Galerie note

その日の思いを綴ります。

『真 偽』㈨

2015-05-11 | Weblog

 数か月後、男のもとにアメリカから、一枚の絵はがきが送られてきた。自由の女神の傍らに「ようやく本当の自分に巡り合えた気がします。ありがとう」、とだけ添えられていた。
                       
あれから5年が過ぎようとしていた。しかし、男は現在もあの日のことを、忘れてはいない。それは自分から去っていった女への憎しみを増幅させているのではなく、愛した女への偽りのない気持ちを大切にしていたいからだ。
 男はすでに結婚していた。訓話好きの老社長に勧められるままに見合いをし、今では二児の父親である。仕事もうまくいっている。いずれは部長も夢ではない。妻はピアノこそ弾けないが、家庭的な女だ。料理も上手いし、子育てだって楽しんでやっている。男はそんな妻を愛している。妻だって自分に対して不満の欠片すら持っていない。男は、いつもそう思っている。

展覧会

2015-05-10 | Weblog

もりや光よ写真展『 絆・命 HIKARI 』 フィール旭川 ジュンク堂書店2F ~5月13日。

旭川彫刻美術館所蔵「日本近現代彫刻名品選」苫小牧市美術博物館 ~6月14日。

『真 偽』㈧

2015-05-09 | Weblog

  だから「アメリカへ行くことに決めたわ」と言われたとき、しっかり聞き取れなかったのは、店の中が騒々しいからだけではなかった。何が起きたのか分からないままに、もう一度聞き返し、それが空耳でなかったことに気づいたその時、充満していた周囲の声の一つ一つが一本の蔦のようにまとまったかと思うと、次の瞬間男の全身に絡まりついてきた。
 次第に冷静さを失っていく男に、女は大学の先輩がニューヨークでジャズピアニストとして生活していること、自分もいつかニューヨークへ行くことを考えていた。そして、ショールームでの演奏もそのためだったと確かめるように話し、少し間を置いてから「あなたとはこれからも、いいお友達でいられるわ。きっと・・・・」と、いつもと同じ笑顔でつけ加えた。
 男には分からなかった。あんなに愛しあっていたのに、明るい陽射しの中で二人の未来をいっぱい語り合ったはずなのに。男は自分を納得させる、理由を知りたかった。そう思って女の目を見ると、もうそこには新しい風景が映し出されていた。

雨は、まだ降り続いていた。水銀灯の冷たい光が、裏通りのプラタナスの葉を凍えさせ、二人の黙ったままの時間が無造作に流れていった。

『真 偽』㈦

2015-05-07 | Weblog
 敷き詰めた枯れ葉の上に置かれたそのピアノには、ロングドレスの人形が座っていた。男はそれがわざとらしくて気に入らなかったが、雨に追われながらドアを開けた。フワッとピアノの木の香りが彼を出迎えた。この瞬間、男は決まって異次元の自分を意識する。
 いつもは気に入ったピアノを目敏く見つけてはキーをたたいてみるのだが、外から見たショーウインドがおかしくて、もう一度確かめてみたくなった。するとどうだろう。人形とばかり思っていたピアニストは、生きた人間だった。男のあまりの驚き様にピアニストは理由のわからないままに弾く手を止め、目元で笑顔をつくった。

 女は金曜日の午後は一時間ほど、このショールームで演奏のアルバイトをしていることを知ってから、ピアノに後ろめたさのある者と、プロとしてのピアニストを目指す者同士が、男と女の関係になるのに大して時間はいらなかった。
男はいつからか一つの風景を描くようになっていた。
 まどろみの中で迎える朝。ピアノの音が静かに聞こえている。リストの「愛の夢」なんぞがいい。愛を重ねるごとに男はそんな思いを自分の中に膨らませていたから、急に結婚を考えたことに不思議はなかった。

『真 偽』㈥

2015-05-05 | Weblog
 もう3年になる。音楽大学の研究生であった女との出合いは、ある意味滑稽だ。男は自ら楽器を奏でるより、聴いて楽しむくらいの興味しか持ち合わせていない。
 特にピアノが好きだった。**の手習いで、楽しむ程度に弾けたらと、一時期ピアノの個人レッスンを受けたこともあったが、すぐに止めてしまった。白い鍵盤に触れる、自分の無骨な指先に失望してしまったからだ。
 それが今となって後ろめたく思い、詫びるような気持ちでコンサートへ出かけたり、気に入ったショールームを見つけポロポロと鍵盤をたたいては、自称ピアニストを気取っていた。

 その日も雨だった。初秋の空は移ろいやすい。出先から社に戻ろうとしていたとき、急に大粒の雨が降ってきた。乾ききったアスファルトはまたたく間に、色を黒く塗り替えた。とっさに喫茶店で雨宿りをと辺りを探したが、男の視界に入ってきたのは白いグランドピアノのあるショーウインドだ。

『真 偽』㈤

2015-05-04 | Weblog
 組織の中で人は誰でも、本当の自分を隠しているものだ。建前を優先するからこそ、雑多な人間がいても一つのまとまりになって機能する。しかし、その分だけ、組織の一人一人にストレスが蓄積されていく。それでも誰も、本当の自分をみせようとはしない。
 だから男にはその重圧から逃れることのできる、時間と空間が必要だった。カウンターで肩を並べながらのアルコールは、そんな男をいっそう自由にしたし、ツンとすました女の胸は男の情をふくよかに受けとめてくれていた。

「そろそろ身を固めるか」。
ひっきりなしに電話のベルがなる雑然としたオフィスで、男は急にそう思った。そんな時だった。

「今度の金曜日、会えないかしら」。女からの電話だ。

前文

2015-05-03 | Weblog
高3の時、日本国憲法前文と第9条の条文と理念を叩き込まれた。あれから50年経ったいま、新聞を読むたびに当時を思い出す。大学受験に必要な知識と詰め込んだものの、出題はされなかった。しかし、その時学んだ知識は、今に生きている。「戦争をしない国」から「戦争ができる国」、そして「戦争をする国」へと変わってしまうのか、5月3日を機にもう一度『日本国憲法』を読んでみることにした。

『真 偽』㈣

2015-05-02 | Weblog
「私、アメリカへ行くわ。もう行くことに決めたの」。あまりの唐突さに男が問返すと、今度は「ア・メ・リ・カ」と、一字一字噛み砕くように応え、女は悪戯っぽく笑顔をつくった。

 雨がちょうど退社の時刻と重なったためか、いつも待ち合わせる駅前の喫茶店は、雨宿りの客が多いらしく混み合っていた。
 男が約束の時間を一時間近くも遅れてしまい、慌ててドアを開けると、いつもの席で女は笑顔をみせた。「ゴメン、ゴメン。間際になって急ぐ仕事が飛び込んできたものだから……」。言い訳をしながら、腰を下ろした。女はいつもと同じ笑顔をつくった。男はハンカチで濡れたスーツと額の汗を拭い、グラスの水を一息で飲み干した。今度はゆっくりと女に目をやった。小さく笑っていた。
男はそんな笑顔が好きだった。そしてその笑顔は、硬張った男の感情をいつでも和らげてくれた。