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詩人 自由エッセー

月1回原則として第3土曜日に、隔月で二人の詩人に各6回、全12回の年間連載です。

第43回 コロナと戦争(第4回) コロナのもとで『武漢日記』を読みはじめた(1)  添田 馨

2020-10-12 00:04:10 | 日記
 方方の『武漢日記』を読みはじめた。この日記をいま読むことにこそ意味がある、とそう思えたからだった。読み始めたばかりなのでまだ途中である。だが、ここには地上の声がまぎれもなく反響していると感じられた。地上の声はこの地をめぐる風のように、いわば地上波でしか聴くことができない、人間の匂いをともなった個を超える〈声〉のことだ。さまざまな情報を集積しただけのナレーションとは根本的にことなる、街ぜんたいの息づかいや声にならない集団感情の起伏までをもそれは伝えてくれる。

 正月一〇日。明るい陽光が降り注ぐ。昨日の予報では雨が続くはずだったが、突然快晴になった。治療が必要な人は、きっとこの陽光で少しは温もりを感じられるかもしれない。彼らの多くはウイルスに感染したまま、あちこち駆けずり回っている。彼らは望んでそうしているのではなく、生きるためにそうするしかないのだ。誰もが知っていることだ。彼らには、ほかの道がない。心細さは、冬のこの寒さより厳しいものだろう。だから私は、治療を求めて駆けずり回る彼らの苦難の生活が少しでも和らぐように願っている。病床は彼らには回らないが、陽光はどこにでも降り注いでいる。
[二月三日(旧暦一月一〇日)]


 新型コロナウイルスの感染拡大は平時の日常を非常時のそれに変えた。コロナ禍とは、非常時の生活対応をひとびとに‶強制〟する日常が支配的となった世界の変貌のことである。つねに禍々しい不安が漠然とひとびとを捉え、感性的なその圧迫感がそれまで当然視されてきた物事の優先順位を根本から変えてしまう。このいやーな感じの中身には、たぶん、戦時にとても近いものがあるのだろう。望まれもしないのに超越的な暴力として突然やってきて、さまざまな不自由を耐えるようにとひとびとに説いてまわる。
 説いてまわるのは、むろん、国家や社会権力のさまざまなエージェントたちだ。それに従う者もいれば、なかには従わない者もいる。従おうが従うまいが、死の恐怖はまったくおなじように訪れるだろう。いつどこで感染するか分からない。また、感染しても軽症ですむのか重症化して死にいたるのかどうかも分からない。この感じは、戦場で敵の弾丸たまにいつ当たるかわからない、当たったら大怪我をするのかあるいはかすり傷で済むのかも自分ではまったくわからない。当たって死ぬかもしれぬ蓋然性は、つねにカンマ何パーセントかはついてまわる。

 ネット上には、いくつもの二度と見たくない画像がある。見れば、つらくなる。だが、私たちは理性を取り戻すべきだ。ただ悲しいと言っているだけではいけない。「逝きし者はおわり、生きし者は斯くの如く」だ。せめて、私たちは記憶しなければならない。あの名も知れない人々を胸に刻もう。無念の思いを抱いて亡くなった人々を胸に刻もう。この悲しみの日々を胸に刻もう。彼らがなぜ、本来楽しいはずの春節に人生を断ち切られたのかを胸に刻もう。私たちはこの世に生きている限り、彼らのために正義を追求しなければならない。職務怠慢、不作為、無責任の連中に対して、私たちは追及の手を緩めてはいけない。一人も見逃しはしない。そうでなければ、遺体運搬用の袋に入れられて運ばれて行ったあの人たち――私たちと一緒に武漢を建設し、武漢の生活を享受した彼らに、私たちは申し開きができない!
[二月三日(旧暦一月一〇日)]


 新型コロナはこのように私たちの日常空間を、何処かわからないが至るところに敵の狙撃手が銃をかまえてひそむ市街戦の戦場に変えてしまう。いや、違う。敵がどこに潜んでいるのかは分かっている。人のなかに潜んでいるのだ。ただ、誰のなかに潜んでいるのかが分からないのだ。つまり、誰が〝敵〟なのかが分からない。また味方だったはずの人がいつ〝敵〟になってしまうのかも分からない。新型コロナは人と人とをつなぐ。無限に際限なくつなぐ。そうやってつなぐことで、人と人とを分断する。ひとびとは死の恐怖によってつながれ、死の恐怖によって分断される。このいやーな感じは、おそらく戦時にとてもよく似ているのだろう。

 感染症は、発生し、拡散し、凶暴化した。私たちの対応は、誤り、手遅れ、そして失策だった。私たちはこれほどの代価を支払ったにもかかわらず、先回りして感染防止策を打てず、ずっと凶暴化の後追いをしてきた。試行錯誤していては、間に合わない。多くの参照すべき前例があるのに、なぜ学ぼうとしないのか?そのまま踏襲してもいいのではないか?私の考えは単純すぎるのだろうか。
[二月三日(旧暦一月一〇日)]


 新型コロナとのパンデミックな抗争状態をかりに戦争と呼ぶなら、その戦場はいったいどこなのか。無論のこと、真の戦場は私たちの体内に張りめぐらされた免疫システムと感染ウイルスの増殖システムとがじかに攻防をくりかえすミクロな圏域に局限されよう。そういえば、子供の頃にみた「ミクロの決死圏」という映画は、化学的処方でミクロ化された人間が、脳手術の必要なとある重要人物の体内にまるで細菌かなにかのように入り込み、抗体群やマクロファージにウイルスや細菌と間違えられてくりかえし襲われながらも、みごと目的を果たして帰還するという話だった。
 新型コロナとの闘いは、たしかに人間の世界の戦争ではない。もしも政治家たちが「これは人類とウイルスとの戦争だ」といきり立ち、社会の仕組みを戦時体制のそれに組み替えるようなことがあったなら、それは滑稽なことだ。むしろ新型コロナは戦争というより、陰湿な災害にちかい。全社会的な対応が要請されるとすれば、それは災害対策のはるかな延長と拡張のもとに、構想されるべきだろう。跳梁跋扈するウイルスから人間の世界をはやく取り戻したい気持ちは誰しも同じだ。だが、そのことがにわかにはとてつもなく困難であるとき、気持ちのほうが身体よりもさきに救いを求めてしまう。悪いことではない。むしろそれはすごく必要なことなのかも知れない。希望の光がまったくみえない閉塞状況に、人間が長期間にわたり耐えうるとは到底おもえぬ。希望とまでは言えなくてもいい。ただ、自分たちがいま置かれている現状を意味づけ、率直に語り、それをほかの誰かと共有できるだけでもいい。慰めがほんのひと雫でもこの乾ききった舌を濡らしてくれるなら、分断された沈黙の海にただ沈みこんでいくよりは数百倍、数千倍も…。

