〈戦争〉がある日、とつぜんに何の前触れもなく、どのようにしてやってくるのかを、私たちはこのコロナ禍を通してつぶさに体験したのかもしれない。
新型コロナウイルス感染症との戦いを、戦争というレトリックで語ろうとする試みは、自分のまわりにもこれまでにたくさんあった。私がいまここで語ろうとしているのは、そうしたレトリックとして語られる戦争のことではない。国家がじっさいに国民を大々的に駆りたてて実行する国家政策としての〈戦争〉のことである。
だが、西暦二〇二〇年から二〇二一年にかけての日本で、そんな〈戦争〉が本当に行われたのだろうか? いったい何時、どこで……と人は問うだろう。実体としての戦争とは、目にみえるかたちでの武力衝突のみを意味しない。私たちの日々の生活実態をことごとくまきこんで、その活動を制限もしくは停止させるような法的抑圧を課し、ひとつの大きな全体目標の達成のために人々の行動に対して国家が強制力を発揮するなら、それは充分に〈戦争〉の定義に抵触する。今回のコロナ禍の本質は、たんにヒトからヒトへ感染する病原ウイルスの広汎な伝播をいうだけではぜんぜん足りない。それよりもさらに重要なのは、コロナ禍が実体的な〈戦争〉の性格を宿した災厄として、私たちのもとに訪れたという重要事実をこそ忘れるべきではないのである。
この〈戦争〉はいつ開始されたのか。二〇二〇年四月七日に発出された緊急事態宣言は、この一連の新型コロナ〈戦争〉における、国家による最初の公的な‶宣戦布告〟だったように見える。だが、〈戦争〉が本当の意味ではじまったのは、それを遡る一月二十八日に、国によって「新型コロナウイルス感染症を指定感染症として定める等の政令」が、内閣総理大臣安倍晋三名で公布されたその時からだった。「指定感染症」という法的地位をこのウイルスに与えることによって、戦争政策上の〈敵〉の存在が明確化されたからである。
そのとき〈敵〉はどこにいたか? 無論のこと、〈敵〉はこの場合、新型コロナウイルスの感染能そのものだったから、その姿は実体としてはどこにもなかった。いや、じつは〈敵〉はそこらじゅうに、新規感染者数や実効再生産数や陽性者率、重症化率といった数値データとして、非実体的に遍在していたといった方がいいかもしれない。
最前線がどこにあったのかといえば、それはまず第一に新型コロナ患者を受けいれた医療機関の治療の現場にあった。間違いなくそこが最初に形成された最前線だった。微視的にみれば、感染者の体細胞内に侵入した病原ウイルスと免疫細胞との戦いこそが新型コロナ〈戦争〉の唯一の戦線だったわけだが、私はこうした本来の人体内生命活動をここで〈戦争〉とは絶対に呼びたくない。〈戦争〉とはどこまでも組織化された人為的災厄を指すからである。
いずれにしろ、気がついたときにはもう遅く、私たちはすでに〈戦争〉の渦中に投げ出されていた。闘う準備も心構えもなにひとつ整っていないなかで、未知のウイルスのいきなりの奇襲攻撃に遭ったことで、これら一連の新型コロナ〈戦争〉はやむを得ず開始されたかにみえる。だが、間違ってならぬのは、この〈戦争〉を引き起こしたのは、決してウイルスでもPCR検査の陽性者たちでも、ましてや彼らを救おうと奮闘した医師や看護師たちでもない。私たちは誰ひとりとしてこの〈戦争〉の主体ではない。むしろ私たちは、この〈戦争〉を推進した者たちから、どこまでも客体として振る舞うように強制された、いわば受け身の‶戦争難民〟の一人にすぎないのだ。
