方方の『武漢日記』を読みはじめた。この日記をいま読むことにこそ意味がある、とそう思えたからだった。読み始めたばかりなのでまだ途中である。だが、ここには地上の声がまぎれもなく反響していると感じられた。地上の声はこの地をめぐる風のように、いわば地上波でしか聴くことができない、人間の匂いをともなった個を超える〈声〉のことだ。さまざまな情報を集積しただけのナレーションとは根本的にことなる、街ぜんたいの息づかいや声にならない集団感情の起伏までをもそれは伝えてくれる。
正月一〇日。明るい陽光が降り注ぐ。昨日の予報では雨が続くはずだったが、突然快晴になった。治療が必要な人は、きっとこの陽光で少しは温もりを感じられるかもしれない。彼らの多くはウイルスに感染したまま、あちこち駆けずり回っている。彼らは望んでそうしているのではなく、生きるためにそうするしかないのだ。誰もが知っていることだ。彼らには、ほかの道がない。心細さは、冬のこの寒さより厳しいものだろう。だから私は、治療を求めて駆けずり回る彼らの苦難の生活が少しでも和らぐように願っている。病床は彼らには回らないが、陽光はどこにでも降り注いでいる。
新型コロナウイルスの感染拡大は平時の日常を非常時のそれに変えた。コロナ禍とは、非常時の生活対応をひとびとに‶強制〟する日常が支配的となった世界の変貌のことである。つねに禍々しい不安が漠然とひとびとを捉え、感性的なその圧迫感がそれまで当然視されてきた物事の優先順位を根本から変えてしまう。このいやーな感じの中身には、たぶん、戦時にとても近いものがあるのだろう。望まれもしないのに超越的な暴力として突然やってきて、さまざまな不自由を耐えるようにとひとびとに説いてまわる。
説いてまわるのは、むろん、国家や社会権力のさまざまなエージェントたちだ。それに従う者もいれば、なかには従わない者もいる。従おうが従うまいが、死の恐怖はまったくおなじように訪れるだろう。いつどこで感染するか分からない。また、感染しても軽症ですむのか重症化して死にいたるのかどうかも分からない。この感じは、戦場で敵の弾丸 にいつ当たるかわからない、当たったら大怪我をするのかあるいはかすり傷で済むのかも自分ではまったくわからない。当たって死ぬかもしれぬ蓋然性は、つねにカンマ何パーセントかはついてまわる。
ネット上には、いくつもの二度と見たくない画像がある。見れば、つらくなる。だが、私たちは理性を取り戻すべきだ。ただ悲しいと言っているだけではいけない。「逝きし者は已 り、生きし者は斯くの如く」だ。せめて、私たちは記憶しなければならない。あの名も知れない人々を胸に刻もう。無念の思いを抱いて亡くなった人々を胸に刻もう。この悲しみの日々を胸に刻もう。彼らがなぜ、本来楽しいはずの春節に人生を断ち切られたのかを胸に刻もう。私たちはこの世に生きている限り、彼らのために正義を追求しなければならない。職務怠慢、不作為、無責任の連中に対して、私たちは追及の手を緩めてはいけない。一人も見逃しはしない。そうでなければ、遺体運搬用の袋に入れられて運ばれて行ったあの人たち――私たちと一緒に武漢を建設し、武漢の生活を享受した彼らに、私たちは申し開きができない!