 「忠告や友愛の手が皆さんを善へ押しやる手段であった時期は、もう過ぎ去りました。今日では、真理はもう命令であります」――カミュの『ペスト』の登場人物のなかにどうしても言及しておきたい人物がもうひとりいる。神父のパヌルーである。彼は宗教者という職業柄、ペストによって完全封鎖されたこの町の人々の置かれた現状を、彼一流の終末的世界観をもって糾弾する旧約の預言者のような風体をして現れる。

 (…)パヌルーはそこで身を起こし、深く息を吸い込み、そしてますます力をこめた調子で語り続けた――「今日、ペストがあなたがたにかかわりをもつようになったとすれば、それはすなわち反省すべき時が来たのであります。心正しき者はそれを恐れることはありえません。しかし邪なる人々は恐れ戦くべき理由があるのであります。世界という宏大な穀倉のなかで、仮借なき災厄の殻竿は人類の麦を打って、ついにわらが麦粒から離れるまで打ち続けるでありましょう。そこには麦粒よりもさらに多くのわらがあり、選ばれた者よりもさらに多くの召し寄せられる者があるでありましょうが、しかもこの禍いは神の望みたもうたものではないのであります。あまりにも長い間、この世は悪と結んでおりました。あまりにも長い間、神の慈悲の上に安住しておりました。ただ悔悛しさえすればよかった。どんなことでも許されていたのであります。しかも悔悛することにかけては、誰もが自信をもっておりました。いよいよその時が来れば、きっと悔悛が感じられるに違いない。それまでのところ、いちばん楽な道は気の向くままに任せておくことだ。神の慈悲があとのところはいいようにしてくださるだろう。ところがです!そういうことは長く続きえなかったのです。実に長い間、この町の人々の上にあわれみの御顔を臨ませたもうていられた神も、待つことに倦み、永劫の期待を裏切られて、今やその目をそむけたもうたのであります。神の御光を奪われて、私どもは今後長くペストの暗黒のなかに落ちてしまいました!」
(「ペスト」2)


 私がみたところでもパヌルーは決して傲慢な権威主義者ではない。むしろ彼は熱心な信仰者であるところのみずからの真情から、ペスト禍のさなかにこれを神による懲戒なのだと説き、ひとびとにより一層キリストのもとに帰依し、キリスト者としての愛の言葉を天に捧げることを促したのである。神父としての職責をまっとうするだけなら、彼は十分にその役割を果たしたし、それ以上を望むべくもないように私には映っていた。だが、カミュはパヌルーという登場人物にじつはそれ以上の役割を負わせようとしていた。私たちが目にすることのできるパヌルーの二回目の説教の内容は、一回目のそれとは大きくその語り口が変わっていくのである。

 (…)彼(パヌルー:引用者注)はまず、数カ月の長きにわたってペストがわれわれの間に存在したことを指摘し、そして今や、それがわれわれの食卓あるいは愛する者の枕辺にすわり、われわれのそばを歩み、仕事場にわれわれの来るのを待ち受けているのをかくもたびたび目撃して、それを一層よく知った現在では、すなわち今こそ、それが休むことなく語り続けていたもの――しかも当初の驚きのなかで、あるいはわれわれがよく聞こうとしなかったかもしれぬものを、おそらく一層よく受け取ることができるであろう、ということから説き起こした。
(「ペスト」4)


 長引く幽閉生活のなか大部分のひとびとが宗教上の務めにかんして魅力を感じなくなり、代わりに通俗的な迷信や黙示録風の予言のたぐいが受けるようになって、ひとびとはむしろそうしたもののなかに目先の安心や慰めを見いだしていくようになる。引用したこのきわめて印象ぶかい記述は、そうしたなか、パヌルーの説教のトーンが明らかに変化し、それまでになかった観想にも似た思想の深みを身にまとっていくくだりだ。
 彼は司祭として、ペストで死にゆく人々の最後になんども立ち合い、なかでもある年若い少年がペストの熱に浮かされもがき苦しみながら息をひきとるその一部始終を見て取ってからは、あきらかに人が変わってゆく。「おそらくわれわれは、自分たちに理解できないことを愛さねばならないのです」――最も罪なき者であるはずの子供が悲痛な叫びをのこして絶命する修羅場を目の当たりにした直後、取り乱した医師リウーに彼は静かにこう告げる。それまでは書斎に籠り、ひとびとにはただひたすらに神の愛を説いて悔悛を促し、ペストを神による天罰だとあきらめ、一方的にこの災厄を受け入れることに救済への希望があると説諭してきた者に、ある種の変化がまちがいなく生じた瞬間であった。
 おなじところでカミュはパヌルーにこう語らせている。「ペストのもたらした光景を解釈しようとしてはならぬ。ただそこから学びうるものを学びとろうと努めるべきである…」――この部分の描写は、まったく目立たないが、じつは都市封鎖の極限的状況のなかで、日々生きることの意味がどのような復路をめぐって必要な者たちの手にもたらされるのか、その真実の姿を私たちにまちがいなく教えていると感じられたのである。言い換えるなら、このとき、パヌルーは天上から地上へと降り立ったのだ。彼の視点の変化は、このことを如実に物語っているのだと思う。

 方方の『武漢日記』の中に私が求めたものとは、まさにそうした地上の視点からみられた都市封鎖の日常、そのこまごまとした具体的な細部だった。なぜそんなことを知りたいと願うのか。自分でも万人が納得できるような答えを用意できるとはとても思えない。ただ、知りたかった、それだけである。ジャーナリスティックな関心とかそんな大そうな理由からではない。今回の新型コロナウイルス感染症の最初の発生地とされる武漢の町、その隔離状況のなかで、ひとびとが生きている証し、その具体的な声、足取り、思い、怯え、喜び、哀しみ、希望などなど、そういったもののすべてにどうしても触れたかったのである。

 今日も天気はよい。武漢市民の生活は変わらず平穏だ。少しは心がふさぐが、生きてさえすれば、それも我慢できる。
 午後、突然またパニックが起こるという声を耳にした。スーパーが閉店して飲食物が手に入らなくなるのを恐れ、買物客が殺到するというのだ。でも、多分そうはならないだろう。市政府も、スーパーは閉店しないことを保証するという声明を出したらしい。普通に考えれば、わかるはずだ。

[二月四日(旧暦一月一一日)]


 おかしな言い方になるのを承知でいえば、こういうどうということもないような呟きにふれることで、なぜだか気持ちが和らぐのである。私が飢えていたのは、実はこういう生きた情報の息吹のようなものだった。こういう記述から、武漢がけっして‶死の町〟なんかではない、という生きた証左が確実に得られるのだ。これは、連帯という感覚とも微妙にくい違う。コロナ禍の本質が人と人との関係の分断にあることはすでに見てきた通りだが、おそらくそれと真逆にあるはずのなにかを、私は無意識に希求していたのだと思う。