いつの場合も〈戦争〉は合法的に体制化され、組織的に開始され、そして機動的に推進される。いうならば、このたったひとつの単純明快な事実関係こそが、今回のコロナ禍を全社会的な〈戦争〉にまで変貌せしめたところの根本機制なのである。誰ひとりとして自分だけが逃げだすことのできない現実状況のなかに、なおも逃げ出すことのできない見えない檻を‶緊急事態宣言〟というかたちで二次的に作りだし、さらにそのうえで国の方針への全面協力を要請されるという絶対的な不自由感。あるいは、ウイルスへの恐怖による意識支配のうえに、さらに共同意志による行動支配がつぎつぎと加重されていく悪無限性。こうした抑圧の連鎖が、この〈戦争〉の本質にはある。じっさいそうではないか?私たちは個人としては誰ひとり、新型コロナウイルスに対して、みずからの自由をかけた戦いを主体的に開始することなどできないのだから。ひるがえってそのことは、私たちに、個々人の自由な振る舞いを許容させない現実的な抑圧条件の存在こそが、〈戦争〉という選択肢を合法化するための必要かつ十分な契機になり得ることを教えている。そのことがゆいいつ可能なのは、良くも悪くも国家という権力機構だけなのである。
『武漢日記』のなかで、方方はつねに当局者やその随伴勢力の者たちを批判している。それは理由のないことではない。全都市ロックダウンというこの‶戦争状態〟をもたらしたのは、新型コロナウイルスではなく、中華人民共和国政府であり武漢市政府であり、つまり自分たちの‶国家〟であることは明らかだった。国家が都市封鎖というかたちで新型コロナウイルスに対して〈戦争〉を仕掛けたのである。その囲いのなかに閉じ込められた人々は、従って、否応なく〈戦争〉協力者であることを国によって強要されることになった。封鎖直前に市外へ逃亡した者たちを除いて、国によるこの決定に異を唱えることは、封鎖がその前夜の一方的な事前通告だけで突然はじまったことから考えて、何人にも不可能だったろうし、みずから進んで意志決定できる余地はまったくなかったといえる。
悲しいことが、依然として時間とともにやってくる。災難の傷跡はあまりにも深く、私たちの心に刻まれてしまった。いま、人々は涙もろくなっている。同僚が自分の居住区の動画を見せてくれた。住民の一人が、居住区の管理人に謝意を表し、管理人の男性はボロボロ涙を流している。これに対して、「武漢市民はこの一か月に、数十年分の涙を流した」というコメントがあった。それは実際、本当の話だ。悲しみの涙だけではない。いろいろな味がする、万感胸に迫る涙である。そういう涙を流している人を鼓舞し、奮い立たせ、我々は勝利者だと世界に宣言させるのは無理だ。私たちの涙が尽きることはないのだから。
(三月一日(旧暦二月八日)/私たちの涙が尽きることはない 170~171頁)
だが、方方は感染症の蔓延をふせぐために、政府がくだした都市封鎖の決定は「
数日遅れたとは言え、やはり正しかった」(まえがき)のだと書いている。彼女のこの最終判断は、ふつうに考えられているよりも、実は、はるかに重いものだったのではないか。ある意味、この『武漢日記』の歴史的価値を左右するほどの重量が、私はこの言葉のなかに宿っていると思えたのだ。なぜなら、自分たちを一方的にまきこんで国家がはじめた対ウイルス〈戦争〉――それがわが身にもたらすところのすべての苦悩と悲しみを、良し悪しの判断をいったんエポケー(判断停止)したうえで、ひとまず自分は受け入れたのだということを、その言葉は暗黙のうちに告げているからだ。
「
私たちはすでに、この大災害のかなりの部分が人災だということを知っている」(同前)と一方で言いながらも、都市封鎖そのものは「
正しかった」と言うのは一見すると自家撞着のようにも映る。だが、方方は「
この大災害のかなりの部分」という言いかたで、その政策判断のすべてを否定するのではなく、自分たちの日常性のなかにいきなり侵入して深刻な亀裂を走らせたこの圧倒的に不条理な災厄を、自身の理性と悟性と感性の全領域において批判的に受けとめ、この未曾有なコロナ・パンデミックに対して、政府がなすべきこと、個人がなすべきこと、さらには厳しく指弾されるべきあらゆることについて、それを思うままに自らの言葉で表現したのである。だから、生半可な知識人によくありがちな、特権的立ち位置から現下の諸現象を両断するような愚は、彼女の筆がきりひらく領分とはまったく無縁だったのだ。
