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詩人 自由エッセー

月1回原則として第3土曜日に、隔月で二人の詩人に各6回、全12回の年間連載です。

第48回 第三劇場 真名ノ

2021-03-08 17:29:06 | 日記
 コロナ禍の中、サークルを探すのは難しいと思いましたが、Twitterって凄いですね。「同志社 演劇」で一発で見つかりました。第三劇場の方たちがサークル公式のアカウントを作ってくださっていたためです。入団希望の方はQRコードから公式ラインに飛んで説明を受けてくださいのことでした。Zoomで座長から説明を受けました。同志社には全4団体あるのですが、トラブルを避けるために掛け持ちはできないらしいです。過去に何かあったのでしょうか?演劇の人間は大体変わっているので、多分恋愛関係だと私は踏んでいます。(変人は恋愛など興味のないものだと思っていましたが、逆に興味がわくのだと学びました。恐ろしいですね)
 丁度秋公演が始まるところだったので、夏休みはほぼ毎日朝からZoomで稽古をしていました。稽古内容は、腹式呼吸のやり方や短音長音、あめんぼ、外郎売などの基礎練から始まり「Work Shop」をします。ワークショップでは、この世に存在しない言葉でテレビショッピングの真似をして「何を売っているのか」みんなで伝えたり(ジブリッシュといいます)他にも、五人のZoomの個人チャットに、それぞれマスターから「1~5」の数字が送られ、その数字に応じて自分の地位が決められます。地位といっても場面によって変わります。例えば、場面は当てる側の人が設定するのですが、「教室 モテる順」と設定したとしましょう。演者はサッカー少年を演じたり、教室の隅で読書をしたりします。これの面白いところは、演者同士が相手の番号を知らないのと、入る順番が決まっていることです。「自分はこの人より、、う、上?か」とか探り探りです。ここで大切なのは「1番」と「5番」の人です。その人は明らかに地位が高いし低いので、大袈裟に周りに伝えます。その動きに合わせて2,3,4の人が「あ、こうやって表現したらいいのね、じゃあこうしよう」と、演劇方針が決まってきます。これを弊害するのが、入る順番が決まっていることです。いきなり3番の真ん中の人が最初に入ったとしましょう。何をすればいいのかパニックですよね。そのため毎回1か5の人が最初に入ることをみんな願います。
 第三劇場の最大の強みは「自分たちで脚本を手掛けられる」所です。脚本を書く方たちは、役者がどんな人が分かっているので、オーディションはほとんどしません。緊張しなくて助かります。しかし他人から見た自分像から演出さんは(脚本を手掛けた人のことです)人選するため、自分に何を求めているのかを読み取る必要があり、役が固まるまでかなり苦労します。
 ただ文章を読むのではなく、そこにどんな感情が込められ、どんな背景から出た言葉なのか演出さんと意思を統一するために、何度も読み込み、メモし、確認します。偶に一切話し合わず、それどころかこっちの方が良いんじゃないと演出さんにダメだししたり、稽古ごとに傾倒を変えてくる先輩もいます。はっきり言って変態狂人です。しかしそんな人こそ頭がよく、キレて、仕事がすごくできる人だったりします。本当に怖いです。自分の常識が壊されそうで。
 10月から対面稽古が始まりました。実際会ってみると意外と身長高かったとか、服の趣味が変わっていたとかあって面白かったです。対面稽古が始まるとともに、部署が動き始めました。部署とは1人2つ担当するもので「舞台監督、制作、舞台美術、宣伝美術、照明、幕、音響、小道具、衣装、編集」があります。舞台監督は重要な役で、稽古場所をおさえたり、照明やガムテープやカメラの手配や本番の立ち位置設定や、とにかく何でも決めるリーダー的存在です。(公演ごとに舞監をやる人やメンバーが変わるので、その都度舞監の仕事量は変わります)制作は主に公式ラインやインスタやTwitterの管理や、公演の宣伝をしたりします。舞台美術は、演目ごとにどこに照明を吊るか、どんな色か、どんな強さか、ゆっくり出すかいきなり出すか、光の大きさ、照らす長さ、役者の動線などとにかく細かく演出さんと話し合いながら決めます。今回はマクドで3時間ほどぶっ通しで話して決めました。10分の短編だったので3時間で済みましたが、長編だったらと思うと気が遠くなります。宣伝美術はインスタやTwitterに載せる用や、チラシと作ったりする人です。画力が試されます。できたものを制作に渡して投稿します。照明はホール週という本番1週間前から、施設から照明器具を借ります。そして天井に吊り、位置を決めます。本番では卓といわれるところから、DJが使うようなごつい機械で操作します。幕は設計図で位置を把握し、時たま「バー」といわれる5キロぐらいある鉄棒を、番線といわれる針金の上位互換のようなもので吊るします。この時脚立の頂点で立って作業するのですが、揺れるわ命綱ないわで、高所恐怖症からしたら観覧車ぐらい怖いです。バーをかけ終わったらいよいよ幕を掛けます。幕の名前がアメリカの台風みたいなメアリやスーやジュン等々で面白いです。仕上げに光が漏れないよう洗濯ばさみみたいなものでつなぎ目を止め、でかいホチキスで壁と幕をぴったんこしたら完成です。音響は事前に演出さんと話し合いながら劇中に使う音を探します。例えば殴られた時に使う「ボコッ」とした音とかです。殴られるにしてもいろいろな音があるので大変です。私も音響なのですがテレビの音を流したいが著作権に引っかからないようにぼかしてくれという無茶ぶりがあって、いろいろ2時間やってやり直しと言われた時は、どうにかして先輩の今まで取った単位を0にできないものかを真剣に悩みました。小道具は劇中に使う小道具を用意したり作る人です。衣装は劇中に使う服をいろんな人に借りたり作ったり買い出しに行ったりする人です。講演の後にはコインランドリーにお使いに行くこともあります。聞こえは悪いですがパシリみたいなものです。編集は本番で撮った映像を編集する人です。担当部署だけ説明が長くなりバラつきが生じたことをお詫び申し上げます。皆様は私がどこに所属しているかわかりましたでしょうか?笑
 本番はいろいろとちりましたが、楽しかったです。正直記憶がありません。
 私のこれからの演劇ライフはどうなるのでしょうか。物語はこれからです。




