goo blog サービス終了のお知らせ 

将門ブログ

このブログは、歴史上の人物『平将門』公を探求する、ポータルサイトです。

日高市(埼玉県)

2006年10月13日 | 縁地探訪’埼玉県)
先月は、将門伝説に直接は関係ありませんが、将門に大きな影響を与えたと思われます、埼玉県日高市の高麗神社などを訪ねてきました。

【高麗神社】日高市新堀
JR川越線の高麗川駅から北西2㎞。高麗神社の主祭神は、かつて朝鮮半島北部に栄えた高句麗国からの渡来人・高麗王若光(じゃっこう)です。『続日本紀』によれば、元正天皇霊亀二年(716)、武蔵国内に新設された高麗郡の首長として、若光が当地に赴任してきました。当時の高麗郡は未開の原野であったといわれ、若光は、駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の各地から移り住んだ高麗人(高句麗人)1,799人とともに当地の開拓に当たりました。ついでに、若光は相模国大磯に上陸したようです。大磯の高来神社(1894年まで高麗神社)の祭礼では、若光と漁民たちの接触と交流を踊りとしています。ここから若光は現在の小田急線に近いルートで北上したようです。その途中の秦野市は、高句麗とは直接関係ありませんが、いうまでもなく、平安京に本拠をおく新羅系の秦氏に関連した地域です。のちに、ここからは藤原秀郷の子孫と称する波多野氏があらわれ、酒匂川を開拓して領地を小田原方面に拡大しましたが、平家に与したため源頼朝により滅亡されました。また、飯能とは韓(ハン)の地(ナラ)という意味だそうです。「こぐれ」という姓は高句麗(こうくり)から、羽田、秦、湊のように「はた」という姓は、秦(しん)の住民が日本に帰化して国名を名乗ったといわれています。
若光が当地で没した後、高麗郡民はその徳を偲び、御霊を「高麗明神」として祀りました。のちの将門の時代においても、この渡来人たちの影響力(鉄・馬など)があったものと思われます。そして将門は、膨大な戦力を持つこととなり、将門の乱に至ったのです。
http://www4.ocn.ne.jp/~fkoma/index.html

【聖天院】日高市新堀
高麗神社から西方300m。高麗山聖天院勝楽寺と号し、若光を始めとする高麗一族の菩提寺として創建されました。

【金比羅神社(日和田山中腹)】日高市日和田山
聖天院からさらに西方1.5㎞。高麗本郷配水場の左が日和田山登山口。一の鳥居から女坂と男坂に分かれ、二の鳥居で合流すれば金比羅神社です。この神社は、藤原秀郷が将門との合戦に勝利したことを祝い建立したといわれています。日和田山の山頂はあと三分でした。
http://www.asahi-net.or.jp/~CE6N-MNGW/yama017.htm

ついでに「巾着田」に寄って、曼珠沙華の開花状況を見てみましたが、まだ早くやはり見ごろは9月下旬のようでした。
http://www.kinchakuda.com/

にほんブログ村 歴史ブログへ

/取材:源六郎/平将門関連書籍将門奉賛会


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。