詩人 自由エッセー

月1回原則として第3土曜日に、隔月で二人の詩人に各6回、全12回の年間連載です。

第7回 ブローニュの森、迷訪(第4回) 誤読と個人差——いま私が読むという檻 駒ヶ嶺 朋乎

2017-10-10 02:26:04 | 日記
 数人が同じ風景を見て、どんなに仲良しさんでもまったく同一に見えていると思っている良識人はいないだろう。いや、こう書いたけれども、同一に見えていないことを知っていれば避けられる紛争で世界は埋め尽くされている……。あくまでも文学の俎上において、万人の多様性、多義性、異質性は前提であるとしたい。さて。同じ風景が同一に見えていない事について。そうですね、ほかの人の見ているものと比較ができないのでわからないですが、と後輩が前置きする。視力が違う、色覚がとあるグラデーションで全員違う、立体視能力が違う、視覚野での構成能力が違う、知識が違う、想起する思い出が違う…。違う理由も複数の次元に渡る。見たものそのものを比較はできないにしても「見る行為」の構成要素を分解すると数値化できる変数もあるだろう。視力、色覚、立体視覚まではちょっとした工夫で記録ができ比較ができる。そこから先は明らかにしたい知識や思い出の幅だけでなく、隠したい知識や思い出、忘れたい知識や思い出なんかも入り交じって、勝手に風景が作り出されていくだろう。とあるなんの変哲もない風景に同席した数人は、しかしどこまでが許容できる範囲の同様の風景で、どこからがごく個人的な風景であるのか、ほとんど無意識に認識して、そして特に努力を要することもなくおもんぱかってその場に同席することができる。これは比較できる変数であるお友達らの視力や色覚や立体視にはなんら関係のない次元の推察である。みんなの視力を知らなくても必要な類推ができる。
 一方で詩を読むという事では、個人差は異論のないところだろう。決して同じ情景を描けない、同一の感想を抱く事はないと言ってよいかもしれない。個々人であまりに読解が異なって紛争の種にもならない。詩の解釈をめぐって対立が生じるのは宗教詩など特殊な状況で書かれたものに限られる。宗教詩(たとえば黙示録)であっても教義の文と異なり、ある制限があるにせよ(たとえば異端の幅を出なければ)解釈の異同に寛容性があるように思う。……そう書いてまた自分の甘い考えが反省されるいやなことを思い出してしまった。高校の授業にて萩原朔太郎の「遺伝」の「のおあある とおあある のおあある やわあ」の解釈で、私はセンセーをワナワナさせてしまったんだった。“これはまったく予測外の文字の羅列です、中也の「ゆあーん」という擬音のような納得は得られません、ここには音があるだけで意味はありません”、というセンセの解釈は、思い出しても違和感でゾワーっとくる。ここにあってしかるべき暴力的なかけ声で、戦闘的な、しかもややくぐもった音は、遠くから響くいやな予感、獣の遠吠えにしか聞こえない。半分言語化している点で半獣半人のうめき声という獣の姿まで特定してしまったり行き過ぎることさえできる。なんら意味を読み取らないってそんな平和的解釈な。テクストは自由な解釈に開かれてみてもいいのだから、まあそうだとも仮定して。詩語に意味を“過剰に”読み取ってしまうことは星に星座を読み取るように実体のない空虚なものなのだろうか。関係念慮などのように、関連づけのタガが外れちゃってる自己中心的な思春期女子だから無用な意味を読み取っちゃうんだろうか。そして読み取ったことに、あるいは読み取らないことにどうしてここまで激しい拒絶を双方抱かなければならないのか。なんの変哲もないその授業から数十年経ってセンセを揶揄するつもりもないのだが、詩にこれといって愛着があるわけではない人が全力で詩を読んでくれるありがたい機会はなかなか得難く、どうしてもすぐ持ち出してしまう。詩が理解されない謎を解き明かす一つのヒントかもしれないと、思い出す。風景の時は、とくに努力もなく、お互いにとって、どこまでが許容できる範囲の同様の風景で、どこからがごく個人的な風景であるのか、みんなの視力を知らなくても必要な類推ができたのに、詩の理解はまるで“棋力”のように対戦するまで、解釈を披見するまで、まるでわからない。
 「のおあある」を、具体的な獣の、自己の内外から理性を恫喝する恐ろしい声だとする場合と、文字のランダムサンプリングだとして完全に読み飛ばし可能な地の模様として無視する解釈とが、どうして生まれてしまうのか。「詩人は共感覚者が多いといいますがあなたにはランボーみたいに数字に色がついているような事はありますか」と神経学者の古川哲雄先生に問いかけられたことがある。数字に色はついていない。しかしゆっくり考えるとひらがなの「す」は水色で、「水曜日」という単語は水色で、木曜日という単語はオレンジ色だ。ランボーなどの典型的な共感覚能力を持つ者は、書いてある数字すべてに分ち難く色がついているそうだが、残念ながら私は時々しか色がつかない。常時色がついている人とは神経基盤は違うと思うが、その差異はまだ研究さえされていない。色はつかないが日没風景の記憶にはだいたい鉄錆の臭いがついている。詩人の井本節山さんが合評会の場で、様々の詩を「言葉のざりぞりした感じ」など、感触で説明していたことも、いま思えば広義の共感覚的であろうか。