第47回 コロナと戦争(第6回) コロナのもとで『武漢日記』を読みはじめた(3)  添田 馨

2021-02-12 15:37:31 | 日記
 〈戦争〉がある日、とつぜんに何の前触れもなく、どのようにしてやってくるのかを、私たちはこのコロナ禍を通してつぶさに体験したのかもしれない。
 新型コロナウイルス感染症との戦いを、戦争というレトリックで語ろうとする試みは、自分のまわりにもこれまでにたくさんあった。私がいまここで語ろうとしているのは、そうしたレトリックとして語られる戦争のことではない。国家がじっさいに国民を大々的に駆りたてて実行する国家政策としての〈戦争〉のことである。
 だが、西暦二〇二〇年から二〇二一年にかけての日本で、そんな〈戦争〉が本当に行われたのだろうか? いったい何時、どこで……と人は問うだろう。実体としての戦争とは、目にみえるかたちでの武力衝突のみを意味しない。私たちの日々の生活実態をことごとくまきこんで、その活動を制限もしくは停止させるような法的抑圧を課し、ひとつの大きな全体目標の達成のために人々の行動に対して国家が強制力を発揮するなら、それは充分に〈戦争〉の定義に抵触する。今回のコロナ禍の本質は、たんにヒトからヒトへ感染する病原ウイルスの広汎な伝播をいうだけではぜんぜん足りない。それよりもさらに重要なのは、コロナ禍が実体的な〈戦争〉の性格を宿した災厄として、私たちのもとに訪れたという重要事実をこそ忘れるべきではないのである。
 この〈戦争〉はいつ開始されたのか。二〇二〇年四月七日に発出された緊急事態宣言は、この一連の新型コロナ〈戦争〉における、国家による最初の公的な‶宣戦布告〟だったように見える。だが、〈戦争〉が本当の意味ではじまったのは、それを遡る一月二十八日に、国によって「新型コロナウイルス感染症を指定感染症として定める等の政令」が、内閣総理大臣安倍晋三名で公布されたその時からだった。「指定感染症」という法的地位をこのウイルスに与えることによって、戦争政策上の〈敵〉の存在が明確化されたからである。
 そのとき〈敵〉はどこにいたか? 無論のこと、〈敵〉はこの場合、新型コロナウイルスの感染能そのものだったから、その姿は実体としてはどこにもなかった。いや、じつは〈敵〉はそこらじゅうに、新規感染者数や実効再生産数や陽性者率、重症化率といった数値データとして、非実体的に遍在していたといった方がいいかもしれない。
 最前線がどこにあったのかといえば、それはまず第一に新型コロナ患者を受けいれた医療機関の治療の現場にあった。間違いなくそこが最初に形成された最前線だった。微視的にみれば、感染者の体細胞内に侵入した病原ウイルスと免疫細胞との戦いこそが新型コロナ〈戦争〉の唯一の戦線だったわけだが、私はこうした本来の人体内生命活動をここで〈戦争〉とは絶対に呼びたくない。〈戦争〉とはどこまでも組織化された人為的災厄を指すからである。
 いずれにしろ、気がついたときにはもう遅く、私たちはすでに〈戦争〉の渦中に投げ出されていた。闘う準備も心構えもなにひとつ整っていないなかで、未知のウイルスのいきなりの奇襲攻撃に遭ったことで、これら一連の新型コロナ〈戦争〉はやむを得ず開始されたかにみえる。だが、間違ってならぬのは、この〈戦争〉を引き起こしたのは、決してウイルスでもPCR検査の陽性者たちでも、ましてや彼らを救おうと奮闘した医師や看護師たちでもない。私たちは誰ひとりとしてこの〈戦争〉の主体ではない。むしろ私たちは、この〈戦争〉を推進した者たちから、どこまでも客体として振る舞うように強制された、いわば受け身の‶戦争難民〟の一人にすぎないのだ。
 いつの場合も〈戦争〉は合法的に体制化され、組織的に開始され、そして機動的に推進される。いうならば、このたったひとつの単純明快な事実関係こそが、今回のコロナ禍を全社会的な〈戦争〉にまで変貌せしめたところの根本機制なのである。誰ひとりとして自分だけが逃げだすことのできない現実状況のなかに、なおも逃げ出すことのできない見えない檻を‶緊急事態宣言〟というかたちで二次的に作りだし、さらにそのうえで国の方針への全面協力を要請されるという絶対的な不自由感。あるいは、ウイルスへの恐怖による意識支配のうえに、さらに共同意志による行動支配がつぎつぎと加重されていく悪無限性。こうした抑圧の連鎖が、この〈戦争〉の本質にはある。じっさいそうではないか?私たちは個人としては誰ひとり、新型コロナウイルスに対して、みずからの自由をかけた戦いを主体的に開始することなどできないのだから。ひるがえってそのことは、私たちに、個々人の自由な振る舞いを許容させない現実的な抑圧条件の存在こそが、〈戦争〉という選択肢を合法化するための必要かつ十分な契機になり得ることを教えている。そのことがゆいいつ可能なのは、良くも悪くも国家という権力機構だけなのである。

 『武漢日記』のなかで、方方はつねに当局者やその随伴勢力の者たちを批判している。それは理由のないことではない。全都市ロックダウンというこの‶戦争状態〟をもたらしたのは、新型コロナウイルスではなく、中華人民共和国政府であり武漢市政府であり、つまり自分たちの‶国家〟であることは明らかだった。国家が都市封鎖というかたちで新型コロナウイルスに対して〈戦争〉を仕掛けたのである。その囲いのなかに閉じ込められた人々は、従って、否応なく〈戦争〉協力者であることを国によって強要されることになった。封鎖直前に市外へ逃亡した者たちを除いて、国によるこの決定に異を唱えることは、封鎖がその前夜の一方的な事前通告だけで突然はじまったことから考えて、何人にも不可能だったろうし、みずから進んで意志決定できる余地はまったくなかったといえる。

 悲しいことが、依然として時間とともにやってくる。災難の傷跡はあまりにも深く、私たちの心に刻まれてしまった。いま、人々は涙もろくなっている。同僚が自分の居住区の動画を見せてくれた。住民の一人が、居住区の管理人に謝意を表し、管理人の男性はボロボロ涙を流している。これに対して、「武漢市民はこの一か月に、数十年分の涙を流した」というコメントがあった。それは実際、本当の話だ。悲しみの涙だけではない。いろいろな味がする、万感胸に迫る涙である。そういう涙を流している人を鼓舞し、奮い立たせ、我々は勝利者だと世界に宣言させるのは無理だ。私たちの涙が尽きることはないのだから。
(三月一日(旧暦二月八日)/私たちの涙が尽きることはない 170~171頁)


