山本かずこの「桂浜」。この詩は怖い。そしてさみしい。この詩に漂う虚無感は底が知れない。この詩は私が書きたかった。そう思わせる詩が、私にとっての愛憎詩だ。
桂浜 山本かずこ
暗い夜の海だ
海を見ながら泣いていると
どうしたのかと男がいう
わけなどはじめからあるはずがない
涙が勝手に流れるばかりだ
そのとき
なにか得体の知れない大きなものが
海の向こうからやってきて
いやがる男を連れて去ってしまった
暗い夜の海だ
海を見ながら泣いていると
どうしたのかと別の男がいう
海の向こうからやってくる「得体の知れない大きなもの」に呑み込まれ、連れ去らてしまうのは男だけ。女はひとり取り残される。けれど、「暗い夜の海」を見ていると、女の傍らには別の男が現れ、泣いている女に「どうしたのか」と、前の男と同じ言葉をつぶやく。
新しい男もまた「得体のしれない大きなもの」に呑み込まれてしまうのだろう。そう予感させて詩は終わっている。
同じシーンが永遠に繰り返され、女は悪い夢から抜けだすことができない。
女はなぜ泣くのか。理由などない。「わけなどはじめからあるはずがない」ということを女は知っている。はじめからあきらめている。どうにもならないということを受け入れてる。この女の怖さは、すべてを受け入れていることにある。
「得体のしれない大きなもの」とは、死のことだろうか。少し違うような気もする。絶望や孤独に近いもののような気がする。
山本かずこは愛の詩人だ。愛を描きながら孤独を描いている。
例えば、都会的な恋愛を描いた「リバーサイドホテル」。
ちょっと休んでいかないか
とあなたは言った
まるで
休みたいと思ったとき
ちょうど
リバーサイドホテルがあったように
と、軽く男に誘われ、「今日はいやだ」と女は断るのだが、その理由が「リバーサイドホテルには/つい昨日/やってきたばかりだ」というもの。
昨日、別の男と寝て、今日はまた別の男と逢っている。
この詩は「桂浜」と似ている。
女は、リバーサイドホテルに「暗い夜の海」を見ていている。
向こうから「得体の知れない大きなもの」がやってきて、明日はまた別の男と逢っているのかもしれない。
桂浜 山本かずこ
暗い夜の海だ
海を見ながら泣いていると
どうしたのかと男がいう
わけなどはじめからあるはずがない
涙が勝手に流れるばかりだ
そのとき
なにか得体の知れない大きなものが
海の向こうからやってきて
いやがる男を連れて去ってしまった
暗い夜の海だ
海を見ながら泣いていると
どうしたのかと別の男がいう
『渡月橋まで』(いちご舎)1982
海の向こうからやってくる「得体の知れない大きなもの」に呑み込まれ、連れ去らてしまうのは男だけ。女はひとり取り残される。けれど、「暗い夜の海」を見ていると、女の傍らには別の男が現れ、泣いている女に「どうしたのか」と、前の男と同じ言葉をつぶやく。
新しい男もまた「得体のしれない大きなもの」に呑み込まれてしまうのだろう。そう予感させて詩は終わっている。
同じシーンが永遠に繰り返され、女は悪い夢から抜けだすことができない。
女はなぜ泣くのか。理由などない。「わけなどはじめからあるはずがない」ということを女は知っている。はじめからあきらめている。どうにもならないということを受け入れてる。この女の怖さは、すべてを受け入れていることにある。
「得体のしれない大きなもの」とは、死のことだろうか。少し違うような気もする。絶望や孤独に近いもののような気がする。
山本かずこは愛の詩人だ。愛を描きながら孤独を描いている。
例えば、都会的な恋愛を描いた「リバーサイドホテル」。
ちょっと休んでいかないか
とあなたは言った
まるで
休みたいと思ったとき
ちょうど
リバーサイドホテルがあったように
と、軽く男に誘われ、「今日はいやだ」と女は断るのだが、その理由が「リバーサイドホテルには/つい昨日/やってきたばかりだ」というもの。
昨日、別の男と寝て、今日はまた別の男と逢っている。
この詩は「桂浜」と似ている。
女は、リバーサイドホテルに「暗い夜の海」を見ていている。
向こうから「得体の知れない大きなもの」がやってきて、明日はまた別の男と逢っているのかもしれない。
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