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首領日記。

思い出の味はいつもほろ苦く、そして甘い

ある老兵の家庭的情景。(40)

2006年04月01日 03時38分54秒 | 文章。
「せせせ先生が答えていいいのかな、もしそのわから、わかりぞ、わかかりづらかったらその」
「いいよせんせー」
「そそそれだったらすこす、すすこそ、ぅす少し待ってくるれるかな?」
「いいよせんせー」
何で? と聞き返すとまた長くなるので彼はそうしなかった。
そして彼はこのクラスの一員で、故に知っていたのだ。
教師はチョークを手に取り、一瞬だけ黒板を眺め、そして絵を描き始めた。

*

教師の酷い猫背の向こうで白墨が踊る。
一瞬の停滞すら見せない指と腕の、否、体全体の動き。教師は熱病のように鼻息を荒くしながら何かを呟き続ける。汗ばみながら茶髪を振り乱す。荒々しくかつ繊細なタッチ。ただの炭酸石灰の粉が平面の上に命を宿してゆく。
素人目にもわかる。この男は。

「……やっぱ先生、絵描きにテンショクしたほーがいいんじゃ」
「っはっはっははっははっはっははっはっはっはっはぁぁぁあ……」
熱演を終えた教師は、思い切り走った後の犬のような荒い呼吸を落ち着かせ、
「いいぃいや、せ先生本職はそもそそもががが画家なんだけどっなぁ」
律儀に生徒の呟きに応えた。

「それで、せんせーが黒板にかいたその……へんなのが、じーちゃんが言ってたノロイゴ?」
「なんかどれも気持ちわるぅ……。げろげろー」
ネリネ嬢が複雑な顔で正直な感想を漏らす。
「……ほんと、なんか……、ほんとに気持ちわるい……」
絵描きの腕が良いだけに、生徒のうち少なくない人数が不快感を示していた。
黒板に描かれたのは、不気味な風体をした3体の生物。
黒板右の1体は、目と口が1つずつ付いた木魚のような頭から、蜘蛛のそれに似た節足が7本直接生えている。
中央の1体は立方体。但し6面全てに細かい歯の並ぶ吸盤状の口が付いている。
そして左の1体は……、ああ、あれか。
もはやなんと形容すれば良いのか。体中が口で出来たミミズをコンペイトウの形により合わせればこうなるのだろうか? この男もよくこんなものが描ける。
そして気分の悪いことに、私にも全て見覚えがあった。

教師は「けけけ消すね皆もう見たしいい良いよね?」と良いながら力作を黒板消しで伸ばし始めた。遊び描きのようなものだから、というよりは、書き終わった作品には興味が無いという感じだった。
そして生徒の誰もそれを止めなかった。もう見たくなかったのだ。見てしまえば見るほどに、生理的な嫌悪を抱かずにはいられない。
消し終わった教師が再び子供たちのほうに向き直った。
「こここれは呪い子ごのうちでもだだだ代表的なさ3種です」
「だいひょうてきな?」

そう。最低なことにこんなのがまだいるのだ。まだまだ。

*

100年前に起こった“大滅絶”。
神殺しから始まった史上最悪とも言える大戦争で、人類は自らの手で滅亡の寸前にまで追いやられた。
が、当時この大地に生きていたのは人だけではなかった。
魔物と呼ばれていた人外の生物群。彼らもまた、人が幻想の枷を砕いて力を手に入れたのと同様、苛烈な環境を生き抜くために自己を変化させ始めた。
人が幻想を肥大化させて、文化・概念といったある種の非物質遺伝子的な力を発展させたのに対し、魔物は逆に物理遺伝子を再構築し、摂食と繁殖に特化した単細胞生物に近い形へと進化した。それが呪い子。
呪い子にはいくつかの特筆すべき特性がある。
今見た代表的な3種は全て、雑色(サバタス)と呼ばれる下級の呪い子。
彼らの多くは人や他の動物を主食とする肉食生物で、摂取した栄養は即座に繁殖に用いられる。一定数の群体として行動する彼らだが、呪い子のほとんどは有性・無性の両方で生殖可能と言われており、恐ろしい速度で繁殖する。そして繁殖によって群れが一定数を超えると、各個体がある行動を取り始める。
共食いだ。

ある老兵の家庭的情景。(39)

2006年03月31日 01時36分05秒 | 文章。
教壇と黒板、そしてそれに向き合う生徒たちの机。
教室という構図が古今東西で変化を見せないのは、この形がもっとも教育に適していることを暗に示しているのだろう。

コルトシオル初等学校は、1学年に1教室ずつで、4教室を持つ4年制学校。
もっとも、郊外のさらに外れ、半分が職人で半分が農民というような町の町立学校である。家の手伝いの合間を縫って学校に来ている多くの児童たちは、午前中を勉学、午後を家業の手伝いに費やしており、家の仕事が忙しい者はなかなか級を進められないことも多い。
例えば御嬢様の教室では、最年少が御嬢様の7歳、最年長は11歳だったはずだ。確か最年長は楽器職人のリュオンの所の息子だったか。