 だが、方方は感染症の蔓延をふせぐために、政府がくだした都市封鎖の決定は「数日遅れたとは言え、やはり正しかった」(まえがき)のだと書いている。彼女のこの最終判断は、ふつうに考えられているよりも、実は、はるかに重いものだったのではないか。ある意味、この『武漢日記』の歴史的価値を左右するほどの重量が、私はこの言葉のなかに宿っていると思えたのだ。なぜなら、自分たちを一方的にまきこんで国家がはじめた対ウイルス〈戦争〉――それがわが身にもたらすところのすべての苦悩と悲しみを、良し悪しの判断をいったんエポケー(判断停止)したうえで、ひとまず自分は受け入れたのだということを、その言葉は暗黙のうちに告げているからだ。
 「私たちはすでに、この大災害のかなりの部分が人災だということを知っている」(同前)と一方で言いながらも、都市封鎖そのものは「正しかった」と言うのは一見すると自家撞着のようにも映る。だが、方方は「この大災害のかなりの部分」という言いかたで、その政策判断のすべてを否定するのではなく、自分たちの日常性のなかにいきなり侵入して深刻な亀裂を走らせたこの圧倒的に不条理な災厄を、自身の理性と悟性と感性の全領域において批判的に受けとめ、この未曾有なコロナ・パンデミックに対して、政府がなすべきこと、個人がなすべきこと、さらには厳しく指弾されるべきあらゆることについて、それを思うままに自らの言葉で表現したのである。だから、生半可な知識人によくありがちな、特権的立ち位置から現下の諸現象を両断するような愚は、彼女の筆がきりひらく領分とはまったく無縁だったのだ。
 彼女のこの賢明な判断が働いていたからこそ、『武漢日記』は異国に住むあかの他人である私のような者にとっても、十分に読むべき価値を発信し続けたのである。国家がはじめたこの〈戦争〉をじっさいに戦ったのは、治療現場の医師や看護師やさまざまな出自のボランティアなど、およそ民間の名も知られないような人たちだった。しかし、なかには感染拡大の初期段階でみずから新型肺炎の警鐘をならし、それが理由で当局に逮捕拘束され、みずからも罹患して死に至った李文亮のような‶真に英雄的な〟存在についての賞讃と哀惜も、決してなおざりにされてはいない。極限的な閉塞状況にあっても、いったい何が価値ある行為であり、いったい誰が人民の敵対者なのかを見透す眼は、最後まで曇ることはなかった。
 例えば、李躍華(リー・ユエホウ)という民間療法の医師について書かれたブログ記事に私は注目した。方方の言葉をそのまま受けいれるなら、李は「漢方の針治療」の達人で、その腕前は〝神業〟級であり、新型コロナ肺炎を針を使って治療できるのだという。だが、当局は、李が医師免許をもたないことを理由にその治療を違法行為とみなし、診療許可をだそうとしない。だが、李のことを支持する人は多く、このことについて、「私は素人なので、論評は差し控える」としながらも、方方はおなじところでこうも書いている。

 (……)彼が治せると明言しているなら、あれこれ議論する必要はない。試してみればいいだろう。鄧小平の名言「白い猫でも黒い猫でも、ネズミを捕るのがよい猫だ」があったではないか? これを援用すれば、「漢方医でも西洋医でも、病人を治すのがよい医者だ」ということになる。診療は実用的でなければならない。特に緊急を要するときは、人命が何よりも優先される。なぜ、機会を与えようとしないのか?その場で彼の化けの皮がはがれ、真相が暴露されるとしても、それでいいではないか?
(三月一日(旧暦二月八日)/私たちの涙が尽きることはない 174頁)


 私はこうした主張について、心からの賛同を送りたい。政府機関も新聞やテレビもけっして多くを語ろうとしないが、これと構造がとてもよく似通った問題がわが国でも顕在化しているからである。新型インフルエンザの治療薬であり、発生当初から新型コロナ感染症の治療薬候補ともみられてきた薬剤「アビガン(ファビピラビル)」をめぐる一連の問題が、それである。
 昨年末あたりから年初にかけて、わが国の新型コロナ感染症の陽性者数は、第3波といわれるように、これまでにない大幅な拡大をみた。その結果、病床数が不足するようになり、中等症の患者など本来ならば入院が必要な者たちが、入院したくてもそれができない状況が至るところで現出した。そういう人たちは多くの場合、自宅療養を強いられることになり、つまるところこれは患者を医療の手がとどかない自宅に放置することに等しく、実際、自宅療養中に病状が急変して、ひどいときはそのまま死にいたるというケースがたて続けに報告される事態になっている。
 医療崩壊ということの、これがわが国の社会システム末端部における偽らざる実態なのである。コロナ禍がはじまったもっとも早い時期から、いちばん私が懸念して事態がこれだった。「特に緊急を要するときは、人命が何よりも優先される」という方方の言葉が、もっとも当てはまる場面にもかかわらず、人命がずるずると最劣位においやられ、それを医療崩壊のせいにして、誰ひとりとしてそうした放置死の責任を取ろうとしない。
 「アビガン」を新型コロナ治療薬として承認し、感染が疑われる人々に即刻配布するなどしていれば、仮に自宅やホテルなど病院以外の場所に待機させられていたとしても、「アビガン」を服用することで犬死にも等しいこれら放置死は、かなりの程度防げたのではないかと思う。というのも、新型コロナ感染症は発症してから十日目あたりが運命を左右する岐路であり、そこから徐々に回復する人がいるかと思えば、そこから一挙に重症化(急変)して死の危険にいたる人とに大きく分かれるからである。そして、後者の場合、急変してから入院先をさがしてもすぐには見つからなかったり、また見つかったとしても重症化してからの投薬では手遅れになる場合が多いのだ。
 この感染症は、発症後十日目くらいまでとそれ以降とでは、その病態がぜんぜん異なるのである。最初の十日間くらいは、体内に侵入したウイルスがさかんに自己増殖を繰りかえして、個体数を爆発的に増やしている時期だ。そしてそれ以降になると、今度は数を増やしたウイルスが血管内をあちこち移動して随所に炎症を誘発するため、それを阻止しようとする免疫システムが過剰に駆動され、暴走(サイトカインストーム)を引き起こすのである。このいずれのプロセスも発熱や倦怠感の原因にはなりうるものの、薬効としては前者ならウイルス増殖を阻害するRNA依存性RNAポリメラーゼ阻害薬(アビガン)、また後者なら免疫暴走を鎮静化させるステロイド薬(デキサメタゾン)などが有効とされている。
 いずれにしろ、後者のような重症化に至らせないことがコロナ治療にもっとも重要なポイントであり、そのためには発症から十日以内の比較的はやい時期に「アビガン」を投与して、ウイルス増殖を徹底的にブロックすることが何にもまして有効かつ重要な治療であることは素人にも了解できるところだ。
 これまでの最悪事例が教えるのは、単独の自宅療養中に症状が急変したにもかかわらず、誰の助けをも得られないまま、人知れず本人が死亡してしまうケースであり、入院先の病床数がにわかには増やせないのであれば、せめて手元に治療薬としての「アビガン」を常備させ、適量ずつ服用させることで、症状の改善を患者自身がフォローできる体制を提供してやることではないのか。
 だが、誰にでも分かるようなこの道理が、この国ではまったく通用しないのだ。何故であろうか。端的にいって、「アビガン」の新型コロナ治療薬承認を妨害している者が、国家機構の内部に一貫して存在するからである。二〇二〇年十二月に厚生労働省は「アビガン」の治療薬承認をまたもや見送ったが、「現時点のデータで、有効性を明確に判断するのが困難だった」というのがその理由だった。治験の方法が単盲検と呼ばれるものだったために、「今回のデータでは、医師の先入観が影響している可能性を否定できない」ということのようである。行き過ぎた科学主義というイデオロギーが、詐術的に医薬品行政を支配している硬直しきった貧しい姿が垣間見えるようである。
 国立国際医療研究センター の忽那賢志医師(国際感染症センター)は、マスコミにも頻繁に登場する先生で、その発言の影響力も決して小さくはないし、また有能かつ有意の医師であることに疑いを差しはさむつもりもないのだが、昨年の四月以降は徹底した「アビガン」批判、というよりむしろ「アビガン」の報道批判を展開してきた人だ。それは故のないことではない。新型コロナに感染した著名芸能人などが、自身の「アビガン」服用による回復体験を公表したことから、マスコミがそれに乗じて科学的根拠のうすい希望的観測を喧伝するという事態が発生していたからである。彼はひとりの医師として、そうした世論のうわついた動向につよい危機感をいだいたのだと考えられる。従って、「もう少し科学的根拠が揃うまでは「新型コロナにアビガンが効いた」と思わせるような報道は控えていただきたいものです」という彼の主張は、それじたい至極まっとうであり、きわめて正当だとの世間的評価になる。だが、私にいわせれば、その発言はあまりにも正し過ぎる(……)のだ。
 現在、新型コロナ流行、その第三波の真っただ中にあって、私たちが逃げようもなく直面しているのは、高齢者を中心とした新型コロナ感染症による死者数が、過去最多を日々更新し続けているきわめて憂うべき事態なのだ。その背景にあるのが、いわゆる法的な医療体制が崩壊したわが国のまがまがしい現実である。コロナ感染症がじっさいに発症しても、保健所に電話がつながらず、病院すら紹介してもらえず、仮に電話がつながって治療や入院が必要と診断されても、受け入れ可能な医療機関が見つからず、その結果やむなく自宅療養を余儀なくされ、いわば医療システムから完全に見放され、ひとり放置された状況のなかで体調が急変し、そのまま死にいたるケースが次々に発生しているのだ。国も地方自治体も、この喫緊の問題解決にむけてまったく有効に対処できていないのが現状である。国がウイルスに対して仕掛けたこの〈戦争〉が、ものの見事に敗北し去っている偽らざる姿がここに露見している。いうならば、自宅に放置されて亡くなったこれら‶医療棄民〟たちの惨状は、彼らが国による対新型コロナ戦争における無辜の戦災犠牲者なのだという生々しい事実を物語るいがいの何者でもない。
 すこしの楽観もゆるされぬこの由々しき現況に対し、たとえば忽那医師に見られるような正し過ぎる‶たてまえ論〟によっては、もはやいかなる実効的な対応策もとりえないのではないかと私は危惧するのだ。いま最も必要とされるのは、自宅内に幽閉されたこれら‶医療棄民〟の人々の不安や病状に、最後までしっかりと寄り添う治療のプロフェショナルの存在ではないのか。国が仕掛けたこの〈戦争〉の外部にはじめから身をおき、国家法の定める医療体制がカバーできないこのドメスティックな生存領域をこそみずからの活動圏と見定め、人々の底知れぬ絶望感を根本から払拭しうるツールとノウハウとテクニックとにくわえ、それを成し遂げようとする強いハートをあわせ持った存在。時には法に抵触するぎりぎりのリスクをも見据えたうえで、その活動の方向性をけっして違えず、さいごまで貫徹しようとする、そういうオルタナティブな存在が。