 自分のことを話そう。起床してすぐスマホを見た。隣人からの伝言が入っていた。彼女の娘が今日野菜を買いに出たついでに、私の分も買ってきてくれたという。我が家の玄関前に置いてあるので、起きたら取りに出てくださいということだった。野菜を受け取って戻ると、同じ敷地内に住む従兄の娘から電話があった。腸詰めと腐乳(フール―)〔サイコロ状に切った豆腐を塩漬けにした食品〕を届けたいから、玄関先で受け取ってくれという。姪は山のような品物を持ってきた。私はひと目見て、さらに一か月家にこもっても食べきれないと思った。災難のただ中、みんなが助け合っている。ありがたいことだ。心の温かさを感じる。
[二月六日(旧暦一月一三日)]


 わが国の現実と対照して心から共感できる記述に出会うこともある。いま引用した箇所などもそうだ。そういう文章に出くわすと、なぜかまた非常にうれしいのだ。ほんとうはかなり苦しい状況下で懸命に綴られたものであり、書かれている内容はまったくその逆で楽しげに映ることであっても、その背後にかくしたつらい感情の全重量をもふくめたうえで、思いがそこで一瞬でも共有できたという、そのことの奇跡のような交信がたまらなくうれしいのだ。
 誤解なきよう付け加えさせてもらえば、私は他人の不幸な境遇を知ることで「なんだ、自分たちと同じじゃないか」との同類相哀れむの心情からこう言っているのではない。どんなに幸福そうな記述でも、そこから不幸の影をかんぜんに払拭することができないように、どんなに不遇にみえる報告でも、そこから希望や感謝にむかう気持ちのうごめきを完全に消し去ることはできないのだから、ひとつでも共感できる根拠がそれらの言葉のなかに発見できるなら、何にもましてそれは自分への励ましにつながるのである。

 ここ数日、死者との距離が縮まってきている気がする。隣人の従妹が死んだ。知り合いの弟が死んだ。友人の両親と妻が死に、その後、本人も死んだ。泣くに泣けない。普段、親戚友人の死を見たことがない人はいない。治療の甲斐なく亡くなった病人は、誰もが見ている。親戚友人は力を尽くし、医者は職責を果たすが、死を免れることはできない。仕方がないと思って周囲の人はそれを受け入れるし、不治の病を患った本人も運命だとあきらめるようになる。だが今回の災難は、発生初期の感染者にとって、死だけでなく、多くの絶望があった。助けを求めても応じてもらえず、医療を求めても門戸は閉ざされ、薬を求めても入手できないという絶望である。病人があまりに多く、病床があまりに少なく、病院は虚を衝かれてしまった。残された道は、死を待つ以外に何があっただろう?多くの病人は、「歳月は静かに流れる」〔共産党指導部がよく使うフレーズ〕と信じて、病になれば診察を受けられると思っていた。死の訪れに対する心の準備などはなく、医療を求めても得られないという人生経験もなかった。死を前にした苦しみと絶望感は、深い闇よりさらに深かったに違いない。今日、私は友人に言った。毎日このようなニュースを聞かされて、どうして気が滅入らないことがあるだろう?「ヒト—ヒト感染はない、予防も防御もできる」という言葉が、都市全体の血涙に変わった。この上ない苦痛だ。
[二月九日(旧暦一月一六日)]


 二月九日の日付があるこの記述箇所は、今回のコロナ禍がまさしくパンデミックであったことを、これ以上ないくらい見事に証しだてるものである。この内容を武漢からそのまま東京に持ってきたとしても、完全に通用する社会状況の本質がここには間違いなく宿っているからである。つまり、この記述には普遍性があることを私たちに教えてくれるのだ。
 コロナ禍はまだぜんぜん終息していない。そのようななかで、こうした駄文を私が書き連ねていくことに何ほどの意味があるのかということもまったく見通せない。ひとつだけあるとすれば、コロナについて書き続けることがコロナに対する抵抗につながるような、そのような場所に出たいという存在の希求のようなもの、それを手離したくないという思いがこれを書かせているということだと思う。
 いつかまったく違う時代のまったく違う場所で、ぜんぜん知らない誰かがこれを読んで、ほんの少しでもなにかを得てくれる可能性がまったくないなどとは、自分も思わないことにする習慣を学ぶべきなのだろう。『武漢日記』を読みはじめて、ようやくその端緒が見えてきたような気が私はするのである。(続く)

第42回 赤いお湯 堀 千恵

2020-08-30 02:11:50 | 日記
 岩手に住む祖母の家の近くの銭湯が好きだった。
 女湯は2色に分かれていた。青いお湯に見える湯船は子供用で、赤いお湯に見える湯船は大人用だった。赤いお湯の湯船だなんて、不気味で怖いし、入りたいとは思わないと思うでしょうが、ここの銭湯では、赤いお湯は子供の憧れのお湯だった。
 まだ母に抱っこされながら大人用の赤いお湯の湯船に入っていたころ、いつの間にか沈んでいたことがある。私は母に抱っこされ、母の首や肩を見ていたはずが、徐々に胸元、脇腹、お腹が見えてきて、いつの間にか滑るようにお湯の中に沈んでいたのだ。お湯の中は苦しくなかった。澄んだ赤とシャボン玉のような泡でいっぱいだった。上を見上げても母は話に夢中で、周りにいた大人も誰も気づいていなかった。私は赤いお湯の中で瞬きをしながらじっとしていた。母が慌ててお湯から私を抱き上げ、泣き虫だったはずの私は泣かなかった。
 憧れの赤いお湯は、温かかった。

第41回 コロナと戦争(第3回) コロナのもとで『ペスト』を読む(3) 添田 馨

2020-08-09 21:41:27 | 日記
 カミユの小説『ペスト』には、個性的とは呼べないまでもなかなかに特徴的な人物がなんにんも登場する。そのなかの一人、新聞記者ランベールはペストの不条理に運悪く〝二重に〟拘束されてしまった悪意のない好人物だ。というのも彼はこの町の人間ではなく、たまたま取材でこの町に滞在していた折、町がペストにみまわれ完全封鎖されたなかに取り残されてしまった外来者だったからである。
 そこで彼がとったのは、ひとことでいうなら、要するに自分だけ助かろうとするずる賢い抜けがけ的行動だったといえる。町ぜんたいがロックダウンされ、誰がいかなる理由があっても町の外には出られないという監禁状況下で、バイタリティにあふれるランベールは積極的に各方面へと働きかけ、なんとか自分だけはこの不自由な境涯から脱出しようと試みる。その姿からはジャーナリストとしての公共意識も匂ってこなければ、社会貢献にむけた犠牲的精神などもまったく受け取れない。

 別にまたランベールのような人々は、やはりこのきざしはじめた恐慌の空気から逃げ出そうとして、一層好首尾にとはいえないまでも、一層根気強くまた巧妙にそれを試みていた。ランベールは最初まず正面からの奔走を続けた。彼のいうところによれば、彼はいつも根気強さはあらゆるものに打ち勝つと考えていたし、またある観点からすれば、難関を巧みに切り抜けることは彼の本職であった。そこで彼はおびただしい数の役人や種々の人々に会ったが、それはふだんならその職務能力については議論の余地のない人々であった。ところが、この問題に関する限り、その能力も彼らにとってなんの役にも立たなかった。(「ペスト」2より)

