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首領日記。

思い出の味はいつもほろ苦く、そして甘い

ある老兵の家庭的情景。(50)

2006年05月14日 11時38分40秒 | 文章。
六度目の“散弾”。
魔弾の細雨が軍の連中の潜む砦跡を打つ。
砲戦眼鏡の計測によれば距離は122。一息で埋められる距離ではない。
“散弾”を停止。
壁の向こうに微かな声を感じるが、内容までは聞き取れない。

「時間は?」
聞くと、ラスニールはベルトの時計をちろっと確認して、
「あと8分だ」
「はァ、長いんだか短いんだか」
言い終わると同時に七度目の“散弾”を開始。断続的に、飛び出す隙を与えないテンポで攻撃を入れ続ける。
「軍絡みの任務はいつぶりだっけか? あまり積極的に関わりたいお相手じゃないんだが」
「無駄口を叩くな。――所詮辺境警固部の一小隊だ、さして脅威でもない」
「まァそれはそうなんだが。……てか、じゃあ何でお前は来たわけ?」
「相手はおそらく陸軍辺境警固部の第23小隊。だとすれば雑魚の群れの中に、『白鯨』がいるはずだ」
相棒は口角を歪めて笑う。やれやれ、戦闘狂は変態の最右翼だな。

『白鯨』――バトース・ブラヴァツキーか。ご立派な噂しか聞かねぇ男だが、人が良すぎて出世できないというのもよく聞く話だ。
ただの馬鹿ってことならこっちとしても助かるんだが。

“散弾”が途切れた一瞬を狙って、砦跡の陰から一人飛び出してくる。砲戦眼鏡で少し拡大された映像に、夜闇に浮かぶ白い鎧姿が映――隠れた。敵は大剣を地面に叩きつけ、ぶちまけた土砂で“散弾”を防ぐとともに姿を紛らわせる。
やるね。あの剣がご高名な重剣オヴィレっつうわけか。
「来たぜ、ていうかお前のビンゴらしい」
一旦見失ったものの相手をすぐに発見。直進のようで微妙に回り込む動き、高速とは言い難いが決して鈍重ではない。効率的な軍人の足運び。“散弾”で追撃するが、距離があるので追う動きでは弾がばらける。
ラスニールは歪んだ笑いの隙間から息を吐き出して木の陰から飛び出す。
「仕事にモチベーション高いのは結構だが、やりすぎんなよ?」
「わかってるわかっているさ。任務は足止め。足止めなんだ殺してはいけない」
ニタリと笑う相棒。……マジでわかってんのか?
「では往く。お前は他を釘付けにしてろ」
「あいよ」
“散弾”の狙いを再度砦跡の方へ。飛び出した一人目を追う動きは無いようだった。信用しているのやら見捨てているのやら。
「――っと」
砦の方から魔力弾が散発的に飛んでくる。俺は林の間をすり抜けるようにそれを避わす。
一人目の動きに対応した射線でこちらの位置が割れたか。ふぅんそれなり。下っ端とはいえやはり王国軍というところか。
既にラスニールは飛び出した一人目のもとへと疾駆している。
二人が相対で詰めればさした距離ではない。時間はあと6分ちょい。逃げる算段を始めておくか。

ある老兵の家庭的情景。(49)

2006年05月14日 01時56分10秒 | 文章。
「おのれ、何者だ奴等は!?」
五大国間の暗闘時代の名残である、崩れた砦壁の陰に私たちは身を伏せていた。
大尉は憤慨も露わに闇の向こうへ怒鳴り続けている。
「今この時も罪無き民がおぞましい蟲どもに蹂躙されているともわからんというのに、何故我等の邪魔をするっ! 情報部の連中の失態にだけでも十分だというのに!」
「落ち着いて下さい、大尉」
「マクローレン少尉、この事態に憤らずして何に憤るか! 奴等は我々の邪魔をするばかりか、某の部下たちに手傷を負わせてくれたというのだぞっ!」
大尉の言葉につられて後ろを振り向けば、小隊のうち出動してきた者の半数近くが何らかの傷を負っていた。軍馬も同様で、中には既に死にかけているものもあった。血が流れて、夜の闇に黒々と、それが広がっていた。はっきり言って胸が悪くなる光景だった。
「しかしそうは言っても――きゃっ」
私たちが身を隠す崩れた砦の壁に、雨のように横殴りの弾丸が撃ちつけられる。土砂降りのように叩きつけるその音は一気に盛り上がって壁をどんどん削り、また唐突に止む。音が止んでも、私の体はすくみによる固まりをなかなかほぐせないでいる。

