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詩人 自由エッセー

月1回原則として第3土曜日に、隔月で二人の詩人に各6回、全12回の年間連載です。

第33回 八木重吉 死後のポエジー 第5回 萩原 健次郎

2019-12-12 01:12:51 | 日記
 八木重吉全詩集(ちくま文庫)を手にとって見る時、それぞれの作品を系統立てて読むことをしていないことに気づく。八木の詩篇は、十行をみたない短い作品が多い。二、三行の断片のような詩行が、意識することなく読み手の心の内にしるされていく。それらは偶発的に強くとどき、神経叢のすみずみに沁みこんでくる。

  きらいなものは
  きちんとした金持の花壇
  白々しい砂ばかりの土

(『花と空と祈り』より)


 こういう寸感は、誰しも口をついて出てくるものだ。ただ衝動的に感じたとしても、人は、生活時間の中で即座にのみこんでしまって忘れてしまう。八木は、身の内にのみこまずに、言葉として文字として刻み残していく。この三行が詩として成立するか、はたまた、詩篇なのだろうかといった問いかけは、おそらくしていない。無垢、無為、無作の詩人の自然な行いとして、習慣的に閉じているのである。言いかえれば、詩は成立していないかもしれないが、「詩人」は、そこに成立している。八木重吉とは、そういう詩人なのだ。



 そうした八木の断片的な詩句の中で、ずっともう何年も心に刻まれた言葉がある。

  或る夜の夢
     モ――モ――コ――
     桃子
     桃子――、
     モモ子――、
     モモコ――、
     モーモーコーッ
     あー、
     桃子―、
     モーモーコーッ

(『ノオトE』)


 どうして心にひっかかったのだろうか。よくわからない。詩としてどうということのない作品。ただ、このような詩がなぜ掲載されたのか、そのことが気になった。
 まるで詩の構えがない。作品としての輪郭がない。わが子の名の記述を変えて列記しているにすぎない。

 『ノオトE』とは、残された『病床ノオト』のAからはじまる、最後の5冊目という意味だ。『病床ノオト』は、1926(大正15)年3月11日から同年1926(昭和元)年12月まで書かれている。八木が没したのは、その翌年1927(昭和2)年10月26日であるから、死を直前にした、絶唱なのだ。
 全詩集の解説で、田中清光は、次のように書いている。



 発病してから重吉は枕元に置いて臥せったままでも筆記できるようにと考えたのであろう、小型のノオトを用意していた。全部で五冊のノオトが残されているが、そこに毛筆、ペン、鉛筆などで記された言葉を辿ってゆくと、病んだ詩人の心の動きがなまなましく伝わってくる。    <中略>
  闘病生活も二年目に入り、昭和二年の夏を越す頃になると目に見えて病勢が進んでいった。見舞いに訪れた「詩之家」の薮田久雄は「病気のために口をきくことも出来ませんので一口か二口、話した位いのものでしたが何よりも印象の深いのはその冷たく澄んだ眼でありました。」(「八木重吉と私」)と書いている。また夫人は、「歯を磨くのを手伝い洗面をすませ、おかゆを一さじ一さじ、口へ入れてあげる。白い顔がますます白く潔らかになっていった。」(『琴はしずかに』)と記している。


 さらに田中は、こう続ける。

 病いのなかで死をみつめ、苦しみ怖れおののくさまも表われ、なまの人間の呟きが書きつけられ、ときに凄みのある詩も生まれるが、詩としての脆うさもまた露呈されるという状態は、この頃から最後の病床ノオトまでつづくであろう。

 田中がはからずも記した「詩としての脆うさ」という言葉に、瞠目した。田中は、この脆うさの対語として、「凄みのある詩」と述べている。しかし、私には、この「脆うさ」と「凄み」は、順接でつながる。脆ういから凄いのだ。



 死を目前にした、詩人はもはや、詩を求めていない。詩の形も、詩の構えも思念の外にはみだしている。あるいは、身体が、思念をつつむ袋であるならば、その袋さえも、破れて裂けている。破裂したあとの飛沫としての詩が感じられるだけである。それが凄みでなくてなんなのだろうか。
 この『病床ノオト』の各断片句であるが、白鳳社版の『八木重吉詩集』には、30断片、ちくま文庫版の『八木重吉全詩集』(全2巻)には、187断片が掲載されている。最後の断片句は、

