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癒さぬ傷口が 栄光への入口

セーラー服と機関銃

2006-12-03 | テレビ。
最終回の日は、東京行きの夜行バスへ乗らねばならなかったので「家族」だけ見て「セーラー服」はビデオ録画して出かけたさいんです。
帰ってきて真っ先にみた録画モノがこの最終回だったのですが、いかんせんライブレポートやらトラバ企画やらバタバタしていて結局最終回から1週間以上経ってしまいました…。

さて、セーラー服と機関銃でございます。

セーラー服と機関銃

TCエンタテインメント

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この初回を見た時にこのような感想文を書いております。
で、最後まで見終わって、ですね。

これね、ほんっと良かったです。
思い切り泣きまくりました。


「セーラー服と機関銃」といえば、薬師丸ひろ子の代表作のひとつです。

セーラー服と機関銃

PI,ASM/角川書店

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で、前述の第一話を見た時点の感想にもちらっと書いたのですが、このドラマが始まる直前に深夜で放送していたのを見る機会がありましたので、ドラマを見る上でもとの映画との対比を楽しむことも出来ました。
昔にも1,2回は見ていたけど、やっぱり色んな部分を忘れてますからねー。直前に見れたのは良かった気がします。

私は原作の赤川次郎の小説は読んでいませんので、原作との対比までは出来ませんでしたが。

どこかの(テレビ雑誌だか何かの)ドラマ紹介文には「女子高生が組長になり悪を倒しまくる」のように掲載されていたので、実はてっきり「映画(原作)の設定を下敷きに、オリジナルのドタバタでも描く気かしら?」と思っていたのですよ、最初は。騙された。
途中(第3話あたり…?)から「やっぱこれは映画の話を7話という枠の中で描き直す話なのね」と理解したものの、そうなるともうラストは決まっているわけで。
組員の皆がそれぞれとても愛すべきキャラクターに仕上がっていたので、「この人たちが皆死んじゃうんだ…」と先走って悲しんで見たりしていたわけです。

さて。
ひろ子崇拝者(笑)やひろ子版がすごく良かったと思っている方(↑の引用するのにアマゾンの評価を見たらものすごく高くてちょっとびっくりした…)には申し訳ないのですが、私はひろ子版の映画にはとても感情移入できなかったんです。
確かにひろ子の当時の可愛らしさとか、少女が「女」に成長していくようなコンセプト的なものはよく出てたとは思うのだけど。

あ、誤解されると困るのですが私は「薬師丸ひろ子」という女優は好きです。特にここ数年のちょっとおばちゃん(笑)になってからは。昔は「嫌い」ではないものの「好き」ではなかったけどね。閑話休題。

なんでひろ子の星泉に感情移入できなかったんだろう…と考えるに、
組員が次々殺された後、この子は何でこんなに普通にしていられるんだろう?ってすごく気になったんですよ。
殴りこみに行った時も、緊張をほぐす為だかなんだかわかりませんが、普通にはしゃいでたりして。
可愛い組員を殺されたという切羽詰った感じがなくて。彼女の怒りみたいなものが感じられなくて。それは感じられないこちらが鈍感ということなのだろうか?それともそこはあえて描かないでいい部分だったのか?
この映画のポイントでもあった「カ・イ・カ・ンv」の場面ですら。
この流れで機関銃をぶっぱなしてそれかよ!って。
死んでいった組員たちを失った悲しさとか悔しさとか怒りとかはそんなものに「昇華」してしまうのか?って。


長澤まさみの「星泉」はくそまじめでどんくさくてオロオロするばっかりで…でも、人よりおとなしい女子高生がいきなり馴染みのないやくざの世界に放り込まれてオロオロしない方が嘘です。殺す殺されるはおろか、多分彼女の人生の中で、ただのケンカで血を見るような場面にだって遭遇したことはないんだろう。だからオロオロするし、足も竦むし、泣き出しもするし…

そして、家族を失った泉が得た「家族」を再び失うことになれば、泣き叫びもするし我を忘れて怒ったりもする。

そんな「自然さ」みたいなものが長澤の「泉」にはありました。

ただただオロオロしてばっかりだった泉が、ついに最後に武器をとって「ふとっちょ」の所へ殴りこみへ行く。もっとも、佐久間には決して発射はしないよう釘をさされましたが。あくまで武器であってもそれは「護身用」。

積み上げられたヘロイン。
「あなたが背負っているのはたった4人の命でしょう」
そういなされてキレる泉。

決して発射しないように言われた機関銃を乱射して、ヘロインの袋をすべてぶちまけてしまい………

長澤「泉」は「カ・イ・カ・ンv」とは言いませんでした。

ただ涙を拭うことも忘れ放心していました。
おそらく我に帰った時には、あれでもし誰かを殺してしまっていたら…という恐ろしさに震えていたことだと思います。
でも、そんな「泉」が私にはとても愛しく、可愛らしく思えました。

おかしな言い方だけど、そんな泉だからこそ、死んでいった組員達もちょっとは浮かばれるんじゃない?みたいなね。

テレビシリーズで7話を費やしてここへたどりついたこの物語。
ここまで費やしてゆっくり描いた組員たちとの交流のひとつひとつが、この場面の泉の言動にちゃんと説得力を与えてくれている気がします。
映画では出来なかった、それがこの物語の核の部分。

ここまで書いてきて、やっと気付きました。

薬師丸ひろ子の映画「セーラー服と機関銃」
長澤まさみのテレビドラマ「セーラー服と機関銃」
同じ原作を頂いて、同じストーリー同じ結末を迎える物語だけど、

「描こうとしているものが全然違う」

同じストーリーをなぞっていても。見ている人間に伝えたいメッセージが違う作品なのだということ。
それならば、納得がいきます。私が映画を見て「感情移入できなかった」のは、映画や役者の質(もしくは私との相性)の問題だけじゃないんだって。
だから、映画のもうひとつのポイント『佐久間の遺体に対面した泉がその唇にキスする』という場面が、ドラマ版ではなかった。
ドラマにはそんなものは必要なかったから。
ドラマの泉にとって佐久間は、確かに特別ではあったかもしれないけれど、それでも『家族』ではあっても『男』ではなかったのだから。



正直、このドラマ版でも言いたいことが無いわけではないです。
色々突っ込みたい部分は山ほどあります。
でも、それを補ってありあまるほどでした。
最初、長澤まさみに関しては完全にどうでもよくて、堤真一、小泉今日子、緒方拳などのキャスティングに惹かれて見たのですが、最後にはかなり泉ちゃんラヴになってましたね私w


それにしても堤真一の「佐久間」さんは……かっこよかった…。(そして可愛いかった………)

ちなみに、最終回の前の回、屋上の花火の場面が一番泣かされましたw
こんなにハマるなんて思ってもみなかったのですが、ええもん見れました。ごちそうさま。
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