本当に気がかりなことというのは、自分の周囲でいくつかのぼやけた兆候が重なりあうことによって、その輪郭が徐々にはっきりしてくるものである。
二〇二〇年一月の終わりごろ、新型コロナウイルスの感染者の急増で中国・武漢市が都市封鎖になったとのニュースが流れてきた。それ以前にも同市の海鮮市場で原因不明の肺炎が流行の兆しを見せているとの情報があった。とても嫌な予感がしていたとき、二十歳の頃に読んだアルベール・カミュの小説『ペスト』のことが思いだされた。おそらく都市封鎖というモチーフが両者に共通していたからだろう。小説の細部を私はすでに失念していたが、やけに重苦しい読後感だったことだけは覚えていた。だが、翌日にはそんなことさえきれいに忘れてしまっていた。
二月のはじめになると、横浜に入港しようとしたクルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号の乗客たちに、このウイルスの感染が疑われる症例が複数みられたため、同船の乗客全員が上陸を許されずに船内で隔離状態におかれるという事態が出来した。おおくの人がそれの意味するところを測りかねているなか、私はとある哲学研究会の合宿に参加したのだが、その懇親会の場で、たまたま隣席に座った人が、どういう話の脈絡からだったか遠い目をしていま自分はカミュの『ペスト』を読み返しているのだと私に話しだしたのだ。
どうも小説『ペスト』が私になにかを語りたがっている。そんな直感がやってきた。
私にはこれまでも何度か、ウイルス存在というものに自分から相見えようとした契機があった。後天性免疫不全症候群のHIVや鳥インフルエンザの新型ウイルスなどが、時代を画するように次々と新たに登場してきたときである。といっても私はウイルスの専門家ではなく、せいぜいウイルス学の一般教養書を何冊か深読みして、自分なりのイメージをこしらえ上げる程度のことしかできなかった。だが、それでも素人なりにウイルス存在に関する知見を深めればふかめるほど、自分の世界観がそれだけ拡張されていくような不思議な感じを味わった。
ウイルスが何者なのか、その概念が私のなかですっかり分明だとはとても言えない。ウイルスがいわゆる〈生物〉でないことは何とか理解できる。ではそれは物質なのかと言い切れるかといえば、どうもそれも違うようだ。ある特殊な方法で、ウイルスはあたかも〈生物〉のように自己を増殖させることが分かっているからである。
ウイルスは〈情報〉だという人もいれば〈タンパク質〉だという人もいる。最近読みえた解説では、生物学者・福岡伸一の次のような文章に私にはいたく興味をそそられた。
ウイルスは構造の単純さゆえ、生命発生の初源から存在したかといえばそうではなく、進化の結果、高等生物が登場したあと、はじめてウイルスは現れた。高等生物の遺伝子の一部が、外部に飛び出したものとして。つまり、ウイルスはもともと私たちのものだった。それが家出し、また、どこかから流れてきた家出人を宿主は優しく迎え入れているのだ。なぜそんなことをするのか。それはおそらくウイルスこそが進化を加速してくれるからだ。親から子に遺伝する情報は垂直方向にしか伝わらない。しかしウイルスのような存在があれば、情報は水平方向に、場合によっては種を超えてさえ伝達しうる。
すでにして類的存在の進化という高度な次元にまで思考を拡張させていかないと、ウイルスというものの本質は捉えられないということなのだろう。こうした知見は、きわめて説得的である一方、個々の生存次元においてはあまりに超越論的にすぎ、両者の間に横たわるこの認識上の落差を前に、例えばいま私たちが目前にしているコロナウイルスのパンデミック状況に対峙するに際して、どこか雲をつかむような空漠たる感覚にとらわれてしまう。
だからウイルスそのものについて自然科学の素人がこれ以上考えることには、もはやほとんど意味はないのだろうと私は考えた。それよりもこうした特異なウイルス存在が出現することによって、私たちの日常世界の文脈がどう変化していくのか、そのことを考えるほうがよほど実りあることだと私には思われたのである。