  にじみでる涙もある

で、その4つ前の断片句が、「桃子の絶唱」なのだが、白鳳社版には見当たらない。これは、痛恨事ではないかと恨む。
死後のポエジーが、すでに生前の病床にあってつづられていた。詩は、言葉によって、文字によって顕われるものではない。

 八木の死後、昭和17年に登美子が吉野秀雄の家に来たとき、大事にかかえていた”古いバスケット”の中には、5冊のノオトがあった。その脆うさと凄さを誰よりも知っていたのは、登美子とその家族たちだった。

第32回 萌え!のエネルギー(第4回) おいしいって萌える! 浅見恵子

2019-11-08 07:00:25 | 日記


 子どもの頃、ぼんやりと探していたものがあります。
 白くてやわらかくて甘いものを食べた記憶があり、とても美味しかったのであれをまた食べたいと思っていました。似たものを見つけて食べてみるのですが、どれも硬すぎて違うのです。おかしい、あの上の歯茎を押していたやわらかい菓子はなんだったのだろうかとずっと考えていたのですか、最近になってあれは母のおっぱいであったかと思い至りました。生まれてからこれまで色々なものを食べてきましたが、最初に美味しいと思った記憶は余程強烈だったのか、未だに恋しく思うのですが、再び万全の状態で食すには上の歯が邪魔をするのです。歯を抜くのも惜しいし、抜いて味わったところで同じ感動を得られるのかあやしい。残念でなりません。

 私は子供の頃から料理が好きで、小学校では料理クラブに入っていました。学校の図書室では「こまったさん」「わかったさん」というお姉さんたちが料理をする童話のシリーズをよく読んでいました。こまったさんが旦那さまのために作った「納豆オムレツ」は自分でも作ってみたのですが、それをみて妹は感動したようです。母も私たち子供の誕生日には手作りのバースデーケーキ(苺と生クリームのショートケーキ)を焼いてくれる人だったので、電動泡立て器や粉ふるい器、大理石の作業台、大小のケーキ型、クッキー型、オーブンレンジなどのお菓子を作る道具も家に揃っており、私も友人たちと一緒に折々にケーキ、カステラ、クッキー、スイートポテトの茶巾絞りなどのお菓子を作っていました。学校を帰宅してから一人で何十個とマドレーヌを焼いていた記憶もあります。あんなに焼いてどうかしていたとしか思えませんが、家族が八人もいたのでおそらく皆で食べていたのでしょう。中学生のとき、誕生日に友達が藤野真紀子の「シンプルなお菓子」という本をプレゼントしてくれたので、その友達の誕生日には、本に載っていたレシピでガトーショコラを作ってお返しにプレゼントしたりもしました。高校も家政科高校だったので、授業でもよく調理をしました。当時書いたレシピカードは今でも使っています。ホワイトソースを手作りできるようになったことは、感謝しています。家でグラタンを美味しく作れるのは教えて下さった先生方のおかげです。

 今も時々に料理の本を買います。実用書というより、専ら読書用です。本の通りに料理をするのは大変です。材料が集まらない、道具がない、余った調味料が使い切らない。なので最近はただただ読んで楽しい本を買っています。外国の料理の本は、自分の知らない見たこともない名前の材料がたくさん出てくるので、ネットで調べながら読みます。図書館でもよく料理本のコーナーに行きます。パスタが好きなので、写真が綺麗で作り方も難しくなくて読んでいるだけで楽しい本は何度も借りてしまいます。樋口正樹の「MY FAVORITE Pasta」は何度も手に取っているので、こんなに借りるならいっそ買ってしまえと、結局購入しました。最近読んでいるのはナガタユイの「卵とパンの組み立て方」です。その名の通り卵とパンの調理法の紹介をしているのですが、卵の茹で具合だけでも四種、卵サラダの和え方も三種(卵の刻みの大きさやマヨネーズの量の違いで細分すればもっと多いのですが)。焼くのも卵焼き、だし巻き、オムレツ、オムレツ(生クリーム入り)、スクランブルエッグ、スクランブルエッグ(湯煎タイプ)と基本的なところだけでも読んでいて楽しいですし、応用まで入れると果てしなくて、卵とパンだけでもこのバリエーションなのだから、本当に料理は無限の可能性だと思います。雑誌「ELLE gourmet」は日本だけでなく世界の食の流行まで載っているので、どピンクの飲み物があったり、真っ青のソフトクリームがあったりする一方で、一生行くことは出来ないであろう最果てのレストランで自社の農園を持ち、今日も芸術的な腕を振るう一流のシェフがいて、その人の作る料理を目的にお客さんが通っているのだと知れます。同じ地球上に生きる誰かの食事を想像するのは不思議な感動があります。もちろん本を読んでいるだけではなくて、地元高崎や前橋のお気に入りのお店に時々行くのも楽しみです。誰かと行くのも良いし、一人で行ってお店の方とお喋りするのも楽しみです。