4つ並んだ教室のうち、左端の教室を窓の外からそっと覗く。御嬢様を含む11人の児童が、町の職人に作らせた椅子と机にそれぞれ着いている。
教壇に座っているのは30代前半の、背格好の小さい男。教科書で顔を隠すように竦めた首の上には、伸びたブラウンの髪と、かなり怯え引き攣った表情が乗っていた。私からは見えない位置の口から、だいぶ上擦った声が響く。
「そっ、それれではききき今日も算数を勉強しようかなとか先生思うんだけどどどどうだろうみんな。いっ良い? 良いよね、算数でも。やっ、ごめごごめん、もし皆がささ算数したくないっていい言うんならほら先生も無理にとはその」
「はいせんせー」
教室に並んだ机4列のうち、左列、前から二番目に座った少年が手を挙げた。
「ごっ、ごめ、ごごめえんなさいすいませんすみなせんしみましぇっ! 算数じゃなくていいいいです、算数とかもうやめようそそそうだよそうだよねさんすすぅなんてするべきじゃなかった! せ先生が、先生が本当に悪かったっ」
教師は教科書を持ったままの両手で頭を抱え、教壇の下に隠れてしまった。
……この男、未だにこの調子か。なんとも情けない。

別段、この教室で教師に対する陰惨な苛めが流行っているわけではない。
この男、極度の対人恐怖症なのだ。
これでも、相手が子供だとまだマシなのだそうだ。大人相手だと視線が合うだけで気絶するらしい。たまに町中で見るときいつも猫背にスキー帽子を目深に被っていることからすると、噂は本当なのだろう。

がたがた震え始めた教壇を見て、手を挙げた少年が人差し指で頬を掻きながら、教室の仲間たちに微妙な表情を向ける。他の生徒たちはやれやれといった様子すらもはや見せずに、思い思いに教師を励まし始めた。
「先生大丈夫だよ」「算数で良いよ」「さんすうしてーよな」「あたしも算数したーい!」「みんな先生が大好きだよ、恐くないよ」「いまラジィが良いこと言った!」「先生に算数教えてほしいな」「せんせいでておいで」「先生」「先生出てきて」「先生」
教壇の後ろを二人の少女が覗き込んで、駄目教師を優しく引っ張り出した。
腰が引けた姿勢で引き上げられる男は、まるで親の手にぶら下がる子供のように見える。駄目教師は二人の少女の顔を、未だに怯えた動きでせわしく見比べる。少女たちはそれを受け、彼女らが7、8歳の子供であるとは信じられないような、赤子をあやす聖母の微笑みを浮かべた。こうして彼女たちは大人になってゆく。

子供たちは机に戻り、教壇でようやく落ち着いてきた教師に、今度は慎重な声色と動きで先程の少年が挙手した。
「せんせー」
駄目教師が傍目にわかる動きでびくりと反応し、震える声で応えた。
「ななあ何かなっ? ……ご、ごめご、ごめんなさいきき聞き返したりしてごねんなさっ」
もう無視して少年は続ける。
「昨日じーちゃんに、『わるいことする子供のところにはノロイゴが来るぞー』って言われたんだけど、ノロイゴって何ですかー?」

ある老兵の家庭的情景。(38)

2006年03月28日 03時31分50秒 | 文章。
貴婦人が、薔薇に気を取られたせいで長男を亡くしたところだった。

「――っ先生! 先生開けてっ! 先生っ!!」
景色が雨の墓地から見慣れた病室に急転して、息が止まりかかる。
現実を上手く認識するのに、さらに2秒近くを要した。
私を本の世界から引き戻したのは、玄関の戸が激しく叩かれる音と、子供の息切れしかかった叫び声。

「ネリネちゃん? 開いてるわ、どうしたの?」
看護士の女の声。戸が開けられる音。
「お、ばあちゃんが、おばあちゃんが、あの、あたし……!」
「落ち着いて。……また発作が起きたのね?」
「うん、でも、いつもよりひどくて、だから早く先生を……!」
「わかったわ。――あなた」
「行って来る」

それから小さな子供とライオン医者の、二人分の足音が走って遠ざかっていった。
なんとなく、あの医者は人生で一度も走ったことがないのではないかと思っていたが、少なくともこれで、あのライオンは一生に一度たりとも走らなかった、ということにはならなかったようだ。いや、当然なのだが。