新型コロナはこのように私たちの日常空間を、何処かわからないが至るところに敵の狙撃手が銃をかまえてひそむ市街戦の戦場に変えてしまう。いや、違う。敵がどこに潜んでいるのかは分かっている。人のなかに潜んでいるのだ。ただ、誰のなかに潜んでいるのかが分からないのだ。つまり、誰が〝敵〟なのかが分からない。また味方だったはずの人がいつ〝敵〟になってしまうのかも分からない。新型コロナは人と人とをつなぐ。無限に際限なくつなぐ。そうやってつなぐことで、人と人とを分断する。ひとびとは死の恐怖によってつながれ、死の恐怖によって分断される。このいやーな感じは、おそらく戦時にとてもよく似ているのだろう。
感染症は、発生し、拡散し、凶暴化した。私たちの対応は、誤り、手遅れ、そして失策だった。私たちはこれほどの代価を支払ったにもかかわらず、先回りして感染防止策を打てず、ずっと凶暴化の後追いをしてきた。試行錯誤していては、間に合わない。多くの参照すべき前例があるのに、なぜ学ぼうとしないのか?そのまま踏襲してもいいのではないか?私の考えは単純すぎるのだろうか。
新型コロナとのパンデミックな抗争状態をかりに戦争と呼ぶなら、その戦場はいったいどこなのか。無論のこと、真の戦場は私たちの体内に張りめぐらされた免疫システムと感染ウイルスの増殖システムとがじかに攻防をくりかえすミクロな圏域に局限されよう。そういえば、子供の頃にみた「ミクロの決死圏」という映画は、化学的処方でミクロ化された人間が、脳手術の必要なとある重要人物の体内にまるで細菌かなにかのように入り込み、抗体群やマクロファージにウイルスや細菌と間違えられてくりかえし襲われながらも、みごと目的を果たして帰還するという話だった。
新型コロナとの闘いは、たしかに人間の世界の戦争ではない。もしも政治家たちが「これは人類とウイルスとの戦争だ」といきり立ち、社会の仕組みを戦時体制のそれに組み替えるようなことがあったなら、それは滑稽なことだ。むしろ新型コロナは戦争というより、陰湿な災害にちかい。全社会的な対応が要請されるとすれば、それは災害対策のはるかな延長と拡張のもとに、構想されるべきだろう。跳梁跋扈するウイルスから人間の世界をはやく取り戻したい気持ちは誰しも同じだ。だが、そのことがにわかにはとてつもなく困難であるとき、気持ちのほうが身体よりもさきに救いを求めてしまう。悪いことではない。むしろそれはすごく必要なことなのかも知れない。希望の光がまったくみえない閉塞状況に、人間が長期間にわたり耐えうるとは到底おもえぬ。希望とまでは言えなくてもいい。ただ、自分たちがいま置かれている現状を意味づけ、率直に語り、それをほかの誰かと共有できるだけでもいい。慰めがほんのひと雫でもこの乾ききった舌を濡らしてくれるなら、分断された沈黙の海にただ沈みこんでいくよりは数百倍、数千倍も…。
「忠告や友愛の手が皆さんを善へ押しやる手段であった時期は、もう過ぎ去りました。今日では、真理はもう命令であります」――カミュの『ペスト』の登場人物のなかにどうしても言及しておきたい人物がもうひとりいる。神父のパヌルーである。彼は宗教者という職業柄、ペストによって完全封鎖されたこの町の人々の置かれた現状を、彼一流の終末的世界観をもって糾弾する旧約の預言者のような風体をして現れる。
(…)パヌルーはそこで身を起こし、深く息を吸い込み、そしてますます力をこめた調子で語り続けた――「今日、ペストがあなたがたにかかわりをもつようになったとすれば、それはすなわち反省すべき時が来たのであります。心正しき者はそれを恐れることはありえません。しかし邪なる人々は恐れ戦くべき理由があるのであります。世界という宏大な穀倉のなかで、仮借なき災厄の殻竿は人類の麦を打って、ついにわらが麦粒から離れるまで打ち続けるでありましょう。そこには麦粒よりもさらに多くのわらがあり、選ばれた者よりもさらに多くの召し寄せられる者があるでありましょうが、しかもこの禍いは神の望みたもうたものではないのであります。あまりにも長い間、この世は悪と結んでおりました。あまりにも長い間、神の慈悲の上に安住しておりました。ただ悔悛しさえすればよかった。どんなことでも許されていたのであります。しかも悔悛することにかけては、誰もが自信をもっておりました。いよいよその時が来れば、きっと悔悛が感じられるに違いない。それまでのところ、いちばん楽な道は気の向くままに任せておくことだ。神の慈悲があとのところはいいようにしてくださるだろう。ところがです!そういうことは長く続きえなかったのです。実に長い間、この町の人々の上にあわれみの御顔を臨ませたもうていられた神も、待つことに倦み、永劫の期待を裏切られて、今やその目をそむけたもうたのであります。神の御光を奪われて、私どもは今後長くペストの暗黒のなかに落ちてしまいました!」