 以前テレビでダイエットの番組を見ていたら、参加女性が生クリームたっぷりのたらこスパゲッティを作っていて、食べながら「口の中に食べ物がある状態が最高に気持ちいい」と言っていました。その時は「それやってたら太るわ!」と思わず突っ込んだものですが、今、その気持ちいい状態に共感できる自分がいて危ない!と思っています。彼女は本当に名言を言ってくれました。確かに美味しい食べ物が口の中にあるのって最高に幸せで気持ち良い。美味しいものが美味しく食べられるのって最高!

第31回 八木重吉 死後のポエジー 第4回 萩原 健次郎

2019-10-07 10:54:53 | 日記
 作家の山口瞳と八木重吉の縁については、予想外だった。八木の年譜を見てから徐々に興味を抱いた。詩人の死後、昭和33年に刊行された彌生書房版『定本八木重吉詩集』は、八木の妻であった登美子と再婚した歌人吉野秀雄とその三人の子どもたちの献身的な尽力でまとめられたことを知った。年譜の列記を眺めつつ、この事実は、単なる美談ではないなと感じていた。そうした倫理が介在した行ないではなく、八木が書いた詩作品そのものが放つ強い力がそこにあると思った。同時に、吉野の存在、また、八木登美子から、吉野登美子に名を変えた登美子の存在が、心の内に大きく広がっていった。
 吉野登美子は、回想記を残している。副題に「八木重吉の妻として」と記された『琴はしずかに』(昭和51年)と「吉野秀雄の妻として」と記された『わが胸の底ひに』(昭和53年)の二冊だが、後者の帯文では、山口瞳が一文を寄せている。



 吉野秀雄先生のような、およそ、人間の、男の、良いところだけで出来ている人を私は他に知らない。その先生の死にいたるまでのことを、あらゆる不幸にめげずに、清らかな魂を持ちつづけたその妻が書いた。私は、いま、多くの人に、ぜひこの書物を読んでくださいと叫びたい気持ちをおさえかねているのである。
(山口瞳『わが胸の底ひに』に寄せた帯文)


 山口瞳にとって、吉野秀雄は戦後まもなく鎌倉に開校した鎌倉アカデミアで教わった恩師であった。鎌倉アカデミアは、自由な気風を尊ぶ専門学校で文学科、産業科、演劇科、映画科の4学科編成であったが、4年半で廃校となっている。



 そこで私が出会ったのが山口瞳の『小説吉野秀雄先生』(文春文庫)という一書であった。書名となっている標題文は、200頁のうちのほぼ半分で、あとは、「隣人・川端康成」「曲軒・山本周五郎」「先輩・高見順」「木山捷平さん」「内田百閒小論」といった形で、山口が自ら尊敬する先輩作家との交友の足跡と人物誌がつづられている。その切り方の角度はゆるやかであるが、どの文章にも熱がこもり、切々と迫ってくる。集中には、八木重吉と木山捷平の詩篇が、重量をもって引かれている。
 同書の冒頭は、八木の詩作品の引用からはじまっている。

  ばつた

  ばつたよ
  一本の茅をたてにとつて身をかくした
  その安心をわたしにわけてくれないか


  栗

  栗をたべたい
  生のもたべたいし
  焼いてふうふう云つてもたべたい


 単純な嘆息の中からストレートに吐きだされた言葉は、八木の詩の特長ではあるが、その中でも喩法の屈曲がほとんどないまるで児童詩のような詩句だ。山口の同書には、次のように書かれている。

 私のところに、八木重吉の詩を書いた原稿用紙がある。それは、まことに粗末な原稿用紙であってそこには、筆で、次のように書かれている。
   <上記の詩篇のほか七篇の八木の短詩が引かれている>
 私が、この二枚分の原稿用紙をとっておいたのは、この詩が好きだったからである。それから、いかにもいい字で書かれているからである。
 この詩の原稿を書かれたのは吉野秀雄先生である。