慌しい音が遠ざかってから、戸が開けられたり、奥で何か物が動く音がしばらく続いていた。
それが止んで、病室の扉が開いた。看護士の女だった。
女が何か口を開く前に、
「今のは?」
「花屋のメープルさんのところの、娘さんよ。おばあちゃんと二人暮らしなんだけど、花屋のおばあちゃんは前から肺と喉が悪くしていてね。……でも、今日は特に良くないみたい。大事にならなければ良いのだけれど」
女は心配げな顔で言う。
「……貴様は、行かなくて良いのか? 私のことなら別に――」
「大丈夫、ユビーちゃんがいるから離れられないってわけじゃないわ。……花屋さんは坂の上にあって、階段を上らなきゃすごく遠回りになっちゃうの。
そうじゃなくても、私の足で追いつく頃にはもうあらかた終わっているでしょうから。それよりは、もし大事になったときのために、こっちの準備をしておくのが私の仕事なの」
奥で何かごそごそやっていたのはそれか。
確かに、谷地に造られたこの町には急な坂が少なくない。女はこの町が気に入って住み着いたと言っていたが、車椅子で生活するには、あまり快適な環境とは言えないはずだ。
「その不便さを差し引いても、この町が気に入っちゃったんだな」
「勝手に私の心を読むな。……というかどうやって読んだ」
女はふふ、と笑って、
「そんな顔してた」
そう言った。

「読んでくれてたんだ」
「……ああ、これか」
私はベッド脇に置いていた『貴婦人と薔薇』の本を手に取る。
「今さっき長男が死んだところだ。丁度半分といったところだな」
「うん、覚えてる。――薔薇の水遣りを忘れていたのがどうしても気になって、長男が溺れているのに気がつかないのよね」
「ああ。最初お前に進められたときは正直気が進まなかったが、読んでみると案外――」
「ストーップ。だめよ、感想は最後まで読んでから」
「……そういうものなのか?」
「そういうものなのよ」
「そうか」
「そうよ」
ふふ、と女は笑う。何が面白いのだろうか。
だが、……そうだな。私も何故だかわからないが、何か悪い気分ではない。

ここだ、と思ったわけではなかった。
自然と。そう、ごく自然と。

心が、越えられなかった線を、一歩。

「おい」
「何? ユビーちゃん」
「ちゃんはやめろ」
久しぶりにこのやりとりをした気がする。今日の夕食のときも昼食のときも、昨日の夜も昼も、何度も繰り返したはずなのに。
「貴様に、少し、聞きたいことがある」
「……何かしら」
空気が少し変わった。
女にも、私の少し妙な様子が伝わったのだろうか。口調がいつにも増して。
辺りは、とても静か。虫の音も聞こえない。


……虫の音も? 10月だぞ、今は。
昨日の夜までは、――違う。ほんのさっきまでは、少し耳をすませば。


「待て、何かおかしい」
「どうしたの、ユビーちゃ」
女が言い終わる前にそれは始まった。

鐘の音。
静か過ぎる夜に、鐘の音がかき鳴らされる。
耳にやかましいほどに響きわたるそれは。

「……これ」
「ああ」

人の住まう里にて警鐘が鳴るは三つ。
戦争か、天災か、……呪い子。

ある老兵の家庭的情景。(37)

2006年03月27日 01時32分26秒 | 文章。
次の日。

「いただきまーす」
「……」
「……いただきます」

朝食はいつもより少し遅い時間に行われた。
二人の様子は相変わらず。
ライオン医者はほとんど言葉を発さずに、目の前の皿を空にしようと一人取り組んでいる。
女は、微かだが、何かが喉の奥に詰まったような、そんな雰囲気で笑う。
それに一度気付いてしまうと、もうダメだった。話しかけられてもどう返していいのか分からずに、厚みの無い生返事しか出ない。
気付くと食卓を沈黙が覆っていた。女がそれを払拭しようとして、徒労に終わる。その繰り返しだった。
いつもと変わらぬはずの朝食は、やはり美味しくなかった。


「それじゃ、今日は上だけ脱いで」
朝食の後、女に身体を拭いてもらう。
背中に湯で濡らされたタオルが当てられて、
「熱くない?」
「ああ」
「そう、良かった」
背中が拭かれる感覚を、私は脱いだ病衣を胸元に抱きながら感じていた。
広くはない背中だ。他人に無防備な身体を晒すことの、奇妙な心地良さに沈む間もなく、それは終わってしまった。
「傷はほとんど残ってないみたいね。良かった。若いって良いことよね」
「別に多少傷が残ろうが、元通り動くなら問題はない」
「そうね。……ユビーちゃんの体だもの。あなたがそう言うなら、そうなのかもね」
……やはり違う。いつものこの女なら、確実に今の言葉には突っかかってくるはずだ。
滑り込んできた沈黙を破ろうとするように、
「他のところはどうしよっか? 自分でするかな?」
「――ああ」
「わかったわ。じゃあ私は向こうにいるから、何かあったら」
「ああ、わかった」

ベッドを隠すように立てられた仕切りの隙間を縫って、女は奥に戻った。
私は女から受け取ったタオルで、自分の体、腕の届く部分を拭い始める。足は、特に右足はまだ動かせない。

『頼む』と、私は女に何故言わなかったのだろう。
自分のことは自分でする。それは当然のことだとは思うが、今のところは、女に頼むと言っても良かったような気がする。今更見られて困るようなところなど無いし、昨日か一昨日かまでずっとやってもらっていたことだ、今日一日くらい余分に頼れば良かったのではないだろうか。動かせるようになったとはいえ、筋力の衰えた腕ではかなり億劫な仕事だ。