彼女のこの賢明な判断が働いていたからこそ、『武漢日記』は異国に住むあかの他人である私のような者にとっても、十分に読むべき価値を発信し続けたのである。国家がはじめたこの〈戦争〉をじっさいに戦ったのは、治療現場の医師や看護師やさまざまな出自のボランティアなど、およそ民間の名も知られないような人たちだった。しかし、なかには感染拡大の初期段階でみずから新型肺炎の警鐘をならし、それが理由で当局に逮捕拘束され、みずからも罹患して死に至った李文亮のような‶真に英雄的な〟存在についての賞讃と哀惜も、決してなおざりにされてはいない。極限的な閉塞状況にあっても、いったい何が価値ある行為であり、いったい誰が人民の敵対者なのかを見透す眼は、最後まで曇ることはなかった。
例えば、李躍華(リー・ユエホウ)という民間療法の医師について書かれたブログ記事に私は注目した。方方の言葉をそのまま受けいれるなら、李は「漢方の針治療」の達人で、その腕前は〝神業〟級であり、新型コロナ肺炎を針を使って治療できるのだという。だが、当局は、李が医師免許をもたないことを理由にその治療を違法行為とみなし、診療許可をだそうとしない。だが、李のことを支持する人は多く、このことについて、「私は素人なので、論評は差し控える」としながらも、方方はおなじところでこうも書いている。
(……)彼が治せると明言しているなら、あれこれ議論する必要はない。試してみればいいだろう。鄧小平の名言「白い猫でも黒い猫でも、ネズミを捕るのがよい猫だ」があったではないか? これを援用すれば、「漢方医でも西洋医でも、病人を治すのがよい医者だ」ということになる。診療は実用的でなければならない。特に緊急を要するときは、人命が何よりも優先される。なぜ、機会を与えようとしないのか?その場で彼の化けの皮がはがれ、真相が暴露されるとしても、それでいいではないか?
(三月一日(旧暦二月八日)/私たちの涙が尽きることはない 174頁)
私はこうした主張について、心からの賛同を送りたい。政府機関も新聞やテレビもけっして多くを語ろうとしないが、これと構造がとてもよく似通った問題がわが国でも顕在化しているからである。新型インフルエンザの治療薬であり、発生当初から新型コロナ感染症の治療薬候補ともみられてきた薬剤「アビガン(ファビピラビル)」をめぐる一連の問題が、それである。
昨年末あたりから年初にかけて、わが国の新型コロナ感染症の陽性者数は、第3波といわれるように、これまでにない大幅な拡大をみた。その結果、病床数が不足するようになり、中等症の患者など本来ならば入院が必要な者たちが、入院したくてもそれができない状況が至るところで現出した。そういう人たちは多くの場合、自宅療養を強いられることになり、つまるところこれは患者を医療の手がとどかない自宅に放置することに等しく、実際、自宅療養中に病状が急変して、ひどいときはそのまま死にいたるというケースがたて続けに報告される事態になっている。
医療崩壊ということの、これがわが国の社会システム末端部における偽らざる実態なのである。コロナ禍がはじまったもっとも早い時期から、いちばん私が懸念して事態がこれだった。「
特に緊急を要するときは、人命が何よりも優先される」という方方の言葉が、もっとも当てはまる場面にもかかわらず、人命がずるずると最劣位においやられ、それを医療崩壊のせいにして、誰ひとりとしてそうした放置死の責任を取ろうとしない。
「アビガン」を新型コロナ治療薬として承認し、感染が疑われる人々に即刻配布するなどしていれば、仮に自宅やホテルなど病院以外の場所に待機させられていたとしても、「アビガン」を服用することで犬死にも等しいこれら放置死は、かなりの程度防げたのではないかと思う。というのも、新型コロナ感染症は発症してから十日目あたりが運命を左右する岐路であり、そこから徐々に回復する人がいるかと思えば、そこから一挙に重症化(急変)して死の危険にいたる人とに大きく分かれるからである。そして、後者の場合、急変してから入院先をさがしてもすぐには見つからなかったり、また見つかったとしても重症化してからの投薬では手遅れになる場合が多いのだ。