 埼玉県の三芳町にある「ふじみの救急クリニック」の鹿野晃院長は、コロナが流行しだしたかなり早い時期から「発熱外来」棟を自病院の隣接地に併設し、予約不要・24時間体制でPCR検査をふくめた新型コロナ感染症患者にたいする診療をおこなってきた。保健所を通さずにいつでも医師の診察が受けられ、しかも救急搬送されたものの受け入れ先の病院が見つからず、救急車に乗ったまま街なかを長時間たらい回しにされるなんてこともない。新型コロナが疑われる発症者にとっては、まさに頼みの綱ともいえる地域医療のありがたい受け皿を提供している。
 同クリニックは、コロナ患者の治療にさいしてはためらわずアビガン投与を行い、多くの患者を死の渕から回復させた実績があることでも知られる。その鹿野医師は、みずからも新型コロナに感染するという不運に見舞われながらも、アビガンの服用でみごとに完全回復し、さきごろその自らの体験をテレビ出演をとおして世の中にひろく公表した。そこで鹿野医師が話したことのなかに、アビガン使用に関する驚くべき内容の発言があった。なんとそこで鹿野医師は、新型インフルエンザ治療薬として承認されている「アビガン」は、まだ新型コロナかどうか判定できない患者に対しても、発熱や肺炎など医師がインフルエンザの疑われる症状をそこに認め、そう診断をくだすなら、あくまで医師の所見によって、その患者に「アビガン」を処方することが可能なのだと発言したのだ。
 私はこの発言の真意を、次のように理解した。すなわち、新型コロナ感染症の患者には、発症後できるだけ早い時期にアビガン投与することがきわめて有効だと分かっている。しかし、新型コロナか否かの確認はPCR検査の判定をまたねばならず、結果がでるまでの待ち時間が長ければ、その間、患者は有効な治療を受けられないままいたずらに時を費やすこととなり、場合によっては重症化にもなりかねない。そのリスクを回避するために、そこは医師の判断で、あくまで現時点では適用外使用の位置づけのもとでではあるが、「アビガン」治療を先んじて実践する道が、ガイドラインに抵触しないかたちで存在するのだと、ひろく訴えかけたのである。私にはきわめて勇気ある発言だと映った。

 兵庫県尼崎市にある長尾クリニックの長尾和宏院長は、ブログで自分のことを「いつ捕まるか分からない「危険な町医者」」だと語る。いったいどういうことか?
 同クリニックは、独自に発熱外来を開設し、こちらも24時間体制で対応している医院だが、国のガイドラインとは無関係にたとえ新型コロナが疑われる患者であっても分け隔てなく対応し、診察のみならず治療行為までおこなうことを旨としている。長尾医師のもとを訪れる外来患者の多くは、自宅で発熱し保健所に電話してもなかなかつながらず、たとえつながっても自宅待機を指示されただけで放置され、その後の連絡も不十分で不安ばかりが大きくつのっていくなか、ふたたび体調に異変が生じたり家族に発症者がでたりして、もはや藁をもつかむ思いで頼ってくる人たちが大半のようである。
 「保健所が電話して、元気ですか?と聞いて、次に行ったら死んでた。そんなバカなことがありますか⁉」と長尾医師はいう。こんなのはもはや「自宅待機」ではなく「自宅放置」だと語気を強めるその姿をテレビで観て、私はここにも患者のおかれた不遇な現実と不安な心にしっかりと最後まで寄り添う覚悟をきめた、真の医療従事者がいるのだと思った。長尾医師は一九九五年の阪神・淡路大震災に遭遇したさい、助けられたはずの命をみすみす死なしてしまったみずからの辛い体験があり、自分が救える命ならば何としてでも救いたいとの強固な思いから、現在のような診療形態をとるに至ったのだという。
 コロナ患者を診ているという理由で、窓ガラスを割られたり周囲からの犯罪的な嫌がらせを受けることがあっても、本人は全然ひるむ様子がない。こうした診療形態は、国が定める新型コロナ感染症への対応手順とはまったく異なるもので、同医院のやっていることはその意味で国の方針に真っ向から逆らっているわけだが、発熱してひとり自宅で悶々と過ごしている発症者にとってみれば、まさにそれは救世主の振る舞いに他ならないと映ることだろう。コロナ患者にとって、本当に親身になってケアしてくれるセーフティネットが、はたして国が定めたガイドラインに沿った対応なのか、あるいは志ある民間医院のこうした独自対応なのか、その答えはおのずと明白ではないのだろうか。