何故こんなことを考えているのだろうか、私は。

――結局、話したいのか。
あの女と話して、何がひっかかっているのかが知りたいのだろう。
このままでは、気持ちが悪い。



だが、その日も何度か女と話す機会はあったし、なんとかこちらから話しかけてみようともしてみたものの、肝心なところは聞けずじまいだった。
……何を、何と言って訊けばいいのか、訊いていいのか、わからなかった。
それ以前に、何も知らないに等しい他人とどう会話すればいいのか、真剣に考えれば考えるほどにわからなくなった。今まで、私はあの女と何を、どうやって話していたのだろうか。
……何も思い出せない。

ざらつく気分をぶつけるように、私は空いた時間をひたすら読書にあてた。



そして、その夜が訪れた。

ある老兵の家庭的情景。(36)

2006年03月24日 17時26分14秒 | 文章。
「……ふふ、びっくりしちゃった」
女はライオン医者に腕を掴み上げられ、抱き止められていた。あのまま落ちていたら、かなり危なかったと思う。
床にゆっくりと下ろされたあと、女は車椅子を自力で起こして、
「ぁ」
息を吐くような声を漏らした。その顔は、私からは見えない。
「――ありがとう、あなた」
女はライオン医者に礼を言って、それから自力で四苦八苦しつつ車椅子に戻り、
「ごめんね、ユビーちゃん」
車椅子に登る間テーブルの皿端に置いていたスプーンを取って、私に差し出した。

時間にすれば数分はあったはずなのに、私は何も言うことが出来なかった。
何か言うべきのような気がしたが、結局何を言えば良いのかわからずに、
「……ちゃんはやめろ」
それだけ言って、スプーンを受け取った。


それから私たちは昼食を再開した。
いつも通りライオン医者はあまり喋らずに黙々と箸を進め(文字通り彼は箸を使っていた。外科もこなすだけに、外見に似合わず手先は器用らしい)、女は微笑みながら私と彼の二人に話しかけ、主に私がそれに答えていた。

だが、私には女の笑みがいつもより小さく見え、料理もあまり美味しくは感じられなかった。
昼食は、どこかぎこちなかった。

*

ぎこちなさは、夕食にも続いていた。
女は楽しげに微笑んでいるし、ライオン医者は閉口して栄養摂取に専念しつつも、さりげなく女に気を配っていた。会話も普段通りそこそこに弾んでいた。
それでも、私は薄い違和感を感じずにはいられなかった。


食事の後、私は病室で独り本を読んでいたが、どうにも気が散るのでしばらくして止めた。
手元で明かりを消して布団に潜り込む。

――浮かんでくるのは、看護師の女のこと。
昼食のときから、どうも上手くいかない。
自分は別に悪くない、……と、思う。あの女のほうがどことなくおかしいのだ。
あの女も自分がおかしいとわかっているから、私に謝ったのだろうし。

思えばあれから、何か用があるとき以外あの女と話していない。
今朝までは何かにつけて鬱陶しいくらい話しかけてきたくせに。……別に、話しかけてこないならこないで、私は構わないのだけれど。

……何か、変な感じだ。
私と彼女の間に、見えない幕が張られてしまったような。
どこかがずれているような。
気持ち悪い。不快だ。
私が何故こんな気分に陥らなければならないのだろう。
あんな女、私にとってどうでも良いはずだ。
たまたま世話になっているだけの、ただの他人だ。
別にどうなったところで。別に。

……くそ。なんて、嫌な。

*

「ユビーちゃん、もう眠ったみたい」
「そうか」
「私たちも、もう寝ましょうか」

奥の寝室まで二人で行き、ベッドで横になってから、横に寝る彼の毛並みに鼻を埋める。
匂いはあまりしない。彼は常に清潔にしている。

「ごめんなさい」
背まで周り切れない右腕で抱き寄るようにして、言った。
彼の腕に背中を抱かれる感触がする。
「ごめんなさい、私」
「いらぬ謝罪だ」

「……私、―――私、ユビーちゃんのこと」

背中の腕が解かれる。
ゆっくりと顔を上げると、彼の深い緑の双眸があった。
「別に構わんだろう。……あまり気に病むな」
「でも……! それは違うの。それは、違うもの……。
…………だめ、私、……どうしてこんな」
私の言葉を遮るように、彼は、
「お前の口は、余計なことを喋りすぎるのが珠に瑕だ」
そう言って――

ある老兵の家庭的情景。(35)