 つまりランベールは自身の職業的な人脈を駆使して、この自分のおかれた境遇を好転させるべく、言い換えればまったく利己的でしかない個人の願望を実現させるべく奔走したのだ。新型コロナウイルス感染症のパンデミック状況下におきかえてみれば、さながら入国も出国もともに禁じられた国の住人がおなじその対象国に、なんとかその禁制をやぶって自分だけ国外脱出を図ろうとする事例にも相当するだろう。とんでもないといえばとんでもない話だが、本人が自分の運命は自分できりひらくべきとの信念の持ち主であり、かつまた社会的な行動力も身につけた人間であるならなおのこと、こうした行動がとられること自体はさほどのレアケースでもないと言えなくもない。

 それでも彼らの一人一人の前で、そしてそれができうるたびごとに、ランベールは自分の立場を弁明した。彼の議論の根底は、相変らず、自分はこの町に無縁の人間であり、したがって自分の場合は特別に検討さるべきだというにあった。大体において、ランベールの会談した人々は、異議なくその点を認めた。しかし彼らは通例、それと同じ場合の人々は他にも若干数あり、彼の問題は彼が思っているほど特殊なものではないということを、考えさせようとするのであった。それに対してランベールは、そのことは自分の議論の根底をなんら変えるものではない、とやり返すことができたが、相手はそれに答えて、そのことは行政上の難点について幾分の相違をもたらすものであり、はなはだしい嫌忌の表明をもって《前例》と呼ばれるところのものを作り出す危険のあるような、いっさいの特恵的措置は排されねばならぬ、といった。(同前)

 今更ながらのことだが、私のこの文章はカミユの『ペスト』の読解を通して、新型コロナウイルス感染症という現在のわたし達を取りまく一種異様な現実についてさまざまに思いを巡らせたものである。だが、自分の考えたことが本当に新型コロナウイルスについての本質的な知見につながっているのかどうか分からない。ただひとつ確かだと思えるのは、その間、あれこれ沈思黙考する濃厚な時間があったことであり、たがいに交わらない幾筋もの思考の軌跡が、そこには思いもかけず生じた事実である。自分にとってそれだけが本質的だったと思われる以上、どんな前提条件もなしにそれを記述しようとする試みには何がしかの意味があるのだと信じることにする。
 さて、ランベールがこの小説のなかでとる行動が、私には、いまの日本でPCR検査を受けたいのに受けられないでいる多くの感染が疑われる人々のやりきれない姿に二重化されて映る。私にとって新型コロナウイルス感染症に関する目下の最大の問題は、自分が感染しているのかどうかを判定するこのPCR検査が、容易に受けられないという実態。そして、いたずらに時間が経過していくなかで症状が急激に悪化し、不幸なことに死亡するというケースが実際に起きていることだった。この国には、なぜかPCR検査をひろく人々に受けさせないというみえない強固な壁が存在している。この壁はウイルスがつくったものではなく、人間の社会の側がつくったものである。いわばこの‶禁制の壁〟を前にして、自分だったらどう行動するだろうか――ランベールの取った行動のなかに、私はその問題を考える端緒を見いだしたいと考えた。

 新型コロナウィルス感染症がこの世にやってきて、全世界に蔓延しはじめた時、それはパニックの表情をしていた。じっさいの感染よりも先に、パニックとしてそれは私に降りかかった。三密(密閉空間・密集場所・密接場面)なる新概念がうまれ、「濃厚接触者」なるマイナスの属性がひとびとのあいだに急速に広がっていた。
 だが、二〇二〇年の三月下旬ころまで死の不安はまだそれほど現実的には感じられていなかった。若い友人のひとりは、「コロナなんて風邪みたいなもんです。たいしたことないですよ、騒ぎすぎです」と笑い飛ばしていた。それもそうだよな、と心のどこかで私もそう思い込もうと努めていたのを思い出す。
 ところが四月に入った頃、胸のおくがつかえるような違和感を覚えるようになった。二三日たってもそれは消えず、いよいよ自分にもウイルスがやって来たかと少しずつだが不安が増していった。ちょうどその一週間ほどまえに、いわゆる〝三密〟の会食に参加していたという事実があり、自分のなかで疑いの気持ちはいやがおうにも高まっていった。
 もしコロナだったらという思いが頭をよぎり、自分の死ということがリアルな感触で考えられるようになった。こんなことは初めてだった。その間にも呼吸が苦しくなったり、めまいが頻発したり、動悸がはげしくなったりといった症状が出はじめ、自分が感染したかもしれないという予感は確信のほうへどんどん近づいて行った。
 だが、コロナにしてはおかしなこともあった。熱がぜんぜん上がらないのだ。それに咳などの主要な症状もまったく見られない。これらコロナに典型的な症状がまったく出ていないということは、自分のはコロナじゃないかもしれないと考える以外になかった。あきらかに自分がパニックに陥っていると認識できたので、ようやくこれは単なるパニック障害じゃないかと疑うようになった。結果としてはそれが正しい結論だったのだが、新型コロナウィルスを考えるさいに、これら一連の‶疑似コロナ体験〟は私がこの問題を考えるさいのベースを間違いなく形成したのである。
 そのころ厚労省からは、受診の目安として三七・五度以上の発熱が四日以上続く場合という情報が流布されていた。そして普通の風邪のときのようにかかりつけの医院を受診するのではなく、保健所などに設けられている帰国者・接触者相談センターにまずは連絡するよう指導がされていた。だが、何度電話をしても回線がこんでつながらなかったり、ようやくつながってもPCR検査を断られるというケースが続出し、大きな問題になっていた。自分がコロナかもしれないと真剣に疑いだしたときに、最も大きかったのは、このPCR検査がすんなりと受けられないのではないかという、そっちの不安だった。万がいちコロナだと判明すれば、それなりの医療機関で治療する道もひらけるだろう。しかし、症状があるのにコロナかどうか分からないまま自宅待機を強いられるのは、コロナウイルスに感染するのとはまったく別の人災による不条理きわまる痛苦だと思われたのだ。
 新型コロナウイルス感染症が〝風邪みたいなもの〟ではおさまりのつかない、もっと不気味でもっとえぐい病気だということが、世間でもようやく認知されるようになっていた。発熱後、自宅でひとり待機療養していた人が急激に重症化して死亡する事例が複数報告されるようになっていたからだ。そんな折もおり、私の友人の知り合いの方が亡くなるという出来事がおこった。その方は発熱の症状があって自分ではコロナを強く疑っていた。だが保健所とのやりとりの結果、それはコロナではないようだから自宅にいるように言われ、またPCR検査も受けさせてもらえなかった。その数日後にその方は自室でひとり亡くなった。死後のPCR検査は陰性だったそうだが、前後の状況からみる限り、これはコロナ死がつよく疑われるケースだったと思う。そして、同じことは自分の身のうえにも起きていたかもしれなかったし、あるいはそれはこれから起こることかもしれなかった。そのことは裏返していえば、発熱や息切れなどの症状のある人が、じっさいに新型コロナに感染していたとしても、あるいはしていなかったとしても、希望がひらけるとすればそれはPCR検査がきちんと受けられ、科学的に有効なその結果を受け取れるという保証がそもそもの大前提になっているということだろう。PCR検査を人々から遠ざけた行政側によるみえない‶禁制の壁〟は、従って、表向きはコロナ患者が押し寄せることによる医療崩壊を防ぐ役割を果たしたのかもしれないが、一方でこの未知の疫病に怯えるすべての人々から最初の希望の種を奪い去ってもいたのである。
 ところで小説『ペスト』のなかで、ランベールはなにか希望に代わるようなものを手にすることができたのだろうか。一度目はほとんどブラック・ジョークに近いかたちで彼はそれを受け取ることになる。というのは、ある日、彼のもとに県庁から未記入の調査票が送られてきて、それに必要事項たとえば彼じしんの身元、家族状況、過去および現在の収入、履歴等を記入せよとのことだったからである。ランベールはその調書が、いよいよ当局が外来者をそれぞれの出身地に送り届けるための人数調査をするためのものかもしれないと、なんの根拠もなく希望的観測をいだいたのだった。ところが、いざその調査票をおくってきた担当課を探し当てて確認すると、それは万がいち本人が亡くなった場合の連絡先を知るためと、病院費用の本人負担額を判断するための調査票だということが判明するのである。このことは彼ランベールにとって衝撃をあたえると共に、ひとつの転機をも用意することになる。