――そうは言っても、どうかしようがあるのだろうか?
横手から奇襲を受けた隊は半壊、敵(なのだろうか? それすらもわからないのに)の位置は闇に紛れて掴めない。掴めた所で、この強烈な攻撃――魔術?――の前にどうすれば?
そもそもこれは何。どうして私たちがこんな状態に。

「敵の目的は我々の足止めのようですね」
小隊の副隊長が、大尉の脇に寄って言った。
「わかっている」
大尉は声が荒くなるのを喉の奥に抑えて応える。足止め――。
「呪い子の出現先はコルトシオルでしたね。あの町のものに恨みでもあるとか?」
コルトシオル。王都から遠く北の小さな山岳町。芸術や手工業で有名。そんな王国民なら誰でも知っていそうな情報しか私の中には無い。
「わからぬ。だが肝要なのは今もあの町の民が危機に晒され続けているということだ!」
大尉の眼差しは強い。まるで揺らぐことの無い炎のように。身に纏った白を基調とした鎧が、ただでさえ大きな大尉の体をさらに増量している。
だが再び弾丸雨が私たちを威嚇する。
「これ以上は一秒たりとも無駄には出来ん。――出るぞ! コステロ副隊長、援護指揮を! 怪我人の護衛を優先する、射撃援護だけで構わぬ!」
「了解」
「え、出る、って大尉、この中を――」
私の疑問を置き去りにして、横殴りの弾丸が再度止んだ瞬間、大尉が壁の陰から飛び出した。

ある老兵の家庭的情景。(48)

2006年05月12日 02時03分36秒 | 文章。
「おばあちゃん……」
「ネリネちゃん、……ああ、大丈夫。大丈夫やよ」
ホントに大丈夫なんだろうか。さっきだって。
「喋るな。落ち着いて静かに呼吸しろ」
おばあちゃんは先生のことばに目を細めて、キュウニュウキを口にあてて息をしている。キュウニュウキで息をすうとおばあちゃんはらくになる。

「先生、ボンの爺さんを診てやってくれ! 腕を噛まれてやがる」
「うえい放せ若造、これぐらいでがたがたぬかしてんじゃねぇ!」
声がしたほうを見ると、前に工場で見たおじいちゃんが、夜のくらさでわかりづらかったけど、右うでをまっ赤にしていた。馬飼いのナダリの兄ちゃんがおじいちゃんにかたをかしていた。
「若い衆みんなで止めたんだが、振り切って工場まで行っちまって」
「もうちょっとで俺の最高傑作が完成してたんだ! それを工場から手前等が勝手に引っ張ってきやがって! 職人なめてんのか! 甘く見てんのか!」
「最高傑作って、爺さんアンタ年にいくつ最高傑作を作ってんだよ」
「馬鹿かお前は! このど馬鹿が! 作るたびに俺の作品は輝きを増すんだろうがよ、作るたびに最高傑作だろうがよ! 蟲どもにあれを壊されでもしたら俺ァどこに骨を埋めりゃ良いんだ! 海か! お前までそんなことを言うのか!」

「そうじゃ!」「そうだ!」「ボン爺の言うとおりだ!」
声をおって見ると、町のおじいさんたちがたくさん、後ろのほうでぎゃーぎゃーさわいでいた。
「ああ、今後ろで叫んでる爺さん連中がボン爺さんを行かせやがったんだよ。……本気でスパナ投げて来るんだぜ、信じられねぇ」
「若造、お前には職人というものがわかっとらんのだ!」
ヘンなメガネをしたヒゲのおじいちゃん。前に、コイツさえありゃテンタイカンソクだってできるぜ!ってジマンしてた。フツーにボウエンキョウでやっちゃいけないんだろうか。
「どうせもう老いぼれてんだ! 好きにやらせろや!」
ハゲでヒゲで片目がないおじいちゃん。どうせあいてるからって目のとこに水筒の中みたいなポケットを作ってるのはどうかと思う。そこから出したアメをあたしよりちっちゃい子たちにくばるのもどうかと思う。
「残り短いヂンシェイよ、誰だろうが邪魔ひやがるのは承知ひねぇ!」
『し』がときどきうまく言えなくて、よく入れ歯を落とすおじいちゃん。まえにあたしが入れ歯をカイゾウすればいいのにって言ったらホントにカイゾウしちゃって、セキガイセンとかで食べものの甘さとかがわかるようになってた。でも落ちやすいのはそのままだった。