2006年03月23日 19時58分31秒 | 文章。
昼食になった。

「いただきまーす」
看護師の女は手を眼前で合わせる。世界で最も一般的な食事の挨拶だ。

「いただきます」
腕が何とか動かせるようになったので、私も食事の儀礼をする。
瞼を伏せ、両の拳をコツンと合わせる“卦意礼”。

「……」
ライオン医者は瞼をうっすらと開けて、黙祷。

三者三様の食事儀礼を済ませたあと、私たちは食事を始めた。
「はいユビーちゃん。あーんして」
三食一週間繰り返されたその言葉に自然と口が開きかけたが、
「……ちゃんはやめろ。もういいだろう、自分で食える」
私は女の手からスプーンを奪った。肩や二の腕に酷い違和感と少々の痛みがあったが、耐えられないほどではない。
「だーめ」
女がスプーンを奪い返した。
「まだ痛みがあるでしょう? 無理しないで」
「無理などしていない」
私が再び奪う。
「骨と筋肉はもう繋がったのだろう。ならば問題無い。多少動かさねば腕が固まってしまう」
「問題大ありよ」
女が再び奪い返す。
「まだ痛みがあるでしょう? リハビリはリハビリでちゃんとするから、ご飯はまだ私が」
「いらんと言っている」
奪い返そうとするが、女はスプーンを持った右手を挙げてこちらの届かない位置に。
「だめよ」
「いらんと言っている」
上半身と腕を出来るだけ伸ばしてスプーンを奪おうとするが、
「だめよ」
女もむきになってそれを避ける。
「いらん」
「だーめ」
「いらんと言ったらいらん」
「だめ」
「いらんっ」
「だめっ」
「自分で出来ることは自分でする! だからよこせ!」
「たまには良い事を言うな」
傍観していたライオン医者が初めて口を開いたが、
「あなたは余計なことを言わないの! ……もうっ、だめってばっ」
「これ以上こんな赤ん坊のような真似に耐えられるか! 良いからそれを」
「だめっ―――、!」
私の動きに合わせて女が一際身体を反らせたとき、女はバランスを崩して後ろに倒れた。
がたん、と。
床のリノリウムに、車椅子が打ちつけられる音がした。

ある老兵の家庭的情景。(34)

2006年03月21日 17時33分55秒 | 文章。
一週間が経った。
まだ痛みと違和感が残るが、腕ぐらいならなんとか動かせるようになった。
これまで退屈を散々と訴えていた私に、看護士の女は何冊かの書物を持ってきた。
手元の百科事典の青い表紙を撫でながら、
「……不思議だな。書物に興味など無かったのに、それが読めることが今はこんなにも嬉しい」
そんな言葉が出た。
好奇心は猫を殺すと言うが、退屈ならもっと早く確実に仕留められる。断言してもいい。
女は笑って、
「それは良かった。折角の機会だから、今日から本の素晴らしさをもっと知って欲しいな」
「本の素晴らしさ?」
「ええ、そう」

女は少し間を置いて、
「ユビーちゃんは、あなたが本の作り手だったらどんな本を書きたい?」
「ちゃんはやめろ。……本を書きたい気持ちなどわからんな。私の書いたことを他人が読んで、それでどうにかなるのか?」
「どうなるかは、あなたがどんな本を書いたか、それ次第ね」
この女は時折意味のわからないことを言う。
「書物というのは、つまるところ自分の知識を切り売りしているだけだろう。どんな本を書いたところで、結局得られるのは金だけだ」
「違うわ」
この女にしては珍しく、断言だった。
「もちろん、お金を得る手段としての側面も本にはあると思う。でも、お金を得るためだけに、人は本を書いたりはしない」
「だったら、何のためだ? ――貴様はどんな本を書く?」
女は右手の人差し指を唇に当て、「うーん」と軽く考えてから、
「私だったら、ちょっとした家庭の医学か、お料理の本かな」
「何故だ」
「もちろん得意不得意のこともあるけれど、私が書いた本を読んで――あ、これはもちろん私の本が役に立つ本だって前提しての話ね――、色んな人が医学やお料理のことを勉強して、たくさんの人が健康でおいしい食事を食べられるようになったら、私も嬉しいから。きっとこれが一番の理由かな」
「何故嬉しい? 貴様の書いた本は、ほとんどが貴様の知らない人間に貴様の知らないところで読まれるはずだ。そんな無関係な人間たちの幸福を、どうして嬉しいと思う?」

女は少し考えて、
「ユビーちゃんは、好きな人っている?」
唐突にそんなことを訊いて来た。
「ああ」
私は全く躊躇わずに答えた。
「じゃあ、どうしてその人が好き?」
「強くて、綺麗で、気高い人だからだ」
「そう」
女は嬉しそうに笑う。
「でも、強くて綺麗で気高い人は、きっと他にもたくさんいるわ。その人たちのこと、好き?」
「知りもしないような輩を好きになれるか」
「そう。じゃあその人たちみんなと知り合いになったら、あなたはそのみんなのことを好きになるかしら?」
その状況を思い浮かべてみる。
「――ならないだろうな。なるのはそのうちごく少数か、それ以下だろう」
「どうして?」
どうしてだろうか。私は考えてみる。
「……強さや美しさ、気高さは、一概にこれがそうだとかあれがそうだとか言い切れるものではないだろう。私が好きなそれは、誇り高き同族たちの持つそれだからこそ、私にとって好意の対象となっている」
「それじゃあ、あなたの同族さんたちが持つそれと同じ性質で、さらにもっと素晴らしい強さや気高さを持った人が現れたとするわ。ユビーちゃんはその人のこと、必ず好きになる?」
「ちゃんはやめろ」
意図したわけではなかったが、それは時間稼ぎの言葉だった。