 『武漢日記』は二〇二〇年一月二五日から開始され、おなじ年の三月二四日に終わる。この六〇日間にわたるロック・ダウンを経て、武漢市はさらにその二週間後の四月八日に、待ちにまった都市封鎖の解除をむかえることになるのだが、少なくとも方方のこれらの文章を読むかぎり、そこには開放感と歓喜にみちた手放しの祝祭的空間といった雰囲気は微塵も感じられない。テレビのニュース映像でみた武漢開放の日の夜の華々しいイルミネーションの炸裂とはかんぜんに裏腹な、むしろ重く沈んだ澱のような悔恨の思いばかりが跡をひく、そんな印象だけがやけに色濃いのだ。最後の投稿日の日記に、方方はつぎのように書いている。

 今日が最後の一篇だが、これから私が何も書かないという意味ではない。私のブログは依然として発信の場である。私はこれまでと同様、ブログで自分の考えを表明するつもりだ。そして責任の追及もあきらめない。多くの人たちはコメントを寄せて、政府は責任を追及しないだろう、今回の事件に希望は見出せないと述べている。政府が最終的に責任の追及をするかどうか、私にはわからない。しかし、政府がどう考えるにせよ、二か月にわたって家に閉じ込められた武漢市民として、武漢の悲惨な毎日をこの目で見てきた証人として、私には死者たちの無念を晴らす責任と義務がある。誤りを犯した人は自ら責任を負うべきだ。私は言いたい。私たちが責任の追及をあきらめたら、私たちがこの日々を忘れたら、私たちが常凱(*)の絶望さえ忘れてしまう日が来たら、武漢市民が背負うのは災難だけではない。恥辱を背負うことになる。忘れるということの恥辱だ! もし誰かが、この言葉を軽々しく消し去ろうとしても、絶対にそんなことはできない。私はその人たちの名前を一文字ずつ「歴史の恥辱の柱」に書き記すだろう。
*常凱(チャンカイ)、湖北映画制作所のドキュメンタリー監督で、対外連絡部主任。二月一四日に五五歳で死去。一家は新型コロナ肺炎で家族全員が死亡。

(三月二四日/私はうるわしい戦いを終えた 303~304頁)

 二〇二〇年から始まった新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックとは、はたして何なのか? それは、この未曾有の感染症に襲われた世界中の国々が、SARS-CoV-2という未知のウイルスを共通の敵として、どの国も例外なく、国家規模の〈戦争〉に、それもほぼ時期をおなじくして巻きこまれた世界規模の非常事態であったと定義できるだろう。
 であるならば、コロナ終息後に訪れる時代とは、それまでよりも一層困難な〈戦後〉時代の痛苦にみちた幕開けとも予想され、その入口の門柱には、「世界コロナ大戦(World Corona War)終息の地」という文字にくわえ、おそらくは何らかの‶希望〟に類する啓示の文字が、見えない手によって彫り込まれる日がきっとくることを、いまはただ願わずにはいられない。(了)

第46回 オトアソビ 鍋山 友梨馨

2021-01-06 21:56:03 | 日記
オリジナリティ
 世界にたった一つしか存在しない、オリジナルの曲。作った本人にしか分からない作成過程と秘話が込められている。私には、思いつかない世界がそこにあって、分かったつもりでもそれは、所詮つもりでしかない。曲を書いた本人にしか、分からない。
 曲をカバーする時にいつも考える。作り手の曲に込めた気持ちの想像と、この曲から感じた自分の中新たな創造を。
 同じ曲なのに、歌う人が変われば、曲調も表現も変わる。それがとても不思議で面白い。一人一人の味が出てくる。カバーしているはずなのに、そこに新たなオリジナリティが溢れている。

アップデート
 「好きな曲は何ですか」と問われると、返答に困ってしまう。音楽が好きだ。ただ聴くだけで昔は満足していたが、いつからか自分も演奏するようになった。音楽には、様々なジャンルがあって、数えきれないほどの曲が存在する。その中で、好きな曲を一曲相手に伝えることは、難しい。
 幼い頃は、聴いている曲数も触れている音楽のジャンルも少なかった。当時人気の女性アイドルグループが大好きだったことから、この質問をされても、すぐに答えることが出来た。しかし、成長していくと共に、新たな音楽のジャンルが新設されていき、音楽も私が聴く曲数も増えていった。スマートフォンの音楽アプリのプレイリストを開いてみると、登録してる楽曲は軽く百曲は越えている。返答しないわけにもいかない。この曲がずっと好きだと思っていても、新たな曲に出会うと、私の中のランキングは常に塗り替えられていく。だから、今好きな曲という私的最新ランキングの一位の曲を答えることになる。
 よくよく考えてみると、音楽に関わらず、他の分野でもそうかもしれない。「好きな本は何ですか」「好きな食べ物は何ですか」。私の好きなものは、常にアップデートされいる。

鍋山友梨馨プロフィル
1998年10月生まれ。音楽と詩をこよなく愛する21歳。学生バンドMY9ギターヴォーカルを経て、4月より社会人パフォーマー(になる予定)。のんびりと自分の道を探してゆこうと思っている。「月刊 新次元」で1月から詩を連載する。


