将門ブログ

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15「川曲村の合戦」

2008年01月15日 | 将門の乱
「川曲村の合戦・承平五年(935)10月」
=叔父・良正、源氏との縁により、兵を集めて将門を攻める。将門、これを新治郡川曲村で破る。

●「川曲村の合戦」(『将門記』より)
《こうして対面しようとしている一方で、故・上総介高望王の妾の子・平良正も、また将門の次の伯父であった。それゆえ、下総介の良兼朝臣と良正とは兄弟であって、二人ともあの常陸の前の掾である源護の姻戚であった。護はいつも、息子の扶・隆(たかし)・繁(しげる)らが将門のために亡くなったことを嘆いていた。しかし、下総介の良兼は上総国にいて、いまだこの事情を知らなかった。
良正一人が親類縁者のことを思い慕って、車のように常陸の国内を奔走する。ここで良正は外戚・源護一家の不幸に同情する余り、同じ平一族である将門との親族関係を忘れた。そこで干戈の計画を立て、将門の身を滅ぼそうとした。ときに、良正の縁者(源護一族)がその威力の準備を見て、いまだに勝負はわからないけれども、にっこり笑ってよろこんだ。常道に従って楯を負い、状況に従って出立した。
将門はこのことを伝え聞いて、承平五年10月22日、常陸国の新治郡川曲(かわわ)村に向かう。そこで良正は声を上げて予定通りに打ちあい、命を捨てて互いに合戦した。しかし、将門に運あって勝利し、良正は運がなくついに負けた。射取る者は60人余り、逃れ隠れた者は数もわからない。こうしてその22日に将門は本拠地に帰った。ここで良正とその一族・一時的同盟者は、兵の恥を他国でさらし、敵の名声を上げることになってしまった。情けないことに静かで動かない雲のような心を動かして、疾風の影を追いかけてしまったのである。》

【平良正】
平良正は平将門の叔父にあたる人ですが、同時に源護とは姻戚関係にもある人です。源護の長女は平良兼(国香の弟)、次女は平良正(同)、三女は平貞盛(国香の長男。将門の従兄弟)にそれぞれ嫁いでいます。つまり、まことにややこしいことながら、源護は平氏と姻戚になることで勢力の拡大を図ったのです。今回のような事件の場合、関東地方の慣例では都と違い、血筋の方を優先して源護に味方するなんてことはないのですが、源護の場合はなぜか姻戚関係を重視しています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%89%AF%E6%AD%A3

【平良正館跡(水守営所跡)】つくば市水守
平良正の館であった水守営所跡(水守城跡)は、筑波市役所から西南西へ約2.2km、桜川の低地を挟んで北条の丘陵地と相対する台地に所在する水守地区の北端に位置しています。標高25~30mを測る平担地で、中心は田水山小学校敷地と畑地になっています。南側を除く3方は急傾斜をなしていて、周囲の土塁及び壕は大部分破壊されてしまい、南西部に僅かに残がいがみられます。南部にある物見台を囲む空壕は規模が大きく、下底部の幅約6m、探さ4mに及び、それらの土塁及び空壕を越えて南へ出ると平地続きの集落となり、人家が密集して遺構らしきものも見当たらず、外丸の範囲を明確に捉えることは困難とのこと。なお、現在の水守営所跡は、必ずしも平安後期の遺構とだけ見ることはできない。中世城館として再利用されたであろうことも考えられます。
http://homepage3.nifty.com/jyoso/zyousou/mimorieisyo.html

【川曲村合戦地】結城郡八千代町野爪
川曲(かわわ)村は、鬼怒川がここで大きく屈曲していることから名づけられました。『続日本紀』にも「川曲郷」の名が見られます。この川曲村が現在のどこなのかは、諸説があります。次の赤城宗徳氏の説が妥当かと思われます。《常陸国に属し、下総境の鬼怒川の東岸、野爪(八千代町)、赤須、桐ガ瀬(下妻市)あたり》(『平将門』より)。
http://www3.ocn.ne.jp/~thirao/kawawamura1.htm

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/取材:源六郎/平将門関連書籍将門奉賛会


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