私がみたところでもパヌルーは決して傲慢な権威主義者ではない。むしろ彼は熱心な信仰者であるところのみずからの真情から、ペスト禍のさなかにこれを神による懲戒なのだと説き、ひとびとにより一層キリストのもとに帰依し、キリスト者としての愛の言葉を天に捧げることを促したのである。神父としての職責をまっとうするだけなら、彼は十分にその役割を果たしたし、それ以上を望むべくもないように私には映っていた。だが、カミュはパヌルーという登場人物にじつはそれ以上の役割を負わせようとしていた。私たちが目にすることのできるパヌルーの二回目の説教の内容は、一回目のそれとは大きくその語り口が変わっていくのである。
(…)彼(パヌルー:引用者注)はまず、数カ月の長きにわたってペストがわれわれの間に存在したことを指摘し、そして今や、それがわれわれの食卓あるいは愛する者の枕辺にすわり、われわれのそばを歩み、仕事場にわれわれの来るのを待ち受けているのをかくもたびたび目撃して、それを一層よく知った現在では、すなわち今こそ、それが休むことなく語り続けていたもの――しかも当初の驚きのなかで、あるいはわれわれがよく聞こうとしなかったかもしれぬものを、おそらく一層よく受け取ることができるであろう、ということから説き起こした。
長引く幽閉生活のなか大部分のひとびとが宗教上の務めにかんして魅力を感じなくなり、代わりに通俗的な迷信や黙示録風の予言のたぐいが受けるようになって、ひとびとはむしろそうしたもののなかに目先の安心や慰めを見いだしていくようになる。引用したこのきわめて印象ぶかい記述は、そうしたなか、パヌルーの説教のトーンが明らかに変化し、それまでになかった観想にも似た思想の深みを身にまとっていくくだりだ。
彼は司祭として、ペストで死にゆく人々の最後になんども立ち合い、なかでもある年若い少年がペストの熱に浮かされもがき苦しみながら息をひきとるその一部始終を見て取ってからは、あきらかに人が変わってゆく。「おそらくわれわれは、自分たちに理解できないことを愛さねばならないのです」――最も罪なき者であるはずの子供が悲痛な叫びをのこして絶命する修羅場を目の当たりにした直後、取り乱した医師リウーに彼は静かにこう告げる。それまでは書斎に籠り、ひとびとにはただひたすらに神の愛を説いて悔悛を促し、ペストを神による天罰だとあきらめ、一方的にこの災厄を受け入れることに救済への希望があると説諭してきた者に、ある種の変化がまちがいなく生じた瞬間であった。
おなじところでカミュはパヌルーにこう語らせている。「ペストのもたらした光景を解釈しようとしてはならぬ。ただそこから学びうるものを学びとろうと努めるべきである…」――この部分の描写は、まったく目立たないが、じつは都市封鎖の極限的状況のなかで、日々生きることの意味がどのような復路をめぐって必要な者たちの手にもたらされるのか、その真実の姿を私たちにまちがいなく教えていると感じられたのである。言い換えるなら、このとき、パヌルーは天上から地上へと降り立ったのだ。彼の視点の変化は、このことを如実に物語っているのだと思う。
方方の『武漢日記』の中に私が求めたものとは、まさにそうした地上の視点からみられた都市封鎖の日常、そのこまごまとした具体的な細部だった。なぜそんなことを知りたいと願うのか。自分でも万人が納得できるような答えを用意できるとはとても思えない。ただ、知りたかった、それだけである。ジャーナリスティックな関心とかそんな大そうな理由からではない。今回の新型コロナウイルス感染症の最初の発生地とされる武漢の町、その隔離状況のなかで、ひとびとが生きている証し、その具体的な声、足取り、思い、怯え、喜び、哀しみ、希望などなど、そういったもののすべてにどうしても触れたかったのである。