(山口瞳『小説・吉野秀雄先生』の冒頭部分)

 八木の詩が、継がれている。登美子が、詩人の死後も大事に抱え携えてきた「古ぼけたバスケット」の中に実在する詩篇の、その片々が、翻って見える。
それから、同書の中程で語られている、「山口君!恋をしなさい。/恋愛をしなさい。恋愛をしなければ駄目ですよ。山口君、いいですか。恋をしなさい。交合(まくわい)をしなさい」という、吉野が山口に力説した言葉が、もう一つの実在として私に衝撃をもって迫ってきた。
 この衝撃について、詳しく言葉で説くことは、私にはできない。しかし、私は、この言葉にこそ、八木重吉の詩が、死後に継いだなにものかを痛感する。山口は同書の結びでも、吉野の直情が乗ったこの言葉を掲げて締めくくっている。

 いまにして、私は諒解するところがあったのである。先生の「恋をしなさい」は、「歌え」「酔え」「踊れ」と同義であった。「交合せよ」は、「やよ励めや」であった。
 貧しくとも、体よわくとも、若くとも、恋ぐらいせよ。交合せよ。

(山口瞳『小説・吉野秀雄先生』の結びの部分)


 冒頭に八木の無垢なる詩篇を引き、結びに「生きよ!」と励起の言葉を置く。そこに、恋情への烈しい肯定を曝す。八木重吉が、死後に継いだ詩の根が、私には見える。
 八木重吉は、世と人への恋情の詩人ではないかと。

第30回 萌え!のエネルギー(第3回) 尾鮭あさみに萌える! 浅見恵子

2019-09-11 20:12:56 | 日記


 尾鮭あさみという小説家を知っていますか。
 尾鮭あさみは、女性向けの男性同性愛をテーマに扱った雑誌「JUNE」で中島梓(別名:栗本薫)が連載していた「小説道場」出身の作家です。「小説道場」は、道場の名の通り小説を送ってきた投稿者に対し、中島さんがときに叱咤し、ときに激励して鍛えてゆくというもので、尾鮭さんは当初から高評価を受け、「トラブル・フィッシュ」という作品でデビューしました。愛称は「サーモン」。この人にしか書けない独自の世界観と勢いで、一気に段位を駆け上がっていきました。
 私は高校三年生の冬に、尾鮭さんの本に出会いました。その本に挟まれている出版案内には「耽美幻想小説」という紹介が書いてあり、この「耽美」は、今でいう「BL(ボーイズラブの略)」と大体同じ意味と思ってください。

 今でこそ書店で棚一面にBLの本を売るようになりましたが、当時はBLという言葉も使われていない時期で、BLを好きな女性を示す「腐女子」という言葉も知りませんでした。ただ、そのような本は確実に存在し、友人たちから私へと運ばれていました。大抵は友人が読み終わった本を貸される形で。それらを一通りは読むものの私はそこまで夢中になることもなく、「きっとこの手の本を自分で買うことは今後も無いだろうな」と漠然と思っていました。当時の私が目下夢中になっていたのは、菊地秀行の「吸血鬼ハンターDシリーズ」と冨樫義博の「HUNTER×HUNTER」で、学校の休み時間もそれらを読んで過ごしていました。

 高校卒業を間近に控えたある日、下校途中に寄った前橋SATYの本屋で一冊の本を手に取りました。落ち着いた色味の屋根裏のような場所を背景に、髪を赤く染めた青年と、黒髪を肩まで伸ばした青年がこちらを見つめている表紙の文庫本です。ライトノベルなどのコーナーでした。素直に「カッコイイなあ」と手に取りパラパラと挿絵を確認していたところ、最後の挿絵のページで「しまった」と思いました。そこには表紙の青年たちが裸で抱き合う姿が描いてあったのです。そして私は、この事は無かったことにしよう、とそのまま本を閉じて平積みの山の一番上に戻し、その場を立ち去りました。けれど、そもそも「しまった」と思った時点で手遅れだったのです。その数日後、下校と同時に件の本を買いに走る私の姿がありました。ダッシュで家に帰り、制服も脱がずに床に座り込んで読み耽ったのを、今でもよく覚えています。その本が、尾鮭さんの「ルヴォアール ー眠らない月ー」でした。帯には「恋とアートと泥棒ゴッコ」という言葉が踊り、今読み返しても私の好きなものが全部入っているので、これを買ったのは必然だと思っています。この本は「怪盗紫&ヒデロウシリーズ」の二巻で、一巻を読んでいない為によく分からない箇所が色々ありました。それで一巻「月と宝石」を買って読んだところ、この本がまた素晴らしかったのです。

