カメラを片手に

山の辺の道・奈良道北コースⅣ、高円山麓から円照寺参道に

深夜の荒れた天気のあと今朝は10.2℃と暖かかった。
朝から時折強い西風が吹き、日差しもそこそこあるのに気温は13.2℃止まり
昨日の小春日和の20℃から一転、寒ーい一日になりました。
      11時、11.4℃、43%

奈良の紅葉は平地まで下りており、我が家の近くの保安林の紅葉も進み、
      11時

庭の紅葉は「ドウダンツツジ・満天星」、なんとか色付いてくれたと思えば、
昨晩の荒れた天候、風雨で落葉が始まった。          11/30

11/26山の辺の道・奈良道Ⅳは、紅葉の「山村御殿・円照寺」を目指します。


百毫寺の石段を下り、山の辺の道に戻り、南へ行くと三叉路に。
南側から撮れば「右 かすが・・・」と、春日大社への道でした。
      

住宅地が途切れると、中腹に火床のある高円山が見える。

高円山の麓にはあまり知られていない遺跡がある
①「石淵寺跡」弘法大師の師、大安寺の聖僧勤操大徳の開山で千坊を有したが
  江戸時代初期には草むらに
②もう少し南の麓の高円高校敷地に「百毫寺遺跡」があり、発掘調査から
 聖武天皇・高円離宮推定地とされている。
延ふ葛の絶えず偲はむ大王の 見しし野辺には標結ふべしも』大伴家持
③「鹿野園石器散布地」、岩井川左岸の高円山麓に石鎚など多くの石器が
  散布し、縄文時代の遺跡と考えられている。

石仏群が見えれば・・・奈良市などの霊園やその関連施設の入り口です。
奈良名張線を渡り、鹿よけ柵から池方向に下りる   
こんなところに、お地蔵様が

岩井川を渡れば、鹿野園町(ろくやおん) ”ろっきゃおん”と地元では呼ぶが由来は
"釈迦が「鹿の多く住むところ」で悟りを開いたとされる伝承やその仏教聖地
「サルナート(鹿野園)」にちなみ、奈良時代に日本へ渡来したインド僧
「菩提僊那(婆羅門僧正)」がこの地を「鹿野園」と名付けられたと。
斜面に沿い上れば、磐井川南側の鹿野園地すべり防止工事中でした。

中腹迄上がれば鹿野園の氏神様でしょうか「八阪神社」がある。
明治時代にお社が集められた。
      
本殿・八柱御子神、
摂社・木華開耶媛命、天照皇大神、天児屋根命、事代主之神、大国之主命
      

池の傍を歩きのですが、その傍らに万葉歌碑・巻6 981 大伴坂上郎女
『かるたかのたかまとやまをたかみかも いてくるつきのおそくてるらむ』
      

この池の西200mに『梵福寺跡』、東西南北18間の規模で石淵寺の支院の説と
奈良時代、鑑真さんの弟子善謝の建立の説がある。
本尊は十一面観音(室町期)とされる。

この池を過ぎて脇道となる樹林の中に「身ノ立山不動明王堂」がある。
      
『身を削り 人に尽さん すりこ木の その味しれる 人ぞ尊し』

今年は暖かいのか、ツツジが」咲いており、目を楽しませてくれた。
      


奈良万葉CCの近く、横井寺跡があるというが標識はない。
そして元奈良38連隊の射撃場跡に、航空自衛隊の射撃場(室内)と官舎が残る
      

この辺りは古市、



「古市廃寺」昭和35年の発掘で、南門・中門・塔・金堂の四天王寺式伽藍を
持つ飛鳥期の創建で、平安期に火災で廃絶したと。出土瓦に「野」があり、
和爾氏の同族の春日部小野氏の勢力下でその氏寺と考えられる

また「古市高山城跡」東市小学校付近に15世紀後半から古市氏の居城だ。
しばらく歩けば、「藤原観音堂」と「白山比咩神社」付近にトイレがある。
「白山比咩神社(しろやまひめ)」は白山信仰からで
ご御祭神は菊理比咩命
      

住宅の脇に「藤原観音堂」があり、十一面観音菩薩立像(室町期)がお出でだ。
      

      
 
南の村の外れに「嶋田神社」があり、八島神社・崇道天皇社とも呼ばれる。
御祭神は崇道天皇、神八井耳命 
1885年まで ここから400m西にある八島陵(崇道天皇陵)内にあった嶋田社・
 崇道天皇社を移し、嶋田神社本殿として現在地に移築された。
なお本殿は1727年に春日大社本社本殿第三殿を移築されたものです。
      

西に下り「崇道天皇(すどうてんのう)八島陵」にまいります。
「崇道天皇」とは桓武天皇の皇太子「早良新王」のことで、謀反の疑いをかけ
られ、皇太子を廃され淡路島に流されるも無実を訴え、絶食して憤死し淡路島
に葬られた。そのたたりか天変地異が起こり、「崇道天皇」と追諡されたが、
皇位継承はない特異な方です。
 
そのためか門まであり、きっちりと整備されている。

      

その傍らの道の真ん中に、石が8つあるらしく、1つ?は地中の中らしい。
早良親王が薨去の後、その親王からの夢のお告げにより東方に「九つの石」を
投じたところ、一つの石は大和国二見に、残りの八つの石は大和国古市(当地)
に止まったことから、御陵が設けられたことが由来とする 「八島巨石伝説」
を示唆するものだが・・・
実は古墳時代造陵された「八嶋陵前古墳」の石室の一部のようだ。
      

池の傍らに立つ歌碑、日本書記 96 勾大兄皇子御製
『やしまくにつままきかねてはるのひの
        かすがのくににくはしめをありとききて』
        

さあ最終目的地『圓照寺(山村御所)』へと樹林に入れば、
途中に『向山地蔵』、真ん中にお地蔵様を中心に400基ものの石仏が
手を合わせて立ち止まりました。

樹林を抜けると、円照寺の長い参道の途中に合流しました。
                        
    
紅葉に期待が膨らみました。             (次回に続く)

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