今日も天気はよい。武漢市民の生活は変わらず平穏だ。少しは心がふさぐが、生きてさえすれば、それも我慢できる。
午後、突然またパニックが起こるという声を耳にした。スーパーが閉店して飲食物が手に入らなくなるのを恐れ、買物客が殺到するというのだ。でも、多分そうはならないだろう。市政府も、スーパーは閉店しないことを保証するという声明を出したらしい。普通に考えれば、わかるはずだ。
おかしな言い方になるのを承知でいえば、こういうどうということもないような呟きにふれることで、なぜだか気持ちが和らぐのである。私が飢えていたのは、実はこういう生きた情報の息吹のようなものだった。こういう記述から、武漢がけっして‶死の町〟なんかではない、という生きた証左が確実に得られるのだ。これは、連帯という感覚とも微妙にくい違う。コロナ禍の本質が人と人との関係の分断にあることはすでに見てきた通りだが、おそらくそれと真逆にあるはずのなにかを、私は無意識に希求していたのだと思う。
自分のことを話そう。起床してすぐスマホを見た。隣人からの伝言が入っていた。彼女の娘が今日野菜を買いに出たついでに、私の分も買ってきてくれたという。我が家の玄関前に置いてあるので、起きたら取りに出てくださいということだった。野菜を受け取って戻ると、同じ敷地内に住む従兄の娘から電話があった。腸詰めと腐乳(フール―)〔サイコロ状に切った豆腐を塩漬けにした食品〕を届けたいから、玄関先で受け取ってくれという。姪は山のような品物を持ってきた。私はひと目見て、さらに一か月家にこもっても食べきれないと思った。災難のただ中、みんなが助け合っている。ありがたいことだ。心の温かさを感じる。
わが国の現実と対照して心から共感できる記述に出会うこともある。いま引用した箇所などもそうだ。そういう文章に出くわすと、なぜかまた非常にうれしいのだ。ほんとうはかなり苦しい状況下で懸命に綴られたものであり、書かれている内容はまったくその逆で楽しげに映ることであっても、その背後にかくしたつらい感情の全重量をもふくめたうえで、思いがそこで一瞬でも共有できたという、そのことの奇跡のような交信がたまらなくうれしいのだ。
誤解なきよう付け加えさせてもらえば、私は他人の不幸な境遇を知ることで「なんだ、自分たちと同じじゃないか」との同類相哀れむの心情からこう言っているのではない。どんなに幸福そうな記述でも、そこから不幸の影をかんぜんに払拭することができないように、どんなに不遇にみえる報告でも、そこから希望や感謝にむかう気持ちのうごめきを完全に消し去ることはできないのだから、ひとつでも共感できる根拠がそれらの言葉のなかに発見できるなら、何にもましてそれは自分への励ましにつながるのである。
ここ数日、死者との距離が縮まってきている気がする。隣人の従妹が死んだ。知り合いの弟が死んだ。友人の両親と妻が死に、その後、本人も死んだ。泣くに泣けない。普段、親戚友人の死を見たことがない人はいない。治療の甲斐なく亡くなった病人は、誰もが見ている。親戚友人は力を尽くし、医者は職責を果たすが、死を免れることはできない。仕方がないと思って周囲の人はそれを受け入れるし、不治の病を患った本人も運命だとあきらめるようになる。だが今回の災難は、発生初期の感染者にとって、死だけでなく、多くの絶望があった。助けを求めても応じてもらえず、医療を求めても門戸は閉ざされ、薬を求めても入手できないという絶望である。病人があまりに多く、病床があまりに少なく、病院は虚を衝かれてしまった。残された道は、死を待つ以外に何があっただろう?多くの病人は、「歳月は静かに流れる」〔共産党指導部がよく使うフレーズ〕と信じて、病になれば診察を受けられると思っていた。死の訪れに対する心の準備などはなく、医療を求めても得られないという人生経験もなかった。死を前にした苦しみと絶望感は、深い闇よりさらに深かったに違いない。今日、私は友人に言った。毎日このようなニュースを聞かされて、どうして気が滅入らないことがあるだろう?「ヒト—ヒト感染はない、予防も防御もできる」という言葉が、都市全体の血涙に変わった。この上ない苦痛だ。
