カメラを片手に

奈良地蔵巡り②頭塔から福智院まで

朝10時頃の生駒山上空は雲一つない青空、「天高く馬肥ゆる秋」に
相応しい天候で、川の水面に遠くの生駒山の電波塔が映りこみます。
 
 
お昼を過ぎると、できた飛行機雲が跡を引くように薄く広がりだし、
上空に湿った空気が入った証拠、深夜には雨が降り出し、明日は雨、
でも一日だけで来週初めまで良い天気が続くと。
でも油断大敵、大陸から黄砂がやってくる。マスクのご用意を。


奈良地蔵巡り②
弘法大師が爪でかいたと伝わる「爪かき地蔵」から東へ
高畑の交差点へ近くで家の隙間から『頭塔』の頭部が・・・、
奈良のピラミッドとも一部では云われるが? 


「ホテルウェルネス飛鳥路」からも、200円出せば見られるのだが
目的ではないので、通用門からの写真です。


不十分なので、奈良県のHPからの写真と説明を示す。
頭塔

「頭塔・ずとう」とは土壇からなる非常に珍しい奈良時代の塔です。
かつて頭塔は、奈良時代の僧玄昉の頭を埋めた墓との伝承があったため、
この名称の由来とされてきました。その後大正11年(1922年)3月8日
付けで国の史跡に指定され、頭塔は奈良時代の土塔として、学術的に
位置づけされ今日にいたります。
そもそも頭塔の造営については、神護景雲元年(767年)に東大寺の僧で
二月堂修二会行法(お水取り)を創始した実忠が、東大寺別当の良弁の
命により国家安泰を祈って造った塔であるとされています。
現在の頭塔は、南側については頭塔の森としての価値を認めそのままにし、
発掘調査により遺構解明された北側のみを昭和61年から平成12年まで
奈良県教育委員会が復元整備を行いました。
方形の封土を3段に築き、その4面に石仏を配列したもので、現在浮き彫りの
石仏が13個あり、奈良時代の数少ない石仏群として有名です。
この頭塔に類似するものとしては、行基が関与した堺市の土塔がある。”と

この通用門の脇に『椿地蔵』が祀られている。
興福寺の別院であった「椿之坊」の北側にあったが、1717年に坊が焼失し、
再興もならず空き地の野仏になられた。
向って右に阿弥陀如来、左に地蔵菩薩の二体が並んで彫られている。
つまり、地蔵が導き阿弥陀浄土に送るとされるからでしょう。
 

西に向かうと、本来の頭塔保存会が管理されている南の入り口
正倉院展に合わせ、11月14日(木曜日)までガイドが常駐し、
頭塔について説明が行われている。
その横に「子安地蔵」が祀られ、子供が授かるお地蔵様として信仰されている
 

頭塔の南西方向からの写真では、こんもりとした森が

近くには奈良町の元醤油家「青田家住宅」1856年建築で奈良市指定文化財や
酒屋さんが残されている。おまけ
 

三叉路まで西に下ると、須弥壇中央の厨子奥に本尊「鎧地蔵」がおられます。

宝珠と錫杖を持ち、甲冑を着て鉾をも持たれて馬上にまたがる高さ75cm石像で、
室町時代の造立と。御前立として木造地蔵、脇侍には毘沙門天と不動明王がおられる。
第二次大戦で、町内の出兵兵士に戦死者が出なかったのはこのお地蔵様のおかげと
ガイドの写真より拝借

西北方向の「福智院」まで戻って来ました。
福智院は僧玄昉が建立した清水寺の遺鉢を受けた寺とされる(奈良坊目拙解)
顕彰碑も境内にあるが、清水寺の遺構は発見されていない。

もとは興福寺大乗院の地蔵堂で、古来南都における地蔵信仰の霊場でした。
裳階付の本堂が垣間見えます。重要文化財で1254年建立です。


御本尊は「地蔵大仏」で1203年作、像高2.73mの大作で、威風堂々とし、
光背にも千体地蔵がおられます。重要文化財
拝借

目的は、門を入ってすぐ右に馬に乗られた「勝軍地蔵尊」です。


本堂奥には、沢山の地蔵様がおられたようです。


静かな堂内、特別拝観実施中です。
十輪院へと続く

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