第45回 コロナと戦争(第5回) コロナのもとで『武漢日記』を読みはじめた(2)  添田 馨

2020-12-13 23:30:41 | 日記
 冬場にさしかかり新型コロナウイルス感染症の流行もいわゆる第三波をむかえて、新規感染者数が過去最多をカウントする日もそう珍しくはなくなった。ただ、それにしても巷での緊迫感の無さはどうだろう? 今年の初め頃にこの国にはじめて第一波がやってきた時のほうが、私たちを襲った存在不安の強度は格段に高かった。だが、いまはその時ほどの緊張感はない。たんに私だけがそう感じるのではなく、多くの人がそんな緩んだ感覚のなかにいるようなのである。感染者や重症患者の数字はいまだ激増しているというのに、なぜそうなんだろうか。
 じつは非常事態がおとずれているというのに、政府もふくめて大多数の人がその現実を真剣に受け止めていないということなのではないだろうか。コロナ禍もはじまってから一年ちかくの時間が経過し、正直なところこの不自由きわまる状況に慣れが来てしまったのと、いくばくかの諦念のようなものが人々の日常意識をブレイン・フォグのように覆いはじめているという状況がまちがいなく招来されているのだと思う。長いものには巻かれろといった、きわめてこれは退嬰的な現象であり、私ひとりの力でどうなるものでもないが、ひとつ予感として私の中にある、ほんとうの危機とは、危機を危機として整合的に受け止められない今のようなあり方を言うのではないかという思いだけは、ますます鮮明だ。
 方方の『武漢日記』を読み進めるに及んで、ひとつ自分のイメージの中でカミュの『ペスト』の世界といまの日本の現状との布置関係にじょじょに異動が生じていることが分かってきた。ひとつには、『武漢日記』が、『ペスト』が描きだした世界の、さらにそのまた先にある未来形の地続きな現実なのだという発見である。そして、現在のわが国の半分死んだようになっている無残な社会実態だけが、両者との関係においてどこにも着地点を見いだし得ないでいまだあてもなく浮遊している、そんな残念な構図としてそれはおぼろげな像をむすぶに至ったのだった。
 だが、『武漢日記』のさまざまな描写には、私に、わが国の実際情況との紐づけをことごとく断念させるような要素ばかりが盛り込まれているわけでは決してない。それは都市封鎖という私たちがいまだ経験したことのない現実との埋められぬ疎隔感をつたえる以上に、どこかでこの日常意識が根こそぎ持っていかれてしまう悲痛な感覚に、私たちはすでにどこかで一度出会っているといった妙な既視感をもたらす要素がまちがいなく存していたということなのである。それは、いつどこでのことだったか。
 『武漢日記』二月十六日の項には、はたして次のような記述がみえる。

 武漢はいま、災難のただ中にある。災難とは何か? 災難とはマスクをつけなければならないことでも、何日も外出を許されないことでも、団地に入るために通行証が必要になることでもない。災難とは、病院の死亡証明書の綴りが数か月に一冊使われていたのが、数日に一冊使い切ってしまうということだ。また、火葬場の霊柩車が以前は一台につき一遺体だけを運び、柩もあったのが、いまは袋に入れた数体の遺体を車に乗せ、一緒に運ぶようになることだ。また、一家から死者が一人出ることではなく、数日のうちに、あるいは半月のうちに、一家全員が死ぬことだ。病をかかえて寒風と氷雨の中をあちこち奔走し、受け入れてくれる一つのベッドを求めても、結局見つけられないことだ。早朝から病院の受付番号をもらうため列に並び、翌朝になってやっと番号を手にする、あるいは手にできないまま、その場に倒れてしまうことだ。自宅で病院からの病床確保の通知を待ちながら、届いたときにはすでに死んでいることだ。重症患者が入院中に死んだら、入院したときが家族との永遠の別れであり、二度と会う日が来ないということだ。よく考えて欲しい。感染症で亡くなった人を家族は葬儀場で見送ることができると思うか? さらに言えば、死者に尊厳があると思うか? そんなものはないのだ。死はただの死だ。死者は運ばれて、すぐに焼却される。
(二月一六日(旧暦一月二三日)災難中には歳月は静かに流れない、生きる者の死に向かう生があるだけだ)


 はっきり言おう。私がこのような箇所を読み進むなかで、まさに昨日のことのように、それも急激に自分のなかに回帰してきたのは、あの「3・11」直後の生々しい一群の記憶の集積だった。日常意識が根底からまるごともっていかれる感覚を、私がこれまで心と身体のいちばん深い芯の部分に焼きつけられたのが、その時だったからである。コロナ禍と戦争は、やっぱりどこか似ている——私は世代的な理由から、自分の住んでいる国がじっさいに他国との戦争状態に陥ったという経験をもっていない。にもかかわらず、頭の片隅で、何故かずっと自分が知らないはずの戦争にコロナ禍は‶似ている〟と思ってきた。いま、その理由がようやく分かりかけてきたように思うのである。
 誰のことばだったかどうしても思い出せないのだが、ある日本人の評論家の文章に、自身が体験した戦争期を回顧して、それは長い休暇のような時間だったと述べていたのが、いまでも強く印象に残っている。外地の最前線では兵士たちが苛烈な戦況にさらされてバタバタ命を落としていたとしても、内地で生きる者にとってやはりそれは遠い場所での出来事であり、リアルには体験されようもないものだったということだろう。それよりも戦時下とはいえ、日々を生きる者にとってはそれぞれ自分なりの些末な日常的な現実があり、社会の最優先課題として〈戦争〉は暗い影を落としていたとしても、それはそれであって、心のどこかでは今がきわめて特殊な長期休暇のような期間であり、そこに危機意識を喚起させようとする自分と、同時に、それでも俺は俺だけの日常を謳歌してなにが悪いんだと思う自分とが、矛盾なく同居するという奇妙な事態がこの分裂した感覚をもたらしたのだと考えられる。その結果、日常意識はほんとうの危機の所在を視界のそとへと追いやってしまい、後に残るのはそれこそ「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国」(三島由紀夫)の、ひたすら滅亡へとむかう誰ひとりとして救いあげる者とてない国家規模の社会の残骸なのである。
 『武漢日記』のなかで方方が描写する都市封鎖下での日々の暮らしぶりは、「災難」というよりもさらに広範囲な「災害」と同位相にある運命共同体が激変した事態として、私の目には焼きつけられた。私たちもあの時、おなじような気持ちにならなかっただろうか。その日その時その時刻にたまたま偶然、被災地にいあわせた者も、あるいはいあわせなかった者であっても、程度の差こそあれ、誰もがみなそれぞれに心を打ちひしがれ、しかし、自分よりもっと助けが必要な人たちのために何かをしてあげたいと思い、救援物資を募ったり義援金を送ったり、いろいろな不便を乗り越えるために隣近所で協力しあったり、少ない生活物資を避難所で分けあったり、中にはボランティアとなって現地へと救援におもむいたり、おなじ運命共同体の一員として心をひとつにし、目の前の苛酷な現実にともに立ち向かっていこうという無言の連帯意識のようなものがひろく共有されていたのではなかったか。少なくとも、自分さえよければ他人はどうなってもいいんだ、といったような利己的心性は、私たちの行動においてひろく顕在化していたとは思われない。
 二月一九日(旧暦一月二六日)の日記にはこのような記述が見える。

 昨日頭痛がすると書いたら、同僚が夫を派遣して風油(フォンユウ)精(ジン)〔痛み止め、風邪などに効く薬〕を届けると言ってくれた。彼女の夫は仕事の関係で、毎日外で奔走しているのだ。彼は夜になって、風油精と生薬を一包み持ってきてくれた。文聯宿舎の入口まで受け取りに行くと、そこには多くの人がいた。春節以来、このような光景は初めて見た。
 尋ねてみると、団体購入グループが注文した食品が届いたところで、数人のボランティアが荷物を下ろしていたのだ。私は、ボランティアはみな職場のスタッフだと思っていた。ところが、隣人によれば、彼女の娘も参加しているという。娘はフランスに留学して帰国し、自分で会社を立ち上げた。いまは家に閉じこもっているので、自らボランティア活動に参加を申し込んだ。国連の「ボランティア」の定義は、自ら進んで社会的に公益性のある活動を行い、いかなる利益も金銭も名誉も受け取らない者で、「慈善活動家」とも呼ぶとある。ボランティアのこうした組織形態は、本当に素晴らしい。多くの善良な若者たちによって支えられている。社会的な奉仕活動に加わるとき、彼らは個人の力を捧げるだけではなく、その活動を通して社会を洞察し、人生を理解し、自分の見識と能力を成長させることもできるのだ。感染症の流行期間中に、武漢では数万人のボランティアが様々な社会貢献をした。彼らの力強い援助がなく、融通のきかない政府機関にだけ頼っていたら、さらに事態は悪化していただろう。