二月九日の日付があるこの記述箇所は、今回のコロナ禍がまさしくパンデミックであったことを、これ以上ないくらい見事に証しだてるものである。この内容を武漢からそのまま東京に持ってきたとしても、完全に通用する社会状況の本質がここには間違いなく宿っているからである。つまり、この記述には普遍性があることを私たちに教えてくれるのだ。
コロナ禍はまだぜんぜん終息していない。そのようななかで、こうした駄文を私が書き連ねていくことに何ほどの意味があるのかということもまったく見通せない。ひとつだけあるとすれば、コロナについて書き続けることがコロナに対する抵抗につながるような、そのような場所に出たいという存在の希求のようなもの、それを手離したくないという思いがこれを書かせているということだと思う。
いつかまったく違う時代のまったく違う場所で、ぜんぜん知らない誰かがこれを読んで、ほんの少しでもなにかを得てくれる可能性がまったくないなどとは、自分も思わないことにする習慣を学ぶべきなのだろう。『武漢日記』を読みはじめて、ようやくその端緒が見えてきたような気が私はするのである。(続く)
正月一〇日。明るい陽光が降り注ぐ。昨日の予報では雨が続くはずだったが、突然快晴になった。治療が必要な人は、きっとこの陽光で少しは温もりを感じられるかもしれない。彼らの多くはウイルスに感染したまま、あちこち駆けずり回っている。彼らは望んでそうしているのではなく、生きるためにそうするしかないのだ。誰もが知っていることだ。彼らには、ほかの道がない。心細さは、冬のこの寒さより厳しいものだろう。だから私は、治療を求めて駆けずり回る彼らの苦難の生活が少しでも和らぐように願っている。病床は彼らには回らないが、陽光はどこにでも降り注いでいる。
[二月三日(旧暦一月一〇日)]
新型コロナウイルスの感染拡大は平時の日常を非常時のそれに変えた。コロナ禍とは、非常時の生活対応をひとびとに‶強制〟する日常が支配的となった世界の変貌のことである。つねに禍々しい不安が漠然とひとびとを捉え、感性的なその圧迫感がそれまで当然視されてきた物事の優先順位を根本から変えてしまう。このいやーな感じの中身には、たぶん、戦時にとても近いものがあるのだろう。望まれもしないのに超越的な暴力として突然やってきて、さまざまな不自由を耐えるようにとひとびとに説いてまわる。
説いてまわるのは、むろん、国家や社会権力のさまざまなエージェントたちだ。それに従う者もいれば、なかには従わない者もいる。従おうが従うまいが、死の恐怖はまったくおなじように訪れるだろう。いつどこで感染するか分からない。また、感染しても軽症ですむのか重症化して死にいたるのかどうかも分からない。この感じは、戦場で敵の
ネット上には、いくつもの二度と見たくない画像がある。見れば、つらくなる。だが、私たちは理性を取り戻すべきだ。ただ悲しいと言っているだけではいけない。「逝きし者は
[二月三日(旧暦一月一〇日)]
新型コロナはこのように私たちの日常空間を、何処かわからないが至るところに敵の狙撃手が銃をかまえてひそむ市街戦の戦場に変えてしまう。いや、違う。敵がどこに潜んでいるのかは分かっている。人のなかに潜んでいるのだ。ただ、誰のなかに潜んでいるのかが分からないのだ。つまり、誰が〝敵〟なのかが分からない。また味方だったはずの人がいつ〝敵〟になってしまうのかも分からない。新型コロナは人と人とをつなぐ。無限に際限なくつなぐ。そうやってつなぐことで、人と人とを分断する。ひとびとは死の恐怖によってつながれ、死の恐怖によって分断される。このいやーな感じは、おそらく戦時にとてもよく似ているのだろう。
感染症は、発生し、拡散し、凶暴化した。私たちの対応は、誤り、手遅れ、そして失策だった。私たちはこれほどの代価を支払ったにもかかわらず、先回りして感染防止策を打てず、ずっと凶暴化の後追いをしてきた。試行錯誤していては、間に合わない。多くの参照すべき前例があるのに、なぜ学ぼうとしないのか?そのまま踏襲してもいいのではないか?私の考えは単純すぎるのだろうか。
[二月三日(旧暦一月一〇日)]
