池田 悟≪作曲家≫のArabesque

・・・深くしなやかに・・・(音源リンクしてます)

アモルファスはフォーカス可能か

2008-10-24 | 作曲/大編成

ピカソは「ゲルニカ」を制作する過程で、壁のようなキャンバスにモチーフのデッサンが描かれた紙を何枚も貼り、どんな形のものを、どの向きに、どの位置に、どんな色で構成すれば最もインパクトがあるか、周到に試みた。恋人が写真に残している。
大きな編成で10数分という持続は、現代音楽にとっては壁画のようなものだ。気を抜けば中だるみに陥ってしまうことも多い。
否、むしろ気を抜くまいと一生懸命考えることによって、却って技術に堕した平凡な展開になってしまう、と言うべきか。
冒頭や終結部のような、聴き手をハッとさせる断片的な要素はいつまでも続けることは出来ない。続けることでマンネリ化してしまうのだ。

作曲教室の仕事を終え、電車の中で、作曲中の曲についてふと思った。
―仮にこの曲を切れ目の無い3つの楽章に分けたとすると、第1楽章はどんな終わり方をし、第2楽章はどんな始まり方をし、その後はどんな風に展開すべきだろうか…。
同じ3つの部分に分けるのでも、冒頭部・中間部・結尾部として分けるのと、第1楽章・第2楽章・第3楽章として捉えるのとでは本質的に全く違う。
単に「中間部」と言えば息抜きのような役割も多く、敢えて緩慢にしているのだと解釈することにより、漫然とした持続も正当化できる。
他方3つの楽章として成り立つには、それぞれの楽章は絵の一枚一枚のように分離・独立させ得るほど鮮やかで充実した内容が盛り込まれていなければならず、たとえ緩徐楽章でも要求度がずっと厳しくなる。
言葉が創作に及ぼす影響は大きい。
両者の違いは人生を幼年、青年、中年、老年などに漠然と分けるのと、入学、卒業、成人、結婚、還暦などの節目で分ける分け方にも譬えられるだろう。
後者において、人はその都度生まれ変わる覚悟で決意を新たにし、人格が陶冶(とうや)される。

自分が彫刻家だったら、石や、樹や、人体よりも、風や波、雲海を、命そのものを彫刻できたなら、どんなに素晴らしいだろう。
顔の表情や姿態を借りること無く、人間の感情そのものをダイレクトに彫刻できたなら…まして宇宙を彫刻できるなら、一生を捧げても良い。
アモルファス(amorphous)…刻一刻と流動的に姿を変えるさま、形の無いさま。奇しくも語感・意味の似ている「アトマスフィア(atmosphere)…雰囲気」の連続態と解釈できるだろうか。
これは彫刻にとって、最も適さないモチーフに違いない。だが音楽なら出来る。むしろ音楽にしか出来ない、究極のモチーフ。
夢の深層にある、目覚めれば一瞬で消えてしまう儚いドラマのような世界を、壮大なパノラマに定着させたい。
言うのは容易いが、書けば書くほど謎が深まる。意識を覚醒させ集中すればするほど、夢の世界はかえって遠ざかるから。

ただ僕にとって音楽は、ほのめかしに終始するのでは無く、陶冶するフォルムでなければならない。
形のはっきりしている物なら、一層力強くなった姿を想像するのは難く無い。しかし元々形の無いものを陶冶することは、そもそも可能だろうか。「暖簾(のれん)に腕押し」では無いのか。
それを打開するには隕石でも落とすしか無いだろう。隕石もまた無数なら、アモルファス。
陶冶の結末、フォーカスされた光景は自ずから古典的なクライマックスとは異質なものになる。曲を生かすも殺すも、ここ次第。
フォーカス(集中、台風の目)、或いはintensiveness(激しさ、強さ、集中)。
からこのテーマを授けられ、今年は8年目の秋。
試聴



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