 それに続いた時期は、ランベールにとって最も楽でもあればまた最もつらくもあった時期であった。それはつまりぐったりしていた時期である。彼はあらゆる役所を訪れ、あらゆる奔走を行なったが、この方面の出口は差し当たりふさがれていた。彼はそこでカフェからカフェへさまよい歩いた。朝がた、どこかのテラス席に、一ぱいのなまぬるいビールを前にしてすわり、病疫の近く終りそうな何かの徴候でも見つかりはしないかと希望をかけながら新聞を読み、道を通る人々の顔をまじまじとながめ、その悲しげな表情にうんざりして眼をそむけ、それから、真向いにあるいろんな商店の看板や、もうどこでも出さなくなった名題の食前酒(アペリチフ)の広告などをすでに百回も読み返したうえで彼は立ち上り、市中の黄色っぽい街々を足の向くままに歩いていった。孤独な散歩からカフェへ、カフェからレストーランへと、そんなふうにしながら夕刻にたどり着くのであった。(同前)

 みずからの死を宣告された人がたどる精神の軌跡(パターン)を、E・キュブラーロスはかつて「怒り」と「抑鬱」、「取引」と「受容」の四つの段階として定式化した。こうしてみると、ランベールが取った行動の類型が、この死を宣告された人の反復行動とどこかしら似ているような気がしてならない。彼が自分の身にふりかかった不条理をけっして受け入れず、なんとかここから脱しようと精力的に動き回っていた時期は、私にはこの四つの段階の最初におかれる「怒り」に相当していたようにも見える。さすれば、自分のそうした行動がもはやなんの成果をえられないことが分かり、気持ちが深く落ち込んでふさぎこんだいまの彼の状態は、さしづめ第二段階の「抑鬱」に当たっているようにも見える。となると、次にやってくるのは「取引」の段階ということになるが、はたしてランベールの場合はどうだったであろうか。

 さて、ペストの頂点――病疫がそのあらゆる力を結集してこの町にたたきつけ、決定的に町を占拠しようとしていた期間のことに筆を進める前に、このさいごでもう一つ述べておかねばならぬことは、すなわちランベールのような最後に残された個人たちが、再び自分たちの幸福を見出そうとして、そして彼らがあらゆる侵害に対して守り抜く彼ら自身の持ち分をペストから取りもどそうとして、絶望的でまた単調な、長い努力を試みたことである。これもつまり、身に迫る屈従を拒もうとする、彼らなりの一つの拒み方であって、この拒否は一見もう一つの拒否ほど有効でなかったとはいえ、筆者の意見としては、それはやはりそれとしての意味をもち、また同時にそれはその自惚や矛盾においてさえも、当時われわれめいめいのうちにどれほどの気概というようなものが存在したかについて、証明するのである。
 ランベールは、ペストに取りこめられてしまうことを防ごうとして戦っていた。合法的な手段では町から出られないという実証を得たので、別の手段を用いることに決心したと、彼はリウーにいった。
(同前)

 端的にいうなら、ランベールは大金をだして自分を非合法な手段によってこのオランの町から脱出させてくれる、そうした地下組織との「取引」を目論んだのである。いかにもありがちな話であり、内乱や疫病、武力征服などその理由がなんであれ、社会の公正さがどのようにも維持できないような極限的状況が到来したとき、自分たちだけは助かりたいという強固な人間的弱みにつけこんで大金をせしめ取ろうと仲介的な役割を裏の稼業とする輩が、どの世界いつの世にもかならず現れる。そして、彼らを利用することが良くない犯罪的行為だと十分判っていても、ついつい彼らを頼ってしまうある種の弱さが人間には普遍的に存するのもまた事実なのである。
 「別の手段」とはまさにそのことを意味しており、ランベールはいろいろ苦労したすえに得体のしれない仲介者をつうじて、脱出口となる町の門を警護する歩哨兵の買収にようやく成功するのだが…。だがここでネタバレを承知で言ってしまうと、彼の計画が十中八九成功するであろうと思われた決行日の直前になって、突如ランベールは自らその計画を断念してしまうのである。なにがその時、彼の心のなかに起きたのであろうか。

「やっぱり」と、ランベールはリウーにいった。「僕は行きません。あなたがたと一緒に残ろうと思います」
(中略)
 タルーはそれまで口をつぐんでいたが、二人のほうへ首を向けようともせず、こういう注意を述べた――もしランベールが人びとと不幸をともにしようとするなら、幸福のための時間はもう決してえられないかもしれない。どちらか選ばなければならぬ。
「そんなことじゃないんです」と、ランベールはいった。「僕はこれまでずっと、自分はこの町には無縁の人間だ、自分には、あなたがたはなんのかかわりもないと、そう思っていました。ところが、現に見たとおりのものを見てしまった今では、もう確かに僕はこの町の人間です、自分でそれを望もうと望むまいと。この事件はわれわれみんなに関係のあることなんです」
(「ペスト」4より)