 それから私は、尾鮭さんが過去に出された本を探す回遊の旅に出ました。高校を卒業し、上京して東京でデザイン系専門学校に通いながら、行く街行く街の古本屋で目当ての本を見つけると、片っ端から買いました。当時はまだ尾鮭さんも新作を執筆されていたので、新刊が出れば即買って読みました。尾鮭さんは、いくつかシリーズ物を書いていて、「チャイナホリック・ファンタジー・シリーズ」「潮&俊シリーズ」「ダダ&一也シリーズ」「雷&冥シリーズ」など。私の推しはデビュー作「トラブル・フィッシュ」から始まる「潮&俊シリーズ」と「ダダ&一也シリーズ」で、今回は出発点である「トラブル・フィッシュ」について書きます。

 主人公・水並潮(みなみ うしお)は大学で所属していた版画研でモデルをしていた月岡俊(つきおか しゅん)に再会した途端「おれのものにしたい」と言われ……と書くと粗すぎて身も蓋もない内容になってしまうので、私がここだと思う推しポイントとしては、潮が人や生き物が発している色や光をはっきり見えるところと、極度の対人恐怖症な割に烈しいところでしょうか。「尾鮭さんは独特だ」と言っても伝わらないと思いますので、私がそう思う好きな箇所を四箇所抜粋引用してみます。


 部活のメンバーで尾道に行ったときのことだ。ぼくは焼き売りのシャコをたべていた。
「そんな怪物みたいなやつ食うの」
 シャコの白い肉を噛みちぎるぼくの口もとを、くいいるように彼がのぞきこんでいた。
「かわいい口でさ」
 そのときぼくは、あるフクザツな情動を感じたのだが、それがなんだったか忘れてしまった。

(6頁)


「わっ!」
 ぼくは声をあげてしまった。周囲にはっきりきこえる声を。
(げっ、いけね……)
 ほかの学生たちや、教授の視線がつき刺さってきた。湯むきのトマトのようになってしまった顔をあげるにあげられず、ぼくは恐れおののいた。

(10頁)


「待って、待って!」
 もう、びっくりして追いすがった。
「行くって、どこにですか」
「おまえのアパート。道は知ってる」
 ぼくはそのとき、最後の逃げ道が爆破された音をきいた。ぼくの部屋。なんびとたりとも立ち入ってはならない、たったひとつの安息の場所に、黒船のように、こんなとんでもないものが来襲するというのか。
(どえらいことになった……)
 彼を好きだということが、このさい、なんの救いになろう?

(15頁)


 燃えたつ宝石のような彼の瞳がまともにぼくを射ぬき、そのまま唇を重ねられたが、触感はなかった。あるのはただ、ふたつの密着した体のあいだを吹き荒れる、閃光と熱線の太陽風。目をふせていても避けようのない、プラチナ色の大爆発だった。ぼくは死んだのだ。
(19頁)


 潮は見た目も内面も繊細なのですが、「怪物」みたいなシャコの白い肉を噛みちぎって咀嚼しているのは、実は凄く強くしぶとい彼の生命力を表しているように思います。エロティックでもあります。でも本人はそれをあえて自覚しないようにしています。それがこの場面から見えて、しかもなんか可笑しいのです。湯むきのトマトは、まさに熱を持った頬のざらっとしたうぶ毛の様子が見えるようです。逃げ道が爆破された音も、キスをした感覚の表現もそうですが、潮は弱そうにみえて、内面から大爆発するエネルギーがあるのです。この強さには惹かれますし、自分の中にもあるように思っています。

 今BLというジャンルには、多くのカテゴリーがあり、単純に男性同士の同性愛という括りに収まらないものも多くあります。そしてその多くが「男」を魅力として出しているように思います。しかし私が好む尾鮭さんの小説の主人公、立場的に受け身の子の多くに「男」らしさはありません。他の方も指摘されていますが、尾鮭さんの主人公には「少女性」が強くあります。尾鮭さんが自らを自己投影されているからかもしれませんが、それゆえ、当時の私は違和感なく受け入れ、その主人公たちを自分のことのように親しみを持って読んでいました。