新型コロナとのパンデミックな抗争状態をかりに戦争と呼ぶなら、その戦場はいったいどこなのか。無論のこと、真の戦場は私たちの体内に張りめぐらされた免疫システムと感染ウイルスの増殖システムとがじかに攻防をくりかえすミクロな圏域に局限されよう。そういえば、子供の頃にみた「ミクロの決死圏」という映画は、化学的処方でミクロ化された人間が、脳手術の必要なとある重要人物の体内にまるで細菌かなにかのように入り込み、抗体群やマクロファージにウイルスや細菌と間違えられてくりかえし襲われながらも、みごと目的を果たして帰還するという話だった。
新型コロナとの闘いは、たしかに人間の世界の戦争ではない。もしも政治家たちが「これは人類とウイルスとの戦争だ」といきり立ち、社会の仕組みを戦時体制のそれに組み替えるようなことがあったなら、それは滑稽なことだ。むしろ新型コロナは戦争というより、陰湿な災害にちかい。全社会的な対応が要請されるとすれば、それは災害対策のはるかな延長と拡張のもとに、構想されるべきだろう。跳梁跋扈するウイルスから人間の世界をはやく取り戻したい気持ちは誰しも同じだ。だが、そのことがにわかにはとてつもなく困難であるとき、気持ちのほうが身体よりもさきに救いを求めてしまう。悪いことではない。むしろそれはすごく必要なことなのかも知れない。希望の光がまったくみえない閉塞状況に、人間が長期間にわたり耐えうるとは到底おもえぬ。希望とまでは言えなくてもいい。ただ、自分たちがいま置かれている現状を意味づけ、率直に語り、それをほかの誰かと共有できるだけでもいい。慰めがほんのひと雫でもこの乾ききった舌を濡らしてくれるなら、分断された沈黙の海にただ沈みこんでいくよりは数百倍、数千倍も…。
「忠告や友愛の手が皆さんを善へ押しやる手段であった時期は、もう過ぎ去りました。今日では、真理はもう命令であります」――カミュの『ペスト』の登場人物のなかにどうしても言及しておきたい人物がもうひとりいる。神父のパヌルーである。彼は宗教者という職業柄、ペストによって完全封鎖されたこの町の人々の置かれた現状を、彼一流の終末的世界観をもって糾弾する旧約の預言者のような風体をして現れる。
(…)パヌルーはそこで身を起こし、深く息を吸い込み、そしてますます力をこめた調子で語り続けた――「今日、ペストがあなたがたにかかわりをもつようになったとすれば、それはすなわち反省すべき時が来たのであります。心正しき者はそれを恐れることはありえません。しかし邪なる人々は恐れ戦くべき理由があるのであります。世界という宏大な穀倉のなかで、仮借なき災厄の殻竿は人類の麦を打って、ついにわらが麦粒から離れるまで打ち続けるでありましょう。そこには麦粒よりもさらに多くのわらがあり、選ばれた者よりもさらに多くの召し寄せられる者があるでありましょうが、しかもこの禍いは神の望みたもうたものではないのであります。あまりにも長い間、この世は悪と結んでおりました。あまりにも長い間、神の慈悲の上に安住しておりました。ただ悔悛しさえすればよかった。どんなことでも許されていたのであります。しかも悔悛することにかけては、誰もが自信をもっておりました。いよいよその時が来れば、きっと悔悛が感じられるに違いない。それまでのところ、いちばん楽な道は気の向くままに任せておくことだ。神の慈悲があとのところはいいようにしてくださるだろう。ところがです!そういうことは長く続きえなかったのです。実に長い間、この町の人々の上にあわれみの御顔を臨ませたもうていられた神も、待つことに倦み、永劫の期待を裏切られて、今やその目をそむけたもうたのであります。神の御光を奪われて、私どもは今後長くペストの暗黒のなかに落ちてしまいました!」
(「ペスト」2)
私がみたところでもパヌルーは決して傲慢な権威主義者ではない。むしろ彼は熱心な信仰者であるところのみずからの真情から、ペスト禍のさなかにこれを神による懲戒なのだと説き、ひとびとにより一層キリストのもとに帰依し、キリスト者としての愛の言葉を天に捧げることを促したのである。神父としての職責をまっとうするだけなら、彼は十分にその役割を果たしたし、それ以上を望むべくもないように私には映っていた。だが、カミュはパヌルーという登場人物にじつはそれ以上の役割を負わせようとしていた。私たちが目にすることのできるパヌルーの二回目の説教の内容は、一回目のそれとは大きくその語り口が変わっていくのである。