 以後、ランベールはこの町に残り、引き続き保健隊のメンバーとしてペストとの戦いにボランティアーとして参画し続けることになるのだが、彼のこの唐突な回心こそ私にはさきの「抑鬱」から「取引」の段階をへて最終的な「受容」へと至った彼の精神的遍歴のいちばんさいごに着地した場所に相違ないと映るのである。そこで彼が「受容」したものが何だったのか一概にいうことは難しいとしても、善悪の判断よりも自分の運命そのものを受けいれた行為に他ならなかったであろうことだけは、確かなような気がする。
 その証拠に、彼にはまだ‶ペスト〟という戦うべき敵がいるからだ。同じように私たちにもまた闘うべき相手がいる。そこで私たちがランベールにならって自身の運命を「受容」するとしたなら、それはみずからの‶死〟をではなく‶生〟を受けいれる行為と別ではないと思うのである。
(つづく)


第40回 人は死んだらどこへ行くのだろう 山村 由紀

2020-07-04 20:37:12 | 日記


 もうずいぶん昔の事なのに、あの時の会話は今でも時々思い出す。
 それはわたしが小学生高学年のころ、遠方から祖母が泊まりに来た時のことだった。祖母は陽気な人で、お酒や煙草が大好きで変人なところもあってわたしはとても好きだった。その祖母がふたりきりの時に突然こう言ったのだ。たしかアイスクリームかチョコレートを食べてくつろいでいる時だったと思う。
「もし、ね、おばあちゃんが死んで、もし、あの世っていうものがあったら、おばあちゃん、ゆきちゃんにあの世から鈴を鳴らして『あの世は本当にあるよ』て合図するね。いつになるかわからないけど、このこと憶えててね」
「え、うん、わかった。死んでどのくらいで教えてくれる?」
「そうね、なるべく早く」
「1回でわからんかったら何回か鳴らしてね!」
 祖母はその10年後にあっけなく亡くなった。突然死だったので、最期に言葉を交わすこともなかった。葬儀を終え、形見分けとしてろうけつ染めの財布をもらった。いつも使っていたがま口の財布だった。小さな鈴がついている。鈴……。その時、あの会話を思い出した。鈴の音は鳴るだろうか。
それからしばらくは怖いような楽しみのような緊張した日々が続いた。チリンという高い音に敏感になった。何時ごろ鳴るだろう……形見の鈴が鳴るのか、空から音が降ってくるのか、はたまた夢の中で聴こえるのか……もっと詳しく打ち合わせておけばよかったと悔んだりもした。
 けっきょく鈴の音が聞こえることはなかった。

 鈴の音は聞こえなかったし、やはり「あの世」なんてないんだな。人間死んだら終わりだな。そう思う一方でそうとも割り切れずにいる自分もいた。肉体が終わりを迎えても魂はどこかに存在しているように思えて仕方がなかった。この世を去った後に鈴を鳴らす術がなかっただけで祖母はどこかにいるのではないか。その感覚は今も、ある。

 看護師という仕事を長く続けていると、人の死に遭遇することも少なくない。町の診療所でも科によっては、普通に歩いてきた人が急変することも時々ある。先日も「仕事中に気分が悪くなった」と言って来院した男性がいた。診察後、検査のため一番奥の部屋に案内した。その人は比較的元気で部屋を興味深そうに見回し「けっこう広いんやなあ」と話し「採血久しぶり」とわたしに両腕を見せて笑った。準備してきますね、と声をかけたその数分後、そのひとは突然意識を失くし、搬送先の救命センターで帰らぬ人となってしまった。あの人はまさかここで自分が命の終わりを迎えるとは思っていなかっただろう。一瞬の出会いだとはいえ、こういう時いつも言いようのない思いに包まれてしまう。
 数日後、亡くなったその人の奥さんが挨拶に来られた。私たちは命を救えなかったことを詫び、奥さんは、救命センターで息を引き取る前に会えたことを話し私たちを労ってくれた。話が済み、わたしはてっきり奥さんは待合室に戻ると思っていた。しかし彼女は待合室と反対側の、普段は一般の人がひとりでは立ち入ることのない検査室に入っていった。そして一番奥の椅子にスッと座ったのだ。亡くなったあのひとが最期に座っていたあの椅子に。一瞬、ふたりの姿が重なって見えた。「あの……、待合室はあちらですが」わたしが声をかけると奥さんははっとした表情で「あら、あたし、なんでこっちに来たのかしら。ごめんなさい」と言い、慌てて待合室へ歩いて行った。
 おそらく奥さんはひどく疲れていたのだろう。一気に押し寄せた出来事に混乱して待合室と検査室を間違えたのだろう。でも、とそこで考えが止まる。まっすぐに検査室に向かったあの足取りの迷いのなさ。あれは何だったのだろう。そこで夫が意識を失ったことは知らないのに。何か、強く引き寄せられるものを感じたのだろうか……。まあ、でも疲れていたのだろう。そうに違いない、とくりかえし考えている。

 人は死んだらどこに行くのでしょう。
 「太陽と死は直視できない」という箴言家のラ・ロシュフーコーの言葉通り決して解明はできないのだが、その問いはいつも頭の片隅にひっそりと棲み、時々無限に大きくなるので、たまにこうして語ってみたくなるのです。

第39回 コロナと戦争(第2回) コロナのもとで『ペスト』を読む(2) 添田 馨

2020-06-10 23:47:44 | 日記
 東京は緊急事態宣言が解除されてまる一日が過ぎた。いまは西暦二〇二〇年五月二七日の昼過ぎである。私は隅田川テラスの左岸を下流にむかって歩いている。ときおり微風が頬をかすめていくが、この日の大気はいたって優しく平穏だ。佃島の北端、川が晴海運河に分岐するすぐ手前の水門ちかくで、足を止めた。弱々しい陽光が降り注いでいた。アオサギが一羽、音もなく飛来して大島川に入る水路の対岸のコンクリート護岸に降り立った。どこか夢のなかの出来事のようだった。アオサギはそこで二三度羽ばたく素振りを見せたが、すぐに昼下がりの休息にはいったようだった。

 およそ一か月半まえの四月七日、緊急事態宣言が全土にわたって発令されたとき、やはり墨田川右岸のテラスにいた。時刻は夕方で、青くライトアップした永代橋をすこし離れたところから眺めていた。九年まえに東日本を大地震が襲ったさい、この橋のライトアップもながい期間にわたって消えた。その後、再開されて一昨年あたりからまた再びライトが消えたのは、東京オリンピックの開催が関係していた。従来の白熱灯からLED照明に切り換える工事のためのそれは中断だったのだが、以前より濃くなったブルーの無機的な光がもどってきたいま、オリンピックの影だったものはすでにもう見えなくなっている。
 たかだか言葉による宣言とはいえ、入口と出口とではこんなにも印象が異なるものか。宣言がだされた日、昨日までの日常となにひとつ変わらない世界がそのまま続いていた。しかし、宣言の解除によって世界の眼にみえないスクリーンがいちまいたしかに削ぎ落された印象をもった。感じ方のこうした微細な変化は、私だけでなく多くの人びとの意識内で同時に起こっていたように思う。ただそれは一片の華々しさもない、泥濘のなかに歩を踏みいれたときのような、さきの見えない不安のうつろな重力によるものだったと言ってもいい。