小説『ペスト』において、この人類にとっての伝統的な疫病は、ある大きな町のなにも知らされていない住人たちにとって、とてつもなく巨大な不条理性として突然に襲いかかってくる。四十数年前にこの作品をはじめて読み始めた頃、私は、この感染症に対して少々の歴史的伝承いがいに何のリアリティをも持ち合わせているわけではなかった。だから、当時、カミュの実存に根差した反抗の思想の一種ニヒリスティックな雰囲気にかぶれていた私にとって、小説の導入部は何処か現実離れしたよそよそしいものに感じられていた。
しかし、今回これを再読してみると、その印象は四十数年前とはぜんぜん違った。
姿の見えないコロナウイルスというものの脅威が、自分の身辺にあいわたるリアリティの強度のひりひりするような肌感覚となって、あらためて感受されたのである。
事態はついに報知(情報、資料提供、ありとあらゆる問題に関するいっさいの情報)通信社が、その無料提供情報のラジオ放送において、二十五日の一日だけで六千二百三十一匹の鼠が拾集され焼き捨てられたと報ずるに至った。この数字は、市が眼前に見ている毎日の光景に一個の明瞭な意味を与えるものであり、これがさらに混乱を増大させた。それまでのところ、人々は少々気持ちの悪い出来事としてこぼしていただけであった。今や、人々は、まだその全容を明確にすることも、原因をつきとめることもできぬこの現象が、何かしら由々しいものをはらんでいることに気づいたのである。
ペスト発生の初期段階において、街中の鼠の大量死という現象が起こる。やがてその死体に触れた住民のなかにも高熱をだしリンパ節を腫らした症状で亡くなる者が出はじめる。医者たちはことの重大さをうすうす感じ始めてはいるものの、なかなかそれがペスト流行の兆しだと認める最終判断がだせないまま、感染はじわじわと確実に拡大していく。こうしたプロセスの描写は、現在のコロナ禍の状況下でこれを読むと、まさに迫真そのものの記述と映る。
ペストと今回のコロナウイルスとは、原因となる病原体もその病理のメカニズムもまったく異なる。にもかかわらず、私がこれらふたつの疫病を同列に論じることを自分に課したのは、私自身の認識空間のなかで、人知を超えた振る舞いをみせるこのふたつの疫禍がともに人間の解読能力をはるかに越えたところで発せられた何者かの〈言葉〉のように思えたからだった。
直感としてやってきた私のこの受け止めには、じつは二重の意味がある。
ひとつにはウイルスの存在性格として、それが何らかの遺伝情報を媒介するというメディア的側面を有する点があげられる。あくまでメタファーとして捉えれば、ウイルスはゲノム情報がそこにびっしり書き込まれた自律的なテキストデータとも考えられ、これを解読するテクノロジーがそこに介在することで、少なくともウイルス学的な定義づけが論理的には可能になる。だが、あくまでそれはウイルスというもののメタフィジクスなのであり、決してその実体象ではあり得ない。『ペスト』という小説が書かれなければならなかった文学史上の最大の理由も、私はこの点にあったものと思っている。つまり言葉の表現形態として出会われることで、目にも見えずその全体像も定かでない病原体との闘い—それが持つところの時代的な意味の全体性が、私たちの経験領域のなかに初めて実体化される最初の契機に、この小説はなったと考えるからである。言い換えれば、ペストという凶悪な伝染病はカミュの小説『ペスト』において、初めて私たちの眼前に実体として顕在化し、かつまた存在しはじめるのである。