この感染症は、発症後十日目くらいまでとそれ以降とでは、その病態がぜんぜん異なるのである。最初の十日間くらいは、体内に侵入したウイルスがさかんに自己増殖を繰りかえして、個体数を爆発的に増やしている時期だ。そしてそれ以降になると、今度は数を増やしたウイルスが血管内をあちこち移動して随所に炎症を誘発するため、それを阻止しようとする免疫システムが過剰に駆動され、暴走(サイトカインストーム)を引き起こすのである。このいずれのプロセスも発熱や倦怠感の原因にはなりうるものの、薬効としては前者ならウイルス増殖を阻害するRNA依存性RNAポリメラーゼ阻害薬(アビガン)、また後者なら免疫暴走を鎮静化させるステロイド薬(デキサメタゾン)などが有効とされている。
いずれにしろ、後者のような重症化に至らせないことがコロナ治療にもっとも重要なポイントであり、そのためには発症から十日以内の比較的はやい時期に「アビガン」を投与して、ウイルス増殖を徹底的にブロックすることが何にもまして有効かつ重要な治療であることは素人にも了解できるところだ。
これまでの最悪事例が教えるのは、単独の自宅療養中に症状が急変したにもかかわらず、誰の助けをも得られないまま、人知れず本人が死亡してしまうケースであり、入院先の病床数がにわかには増やせないのであれば、せめて手元に治療薬としての「アビガン」を常備させ、適量ずつ服用させることで、症状の改善を患者自身がフォローできる体制を提供してやることではないのか。
だが、誰にでも分かるようなこの道理が、この国ではまったく通用しないのだ。何故であろうか。端的にいって、「アビガン」の新型コロナ治療薬承認を妨害している者が、国家機構の内部に一貫して存在するからである。二〇二〇年十二月に厚生労働省は「アビガン」の治療薬承認をまたもや見送ったが、「現時点のデータで、有効性を明確に判断するのが困難だった」というのがその理由だった。治験の方法が単盲検と呼ばれるものだったために、「今回のデータでは、医師の先入観が影響している可能性を否定できない」ということのようである。行き過ぎた科学主義というイデオロギーが、詐術的に医薬品行政を支配している硬直しきった貧しい姿が垣間見えるようである。
国立国際医療研究センター の忽那賢志医師(国際感染症センター)は、マスコミにも頻繁に登場する先生で、その発言の影響力も決して小さくはないし、また有能かつ有意の医師であることに疑いを差しはさむつもりもないのだが、昨年の四月以降は徹底した「アビガン」批判、というよりむしろ「アビガン」の報道批判を展開してきた人だ。それは故のないことではない。新型コロナに感染した著名芸能人などが、自身の「アビガン」服用による回復体験を公表したことから、マスコミがそれに乗じて科学的根拠のうすい希望的観測を喧伝するという事態が発生していたからである。彼はひとりの医師として、そうした世論のうわついた動向につよい危機感をいだいたのだと考えられる。従って、「もう少し科学的根拠が揃うまでは「新型コロナにアビガンが効いた」と思わせるような報道は控えていただきたいものです」という彼の主張は、それじたい至極まっとうであり、きわめて正当だとの世間的評価になる。だが、私にいわせれば、その発言はあまりにも正し過ぎる(……)のだ。