 このおよそ一か月半のあいだ、私ははたして世界に詩を感じていただろうか。これまでだったら、詩は世界のいたるところに潜んでいると思えたし、またいかなるときでも詩を取りだせる瞬間というものが間違いなくあった。怒りとか、嫉妬とか、憎悪とか、秘めた感情とか、無意識でさえ、そういうものの記憶に支えられた私自身の詩がこの世界内に確かに息づいて感じられていた。しかしここ数ヶ月、具体的には世界各地を舞台にしたCOVID-19の感染爆発が起こってからというもの、私のなかでこの回路はふっつりと完全に絶たれた感触があった。
 言葉をごっそりと丸ごと奪われてしまった感覚、といったらやや近いかもしれない。あるいは自分一人だけが抗しがたいなにかの力で空中たかく持ち上げられ、日本語圏からまったく異なる未知の言語の圏内に拉致されてしまった、そんなこれまで経験したことのない異様な感じだった。メンタル的にもそれは恐怖の感情をいやがおうにも呼び寄せる危機的といってよい事態だった。
 その間、私の耳はいったいなにを聞いていたのかというと、自分でもよく分からない。とにかくそれは聞こえていた。昼となく夜となく、眠っているときでさえ耳元で鳴っていた。四六時中、驟雨のようにそれはしんしんと降り注いでいたが、聞き取ろうとしてどうしても聞き取れない周波数の通信のようでもあり、あるいはまた、暗号になる以前の無際限なノイズ群の集積のようでもあった。私たちの社会を覆うぶ厚いクラウド空間のみえない暗雲から、見あげる私の顔に霧雨のようにこの間とめどなく降り注いでいたのは、間違いなく、未知のウイルス存在が発する透明な言葉のエアロゾルだったのではないかと思う。

 カミュは小説『ペスト』のなかで、登場人物の内面描写を厳密な意味では決して行わなかった。彼が描写したのは、徹頭徹尾、外部の出来事だった。それが登場人物の内部風景であるような場合でも、外部の景色におけるひとつの構成要素として、それらは配置されるのだった。作品の全編をとおしてこの手法は一貫しており、そこにはいささかの妥協も見られない。

これまで、ペストは、街の中心部よりも、人口稠密で住み心地のよくない外郭区域のほうにずっと多くの犠牲者を出していた。ところが、それが突如としてオフィス街にも近づき、そこに腰をすえたように思われた。住民たちは、それを、風が病毒の種を運んで来たせいにした。「風が何もかも引っかきまわしちまう」と、ホテルの支配人はいっていた。しかし、その点はどうであろうと、中心地区の人々は夜中に、しかもますます繁雑に、ペストの陰鬱な無感情な呼び声を窓の下に響かせる、救急車のベルをすぐ身近に聞くようになって、いよいよ自分たちの番が来たことを知るのであった。
(「ペスト」2より)

 誰か特定の個人の心象風景というわけでもない。また事実の無機的な羅列というのとも違う。ホテルの支配人は「風が何もかも引っかきまわしちまう」とただ言っているだけであり、そのことの事実が述べられることで、なにか不特定多数の住民たちの集合的な心持が代弁されている、というのとも違う。しかし、おなじような筆致で、夜中に窓のしたを通過していく救急車のベルの音が、誰もが抱いているはずの不安をなによりも雄弁に語ってしまうのは何故だろう。
 カミュの文体は、つねにこのように読む者をその世界に呼びこんで、じっさいにホテルの支配人の声をきかせたり、じっさいに救急車のベルの音を聞かせようとする。そして、読む者はそうしたシチュエイションに想像的に引き入れられることでそのすべてを体験し、そこで感じることになるなにか、そこにこそカミュのもっとも描きたかったものの核心が息づいているということだ。
 この事実は、彼が本当に描きたかったものが何だったのかを、逆に私たちに教えてくれるように思う。ペストというものが人間の世界にもたらすであろう経験の、汲みつくすことのかなわない広さと深さの詳細なデータ群を、いっさいの加工なしに輪郭づけること。そして、現実にそれがあったようにただそこに在らしめること…。
 いや、だいぶ近づいたがそれでもまだ充分とは言えない。名づけえぬ体験を名づけえぬまま、それを言葉の体験へと微分曲線のようにかぎりなく至近させること、おそらくカミュがここでやろうとしているのはそういうことだ。言い換えるなら、それは言葉だけでつくられた「ペスト」という体験、それは個々の登場人物のものであると同時に特定の誰のものでもないところの普遍的な体験、それを独自なしかたで現出させることと別ではない。

 COVID-19のパンデミック状況下で、この『ペスト』がいまひろく読まれているとすれば、それは、現在私たちがじっさいに通過しつつあるこの出来事について、どんな言葉も奪われていることの体感的な飢えから、ではないだろいうか。たしかにネットや新聞の情報欄にはCOVID-19をめぐるおびただしい言説があふれ、感染者数や死亡者数のデータは日々更新され、病態にかんする専門家の解説や分析が洪水のごとく消費され、それらはいつ果てるともない情報群のクラウド環境となって際限もなく拡散され続けている。
 しかし、にもかかわらず、この現実の病疫について私たちが本質的に語りうる言葉をはたして持っているのかと問われれば、容易に肯んじえないのが実情ではないだろうか。それは私やあなたがこうした感染症の専門家や医療従事者ではない事実ともおそらく関係がない。逆にいえば、専門家や医療従事者であれば語りうるような言葉、ということでもそれはないということである。
 COVID-19がはたして何ものなのか、誰もそのヴィジョンの片鱗さえ言いあてられないことの底知れぬ不安とも、それは通底する感覚だといってよいだろう。何が知りたいというのか、いったいどんな言葉をききたいというのか?自分で問いを発しておきながら、私自身にもそれは分からない。ただ、現実の存在不安が大きければおおきいほど、言葉をもたないことの恐怖もまたそれに比例して膨らんでいくことは疑いようもない。カミュの『ペスト』の中に私が求めてしまうなにかも、間違いなくそのことと関係している。

 この作品でたしかにカミュは、周到に登場人物の内面描写を避けていた。だが、それぞれ個性的な登場人物のなかに一人だけ、じぶん自身の言葉を捜しつづける不思議な男が登場する。実直な老官吏であるジョセフ・グランが、じぶんの言葉をどこまでも捜しつづけるその男である。私にはこのグランこそが、作者カミュに代わってみずからの内面を必死に描きつくそうと甲斐のない努力をつづける好ましい人物に思えたのだった。