共感覚は神経線維の“混線”みたいなもので、脳の頭頂葉で数字を扱う領野と色を扱う領野が近接しているので比較的色と数字は起きやすいとされている。色と数字のほかにも共感覚は成立しうる。心理学の巨人・ルリアの有名な症例「記憶術師シィー」はとんでもなく複雑な共感覚の持ち主で、音を味わったりすることができた。個人的な経験でしかないが、詩を作ったり読んだりしているとき、浮遊感や味覚、情景のフラッシュバックなど感覚・記憶の混線、多感覚の不可分な同時想起が起こりやすいように思う。共感覚だけで詩の読解を説明しようとしているわけではないが、共感覚のありなしというファクターさえからむと、もうこれは詩を読むということは単なる文字を目で追う機構や言語能力、訓練や経験の差のみで個人差を片付けることはできない。詩に親しむ人にとっては、時に一篇の詩を読むという出来事は、旅行に行く、くらいの一つの経験でさえありうる。実際共感覚はある種の薬物でも起こせるとオリヴァー・サックスは記載していて、good/bad tripなんて呼んでいるんだろう。故サックス先生に言ってあげたいけど、詩人にはトリップに薬物が必要ない。
 先日、野村喜和夫さんの連作『デジャヴ街道』(思潮社)が上梓された。なんだかあとがきを読むと不安になるほど連作“投了”の雰囲気が充満しており、詩史上の大事件なんじゃないか、と心がワサワサしている。ということで野村喜和夫さんの詩集を振り返りたいのだが膨大で、最近届いた『杉中昌樹詩論集野村喜和夫の詩』(七月堂、2017年)をじっくり読む。「詩人とは目と精神なのだ」(26頁)という指摘にははっとさせられるものがあった。たしかに喜和夫詩には視るということと狂気ということの近接がある。私の大好きな、『久美泥日誌』(書肆山田、2016年)で、なぜ主体が眼科領域の研究者という設定なのか、どうしてそうしたラノベさながらひねった設定なのか、わからなかったのだが、ひねった設定なのではなく、必然的な前提だったのだと思い知った。この論評集の中では、その『久美泥日誌』の解釈が、自分とは全然ちがってさらに驚いた。私は久美にナジャは想起しなかった。二人とも大好きだけど。ナジャのような主体性、自立性を一切感じなかった。久美は「ぼく」の想像上の人物でさえあっていいほど、「ぼく」が命を吹き込み、動かすがゆえに、ぼくが触れることができない、神格化された女性像を感じた。清岡卓行のあのとてつもなく美しい詩行、「きみに肉体があるとはふしぎだ」(「石膏」『氷った焔』1959年)を呼び起こすような、静かで激しい憧れがけぶっている。一方で「ぼく」のほうには、パラレルに展開される待機する精子の切ない物語が重なり、肉体を顕微鏡レベルまで実感させてあまりある。杉中氏の読みと最も私の読みが異なって一番驚いたのは、だがそんな難しいことではない。久美と「ぼく」とが杉中氏の読みでは前半から「性的関係を結んでいる」とされていて、しかも不倫だとまで読んである。人物像と経過とが自分の理解とはまるっきり違っていて、ええー!と本を落としたぐらいびっくりした。私の解釈の「ぼく」はポスドク(大学院卒業以上の身分なし)の若い研究者で生活感はまったくなく、久美以外には研究のことで頭がいっぱいで、久美も同じポスドクくらいで、実在があやういくらい生活感がない。杉中氏の読みではしかも最後に久美は「消える。ゆえに、恋は未完結なのだ。」とある。ええー。再び、どさり。私は、久美が消えたと思われた、実在しなかったんだ、恋がかなう事はなかったんだ、と泣きかけたギリギリの所で最後の最後に結ばれた、と解釈したのだった。むしろ途中経過の性的な記述は「ぼく」のあるいは精子達の“そうだったらいいのにな”という程度の空想で、却って手が届かないことが強調された夢想だと、思っている。これほど純粋な恋愛世界に、不倫というもう一人の女、傷つけたくないどうしようもなく生活感にまみれた優しい礎が、存在しようがない、というのは譲れない。ブルトンはほら、ちゃんと妻のことナジャと出会った初日に読者にも打ち明けているし。恋の相手だから不可解なのではなく、不可解な相手だから恋という、あるんだかないんだか、存在を曖昧に、見えていたものを見えなくしてしまう魔術的な超現実性がふと開かれてしまうんだと、これはもう不可解に対する不可抗力の魅力だと、読んでいる。真面目一徹でポスドクまでなるような内気すぎる青年が、恋を永遠に語らなければ、空想の範囲で好きな事はできたとしても空想に閉ざされて、憧れのその人の実在性が自分自身の中でかき消されてしまうほど、思い詰めた恋である。イザナギ・イザナミの、柱を挟んだ最初の「よばい」場面を想起する「呼ぶと、呼ばれたので呼び返し」というところで、とうとう恋を打ち明けて、消えかけた久美が実体を取り戻したのだと読んでいる。神話にまで昇華しかけたところで、恋が成就する。反魂香のように一度抜けかけた魂を呼び戻して久美が受肉したぁ!と喜んだのだ私。しかしこうして杉中氏に全然違う解釈を披露されると、そういう読みもたしかにあるんだな、と。むしろdid it or notという白黒つきそうなところまで読み幅をファジーにした書き方ができるものなんだという、野村喜和夫の力量に驚くところだな、と。内気なポスドクである自分に寄せすぎた誤読だったんだなあ、と微笑ましく、楽しく、思うのであった。10年後の読み方は変わっているかもしれない。いまの私が読むという限界と滑稽さを知ったりするのである。