(二月一九日(旧暦一月二六日)死者の亡霊が、依然として武漢を徘徊している)


 「3・11」の大震災の時は、私たちも彼らと同じように行動したのではなかっただろうか。人々の気持ちをこうした行動へと鼓舞するような何かがたしかに存在したのだ。それは例えばなんだろうか。ひとことで言うのはとても難しい気もするのだが、反面、じつはとても簡単に言い表せることだったのかもしれない。他人を思いやる心? とにかく迷っている暇もないほど事態は切迫していたのだ。肉親や親せきでもなく、直接の知人や友人でもない、遠い場所にいるまったく面識もなく名前もしらない顔のみえないたくさんの人びと、そういう人々に対してみずから救いの手を差し伸べ、しかもそれを行動にまで移すことを厭わなかったたくさんの若者たちがこの国にも間違いなくいたのだ。
 今日は二〇二〇年十二月十二日である。新型コロナウイルスの新規感染者数は、東京だけをとっても、また全国合計をとっても過去最多を更新した。この一週間ほどは、ずっとそうした傾向が続いている。しかもその年代別の内訳をみると、依然として二十代、三十代の若い年齢層の人たちの割合が多い。重症化したり、そのために命を落としたりする懸念がとりわけ高いのが高齢者であることにも変化はないが、ここにきてよく指摘されるようになったことは、若い人たちが外を出歩いてウイルスに感染したまま、それを家庭内に持ち込み、家族やそのなかの高齢者である祖父や祖母に移してしまう家庭内感染の危険性である。いまや若者は、無症状で感染ウイルスを世間にばらまく張本人として、ほとんど悪者扱いすらされかねない有様だ。いったい何がこれほど変わってしまったのか。いったい何が事態をここまで追い込んでしまったのか。
 譬えとしてとても上等とは言えないが、「3・11」はいうならばいきなりこの身に負うことになった瀕死の大怪我だった。誰ひとり予想もしなかったし、また、それは致命傷になりうる大怪我だったが故に、発生当初においては緊急な応急処置がどうしても必要だったのである。だが、コロナ禍はちがう。始まりこそ唐突な印象があったが、相手は人類がだれも免疫をもっていないとされる新しい未知のウイルスであり、それはゆっくりと時間をかけて広範にしかも確実に私たちの社会に浸透していった。いわばそれは容易に脱却することの能わない社会全体に巣食う重篤な慢性疾患のイメージに近い。
 新型コロナの感染者に直接施療できるのは、原則として医療従事者にかぎられる。私たちのような医者でもない者が彼ら感染者に対して積極的になにかやってあげられることはほとんどない。新型コロナとの戦いの最前線は、病院など医療機関における治療の現場へと局在化され、その果敢な担い手こそが、つねに二次感染の危険にさらされながら決して投げ出すようなことはしない医師や看護師をはじめとした医療従事者たちだ。だから、その他大多数である私たちができることといえば、じかに行動に移せるようなポジティブ・オーダーではなく、外出抑制とか行動制限とか活動自粛といったようなネガティブ・オーダー、つまりできるだけ動かないという消極的選択に集約されていく。
 ネガティブ・オーダーは、物事の性格上、これを積極的に行なうことはできない。つまり、その効果がぜんぜん現れないからもっと強力にネガティブな行動をとれ、自粛しろ、ということは無理なのだ。だから、例えば、感染者数を三か月でゼロにするといった具体的数値目標をかりに政府がかかげるとするなら、その目標達成のためにポジティブ・オーダーを実行しなければならぬのは私たちの側ではなく、逆に政府の側なのであって、その目標達成のために都市封鎖(ロックダウン)なり県境封鎖なり外出禁止なり戒厳令(?)なり、そこは行政的な権力行使がポジティブに為されてしかるべき領域なのである。
 いまこの時代に私たちの社会で、そんなことが出来るのは政府権力しかないのである。権力の濫用はもちろんあっては困るし、また絶対に許されないが、国民生活の安全と健康を守るために強制力をともなう断固とした施策が最低限必要な場合だってあるのだ。私はいまがそういう時だと思っている。しかし、そのための実効的なロードマップすらも検討せず、ひたすらマスク、手洗い、三密回避、等々ネガティブ・オーダーばかりを、当の政府が国民に頭さげてお願いベースでやっていたのでは、賭けてもいい、具体的な目標達成はぜったいに不可能である。感染者は今後も絶望的に増大していくだろう。
 ふたたび『武漢日記』の語るところに耳を傾けたい。

 いま、人々が経済回復について議論する時間は、すでに感染症について議論する時間を上回っている。多くの企業が倒産に直面し、多くの人が収入を失い、生存の危機が迫っている。これは直接、社会の安定に関わってくる。私たちは感染者を隔離するのと同時に、健康な人も閉じ込めた。それがこれほど長引いたので、今後はこれに付随する災難がきっと次々に訪れるだろう。すでに多くの人が呼びかけている、健康な人も生き延びなければいけない。
 私には名案がない。ただ記録を続けるだけだ。

(二月二一日(旧暦一月二八日)遺体を国に捧ぐ、私の妻は?)