(…)彼(パヌルー:引用者注)はまず、数カ月の長きにわたってペストがわれわれの間に存在したことを指摘し、そして今や、それがわれわれの食卓あるいは愛する者の枕辺にすわり、われわれのそばを歩み、仕事場にわれわれの来るのを待ち受けているのをかくもたびたび目撃して、それを一層よく知った現在では、すなわち今こそ、それが休むことなく語り続けていたもの――しかも当初の驚きのなかで、あるいはわれわれがよく聞こうとしなかったかもしれぬものを、おそらく一層よく受け取ることができるであろう、ということから説き起こした。
(「ペスト」4)
長引く幽閉生活のなか大部分のひとびとが宗教上の務めにかんして魅力を感じなくなり、代わりに通俗的な迷信や黙示録風の予言のたぐいが受けるようになって、ひとびとはむしろそうしたもののなかに目先の安心や慰めを見いだしていくようになる。引用したこのきわめて印象ぶかい記述は、そうしたなか、パヌルーの説教のトーンが明らかに変化し、それまでになかった観想にも似た思想の深みを身にまとっていくくだりだ。
彼は司祭として、ペストで死にゆく人々の最後になんども立ち合い、なかでもある年若い少年がペストの熱に浮かされもがき苦しみながら息をひきとるその一部始終を見て取ってからは、あきらかに人が変わってゆく。「おそらくわれわれは、自分たちに理解できないことを愛さねばならないのです」――最も罪なき者であるはずの子供が悲痛な叫びをのこして絶命する修羅場を目の当たりにした直後、取り乱した医師リウーに彼は静かにこう告げる。それまでは書斎に籠り、ひとびとにはただひたすらに神の愛を説いて悔悛を促し、ペストを神による天罰だとあきらめ、一方的にこの災厄を受け入れることに救済への希望があると説諭してきた者に、ある種の変化がまちがいなく生じた瞬間であった。
おなじところでカミュはパヌルーにこう語らせている。「ペストのもたらした光景を解釈しようとしてはならぬ。ただそこから学びうるものを学びとろうと努めるべきである…」――この部分の描写は、まったく目立たないが、じつは都市封鎖の極限的状況のなかで、日々生きることの意味がどのような復路をめぐって必要な者たちの手にもたらされるのか、その真実の姿を私たちにまちがいなく教えていると感じられたのである。言い換えるなら、このとき、パヌルーは天上から地上へと降り立ったのだ。彼の視点の変化は、このことを如実に物語っているのだと思う。
方方の『武漢日記』の中に私が求めたものとは、まさにそうした地上の視点からみられた都市封鎖の日常、そのこまごまとした具体的な細部だった。なぜそんなことを知りたいと願うのか。自分でも万人が納得できるような答えを用意できるとはとても思えない。ただ、知りたかった、それだけである。ジャーナリスティックな関心とかそんな大そうな理由からではない。今回の新型コロナウイルス感染症の最初の発生地とされる武漢の町、その隔離状況のなかで、ひとびとが生きている証し、その具体的な声、足取り、思い、怯え、喜び、哀しみ、希望などなど、そういったもののすべてにどうしても触れたかったのである。
今日も天気はよい。武漢市民の生活は変わらず平穏だ。少しは心がふさぐが、生きてさえすれば、それも我慢できる。
午後、突然またパニックが起こるという声を耳にした。スーパーが閉店して飲食物が手に入らなくなるのを恐れ、買物客が殺到するというのだ。でも、多分そうはならないだろう。市政府も、スーパーは閉店しないことを保証するという声明を出したらしい。普通に考えれば、わかるはずだ。
[二月四日(旧暦一月一一日)]
おかしな言い方になるのを承知でいえば、こういうどうということもないような呟きにふれることで、なぜだか気持ちが和らぐのである。私が飢えていたのは、実はこういう生きた情報の息吹のようなものだった。こういう記述から、武漢がけっして‶死の町〟なんかではない、という生きた証左が確実に得られるのだ。これは、連帯という感覚とも微妙にくい違う。コロナ禍の本質が人と人との関係の分断にあることはすでに見てきた通りだが、おそらくそれと真逆にあるはずのなにかを、私は無意識に希求していたのだと思う。
