八木重吉全詩集(ちくま文庫)を手にとって見る時、それぞれの作品を系統立てて読むことをしていないことに気づく。八木の詩篇は、十行をみたない短い作品が多い。二、三行の断片のような詩行が、意識することなく読み手の心の内にしるされていく。それらは偶発的に強くとどき、神経叢のすみずみに沁みこんでくる。
きらいなものは
きちんとした金持の花壇
白々しい砂ばかりの土
こういう寸感は、誰しも口をついて出てくるものだ。ただ衝動的に感じたとしても、人は、生活時間の中で即座にのみこんでしまって忘れてしまう。八木は、身の内にのみこまずに、言葉として文字として刻み残していく。この三行が詩として成立するか、はたまた、詩篇なのだろうかといった問いかけは、おそらくしていない。無垢、無為、無作の詩人の自然な行いとして、習慣的に閉じているのである。言いかえれば、詩は成立していないかもしれないが、「詩人」は、そこに成立している。八木重吉とは、そういう詩人なのだ。
●
そうした八木の断片的な詩句の中で、ずっともう何年も心に刻まれた言葉がある。
或る夜の夢
モ――モ――コ――
桃子
桃子――、
モモ子――、
モモコ――、
モーモーコーッ
あー、
桃子―、
モーモーコーッ
どうして心にひっかかったのだろうか。よくわからない。詩としてどうということのない作品。ただ、このような詩がなぜ掲載されたのか、そのことが気になった。
まるで詩の構えがない。作品としての輪郭がない。わが子の名の記述を変えて列記しているにすぎない。
『ノオトE』とは、残された『病床ノオト』のAからはじまる、最後の5冊目という意味だ。『病床ノオト』は、1926(大正15)年3月11日から同年1926(昭和元)年12月まで書かれている。八木が没したのは、その翌年1927(昭和2)年10月26日であるから、死を直前にした、絶唱なのだ。
全詩集の解説で、田中清光は、次のように書いている。

発病してから重吉は枕元に置いて臥せったままでも筆記できるようにと考えたのであろう、小型のノオトを用意していた。全部で五冊のノオトが残されているが、そこに毛筆、ペン、鉛筆などで記された言葉を辿ってゆくと、病んだ詩人の心の動きがなまなましく伝わってくる。 <中略>
闘病生活も二年目に入り、昭和二年の夏を越す頃になると目に見えて病勢が進んでいった。見舞いに訪れた「詩之家」の薮田久雄は「病気のために口をきくことも出来ませんので一口か二口、話した位いのものでしたが何よりも印象の深いのはその冷たく澄んだ眼でありました。」(「八木重吉と私」)と書いている。また夫人は、「歯を磨くのを手伝い洗面をすませ、おかゆを一さじ一さじ、口へ入れてあげる。白い顔がますます白く潔らかになっていった。」(『琴はしずかに』)と記している。
さらに田中は、こう続ける。
病いのなかで死をみつめ、苦しみ怖れおののくさまも表われ、なまの人間の呟きが書きつけられ、ときに凄みのある詩も生まれるが、詩としての脆うさもまた露呈されるという状態は、この頃から最後の病床ノオトまでつづくであろう。
田中がはからずも記した「詩としての脆うさ」という言葉に、瞠目した。田中は、この脆うさの対語として、「凄みのある詩」と述べている。しかし、私には、この「脆うさ」と「凄み」は、順接でつながる。脆ういから凄いのだ。
●
死を目前にした、詩人はもはや、詩を求めていない。詩の形も、詩の構えも思念の外にはみだしている。あるいは、身体が、思念をつつむ袋であるならば、その袋さえも、破れて裂けている。破裂したあとの飛沫としての詩が感じられるだけである。それが凄みでなくてなんなのだろうか。
この『病床ノオト』の各断片句であるが、白鳳社版の『八木重吉詩集』には、30断片、ちくま文庫版の『八木重吉全詩集』(全2巻)には、187断片が掲載されている。最後の断片句は、
にじみでる涙もある
で、その4つ前の断片句が、「桃子の絶唱」なのだが、白鳳社版には見当たらない。これは、痛恨事ではないかと恨む。
死後のポエジーが、すでに生前の病床にあってつづられていた。詩は、言葉によって、文字によって顕われるものではない。
八木の死後、昭和17年に登美子が吉野秀雄の家に来たとき、大事にかかえていた”古いバスケット”の中には、5冊のノオトがあった。その脆うさと凄さを誰よりも知っていたのは、登美子とその家族たちだった。