現在、新型コロナ流行、その第三波の真っただ中にあって、私たちが逃げようもなく直面しているのは、高齢者を中心とした新型コロナ感染症による死者数が、過去最多を日々更新し続けているきわめて憂うべき事態なのだ。その背景にあるのが、いわゆる法的な医療体制が崩壊したわが国のまがまがしい現実である。コロナ感染症がじっさいに発症しても、保健所に電話がつながらず、病院すら紹介してもらえず、仮に電話がつながって治療や入院が必要と診断されても、受け入れ可能な医療機関が見つからず、その結果やむなく自宅療養を余儀なくされ、いわば医療システムから完全に見放され、ひとり放置された状況のなかで体調が急変し、そのまま死にいたるケースが次々に発生しているのだ。国も地方自治体も、この喫緊の問題解決にむけてまったく有効に対処できていないのが現状である。国がウイルスに対して仕掛けたこの〈戦争〉が、ものの見事に敗北し去っている偽らざる姿がここに露見している。いうならば、自宅に放置されて亡くなったこれら‶医療棄民〟たちの惨状は、彼らが国による対新型コロナ戦争における無辜の戦災犠牲者なのだという生々しい事実を物語るいがいの何者でもない。
すこしの楽観もゆるされぬこの由々しき現況に対し、たとえば忽那医師に見られるような正し過ぎる‶たてまえ論〟によっては、もはやいかなる実効的な対応策もとりえないのではないかと私は危惧するのだ。いま最も必要とされるのは、自宅内に幽閉されたこれら‶医療棄民〟の人々の不安や病状に、最後までしっかりと寄り添う治療のプロフェショナルの存在ではないのか。国が仕掛けたこの〈戦争〉の外部にはじめから身をおき、国家法の定める医療体制がカバーできないこのドメスティックな生存領域をこそみずからの活動圏と見定め、人々の底知れぬ絶望感を根本から払拭しうるツールとノウハウとテクニックとにくわえ、それを成し遂げようとする強いハートをあわせ持った存在。時には法に抵触するぎりぎりのリスクをも見据えたうえで、その活動の方向性をけっして違えず、さいごまで貫徹しようとする、そういうオルタナティブな存在が。
埼玉県の三芳町にある「ふじみの救急クリニック」の鹿野晃院長は、コロナが流行しだしたかなり早い時期から「発熱外来」棟を自病院の隣接地に併設し、予約不要・24時間体制でPCR検査をふくめた新型コロナ感染症患者にたいする診療をおこなってきた。保健所を通さずにいつでも医師の診察が受けられ、しかも救急搬送されたものの受け入れ先の病院が見つからず、救急車に乗ったまま街なかを長時間たらい回しにされるなんてこともない。新型コロナが疑われる発症者にとっては、まさに頼みの綱ともいえる地域医療のありがたい受け皿を提供している。
同クリニックは、コロナ患者の治療にさいしてはためらわずアビガン投与を行い、多くの患者を死の渕から回復させた実績があることでも知られる。その鹿野医師は、みずからも新型コロナに感染するという不運に見舞われながらも、アビガンの服用でみごとに完全回復し、さきごろその自らの体験をテレビ出演をとおして世の中にひろく公表した。そこで鹿野医師が話したことのなかに、アビガン使用に関する驚くべき内容の発言があった。なんとそこで鹿野医師は、新型インフルエンザ治療薬として承認されている「アビガン」は、まだ新型コロナかどうか判定できない患者に対しても、発熱や肺炎など医師がインフルエンザの疑われる症状をそこに認め、そう診断をくだすなら、あくまで医師の所見によって、その患者に「アビガン」を処方することが可能なのだと発言したのだ。
私はこの発言の真意を、次のように理解した。すなわち、新型コロナ感染症の患者には、発症後できるだけ早い時期にアビガン投与することがきわめて有効だと分かっている。しかし、新型コロナか否かの確認はPCR検査の判定をまたねばならず、結果がでるまでの待ち時間が長ければ、その間、患者は有効な治療を受けられないままいたずらに時を費やすこととなり、場合によっては重症化にもなりかねない。そのリスクを回避するために、そこは医師の判断で、あくまで現時点では適用外使用の位置づけのもとでではあるが、「アビガン」治療を先んじて実践する道が、ガイドラインに抵触しないかたちで存在するのだと、ひろく訴えかけたのである。私にはきわめて勇気ある発言だと映った。
兵庫県尼崎市にある長尾クリニックの長尾和宏院長は、ブログで自分のことを「いつ捕まるか分からない「危険な町医者」」だと語る。いったいどういうことか?