考えてみる。
……。
即答出来なかった、だけではなく、
「……断言は出来ない」
「そうだよね」
女は微笑む。
「強くて綺麗で気高い人だから、ユビーちゃんはお姉さんのことが好きなんだよね」
「そうだ」
「でも、強くて綺麗で気高い人でも、好きにならない人もいるかもしれない」
「……そうなる、のか」

「じゃあ違うのよ」
女は微笑みとも取れない、優しい顔をしていた。
「あなたがお姉さんを好きなのは、強くて綺麗で気高い人だからじゃないわ。もちろんそれも、あなたのお姉さんへの好意を高めている要素ではあるでしょうけれど」
「……待て、少し混乱してきた。だったら私は、私が姉さんを好きなのは――」
「あなたがお姉さんを好きなのは、お姉さんがお姉さんだからよ」

「……何を言っている。それでは理由にならんだろう」
「そうね」
女は笑う。
「そうねって……」
「そうなるのは、無いものを無理に見つけようとしているから。
――あなたがお姉さんを好きなことに、理由なんて無いの。
好きだから好き。愛しているから愛してる。価値や意味から浮かんだ、そんな環っかなのよ。人のこころっていうのはね」
静かな朝の病室で、彼女の言葉は、なかなか消えようとしなかった。

「私の答えもそこにあるわ。
例え私と無関係で、これから先も一生会うことや話すことがないような人たちでも、
――幸せでいてくれたら、私、嬉しいの。理由なんかない。欲しいとも思わない」
彼女は微笑みながらそう言った。

窓の外を、干草を積んだ荷馬車が通って行った。
「……私には、わからん。そこに本当に理由が無いのか、それともあるのか」
「そうね。私はこころの理由なんて無いって信じているし、だからそう断定してきたけれど、――不在を証明することはとても難しいから」
「『不在の証明は出来ない』、じゃないのか?」
「あら、だったら『不在の証明をする手段』の不在を証明できるの?」
……えぇと。
不在の証明が出来ないなら不在の証明の手段もまた不在だと証明されるわけだが、それは明らかな――、
「……貴様、のんびりしてるくせに意外と頭良いな」
「ふふ。こう見えても綺麗な顔の下にぎっしり詰まってるのよ。手足は足りてないんだけれどねぇ」
自分で言ったことが可笑しいのか、女は楽しそうに笑う。
……もうどこを突っ込めば良いのかわからん。

私は手元に視線を落として、
「じゃあ、これは」
訊いてみた。
「この本の作者は、どうしてこの本を書いたんだ?」
左手が触れているのは、『貴婦人と薔薇』という題の付けられた、文庫サイズの本だった。
「物語など、読んでもせいぜい暇潰しにしかならんだろう」
彼女も私の手元に視線を移した。
「人が物語を書くのも、私は他の本のときと一緒だと思うな。
きっと、何か伝えたいことがあるのよ」
「伝えたいこと? 知識なら事典のように記したほうが手早いだろう。何故物語という回りくどい形にする」
「そうじゃなきゃ、――物語じゃなければ、伝わらないものがあるから、だと思うな」
「……何だ、それは」
女は一度私を見て、再び視線を小説に戻した。
「その本に書いてあることはすごく単純なことよ。
『貴婦人は、薔薇がとても大好きでした』。
……うん、それだけ」
「……それだけ?」
「ええ、それだけ。読んでみると良いわ。物語でなければ伝わらないものって何なのか、ユビーちゃんにもなんとなくわかってもらえると思う。すっごくお勧め」
「ちゃんはやめろ。
気があまり進まんな……。貴婦人が薔薇を好きだからなんだというんだ?」
「あら、賭けてもいいのよ? つまらなかったら、……そうね。好きなだけキスでもしてあげよっか」
「っっなっ、きさっ、あ――!?」
女はいつものふふ、ではなく、あははと楽しげに笑って、
「うーんいい反応。ユビーちゃん可愛すぎるわもう。そうだ、お試しってことで今から一回してあげようか?」
「いらん!!」
「あらそう? ふふっ」
……く、くそ、思いっきりからかわれている……!