そしてもうひとつ言わなくてならぬのは、ウイルスを実体と見なすことで、驚くべきことにそれ自体がなんらかの存在的な意味を発信しはじめるという発見だ。私たちが普通「感染」と呼んでいるウイルスの振る舞いは、私たちの身体内に異物たるウイルスの侵入をはからずも受容してしまう事態を指しているが、ウイルスが私たちの身体細胞とこうして一体化しうるということは、私たちの意に反して、彼等と私たち人間とは本来的に親和性があったのだという冷厳な事実を突きつけてくる。RNAウイルスであるコロナも、それ単体では増殖することができず不活性の状態に置かれているものの、ひとたびヒトの細胞内に迎え入れられる(=感染する)ことによって活性化し、逆転写酵素という秘密の武器を駆使して私たちのDNA情報をみずからにコピーしながら増殖をはかる。にわかには信じがたいことだが、ここではウイルスと私たちの身体細胞とのあいだで、意味(DNA情報)と価値(自己増殖能力)の交換がみごとに果たされているように見えるのである。そしてウイルスのこうした振る舞いは、私たちの〈言葉〉による言語活動の本質と極めてよく似ているのだ。つまり、こうしたことが可能であるということは、ウイルスと私たちの身体細胞とのあいだに、何らかの共通文法が先行して成立していることを物語るだろう。これがコミュニケーション以外のいったい何だというのか?両者はこうして私たちの意志がまったく関与することもコントロールすることも不可能な領域内で、じつは秘かに密通していたのだ。ウイルスが何者かの〈言葉〉のようだと私が捉える、これはそのもっとも枢要な根拠なのである。
「まったく、ほとんど信じられないことです。しかし、どうもこれはペストのようですね」——二人の医師、リウーとカステルのあいだで初めて「ペスト」という〈言葉〉が発せられる瞬間は、さてもこのようにして訪れた。ここでも「ペスト」は二重の意味で〈言葉〉である。その存在が言語行為として初めて社会的に共有されたということにおいて。そしてさらに、それ自体が独自の文法体系を有した、未知の計り知れない、私たちにとっては死を意味するまぎれもない情報媒体、いや生命活動を攪乱し破壊するためのプログラム言語という相矛盾する性格を、もっとも強烈に暗示するというまさにそのことにおいて、である。
「ペスト」という言葉は、いま初めて発せられた。物語のここのところで、ベルナール・リウーを彼の部屋の窓際に残したまま、筆者はこの医師のたゆたいと驚きとを釈明することを許していただけると思う。というのが、さまざまのニュアンスはあるにせよ、彼の示した反応は、すなわちわが市民の大部分の示したそれであったのである。天災というものは、事実、ざらにあることであるが、しかし、そいつがこっちの頭上に降りかかってきたときは、容易に天災とは信じられない。この世には、戦争と同じくらいの数のペストがあった。しかも、ペストや戦争がやってきたとき、人々はいつも同じくらい無用意な状態にあった。医師リウーは、わが市民たちが無用意であったように、無用意であったわけであり、彼の躊躇はつまりそういうふうに解すべきである。同じくまた、彼が不安と信頼との相争う思いに駆られていたのも、そういうふうに解すべきである。戦争が勃発すると、人々はいう——「こいつは長くは続かないだろう、あまりにもばかげたことだから」。そしていかにも、戦争というものは確かにあまりにもばかげたことであるが、しかしそのことは、そいつが長続きする妨げにはならない。愚行は常にしつこく続けられるものであり、人々もしょっちゅう自分のことばかり考えてさえいなければ、そのことに気がつくはずである。
本日、わが国では新型インフルエンザ等対策特別措置法にもとづく初めての緊急事態宣言が、東京・大阪をはじめとする7都府県にむけて発令される見込みである。緊急事態宣言とは、見方を変えればこの地域全体が戦争状態と同等の法的地位に置かれたということを意味するだろう。政治のトップが住民の不安を緩和させるためにいかに取り繕うとも、この宣言の本質がその点にあることにはいささかの疑いもないのである。
カミュが小説『ペスト』の冒頭ちかくで「ペスト」と「戦争」とをこのように同列に叙述したことには、従って、恣意性にとどまる以上の強固な必然性が時代をこえて宿っていたのだと言わねばならない。現代における病原性ウイルスとの終りの見えない闘いは、まさにいま、もっとも危険な渦中にその中心を移動させたばかりなのだ。
