短歌の世界には「困ったときの庭頼み」という言葉があるらしい。
結社誌に送る月例の詠草が足りなくて、〆切間際に、庭の草木を詠んでなんとか歌の数を合わせる、という意味なのだろう。
私の場合であれば、さしずめ「困ったときの写真頼み」ということになろうか。
写真をみて一首つくるのである。といっても、自分で撮った写真を眺めても、いまひとつ作る気持ちにならないので、いそいそと写真展に出かけるということになる。
近くのギャラリーでやっていればいいけど、そんな都合のいいことはそうそうなくて、休みの日に電車に乗ってわざわざ出かける、ということもある。ギャラリーでは、作品を鑑賞するのが目的ではなく、歌を作ることが目的だから、作品を凝視しては、その場で歌を詠み、ボールペンで手帳に書きこむ、ということになる。これは、はたから見れば、相当おかしな画にみえるはずだ。写真をじーっと見ていたかと思うと、何やら考え始め、そして、おもむろに手帳に何か書き始めるという、いったいこのおじさんは何やってんだろう、という感じで見られていることだろう。
こっちとしては時間もないなかで少々焦りながら歌を作っているわけで、周りの視線を気にしている場合ではないのだ。あるときは、ほんとに時間がなくなって、許可をもらって、作品をスマホで撮って帰る、なんてこともあった。写真作品を写真に撮るという、ますますよくわからないおじさんの画となった。
そんな、「写真頼み」で歌を作るわけだけど、私の場合は、人物が写っているスナップショットが歌にしやすい。モノクロでもカラーでもいいけれど、写っている人物の表情や視線や仕草や服装やポーズや、とにかくその人物のあれこれを観察して一首つくる。
写真の素敵なところは、作品として構図がはっきりしていて、何を主張したいのかが分かりやすい、という作品が比較的多いということ。こちらは、そうした作品の主張を受け取って歌にすればいい。そうしたはっきりと主張している作品ばかりの写真展だったら、1時間もしないで50首くらい作って、ほくほくした気分でギャラリーを後にする。
そもそも短歌と写真は相性がいいといってしまえばそれまでだけど、私は、風景写真はいまひとつ歌にできない。そうした写真は、つまりは実景のコピーじゃないか、という程度に思ってしまう。それよりも、人物の目元や指先とか、そんなところは生身の人間を前に、じーっと見つめるわけにはいかないから、作品のなかの被写体を存分に観察させてもらって、歌にする。
こうした私の作歌方法について、それは歌を作ること自体が目的となってしまっていて、作歌活動としては本末転倒ではないか、と思われるかもしれない。けど、写真作品でいいものは、やはり感性に働きかけてくる。感動といえば大げさだけど、写真一枚でそこそこ新鮮な経験をする。その経験を歌にしているのだから、作歌としてはさほど不純な動機でもないだろうと、開き直っている。
結社誌に送る月例の詠草が足りなくて、〆切間際に、庭の草木を詠んでなんとか歌の数を合わせる、という意味なのだろう。
私の場合であれば、さしずめ「困ったときの写真頼み」ということになろうか。
写真をみて一首つくるのである。といっても、自分で撮った写真を眺めても、いまひとつ作る気持ちにならないので、いそいそと写真展に出かけるということになる。
近くのギャラリーでやっていればいいけど、そんな都合のいいことはそうそうなくて、休みの日に電車に乗ってわざわざ出かける、ということもある。ギャラリーでは、作品を鑑賞するのが目的ではなく、歌を作ることが目的だから、作品を凝視しては、その場で歌を詠み、ボールペンで手帳に書きこむ、ということになる。これは、はたから見れば、相当おかしな画にみえるはずだ。写真をじーっと見ていたかと思うと、何やら考え始め、そして、おもむろに手帳に何か書き始めるという、いったいこのおじさんは何やってんだろう、という感じで見られていることだろう。
こっちとしては時間もないなかで少々焦りながら歌を作っているわけで、周りの視線を気にしている場合ではないのだ。あるときは、ほんとに時間がなくなって、許可をもらって、作品をスマホで撮って帰る、なんてこともあった。写真作品を写真に撮るという、ますますよくわからないおじさんの画となった。
そんな、「写真頼み」で歌を作るわけだけど、私の場合は、人物が写っているスナップショットが歌にしやすい。モノクロでもカラーでもいいけれど、写っている人物の表情や視線や仕草や服装やポーズや、とにかくその人物のあれこれを観察して一首つくる。
写真の素敵なところは、作品として構図がはっきりしていて、何を主張したいのかが分かりやすい、という作品が比較的多いということ。こちらは、そうした作品の主張を受け取って歌にすればいい。そうしたはっきりと主張している作品ばかりの写真展だったら、1時間もしないで50首くらい作って、ほくほくした気分でギャラリーを後にする。
そもそも短歌と写真は相性がいいといってしまえばそれまでだけど、私は、風景写真はいまひとつ歌にできない。そうした写真は、つまりは実景のコピーじゃないか、という程度に思ってしまう。それよりも、人物の目元や指先とか、そんなところは生身の人間を前に、じーっと見つめるわけにはいかないから、作品のなかの被写体を存分に観察させてもらって、歌にする。
こうした私の作歌方法について、それは歌を作ること自体が目的となってしまっていて、作歌活動としては本末転倒ではないか、と思われるかもしれない。けど、写真作品でいいものは、やはり感性に働きかけてくる。感動といえば大げさだけど、写真一枚でそこそこ新鮮な経験をする。その経験を歌にしているのだから、作歌としてはさほど不純な動機でもないだろうと、開き直っている。
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