「まったく、世話見切れねぇよ……」
ナダリの兄ちゃんの言うとおりだと思う。あたしの町のおじいちゃんたちはバカばっかりだ。ジュズのおじいちゃんもパッと見はカッチョいいのにやっぱりバカだし。あともみあげ長い。
あたしが7つになったばかりの、はじめてオウトに旅行にいったとき、あたしはバカじゃないおじいさんをはじめて見た。じつは中身は女なんじゃないかと思って、ムネにさわったりしたけどやっぱり男だった。おじいさんはびっくりしてたけど、それはあたしだって同じだった。

ある老兵の家庭的情景。(47)

2006年05月08日 02時30分00秒 | 文章。
診療所から駆け出すと、表通りには呪い子の見当たらない場所がなかった。人の匂いを嗅ぎつけたのか、大群は北の広場のほうへと足を進めていく。私に気付いた数体がこちらに一つ眼を向け、私はそれを薙ぎ払う。飛び散った肉片を他の呪い子たちが貪りはじめた。

一体軍は何をしている。よもやこの数を見逃すはずもないだろうに。
既に10名近い犠牲が出ている。これは彼等にしてみれば恥ずべき事態のはずだ。
何か腑に落ちない気もするが……まあ良い。
この程度の相手では獣の鎧も必要ないだろう。

「――刮目せよ」

お前等は、ここで止まれ。

*

「おじいちゃん」
「どうしたジュズ。寒いか? 寒いのか? よーしそれならおじいちゃんの胸の中で」
「ララは?」
まるで無視か孫よ。だがそれも良い。
「ララは逃げ遅れた人を助けに行っとるよ。まぁすぐに戻ってくるだろう」
「そっか」
「うむ」
ジュズは私と繋いだ手を握り直した。

広場には既に町のほぼ全員が集まっていた。人々の間には抑えつけたような不安混じりのざわめきが広がっているが、なだめる人間が多少いるおかげでパニックにはならずに済んでいる。
呪い子の襲撃だということは既に伝わっている。問題は数とどの呪い子なのかということだが、それは不明。“雑色”の低位程度なら普通の男がよってたかれば倒せないことも無いのだが。

まぁそんなことはどうでもいい。
それよりも腑に落ちないのは――、


――む。
気配を感じて視線を向ける。
不安げな人だかりの中、一人の男がこちらを見ていた。

なるほど。
まぁそんなところだろうな。

ある老兵の家庭的情景。(46)

2006年05月04日 03時04分42秒 | 文章。
扉に貼り付いた肉がずるずると落ちてゆく。
重ねて、バケツの水をぶちまけるような音が二連。

……これ、は。

「――無事か」
扉の向こうに、聞き覚えのある女の声。これは。
「大した怪我はないようだな。待っていろ、表を片付けてくる」
言って、現れた第三者は去って行った。

*

扉に手をかけて、引く。
鍵のかかっていたはずの扉がゆっくりと開いて、看護士の女が、壁に体を預けていた。
「ふふ、……生きてた」
力の抜けた笑みをこちらに向けて、女が呟くように告げる。
顔からは眼帯が外れていた。いつも眼帯があった場所の下には――。

私は呪い子たちの肉片――全て一撃で肉片と化していた――に身を汚しつつ這い、その合間に落ちた眼帯を拾う。そして女の横に並び、その頭にそっと白い眼帯を回した。擦ると音が出そうなほどさらさらした黒髪の感触が指に広がる。慣れないことをしたので時間がかかったが、女は伏し目がちな表情で、静かに待っていた。左目が隠れた。
「ありがとう」
この声が、きっと聞きたかった。

あんなに離れていた距離が、今はこんなに近くにあった。
廊下の壁にもたれて、自分の呼吸を確かめるように、二人して向かいの壁を見つめていた。肩が触れそうで、だが決して触れなかった。

あーあ、と、女が声を上げた。
「生きてたのは嬉しいんだけど、……なんか私、ばかみたいだな。一人で盛り上がっちゃって、恥ずかしい過去話までしちゃってさ。――内緒にしてね? ユビーちゃん」
「……ちゃんはやめろ」
お決まりの言葉は、まだ自然には出なかった。だがそれで良い。