 思春期の不安定な精神を持った「少年の体を持った少女」を私は必要としました。子供から大人へ。少女から女へ。学生から社会人へ。抱えるには大き過ぎる変化が、自分の周りを嵐のように吹き荒れ、めちゃくちゃにされながらも耐えなければと必死でした。社会は私に、社会人、そして女性としての役割を求めている。その中で「女でなくなれば」と思いました。独身でいると常に結婚を話題にされ、結婚すれば妻、嫁、母の役割を求められる。それは自分には耐えられないだろう。ただ人として、人と繋がりたい。必要とする人に、必要とされて生きて生きたい。それだけのことが、とてつもなく難しい。同性愛という、社会の求める家族愛とは違う形が、夢のように感じられたのです。

 尾鮭さんの小説を読んでいる時、私は自由でした。「ダダ&一也シリーズ」では、現代の魔道士を自称する一也の世間ズレしたドタバタや、「一也さま」に命がけで仕える下僕・己斐の姿にお腹を抱えて笑いました。近未来の大阪が舞台のSF作品「BODY BEAUTY」は、尾鮭さん中期の傑作だと思っています。大好きな作品です。

 こんなはみ出した人たちが、こんなに好き勝手に生きてる、と楽しくて憧れて仕方がなかった。けれどそれは永遠ではありませんでした。いつの間にかかつての少女性が失くなり、これは尾鮭さんが書かなくてもいいのではないかと思うような作品が増え始めた頃、尾鮭さんは筆を断たれました。尾鮭さんがきっかけで興味を持ったジャンルなので、そのまま私のBL小説への興味も薄れていきました。しかし今でも、もしかして戻って来てくださっていないかと、BLコーナーに足を運ぶことがあります。

 一度だけ、尾鮭さんにお会いしたことがあります。コミックマーケットで自身の作品の同人誌で出されているというので、その為だけに会場へ行きました。私がほぼ全種を買い込んだ為に、尾鮭さんと思しき女性が電卓を必死に打ってくださって、でも私は尾鮭さんの顔を知らないのと後ろにお客さんが並んでいるので焦ってしまい、会話らしい会話も出来なかったのが心残りです。今、どこかでお元気に人生を歩んでおられるのなら、いつか、この世に作品を生んでくださったことへの感謝をお伝えしたいです。

 最後に、冒頭にも書いた「月と宝石」を改めてご紹介します。あらすじは、泥棒の仕事に入った先で殺人現場に出くわし、追われることになった怪盗・紫が、世間を離れて暮らす天才芸術家ヒデロウのアトリエ件自宅に偶然匿われることになり、色々ドタバタする話です。(思えば尾鮭さんのお話はいつもドタバタしています) その中でずっと大切にしている箇所があります。自分の未熟さをどうしようもなく感じて自暴自棄になった紫に、ヒデロウが語りかける場面です。


「ただね……」
 肩を抱くヒデロウの声が、廃屋みたいな廊下に響いた。
「生きものはあんまり強くならないほうがいいような気がするだけだよ。恐竜のモニュメントを作るとき、いろいろ考えた」
「どうしてさ。弱いよりかマシじゃん?」
「強いと思うと皮膚が鈍るから。知らないうちに痛いのに気づかなくなって……」
 ぞっ、と首筋が冷たくなった。
「滅びが待っているだけー」
 うらはらに胸は熱くなる。ほんとうにはるか昔に滅びた、危険な種族の亡霊と話をしているみたいだ。

(126頁)


 当時の私は、この言葉を実感していた訳ではなかったと思います。意味も理解出来ていなかったでしょう。でも、何か心に引っ掛かって、抜けなくて、ずっとこの「強いと思うと皮膚が鈍り、痛みにも気づかなくなって滅びが待っている」という言葉のことを考えてました。今回読み返して、やっぱりというか、つまりそういうことなんだなと。感想や自分の意見は必要なくて、この言葉はそのまま受け止めればいい言葉で、今もそっと自分の胸の中にある言葉です。