女は笑みをゆっくりと落ち着かせてから、自然な動きで窓の外を見た。
「陽がだいぶ昇ってきたわね。そろそろお昼にしましょうか」
そう言って、車椅子を反転させ、部屋から出る扉へと向かった。
私は手元の、薔薇の絵が載った小説の表紙を眺めて、
――不意に、どこか引っかかっていたものの正体に気付いた。

「……待て」
女は扉の所で振り返って、
「どうかした? ユビーちゃん」
「ちゃんはやめろ」
嫌な予感がしたが、私は疑問をそのまま口に出した。
「――何故、姉さんだと」

女はくすっと嬉しそうに笑って、
「だって、寝言であんなに呼ぶんだもの」
そう言った。

「……~~~~~ッ!!」
私は布団を思いっきり引き寄せて、その中に潜り込んだ。
私の匂いがした。

*

女が昼食を用意する音が布団越しに聞こえている。

私はその音を背景に、今したばかりの会話を頭の中で反芻する。
本のこと。知識のこと。物語のこと。誰かに伝えたいこと。
『貴婦人は、薔薇がとても大好きでした』。
物語でなければ伝わらないもの。

それから、好きという気持ち。
『理由なんてない』。
好きだから、好き。嬉しいから嬉しい。
好きだから、嬉しいから、
好きだから。嬉しいから。





どうなのだろうか。
この気持ちに、私の心に理由はあるのか。
私の心は、どうして。

……。

…………私。

私、姉さんのこと――本当に好きだったんだ。

ある老兵の家庭的情景。(33)

2006年03月18日 01時04分21秒 | 文章。
「おはようございます」
「ああ。――調子は」
「御陰様で……はい、御陰様で」
「そうか」
「はい。――今日よりまた、御館様のお傍に仕え申し上げたく」
「ああ。そうするがいい」
「はい。再びこの身と心を賭して」

それから御嬢様がお目覚めになる頃に合わせて朝食を作り、彼女をふもとの町の学校までお送りした。
途中、御嬢様から一昨日の鳥の巣のことを聞いた。
渡り鳥だったのか。なるほど。さすが御館様は博識であらせられる。
しかし、……風呂ツグミとは。
昔の人間もおかしな名前をつけるものだと思うが、もしかしたら水浴びをする習性などがあるのかもしれない。きっとそうだ。

小一時間ほど歩いて、コルトシオル初等学校に着いた。
町の名前をそのまま取ってつけたここは、町に一つだけの小さな学校だ。
町の中心である広場に、教室が4つ繋がっただけの白い一階建て校舎が面している。

学校の正面まで来たときだった。
「ジューズー! おっはーーー!」
「あ、ネリネちゃん。おはよー」
御嬢様が手を振る先に彼女はいた。
走ってこちらに来るのは、御嬢様のご友人で花屋の娘、ネリネ・メープル。褐色の肌と黒い目が御嬢様と対照的で、後頭部で黒い髪を二つに括っている。

「おっはーよ、おっはー! こないだから言ってるじゃん。ほらジュズもおっはーって言って!」
「ネリネちゃん、おじいちゃんがいってたけど、それってすごくむかしにもはやったらしいよ」
「なにーー!? せっかくあたしが考えついたと思ったのに!?」
「うん」
「うわー、くそ! マジかよ! ビッチ!」
「ネリネちゃん、ことばづかいがよくないよ、せんせいにもいわれたでしょ?」
「あーそうだった! えーと……大きいほう! 本当ですかよ! サノバビッチ!!」
「うんうん、それでいいでしょう」

全然良くありません御嬢様。特に最後。

「さ、いこ」
「おー行くぜー! 学校ひさびさだしあたしたのしみー!」
「じゃあララ。いってくるね」
「はい、いってらっしゃいませ、御嬢様」

ネリネ嬢に引っ張られるようにして御嬢様もお行きになった。
私も帰ってしなければならないことがあるのだが、今日は少しだけ、御嬢様が勉学に勤しんでいる姿を覗かせて頂いてから帰る事にしよう。

ある老兵の家庭的情景。(32)

2006年03月11日 01時26分13秒 | 文章。
掃除が終わると、女は窓を閉めて病室を出て行った。

私しかいない部屋は、自分の呼吸の音が聞こえるほどに静かだ。
10月の秋風が時折窓を振るわせる。

一日中寝てばかりだなんて、赤ん坊の頃以来だろうか。はっきり言って退屈だ。
体中の骨と筋肉がやられているから、一人では本を読むどころか身体を起こすことも出来ない。まだ二日目だが、この天井ばかりの視界にもそろそろ飽きてきた。
3週間……、いや、歩くだけなら半月か。それにしても、これを2週間。……溜息が出る。

*

子供たちが騒ぎながら走ってゆく音が近づいてきて、遠ざかった。
退屈だ。
荷馬車の蹄と車輪の音が聞こえる。聞こえなくなった。
退屈だ。
鳥の鳴き声は断続的に響いている。


……自然と、姉さんのことを考えてしまう自分がいる。

自分には何か出来なかったのだろうか。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。
どうして。どうして姉さんが死ななくてはならなかったのだろうか。

傍にいるのが当然だと思っていた。
いなくなって初めて……初めて私が、こんなに――。

――――っ……!
強い痛みが這い回った。
知らずに体に力が入っていたらしい。息を何度か深く吸って、吐く。
それから汗ばんだ額を拭おうとして、腕が動かなかった。
……体が、自分のものではないみたいだ。こんな感覚も初めてだった。