 「私には名案がない」——私とてまったくおなじだ。名案があったら誰もなにも苦労はない。このような箇所を読むとき、いまの日本の東京や大阪が陥っている状況は、まさに『武漢日記』に描写された当時の武漢の現実の、そのほんのすぐ先にくる未来の姿そのものであることが、これ以上ないくらい鮮明に了解される。
 先週、十二月上旬のある日、思うところがあって、自分の職場がある東京メトロ・人形町駅からそのひとつ先の小伝馬町駅までの地上区間を歩いてみた。時刻は夕方の五時半過ぎだった。街はいつものようにネオンや看板に明かりが灯り、軒をつらねる居酒屋やレストランも一見すると通常通りの営業状態にたち戻ったかのような雰囲気を漂わせていた。
 しかし、歩きはじめてすぐに異変に気づいた。通り過ぎながらちらほら店内を覗いてみると、どの店もどの店も判で押したように客の姿がぜんぜんないのだ。それはもう、本当に気の毒になるくらいに客が誰も入っていないのである。宵もまだはやい時間だったせいもあったのかもしれない。しかし、しかしだ、私はこの界隈を青春晩期の二十代後半くらいから現在までの期間、ほぼずっと継続して四十年にわたり見つづけてきた人間だ。その私が、まじで初めて見るようなそれは真冬の寒波のようにうそ寒い、いや寒すぎて身も凍ってしまうような光景だったのである。
 この夏に、東京都が、接待をともなうアルコール提供を行う飲食店に対して、営業時間の短縮を一律に要請したことがあった。コロナ禍でふだんの通勤客がリモートワーク等で都心の職場にまで出勤しなくなり、ただでさえ客足がにぶっていた矢先に、今度は営業時間の短縮要請……。飲食店側としては、冗談ではなくほんとうに死活問題だったと思う。要請に協力した店舗には東京都からいくばくか助成金の支給があったものと記憶するが、しかし時短要請の期間などからして、損失をかんぜんに穴埋めできるだけの金額が支給されたとは到底思えない。
 「‶新橋一揆〟をおこそうかと仲間同士で話してるんです」——新橋で焼き鳥店を営むというある女将が、テレビのインタビューに答えてこう語っていた姿が忘れられない。これ以上、時短要請が長引いたらうちらはもうやっていけない、小池百合子がどう言おうと、うちらは生き残るため、要請を無視して叛旗をひるがえすぞ……と、私にはそう聞こえたのだった。「おお、是非やったらいい」と、内心私はそう思った。確かにコロナの感染拡大がまずいことは分かる。だが、お上のいうことを素直に聞いてばかりいたら、逆に自分たちが干上がってしまう。いくら税金を召し上げるお上のお達しとはいっても、自分たちの生存までが脅かされるのだったら、最後は叛旗をたてて抵抗の意思表示をするしかないではないか。おなじように新宿や渋谷や浅草や銀座で、つぎつぎとこうした‶コロナ一揆〟が頻発していくさまを思い描いて、私はひとり暗然とした思いに陥ったのだった。
(続く)

第44回 「二人の祖母」 岩村 美保子

2020-11-06 23:42:55 | 日記
 わたしには母方に二人の祖母がいた。
 ひとりはミチエおばあさん。母を生んだ人だ。ミチエおばあさんは母が十才のときに結核で亡くなった。残されたのは母を先頭に四人の女の子。一番下の子はまだ一才にもなっていなかった。ミチエおばあさんの心残りはどれほどだったろう。わたしまで続く母子三代病弱の嘆きの歴史はここから始まった。母はわたしたち姉妹の母親になってからも、おかあさんが生きていたらと、わたしたち姉妹の前でも母親を恋しがった。自分自身がもう母親であるのに、母親を亡くした子供のままだった。私はと言えば母の悲しさを理解する思いやりなど持ち合わせてはいなかった。むしろ、嘆いてばかりの母を恨んでいた。それ以上に、なぜミチエおばあさんは死んでしまったのか、どうしてそんな病気にかかってしまったのか、元はといえばミチエおばあさんが悪いのだと、恨んでいた。今思うとまったく思いやりのない自分勝手な子供だったのだ。

 ミチエおばあさんが亡くなって、マリコおばあさんが祖父のところにやってきた。母親のいない悲しみに加え、母はマリコおばあさんについても散々苦労させられたとわたしたちに話した。母は悪い人ではないのだが、ちょっと、こらえ性がなかった。そのせいでわたしは、ちょっと冷めた性格になってしまった。マリコおばあさんにしてみれば嫁いだ先には四人も子供がいたのだ。まだまだ手のかかる、普通よりも気性の強いこどもたちだったことだろう。母たち姉妹をみてきた私の想像だが。
 わたしが四才のとき、母が入院した。心臓の病気だった。結核だったミチエおばあさんの血を受け継いでなのか、母も、そして私もだが体が弱かった。
 母の実家のある串本へ私たちを預けようということになったらしいが、それでは父が寂しいからと、二つ年下の妹は父と父の実家でみることになった。
 この出来事について、詳しく尋ねてはいけない気がして誰にも聞くことをしないままだったのが、昨年のこと、叔母から聞く機会があった。何気ない会話の途中だ。叔母は四人姉妹の三番目で、ほとんど母親を知らずに育った。「結局一年ほど串本でいたかなあ、マリコさんが迎えに来てわたしと送っていったよ」、と叔母は話してくれた。マリコおばあさんが大阪へわたしを迎えにきてくれたのか。山が迫った海岸線をはしる特急くろしお号の座席で、マリコおばあさんと叔母の間に座った四才のわたし。串本で暮らした記憶はあるのに、送ってもらった日のことはまったく覚えていなかった。何が残り、何を忘れるのか、記憶とは不思議だ。

 祖父とマリコおばあさんの間には私より一つ年上の男の子がいた。名前は‘はじめ’、ハジヤンと呼ばれていた。立場上では私の叔父になる。祖父とマリコおばあさんとハジヤンが一年間わたしの家族だった。
 串本には有名な奇岩の連なる橋杭岩がある。そこには児童公園があった。海が見えて、遊具に乗ったことも覚えている。マリコおばあさんの畑では、ご座に座ってマッカ(まくわ瓜)を食べた。ハジヤンと一緒だった。祖父の側で絵本をみていた夜のこと、そして、大工だった祖父の仕事場でカンナの匂いがあったこと、どれほど月日が流れても忘れない記憶だ。すぐには帰れない遠く離れた祖父の家、時には帰りたいとぐずった日もあったはずだけれど、どう思い返してみても寂しい思い出はひとつもない。むしろ、串本での思い出が今のわたしを支えてくれてさえいる。
 幼い頃離れ離れだった一年は、わたしたち姉妹の原風景も大きく変えたように思う。ふるさとはどこかと聞かれたらわたしは迷うことなく串本と答える。けれども、妹は和歌山になどなんの郷愁もないと言う。妹にとっては大阪南部の泉州地方が一番愛する町らしい。別れて暮らしたその一年を姉妹で話すこともあまりない。もしその一年がなかったら懐かしむ風景は一緒だったろうか、それもわからないことだ。父と共に暮らした妹がどんなことを思っていたのか、これも聞けずにいる。聞いたところで二才だった妹の記憶にはないだろうけれど、記憶のないながらかすかに残っている記憶のかけらでもあるのか尋ねてみたいのだ。    
 祖父もマリコおばあさんもだいぶ前に亡くなった。懐かしい祖父の家ももうない。ミチエおばあさんの写真は実家にあったたった一枚だけだった。ここ東京に嫁いでからは見ることもなくなったが、その顔立ちは年が重なるごとにどんどんはっきりと鮮やかになっていく。一度も会ったことがなかったミチエおばあさん、一番会いたい人。
 いつかわたしは、串本の海でミチエおばあさんに会うだろうと信じてもいる。こんなに懐かしいのだから。そのとき話そうと思う、今まであったできごとを。マリコおばあさんに出会ったことや、一年間一緒に暮らしたことを。マリコおばあさんと暮らした一年は楽しかったよ、と。そして、母の苦労も今なら理解できるようになったことも、話そうと思っている。