第29回 八木重吉 死後のポエジー 第3回 萩原 健次郎

2019-08-03 17:22:13 | 日記
 喪失という悲しみを一身に背負ったのは、八木の未亡人である登美子だった。彼女の手もとには、詩人の詩作品だけが形見として残された。八木が亡くなったのは、昭和2年、八木は30歳、登美子はまだ23歳であった。その十年後には、長女桃子(享年15)を、さらに三年後には、長男陽二(享年16)を亡くしている。結核が、不治の病であり、愛する家族を同じ病で喪失している。
 手もとにある白鳳社版の『八木重吉詩集』の奥付を見ると、初版刊行は、昭和42年と記されている。この年の8月に、吉野秀雄が亡くなり、同書は12月に出ている。巻頭に掲げられた八木と登美子、そして長女桃子との家族写真や八木直筆の詩篇の掲載には、編者の鈴木亨氏のほかに、登美子の意志もそこに加わっているように思われる。
 巻頭の直筆稿の『病気』という詩篇に書かれている「妻や桃子たちも いとしくてならぬ/よその人も/のこらず幸であって下さいと心からねがわれる



 この言葉を登美子は、どんな思いで掲げたのだろうか。八木が亡くなって、40年という歳月がすぎている。詩篇が書かれた時、登美子は八木の「」であり、当然「よその人」ではない。ただ、同詩篇を掲載した意図に思いを巡らせていくとき、それが、妻であった過去への追想でないことを覚る。40年が過ぎ、八木が残したすべての詩篇を、吉野秀雄とその子らと清書をし、編集の労に勤しんでいた登美子は、すでに八木にとっては「よその人」になっていたのかもしれない。あるいは、登美子は、実感していただろうと。
 「よその人も/のこらず幸であって下さいと心からねがわれる」の言葉に染み入ってそこに余生の情に感嘆している登美子の思いに寄り添って抱擁したくなる。



 吉野秀雄の『やわらかな心』(講談社文芸文庫)には、このように記されている。

 八木没後のとみ子は、ただ二人の遺児を養育することと、残された八木の詩稿を整理して世の中に伝えたいということだけを念願に生きてきた。しかるに二児はたちまち奪い去られ、ただ詩集のことだけが念頭にあって、昭和十七年七月、三ツ村繁蔵の奔走の
 結果が『(山雅房版)八木重吉詩集』という形となったが、なおとみ子は十九年の年末わが家へきた際、古ぼけたバスケットを大事そうに携えていた。中身は八木の詩集や原稿類や写真だった。どんな戦争の混乱に遭い、何をなくそうとも、これだけはなくすまいというのであった。
   
(「宗教詩人八木重吉のこと」初出『日本』昭和40年1月号)


 登美子が携えていた「古ぼけたバスケット」は、その後、昭和33年、吉野秀雄編集による『定本八木重吉詩集』(彌生書房)となって完結する。編集者は、名義上は吉野秀雄であるが、それは個の労の結実ではないだろう。八木の死後、登美子は、その妻であったことを時とともに抜け出して、次第に「よその人」になっていた。言いかえれば、「よその人」になることで、八木の詩のもっとも美しく激しい熱情を抱えた読者となり編集者になっていたのだ。
 
 吉野登美子の『わが胸の底ひに』(彌生書房)にも同書編集の経緯が記されている。

 ところで前年から、吉野をはじめ、陽一、壮児、結子と家中で編集に尽くしてくれた『定本八木重吉詩集』が、この年の四月に彌生書房から出版された。陽一は八木の詩に夢中になり過ぎてとうとう途中で高熱を発して病気が悪化し、あとは壮児や結子が清書の手助けをしてくれた。吉野をはじめとする一家のこの愛が、私にはこの上なくありがたかった。

 ここに書かれている陽一たちは、吉野秀雄の前妻はつとの間に生まれた子どもたちであった。つまり、はじめ「古ぼけたパスケット」をかかえていたのは、登美子ひとりであったが、やがて再婚して嫁いだ先の家族みんなに受け継がれていった。それは、「よその人」の残余の熱情であったかもしれないが、あきらかに最良の読者と編集者をここに現出させた。
 
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 これらは八木重吉というひとりの詩人の死後の行く末であるが、この叙事的な物語であるナラティブな経緯は、私にある種の肉感をともなった神話のように感じられる。
 私が、なぜ八木の死後の物語に強く興味をいだいたのかというと、次のような山口瞳の回想記の一節にふれた時からだった。

 「山口君!恋をしなさい」
 と、先生が言った。
 「恋愛をしなさい。恋愛をしなければ駄目ですよ。山口君。いいですか。恋をしなさい。交合(まぐわい)をしなさい」
 先生は、力をこめて、声をはげまして言った。
 このときも、私は、びっくりしてしまった。先生、無責任なことを言うなよ。と思っていた。

(山口瞳「小説吉野秀雄先生」(文春文庫))