函館へは何度か訪れていたが、駅前の朝市には28年ぶりに行ってみた。ここで鮮魚店を開いていたAさんを訪ねたのだが、当時とはすっかり様子が変わっていた。軒を並べていた数軒に聞いてみても、Aさんを知る人はいなかった。NHKのラジオ講座で英語、ポルトガル語を習得した面白いおじさんだった・・・・。
男は過ぎ去った日々を、妻には一度も話したことはない。これからも話すことはないだろう。誰でも痛みの大きい過去ほど、少しだって触れてほしくはないものだ。5年前のあの日以来、男は気に入ったピアノのショールームを見つけても、入ることはなくなっていた。それでもまどろみのなかで迎える日曜の朝は、男を仕合わせにするには十分過ぎた。
ピアノの音を聞いて、目を覚ましたときもそんな朝だった。そして、それが空耳だったことに気がつくと、男は数日前に聞いた一人のピアニストがひっそり帰国したという、噂の真偽を確かめようとしていた。©