あのとき感じた姉さんは、何だったのだろうか。
この一年、ずっと姉さんの仇を討つことばかり考えてきた。
だが、なんだろう。この胸につかえるものは。

……確かにイーディアの言うとおりだ。
私たちには、知らないことが多すぎる。

*

「そろそろお昼にしましょうか」
いつの間にかそんな時間になっていたらしい。

女が私のベッド横まで車椅子を寄せ、車輪をロックしてからベッド横のハンドルを回すと、ベッドの上半身部が上に傾き始める。視界を閉める割合が天井より壁の方が多くなったあたりで、傾きは止められた。
それから女はライオン医者を呼んできて、

「ふふ、いただきまーす」
「……」
「……いただきます」

昨日の昼夜と同じく、三人で食事となった。
昨日の昼食のとき、この女が
「折角同じ場所にいるのに別々に食べるなんて、なんだか変だと思わない?」
と言ったのである。
昨日今日知り合ったばかりの連中と食事をするのは気が進まなかったのだが、
「手が動かせないんだから、そもそも一人じゃ食べられないでしょう」
と言われると反論できなかった。
ライオン医者の方も明らかに気が進まなそうな様子だったが、女に一言二言言われると、しぶしぶといった様子で病室に即席で作られた食卓についたのだった。女はだいたいいつも笑顔だった。
どうも俗に言う、尻に敷かれている状態であるらしい。もしくはカカァ天下とか言う。

手が動かせない私には女の方が、女の表現を借りるなら「あーん」させている。
「おいしい?」
「……不味くはない。だがやはり少し味付けが薄い」
「一応療養食だからね。でももし内臓のほうを怪我してたら、栄養剤の点滴で何日も過ごさなきゃいけなかったんだから。それよりはずっと良かったと思わない?」
「……確かにな」
「ふん、別に不味いのなら食わんでも良いぞ。私がお前の分も貰ってやる」
「もう、あなたったら。怪我人に意地悪する人がありますか?」
貴様昨日何を見ていたんだと問いただしたくなったがやめておいた。
「別に意地悪などしていない。いらぬなら貰ってやろうと言っただけだ」
「それが意地悪なの。……さ、次はどれが良いかしら?」
「……じゃがいも」
「じゃがいも、好きなんだ」
「……嫌いでは、ない」
「別に好かんなら食わんでも良いぞ」
「あ・な・た?」

女は食事中ずっと楽しそうにしていたが、一本の腕で私と自身の二人分を捌くのは、私が想像する以上に大変なはずだ。
対照的に、ライオン医者はいつも不機嫌そうにしていた。だが彼が彼女のために水差しや調味料を取ってやったり、皿を寄せてやったりしていたのは、何気ない動作ではあったが、私にもわかった。
女の方もそれがわかっているのか、その度に口に出して礼を言いはしないが、何度もライオン医者を見て微笑みかけていた。

そんな様子に気付いたからだろうか。
彼女たちと一緒に食事をすることは、不思議と不快ではなかった。

ある老兵の家庭的情景。(31)

2006年03月09日 02時09分31秒 | 文章。
「そうね、きっとこういうのを芸術っていうんだと思う。
あんまり出来が良いから、私も最初は座るのを躊躇ったくらい。
見た目だけじゃなくて、もう10年近く使ってるのに、全然がたが来たりもしないの。すごいよね。
ただの木と鉄を使ってこんなものを作り上げられるなんて、本当にすごい」

発言を勘違いされたらしい。
いや、話の流れから考えるとそう捉える方がずっと自然なわけだから仕方ないはずで、
いや、というかその前に私は何を口走ってしまったんだ私は。

こちらの微かな表情――そんなに顔に出してはいないはずだ――を見抜いたらしく、女は少しだけ怪訝な顔をして、
「……あ。―――ふふ、ありがとう」
笑った。
「ち、違う、別にそういう意味で言ったわけじゃ」
「あら、そういう意味ってどういう意味かしら?」
「う……」
墓穴掘った。

「別に恥ずかしがることじゃないと思うけれどな。綺麗だと思ったのなら、綺麗だと言えばいいじゃない」
「……自分のこととわかっていてよくそんな風に言えるな。謙遜とか、そういうのはないのか?」
「もう40年も生きているんですもの、自分が他人からどう見えるかくらい、わかっているつもり。その上で謙遜したって、嫌味なだけでしょう?」
そういうものなのだろうか。言われてみれば確かに、そんな気もする。
自分の長所を自覚していて、それをいかにも大したことでないように振る舞うなんて周りからすれば――――や、待て。

「40年だと? その顔で40越えているのか貴様?」
「あら、私ったらうっかり。もし聞かれても『女性に年齢を聞くものじゃないわ』って大人の対応をするつもりだったのに」
「……どうみても20代にしか見えんぞ。手や肌だってそんな、……長命種なのか、貴様?」
「あらあら。――ふふ、さて、どうかしら」
私の言葉に嬉しそうに反応するところを見ると、どうやらこの女、本気で40代らしい。
……詐欺だろうそれは。