メガネをかけたら」