詩人 自由エッセー

月1回原則として第3土曜日に、隔月で二人の詩人に各6回、全12回の年間連載です。

第29回 八木重吉 死後のポエジー 第3回 萩原 健次郎

2019-08-03 17:22:13 | 日記
 喪失という悲しみを一身に背負ったのは、八木の未亡人である登美子だった。彼女の手もとには、詩人の詩作品だけが形見として残された。八木が亡くなったのは、昭和2年、八木は30歳、登美子はまだ23歳であった。その十年後には、長女桃子(享年15)を、さらに三年後には、長男陽二(享年16)を亡くしている。結核が、不治の病であり、愛する家族を同じ病で喪失している。
 手もとにある白鳳社版の『八木重吉詩集』の奥付を見ると、初版刊行は、昭和42年と記されている。この年の8月に、吉野秀雄が亡くなり、同書は12月に出ている。巻頭に掲げられた八木と登美子、そして長女桃子との家族写真や八木直筆の詩篇の掲載には、編者の鈴木亨氏のほかに、登美子の意志もそこに加わっているように思われる。
 巻頭の直筆稿の『病気』という詩篇に書かれている「妻や桃子たちも いとしくてならぬ/よその人も/のこらず幸であって下さいと心からねがわれる



 この言葉を登美子は、どんな思いで掲げたのだろうか。八木が亡くなって、40年という歳月がすぎている。詩篇が書かれた時、登美子は八木の「」であり、当然「よその人」ではない。ただ、同詩篇を掲載した意図に思いを巡らせていくとき、それが、妻であった過去への追想でないことを覚る。40年が過ぎ、八木が残したすべての詩篇を、吉野秀雄とその子らと清書をし、編集の労に勤しんでいた登美子は、すでに八木にとっては「よその人」になっていたのかもしれない。あるいは、登美子は、実感していただろうと。
 「よその人も/のこらず幸であって下さいと心からねがわれる」の言葉に染み入ってそこに余生の情に感嘆している登美子の思いに寄り添って抱擁したくなる。



 吉野秀雄の『やわらかな心』(講談社文芸文庫)には、このように記されている。

 八木没後のとみ子は、ただ二人の遺児を養育することと、残された八木の詩稿を整理して世の中に伝えたいということだけを念願に生きてきた。しかるに二児はたちまち奪い去られ、ただ詩集のことだけが念頭にあって、昭和十七年七月、三ツ村繁蔵の奔走の
 結果が『(山雅房版)八木重吉詩集』という形となったが、なおとみ子は十九年の年末わが家へきた際、古ぼけたバスケットを大事そうに携えていた。中身は八木の詩集や原稿類や写真だった。どんな戦争の混乱に遭い、何をなくそうとも、これだけはなくすまいというのであった。
   
(「宗教詩人八木重吉のこと」初出『日本』昭和40年1月号)


 登美子が携えていた「古ぼけたバスケット」は、その後、昭和33年、吉野秀雄編集による『定本八木重吉詩集』(彌生書房)となって完結する。編集者は、名義上は吉野秀雄であるが、それは個の労の結実ではないだろう。八木の死後、登美子は、その妻であったことを時とともに抜け出して、次第に「よその人」になっていた。言いかえれば、「よその人」になることで、八木の詩のもっとも美しく激しい熱情を抱えた読者となり編集者になっていたのだ。
 
 吉野登美子の『わが胸の底ひに』(彌生書房)にも同書編集の経緯が記されている。

 ところで前年から、吉野をはじめ、陽一、壮児、結子と家中で編集に尽くしてくれた『定本八木重吉詩集』が、この年の四月に彌生書房から出版された。陽一は八木の詩に夢中になり過ぎてとうとう途中で高熱を発して病気が悪化し、あとは壮児や結子が清書の手助けをしてくれた。吉野をはじめとする一家のこの愛が、私にはこの上なくありがたかった。

 ここに書かれている陽一たちは、吉野秀雄の前妻はつとの間に生まれた子どもたちであった。つまり、はじめ「古ぼけたパスケット」をかかえていたのは、登美子ひとりであったが、やがて再婚して嫁いだ先の家族みんなに受け継がれていった。それは、「よその人」の残余の熱情であったかもしれないが、あきらかに最良の読者と編集者をここに現出させた。
 
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 これらは八木重吉というひとりの詩人の死後の行く末であるが、この叙事的な物語であるナラティブな経緯は、私にある種の肉感をともなった神話のように感じられる。
 私が、なぜ八木の死後の物語に強く興味をいだいたのかというと、次のような山口瞳の回想記の一節にふれた時からだった。

 「山口君!恋をしなさい」
 と、先生が言った。
 「恋愛をしなさい。恋愛をしなければ駄目ですよ。山口君。いいですか。恋をしなさい。交合(まぐわい)をしなさい」
 先生は、力をこめて、声をはげまして言った。
 このときも、私は、びっくりしてしまった。先生、無責任なことを言うなよ。と思っていた。

(山口瞳「小説吉野秀雄先生」(文春文庫))


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