きらいなものは
きちんとした金持の花壇
白々しい砂ばかりの土
(『花と空と祈り』より)
こういう寸感は、誰しも口をついて出てくるものだ。ただ衝動的に感じたとしても、人は、生活時間の中で即座にのみこんでしまって忘れてしまう。八木は、身の内にのみこまずに、言葉として文字として刻み残していく。この三行が詩として成立するか、はたまた、詩篇なのだろうかといった問いかけは、おそらくしていない。無垢、無為、無作の詩人の自然な行いとして、習慣的に閉じているのである。言いかえれば、詩は成立していないかもしれないが、「詩人」は、そこに成立している。八木重吉とは、そういう詩人なのだ。
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そうした八木の断片的な詩句の中で、ずっともう何年も心に刻まれた言葉がある。
或る夜の夢
モ――モ――コ――
桃子
桃子――、
モモ子――、
モモコ――、
モーモーコーッ
あー、
桃子―、
モーモーコーッ
(『ノオトE』)
どうして心にひっかかったのだろうか。よくわからない。詩としてどうということのない作品。ただ、このような詩がなぜ掲載されたのか、そのことが気になった。
まるで詩の構えがない。作品としての輪郭がない。わが子の名の記述を変えて列記しているにすぎない。
『ノオトE』とは、残された『病床ノオト』のAからはじまる、最後の5冊目という意味だ。『病床ノオト』は、1926(大正15)年3月11日から同年1926(昭和元)年12月まで書かれている。八木が没したのは、その翌年1927(昭和2)年10月26日であるから、死を直前にした、絶唱なのだ。
全詩集の解説で、田中清光は、次のように書いている。

発病してから重吉は枕元に置いて臥せったままでも筆記できるようにと考えたのであろう、小型のノオトを用意していた。全部で五冊のノオトが残されているが、そこに毛筆、ペン、鉛筆などで記された言葉を辿ってゆくと、病んだ詩人の心の動きがなまなましく伝わってくる。 <中略>
闘病生活も二年目に入り、昭和二年の夏を越す頃になると目に見えて病勢が進んでいった。見舞いに訪れた「詩之家」の薮田久雄は「病気のために口をきくことも出来ませんので一口か二口、話した位いのものでしたが何よりも印象の深いのはその冷たく澄んだ眼でありました。」(「八木重吉と私」)と書いている。また夫人は、「歯を磨くのを手伝い洗面をすませ、おかゆを一さじ一さじ、口へ入れてあげる。白い顔がますます白く潔らかになっていった。」(『琴はしずかに』)と記している。
さらに田中は、こう続ける。
病いのなかで死をみつめ、苦しみ怖れおののくさまも表われ、なまの人間の呟きが書きつけられ、ときに凄みのある詩も生まれるが、詩としての脆うさもまた露呈されるという状態は、この頃から最後の病床ノオトまでつづくであろう。
田中がはからずも記した「詩としての脆うさ」という言葉に、瞠目した。田中は、この脆うさの対語として、「凄みのある詩」と述べている。しかし、私には、この「脆うさ」と「凄み」は、順接でつながる。脆ういから凄いのだ。
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死を目前にした、詩人はもはや、詩を求めていない。詩の形も、詩の構えも思念の外にはみだしている。あるいは、身体が、思念をつつむ袋であるならば、その袋さえも、破れて裂けている。破裂したあとの飛沫としての詩が感じられるだけである。それが凄みでなくてなんなのだろうか。
この『病床ノオト』の各断片句であるが、白鳳社版の『八木重吉詩集』には、30断片、ちくま文庫版の『八木重吉全詩集』(全2巻)には、187断片が掲載されている。最後の断片句は、
にじみでる涙もある
で、その4つ前の断片句が、「桃子の絶唱」なのだが、白鳳社版には見当たらない。これは、痛恨事ではないかと恨む。
死後のポエジーが、すでに生前の病床にあってつづられていた。詩は、言葉によって、文字によって顕われるものではない。
八木の死後、昭和17年に登美子が吉野秀雄の家に来たとき、大事にかかえていた”古いバスケット”の中には、5冊のノオトがあった。その脆うさと凄さを誰よりも知っていたのは、登美子とその家族たちだった。