自分のことを話そう。起床してすぐスマホを見た。隣人からの伝言が入っていた。彼女の娘が今日野菜を買いに出たついでに、私の分も買ってきてくれたという。我が家の玄関前に置いてあるので、起きたら取りに出てくださいということだった。野菜を受け取って戻ると、同じ敷地内に住む従兄の娘から電話があった。腸詰めと腐乳(フール―)〔サイコロ状に切った豆腐を塩漬けにした食品〕を届けたいから、玄関先で受け取ってくれという。姪は山のような品物を持ってきた。私はひと目見て、さらに一か月家にこもっても食べきれないと思った。災難のただ中、みんなが助け合っている。ありがたいことだ。心の温かさを感じる。
[二月六日(旧暦一月一三日)]
わが国の現実と対照して心から共感できる記述に出会うこともある。いま引用した箇所などもそうだ。そういう文章に出くわすと、なぜかまた非常にうれしいのだ。ほんとうはかなり苦しい状況下で懸命に綴られたものであり、書かれている内容はまったくその逆で楽しげに映ることであっても、その背後にかくしたつらい感情の全重量をもふくめたうえで、思いがそこで一瞬でも共有できたという、そのことの奇跡のような交信がたまらなくうれしいのだ。
誤解なきよう付け加えさせてもらえば、私は他人の不幸な境遇を知ることで「なんだ、自分たちと同じじゃないか」との同類相哀れむの心情からこう言っているのではない。どんなに幸福そうな記述でも、そこから不幸の影をかんぜんに払拭することができないように、どんなに不遇にみえる報告でも、そこから希望や感謝にむかう気持ちのうごめきを完全に消し去ることはできないのだから、ひとつでも共感できる根拠がそれらの言葉のなかに発見できるなら、何にもましてそれは自分への励ましにつながるのである。
ここ数日、死者との距離が縮まってきている気がする。隣人の従妹が死んだ。知り合いの弟が死んだ。友人の両親と妻が死に、その後、本人も死んだ。泣くに泣けない。普段、親戚友人の死を見たことがない人はいない。治療の甲斐なく亡くなった病人は、誰もが見ている。親戚友人は力を尽くし、医者は職責を果たすが、死を免れることはできない。仕方がないと思って周囲の人はそれを受け入れるし、不治の病を患った本人も運命だとあきらめるようになる。だが今回の災難は、発生初期の感染者にとって、死だけでなく、多くの絶望があった。助けを求めても応じてもらえず、医療を求めても門戸は閉ざされ、薬を求めても入手できないという絶望である。病人があまりに多く、病床があまりに少なく、病院は虚を衝かれてしまった。残された道は、死を待つ以外に何があっただろう?多くの病人は、「歳月は静かに流れる」〔共産党指導部がよく使うフレーズ〕と信じて、病になれば診察を受けられると思っていた。死の訪れに対する心の準備などはなく、医療を求めても得られないという人生経験もなかった。死を前にした苦しみと絶望感は、深い闇よりさらに深かったに違いない。今日、私は友人に言った。毎日このようなニュースを聞かされて、どうして気が滅入らないことがあるだろう?「ヒト—ヒト感染はない、予防も防御もできる」という言葉が、都市全体の血涙に変わった。この上ない苦痛だ。
[二月九日(旧暦一月一六日)]
二月九日の日付があるこの記述箇所は、今回のコロナ禍がまさしくパンデミックであったことを、これ以上ないくらい見事に証しだてるものである。この内容を武漢からそのまま東京に持ってきたとしても、完全に通用する社会状況の本質がここには間違いなく宿っているからである。つまり、この記述には普遍性があることを私たちに教えてくれるのだ。
コロナ禍はまだぜんぜん終息していない。そのようななかで、こうした駄文を私が書き連ねていくことに何ほどの意味があるのかということもまったく見通せない。ひとつだけあるとすれば、コロナについて書き続けることがコロナに対する抵抗につながるような、そのような場所に出たいという存在の希求のようなもの、それを手離したくないという思いがこれを書かせているということだと思う。
いつかまったく違う時代のまったく違う場所で、ぜんぜん知らない誰かがこれを読んで、ほんの少しでもなにかを得てくれる可能性がまったくないなどとは、自分も思わないことにする習慣を学ぶべきなのだろう。『武漢日記』を読みはじめて、ようやくその端緒が見えてきたような気が私はするのである。(続く)