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岩清水豚の話(後編)

2011年01月17日 | 徒然
 昨日から雪が降りました。この紀伊半島の温暖な気候でも年に1~2回は降雪がみられます。山の雪化粧や突風に吹かれて散る雪の様はとても美しくて、幾ら見ていてもあきません。

 で、紀州岩清水豚の後編なんですが、1996年に私なりの完成を見た後、このあと1999年まで通販は大きな展開はありませんでした。地道に細々と全国販売は行っており、徐々に販売量も増えてはいたのですが経営を助けるほどの販売量ではなかったのです。とらちゃんもすっかりやけになってしまい、口を開けば廃業、倒産と言った小言が口をつくようになりました。その内に、もうどうにもならないと観念したのか私には何も言わないで母方の叔父に廃業後の私の仕事も頼んでくれてあったようです。

 私には手ごたえがありました。TVでしか見た事の無いような人から注文があったり、明らかに口コミで広がっていると確信できる事がネット上の注文からひしひしと伝わってきたのです。ただ、絶対に成功できるとは言い切れませんでしたし、当時口を開けば文句を言うとらちゃんにも辟易していたので、私の仕事が世間でどのように評価されつつあるのかという部分をはっきりとは伝える事ができていなかったのでした。思えば私もまだ若く素直な心が欠けていたと思いますが、この頃の私の中での気運の盛り上がりを彼と共有出来なかったのは本当に残念で申し訳なかったと思っています。というか、何度か伝えたのですけど、彼には市場で売る以外の販売方法は邪道として写り、全く取り合ってもらえなかったのですが。
 1999年になり、とらちゃんがはっきりと廃業を心に決めたのでしょう。多分あと1年ぐらい私の我ままに付き合って廃業するというシナリオを描いていたと思います。廃業を決めたせいか、この頃になると口ではこんな販売やっても経営にはなんの足しにもならないと文句を言いながらも通販の部門を一生懸命頑張ってくれました。私も通販の強化をすべくいろいろの販売先の模索と同時にさらに豚の飼料の内容などに手を加えていきました。心うらはらながらも、なんとなく歯車が噛み合い始めたのです。その頃から時々雑誌やTV番組から問い合わせが来るようになりました。

 2000年春にとらちゃんが廃業を提案しました。いくら豚の味が良くてもお金にならない。安全安心をうたっても格付けでの等級が悪ければ市場では安値でしか買ってもらえない。おまけに飼料を原材料からこだわっているので異常にお金がかかりすぎてる。彼の意見は当然の提案でしたが、私はとっくの昔に命まで賭けていましたので私が首を吊れば幾ばくかのお金は入るし、あと1年ぐらいは猶予期間があると考えていました。しかし、そこまで踏み込んでしまえばそれしか清算の方法がなくなるのも事実です。そんな事は親としては断固許すことが出来なかったのでしょうが、すでに遺書すら書いていた私は彼にここで降りてもらっていいとだけ答えたのでした。
 
 その後は急転直下というか直上の展開でした。廃業をとらちゃんが決めた2週間後に15分ほどの農業TV番組で取り上げられたのを皮切りに、雑誌、TV等で紹介されました。問い合わせの電話も雪ダルマ式に増えていきます。TV撮影などとてもじゃないという私に対して、ここというところで勝負強いとらちゃんはTVの撮影でもかなりのタレントぶりを発揮し、全国放送でも全く恐れることなく私の今まで培ってきたものを伸び伸びと表現をしてくれました。次の年には紀州岩清水豚という名前が全国の通販商品のランキングに名前を連ね、農場も経営の危機を脱したのでした。岩清水豚の名前をとらちゃんが思いついてから12年、紀州岩清水豚の元の形が出来てから5年が過ぎてました。

 でもね、私が本当に嬉しかったのは、何も無いこの御浜町片川の里の名前が何度も何度もTVで呼ばれた事です。


 



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