二〇二〇年一月の終わりごろ、新型コロナウイルスの感染者の急増で中国・武漢市が都市封鎖になったとのニュースが流れてきた。それ以前にも同市の海鮮市場で原因不明の肺炎が流行の兆しを見せているとの情報があった。とても嫌な予感がしていたとき、二十歳の頃に読んだアルベール・カミュの小説『ペスト』のことが思いだされた。おそらく都市封鎖というモチーフが両者に共通していたからだろう。小説の細部を私はすでに失念していたが、やけに重苦しい読後感だったことだけは覚えていた。だが、翌日にはそんなことさえきれいに忘れてしまっていた。
二月のはじめになると、横浜に入港しようとしたクルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号の乗客たちに、このウイルスの感染が疑われる症例が複数みられたため、同船の乗客全員が上陸を許されずに船内で隔離状態におかれるという事態が出来した。おおくの人がそれの意味するところを測りかねているなか、私はとある哲学研究会の合宿に参加したのだが、その懇親会の場で、たまたま隣席に座った人が、どういう話の脈絡からだったか遠い目をしていま自分はカミュの『ペスト』を読み返しているのだと私に話しだしたのだ。
どうも小説『ペスト』が私になにかを語りたがっている。そんな直感がやってきた。
私にはこれまでも何度か、ウイルス存在というものに自分から相見えようとした契機があった。後天性免疫不全症候群のHIVや鳥インフルエンザの新型ウイルスなどが、時代を画するように次々と新たに登場してきたときである。といっても私はウイルスの専門家ではなく、せいぜいウイルス学の一般教養書を何冊か深読みして、自分なりのイメージをこしらえ上げる程度のことしかできなかった。だが、それでも素人なりにウイルス存在に関する知見を深めればふかめるほど、自分の世界観がそれだけ拡張されていくような不思議な感じを味わった。
ウイルスが何者なのか、その概念が私のなかですっかり分明だとはとても言えない。ウイルスがいわゆる〈生物〉でないことは何とか理解できる。ではそれは物質なのかと言い切れるかといえば、どうもそれも違うようだ。ある特殊な方法で、ウイルスはあたかも〈生物〉のように自己を増殖させることが分かっているからである。
ウイルスは〈情報〉だという人もいれば〈タンパク質〉だという人もいる。最近読みえた解説では、生物学者・福岡伸一の次のような文章に私にはいたく興味をそそられた。
ウイルスは構造の単純さゆえ、生命発生の初源から存在したかといえばそうではなく、進化の結果、高等生物が登場したあと、はじめてウイルスは現れた。高等生物の遺伝子の一部が、外部に飛び出したものとして。つまり、ウイルスはもともと私たちのものだった。それが家出し、また、どこかから流れてきた家出人を宿主は優しく迎え入れているのだ。なぜそんなことをするのか。それはおそらくウイルスこそが進化を加速してくれるからだ。親から子に遺伝する情報は垂直方向にしか伝わらない。しかしウイルスのような存在があれば、情報は水平方向に、場合によっては種を超えてさえ伝達しうる。
(ウイルスという存在 朝日新聞連載「福岡伸一の動的平衡」より 2020.4.3朝刊)
すでにして類的存在の進化という高度な次元にまで思考を拡張させていかないと、ウイルスというものの本質は捉えられないということなのだろう。こうした知見は、きわめて説得的である一方、個々の生存次元においてはあまりに超越論的にすぎ、両者の間に横たわるこの認識上の落差を前に、例えばいま私たちが目前にしているコロナウイルスのパンデミック状況に対峙するに際して、どこか雲をつかむような空漠たる感覚にとらわれてしまう。
だからウイルスそのものについて自然科学の素人がこれ以上考えることには、もはやほとんど意味はないのだろうと私は考えた。それよりもこうした特異なウイルス存在が出現することによって、私たちの日常世界の文脈がどう変化していくのか、そのことを考えるほうがよほど実りあることだと私には思われたのである。