 彼は相変らずその紙片をながめながら少し待ち、それから腰を下ろした。リウーはそれと同時に、はっきりしない羽音のようなものを聞いたが、それは町のなかであの殻竿のうなりに答えているもののように思われた。彼はまさにこの瞬間、足下に広がるこの町――この町が形作る閉ざされた世界と、この町が暗夜のなかに圧し殺している恐るべき叫喚との――異常に鋭い知覚をいだいたのであった。グランの声が低く起った――「美しく晴れた五月の月の朝まだき、一人の端正な女騎手が、颯爽たる栗毛の牝馬にまたがり、ブーローニュの森の花咲き乱れた小道を駆けめぐっていた」。再び沈黙が広がり、そしてそれと一緒に、苦悶する町のあの定かならぬざわめきがまた聞えてきた。グランは紙片を置き、そして相変らずそれをながめ続けていた。ややあって、彼は眼を上げた――
「どうお考えです?」

(「ペスト」2より)

 グランのこだわりの文章が、こうして初めて私たちに示される。小説のなかで、この文章はその後いくども修正され、書き直され、消しゴムで消され、そしてまた同じように書かれるのである。私はだいぶ若い頃にグランのこの文章のくだりを読んで、彼がなにゆえにこの短い一文にこんなにもこだわるのか、最後まで理解できなかった。
 この老官吏が「全精神を奪われているこの探求」は、はじめは秘密にされていたが、徐々に仲間のあいだで知られるようになり、時に本人から彼らにむけて読みきかせるようになっていく。

…また一度は、彼はその二人の聞き手に、つぎのように修正された最初の一句を読んで聞かせた――「美しく晴れた五月の朝まだき、一人のなよやかな女騎手が、颯爽たる栗毛の牝馬にまたがり、ブーローニュの森の花咲き乱れた小道を駆けめぐっていた」
「どうです」と、グランはいった。「このほうが姿がはっきり目に浮ぶでしょう。それから、私は《五月の朝まだき》のほうがいいと思ったんです。というのは、《五月の月の》とすると、少し歩調が伸びてしまいますからね」

(「ペスト」2より)

端正な女騎手」から「なよやかな女騎手」へ、また「五月の月の朝まだき」から「五月の朝まだき」へ、それぞれの字句の修正はじつに微視的な変更に過ぎないとしても、グランにとっては大きな意味をもつ変更であることが分かる。市庁に勤めるグランはだんだん仕事も手につかなくなり、しまいには文章のことに頭をすっかり奪われて夢遊者のようになっていくのだが、それでもこの作業が中断されることはない。修正がうまくいったと思えた時には、その興奮を隠そうともしない。

…しかし、リウーは一度彼が非常に興奮しているのを見かけた。彼は《花咲き乱れた》を《花の咲き満ちた》に代えたのである。彼はしきりにもみ手をしていた。「とうとうこれで、ちゃんと目に浮び、感じられるようになりましたよ。《諸君、脱帽!》です」。彼は意気揚々としてその文章を読みあげた――「美しく晴れた五月の朝まだき、一人のなよやかな女騎手が、悠揚たる栗毛の牝馬にまたがり、ブーローニュの森の花の咲き満ちた小道を駆けめぐっていた」。ところが、声に出して読むと、終りのほうの《の》が三つ重なるところが変な具合に響き、グランは少しつかえた。彼は打ちのめされたようなかっこうで、腰を下ろした。それから、医師に向かって、席をはずす許しを求めた。彼は少し考えてみる必要があったのである。
(「ペスト」2より)
 私はこれまで、小説や映画の登場人物のなかに、自分とまったく瓜二つの面影をみいだして、終いには「こいつは俺のことではないか!」と思いこむことがしばしばあった。この『ペスト』においても実はそうしたことがあって、言うまでもなく、それはこのグランという人物に関してであった。
 彼はけっして倒錯的な人物ではない。昼は役人として働き、仕事が終わってからはペスト対策に奔走する「保健会」にボランティアで参加するなど、社会性も行動力もかねそなえるなかなかに律儀な人物である。だが、私がじぶんの似姿を見いだすのは彼のそのような一面についてではなく、むしろ夜にひとり部屋にこもってこつこつと「謎の仕事」に精をだす、その内向きなすがたに対してであった。
 いったい何が、彼をしてそうした「書くこと」への情熱を途切れさせることなく、連綿とつむがせているのだろう。
 その謎は、物語の終盤にいたってはじめて明らかになる。グランはみずからも腺ペストに侵され、もう今晩じゅうはもたないだろうと誰もが思ったじぶんの病床で、その代読を医者のリウーに託するのである。

 二、三時間たって、リウーとタルーが来てみると、病人は床のなかで半ば起き上っていて、リウーはその顔に全身を焼き尽しつつある病患の進行を見て取ってぎょっとした。しかし、彼はずっと意識がはっきりした様子で、早速二人に向って、抽斗にしまっておいた原稿を持って来てくれと、異様にうつろな声で頼んだ。タルーがその紙束を渡してやると、彼はそれを見ようともせずにしっかり抱きしめ、それからそいつを医師のほうへ差し出して、読んでくれるように身振りでうながした。それは五十ページばかりの短い原稿であった。リウーはそれを拾い読みしてみて、その紙片のすべてが、同じ一つの文章を際限なく写し直し、書き直し、加筆あるいは削除したものがしるされているにすぎないことを悟った。引っきりなしに、五月の月や、女騎手や、ブーローニュの森の小道が、さまざまの形でぶつかり合い、排列されていた。この労作はまたいろいろな説明――ときには途方もなく長い説明と、それから異同文とを含んでいた。しかし、最後のページの終りには、丹念な筆跡で、インキの跡もまだ新しく、ただこれだけ書いてあった――「なつかしいジャーヌ、今日はクリスマスだ――」。その上のほうに、念入りに清書されて、例の文章の最後のかたちのものが載っていた。「読んでください」と、グランはいった。そこで、リウーは読んだ。
「美しく晴れた五月の朝まだき、一人のなよやかな女騎手が、悠揚たる栗毛の牝馬に跨り、《森》の小道の花のなかを駆けめぐっていた……」
「それで間違いありませんね?」と、老人は熱病患者の声でいった。
 リウーは彼のほうへ目をあげなかった。

(「ペスト」4より)

「ジャーヌ」とは、若くして別離を余儀なくされたグランの妻の名前である。独居老人となっても、グランはもう何十年ものあいだじぶんの胸中に秘めてきた最もよき日の最もよき記憶を、ひとつの文章のかたちに仕上げることで所有しつづけ、かつまたその光輝を完璧にちかく復元して永続させることを願ったのかもしれない。ペストによって閉鎖された都市の、閉ざされて先のみえない時間の重量に圧しつぶされそうになりながら、人はじぶん自身の心のよりどころを、じぶんの命と同等にはかないそれらの輝ける思い出のなかにこうして見いだすことが、じつは普遍的にあるのだと思う。
 蛇足でいわせてもらえば、それはグランのように散文的レトリックの次元でやるより、詩的メタファーの次元でのほうが、全円性はより高度に担保されたのではないかと思うのだが、はたしてどうだったろうか。
(続く)