同クリニックは、独自に発熱外来を開設し、こちらも24時間体制で対応している医院だが、国のガイドラインとは無関係にたとえ新型コロナが疑われる患者であっても分け隔てなく対応し、診察のみならず治療行為までおこなうことを旨としている。長尾医師のもとを訪れる外来患者の多くは、自宅で発熱し保健所に電話してもなかなかつながらず、たとえつながっても自宅待機を指示されただけで放置され、その後の連絡も不十分で不安ばかりが大きくつのっていくなか、ふたたび体調に異変が生じたり家族に発症者がでたりして、もはや藁をもつかむ思いで頼ってくる人たちが大半のようである。
「保健所が電話して、元気ですか?と聞いて、次に行ったら死んでた。そんなバカなことがありますか⁉」と長尾医師はいう。こんなのはもはや「自宅待機」ではなく「自宅放置」だと語気を強めるその姿をテレビで観て、私はここにも患者のおかれた不遇な現実と不安な心にしっかりと最後まで寄り添う覚悟をきめた、真の医療従事者がいるのだと思った。長尾医師は一九九五年の阪神・淡路大震災に遭遇したさい、助けられたはずの命をみすみす死なしてしまったみずからの辛い体験があり、自分が救える命ならば何としてでも救いたいとの強固な思いから、現在のような診療形態をとるに至ったのだという。
コロナ患者を診ているという理由で、窓ガラスを割られたり周囲からの犯罪的な嫌がらせを受けることがあっても、本人は全然ひるむ様子がない。こうした診療形態は、国が定める新型コロナ感染症への対応手順とはまったく異なるもので、同医院のやっていることはその意味で国の方針に真っ向から逆らっているわけだが、発熱してひとり自宅で悶々と過ごしている発症者にとってみれば、まさにそれは救世主の振る舞いに他ならないと映ることだろう。コロナ患者にとって、本当に親身になってケアしてくれるセーフティネットが、はたして国が定めたガイドラインに沿った対応なのか、あるいは志ある民間医院のこうした独自対応なのか、その答えはおのずと明白ではないのだろうか。
『武漢日記』は二〇二〇年一月二五日から開始され、おなじ年の三月二四日に終わる。この六〇日間にわたるロック・ダウンを経て、武漢市はさらにその二週間後の四月八日に、待ちにまった都市封鎖の解除をむかえることになるのだが、少なくとも方方のこれらの文章を読むかぎり、そこには開放感と歓喜にみちた手放しの祝祭的空間といった雰囲気は微塵も感じられない。テレビのニュース映像でみた武漢開放の日の夜の華々しいイルミネーションの炸裂とはかんぜんに裏腹な、むしろ重く沈んだ澱のような悔恨の思いばかりが跡をひく、そんな印象だけがやけに色濃いのだ。最後の投稿日の日記に、方方はつぎのように書いている。
今日が最後の一篇だが、これから私が何も書かないという意味ではない。私のブログは依然として発信の場である。私はこれまでと同様、ブログで自分の考えを表明するつもりだ。そして責任の追及もあきらめない。多くの人たちはコメントを寄せて、政府は責任を追及しないだろう、今回の事件に希望は見出せないと述べている。政府が最終的に責任の追及をするかどうか、私にはわからない。しかし、政府がどう考えるにせよ、二か月にわたって家に閉じ込められた武漢市民として、武漢の悲惨な毎日をこの目で見てきた証人として、私には死者たちの無念を晴らす責任と義務がある。誤りを犯した人は自ら責任を負うべきだ。私は言いたい。私たちが責任の追及をあきらめたら、私たちがこの日々を忘れたら、私たちが常凱(*)の絶望さえ忘れてしまう日が来たら、武漢市民が背負うのは災難だけではない。恥辱を背負うことになる。忘れるということの恥辱だ! もし誰かが、この言葉を軽々しく消し去ろうとしても、絶対にそんなことはできない。私はその人たちの名前を一文字ずつ「歴史の恥辱の柱」に書き記すだろう。
*常凱(チャンカイ)、湖北映画制作所のドキュメンタリー監督で、対外連絡部主任。二月一四日に五五歳で死去。一家は新型コロナ肺炎で家族全員が死亡。
(三月二四日/私はうるわしい戦いを終えた 303~304頁)
二〇二〇年から始まった新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックとは、はたして何なのか? それは、この未曾有の感染症に襲われた世界中の国々が、SARS-CoV-2という未知のウイルスを共通の敵として、どの国も例外なく、国家規模の〈戦争〉に、それもほぼ時期をおなじくして巻きこまれた世界規模の非常事態であったと定義できるだろう。
であるならば、コロナ終息後に訪れる時代とは、それまでよりも一層困難な〈戦後〉時代の痛苦にみちた幕開けとも予想され、その入口の門柱には、「世界コロナ大戦(World Corona War)終息の地」という文字にくわえ、おそらくは何らかの‶希望〟に類する啓示の文字が、見えない手によって彫り込まれる日がきっとくることを、いまはただ願わずにはいられない。(了)