小説『ペスト』において、この人類にとっての伝統的な疫病は、ある大きな町のなにも知らされていない住人たちにとって、とてつもなく巨大な不条理性として突然に襲いかかってくる。四十数年前にこの作品をはじめて読み始めた頃、私は、この感染症に対して少々の歴史的伝承いがいに何のリアリティをも持ち合わせているわけではなかった。だから、当時、カミュの実存に根差した反抗の思想の一種ニヒリスティックな雰囲気にかぶれていた私にとって、小説の導入部は何処か現実離れしたよそよそしいものに感じられていた。
しかし、今回これを再読してみると、その印象は四十数年前とはぜんぜん違った。
姿の見えないコロナウイルスというものの脅威が、自分の身辺にあいわたるリアリティの強度のひりひりするような肌感覚となって、あらためて感受されたのである。
事態はついに報知(情報、資料提供、ありとあらゆる問題に関するいっさいの情報)通信社が、その無料提供情報のラジオ放送において、二十五日の一日だけで六千二百三十一匹の鼠が拾集され焼き捨てられたと報ずるに至った。この数字は、市が眼前に見ている毎日の光景に一個の明瞭な意味を与えるものであり、これがさらに混乱を増大させた。それまでのところ、人々は少々気持ちの悪い出来事としてこぼしていただけであった。今や、人々は、まだその全容を明確にすることも、原因をつきとめることもできぬこの現象が、何かしら由々しいものをはらんでいることに気づいたのである。
(「ペスト」1より)
ペスト発生の初期段階において、街中の鼠の大量死という現象が起こる。やがてその死体に触れた住民のなかにも高熱をだしリンパ節を腫らした症状で亡くなる者が出はじめる。医者たちはことの重大さをうすうす感じ始めてはいるものの、なかなかそれがペスト流行の兆しだと認める最終判断がだせないまま、感染はじわじわと確実に拡大していく。こうしたプロセスの描写は、現在のコロナ禍の状況下でこれを読むと、まさに迫真そのものの記述と映る。
ペストと今回のコロナウイルスとは、原因となる病原体もその病理のメカニズムもまったく異なる。にもかかわらず、私がこれらふたつの疫病を同列に論じることを自分に課したのは、私自身の認識空間のなかで、人知を超えた振る舞いをみせるこのふたつの疫禍がともに人間の解読能力をはるかに越えたところで発せられた何者かの〈言葉〉のように思えたからだった。
直感としてやってきた私のこの受け止めには、じつは二重の意味がある。
ひとつにはウイルスの存在性格として、それが何らかの遺伝情報を媒介するというメディア的側面を有する点があげられる。あくまでメタファーとして捉えれば、ウイルスはゲノム情報がそこにびっしり書き込まれた自律的なテキストデータとも考えられ、これを解読するテクノロジーがそこに介在することで、少なくともウイルス学的な定義づけが論理的には可能になる。だが、あくまでそれはウイルスというもののメタフィジクスなのであり、決してその実体象ではあり得ない。『ペスト』という小説が書かれなければならなかった文学史上の最大の理由も、私はこの点にあったものと思っている。つまり言葉の表現形態として出会われることで、目にも見えずその全体像も定かでない病原体との闘い—それが持つところの時代的な意味の全体性が、私たちの経験領域のなかに初めて実体化される最初の契機に、この小説はなったと考えるからである。言い換えれば、ペストという凶悪な伝染病はカミュの小説『ペスト』において、初めて私たちの眼前に実体として顕在化し、かつまた存在しはじめるのである。
そしてもうひとつ言わなくてならぬのは、ウイルスを実体と見なすことで、驚くべきことにそれ自体がなんらかの存在的な意味を発信しはじめるという発見だ。私たちが普通「感染」と呼んでいるウイルスの振る舞いは、私たちの身体内に異物たるウイルスの侵入をはからずも受容してしまう事態を指しているが、ウイルスが私たちの身体細胞とこうして一体化しうるということは、私たちの意に反して、彼等と私たち人間とは本来的に親和性があったのだという冷厳な事実を突きつけてくる。RNAウイルスであるコロナも、それ単体では増殖することができず不活性の状態に置かれているものの、ひとたびヒトの細胞内に迎え入れられる(=感染する)ことによって活性化し、逆転写酵素という秘密の武器を駆使して私たちのDNA情報をみずからにコピーしながら増殖をはかる。にわかには信じがたいことだが、ここではウイルスと私たちの身体細胞とのあいだで、意味(DNA情報)と価値(自己増殖能力)の交換がみごとに果たされているように見えるのである。そしてウイルスのこうした振る舞いは、私たちの〈言葉〉による言語活動の本質と極めてよく似ているのだ。つまり、こうしたことが可能であるということは、ウイルスと私たちの身体細胞とのあいだに、何らかの共通文法が先行して成立していることを物語るだろう。これがコミュニケーション以外のいったい何だというのか?両者はこうして私たちの意志がまったく関与することもコントロールすることも不可能な領域内で、じつは秘かに密通していたのだ。ウイルスが何者かの〈言葉〉のようだと私が捉える、これはそのもっとも枢要な根拠なのである。
「まったく、ほとんど信じられないことです。しかし、どうもこれはペストのようですね」——二人の医師、リウーとカステルのあいだで初めて「ペスト」という〈言葉〉が発せられる瞬間は、さてもこのようにして訪れた。ここでも「ペスト」は二重の意味で〈言葉〉である。その存在が言語行為として初めて社会的に共有されたということにおいて。そしてさらに、それ自体が独自の文法体系を有した、未知の計り知れない、私たちにとっては死を意味するまぎれもない情報媒体、いや生命活動を攪乱し破壊するためのプログラム言語という相矛盾する性格を、もっとも強烈に暗示するというまさにそのことにおいて、である。
「ペスト」という言葉は、いま初めて発せられた。物語のここのところで、ベルナール・リウーを彼の部屋の窓際に残したまま、筆者はこの医師のたゆたいと驚きとを釈明することを許していただけると思う。というのが、さまざまのニュアンスはあるにせよ、彼の示した反応は、すなわちわが市民の大部分の示したそれであったのである。天災というものは、事実、ざらにあることであるが、しかし、そいつがこっちの頭上に降りかかってきたときは、容易に天災とは信じられない。この世には、戦争と同じくらいの数のペストがあった。しかも、ペストや戦争がやってきたとき、人々はいつも同じくらい無用意な状態にあった。医師リウーは、わが市民たちが無用意であったように、無用意であったわけであり、彼の躊躇はつまりそういうふうに解すべきである。同じくまた、彼が不安と信頼との相争う思いに駆られていたのも、そういうふうに解すべきである。戦争が勃発すると、人々はいう——「こいつは長くは続かないだろう、あまりにもばかげたことだから」。そしていかにも、戦争というものは確かにあまりにもばかげたことであるが、しかしそのことは、そいつが長続きする妨げにはならない。愚行は常にしつこく続けられるものであり、人々もしょっちゅう自分のことばかり考えてさえいなければ、そのことに気がつくはずである。
(同前)
本日、わが国では新型インフルエンザ等対策特別措置法にもとづく初めての緊急事態宣言が、東京・大阪をはじめとする7都府県にむけて発令される見込みである。緊急事態宣言とは、見方を変えればこの地域全体が戦争状態と同等の法的地位に置かれたということを意味するだろう。政治のトップが住民の不安を緩和させるためにいかに取り繕うとも、この宣言の本質がその点にあることにはいささかの疑いもないのである。
カミュが小説『ペスト』の冒頭ちかくで「ペスト」と「戦争」とをこのように同列に叙述したことには、従って、恣意性にとどまる以上の強固な必然性が時代をこえて宿っていたのだと言わねばならない。現代における病原性ウイルスとの終りの見えない闘いは、まさにいま、もっとも危険な渦中にその中心を移動させたばかりなのだ。
(続く)