外から時折激しい音が響いて、その度に夜は静けさを増していった。
あの女が存分に力を揮っているのだろう。何故ああも平気そうなのか――それ以上に、何故あの女なのか。複雑な気分だが、今は、ひとまず置いておく。
虫の声はまだ聞こえない。

「女」
呼びかけると、看護士の女も顔を壁に向けたまま、
「……その、『女』っていうの、やめない? 可愛くないし」
拗ねたように言う。
「別に可愛い必要はないだろう」
「必要はなくても、名前で呼んでもらえたほうが嬉しいな、私」
私は一度息を吸って、
「――ユスティーツァ」
女は呼吸をしているのか疑わしくなるほど静かな一拍を置いて、応えた。
「何かな?」

――私は。
「私は、貴様の子供ではない」

女は息を呑むこともなく、体を固めることもなく、身を震わせることもなく、ただ密やかに息を吐く。
擦り傷だらけの細い肩に黒髪を流し、私の瞳を見る。
「……うん。知ってた」
ユスティーツァはいつも通りの幸せそうな顔で、ふふ、と笑った。
泣いていた。

そのときの私がどんな顔をしていたかは、この女だけが知っている。

ある老兵の家庭的情景。(45)

2006年04月23日 00時04分31秒 | 文章。
急いで扉を引くが開かない。鍵を掛けやがったのか?
「おい開けろ! おい! 何をしている!」
「大丈夫よ。これで良いの。……ええ、これで良いのよ」
扉の向こうから息遣いを整える音まで聞こえてくる。おい何を一人で。
「死にたいのか貴様! 開けろ!」
「ただじゃ――」
空気を震わせるように剣振りの音。ヂヂヂヂと多重で威嚇の声。
「死んであげたりしないわ。……ふふ、やっぱり人間追い詰められれば体も動いてくれるのね。なんだか軽く感じる」
「おい人の話を――」

「ごめんね、ユビーちゃん。
つまらない話なのよ。どこにでもあるただの感傷なの。
でも、多分最後だから、聞いてくれると嬉しいな」

何言ってんだおい。

「昔ね、私には婚約してた人がいた。あの人とは別の、普通の人。結構顔が良くて割と優しくて、すごくお金持ちだったかな」
『あの人』……ライオン医者か。
「若い頃はモテたのよ、私。家はまぁそれなりだったけど、顔もスタイルも良かったし、まだ手足も全部揃ってたしね」
ふふ、と笑う。
剣を向けたままなのか、威嚇の声はまだ続いている。

「だから街で一番当たりの人を上手く捉まえて、作戦通りプロポーズさせた。23のときだったわ。周りからはすごく羨ましがられたし、私自身幸せだった。玉の輿だったし、彼自身のこともそれなりに好きだったしね。彼の家の意向で結婚は難しかったんだけど、『子供が出来ればきっと親も認めざるをえない』って彼の言葉を信じてた」
剣を振る音。じりじりと寄っていた足音がまた下がる。

「……彼と私のどちらが悪かったのかはわからなかったけど、私たちの間になかなか赤ちゃんは出来てくれなかった。彼の親は私のことを彼を誑かす賤女だと思って――まぁ実際似たようなものだったんだけど――とにかく彼から遠ざけようとしていた。本当は名家のなんとかってお嬢さんと結婚させるつもりだったらしいわ。あからさまな政略結婚ね」
聞いている場合ではない。わかってる。
わかってはいるのだが、……聞いていなければならない気がして。

「私と彼は二人で逃げた。お金はあったし、色んなところを新婚旅行気分で回った。……テルマの湖畔って聞いたことあるかな? あそこが一番……うん、綺麗だった。
彼との逃亡生活が四年目になって、私が27のときだった。とうとう念願の赤ちゃんが出来たの。……嬉しかった。本当に嬉しかったわ。嬉しくて病院の中で彼とはしゃぎ回って、お医者さんに滅茶苦茶叱られちゃった」
ふふ、と笑う声。
「お腹が大きくなってから、それまでみたいな旅人暮らしは流石に出来なくなって、私は病院で生活するようになった。生まれるのはもう少し先だったんだけれど、彼がお金と家名の力で無理に入れてもらったみたいだった。私にベタ惚れだったのよ、彼」
でも、と女は言う。

楽しかったのは、そこまで。

「戦争が始まって、良くわからないうちにすぐ終わったわ。
そのときの軍事魔法だか兵器だかが、私のいた病院に直撃した。
建物が滅茶苦茶に崩れて、お医者さんや看護士さんや患者がたくさん死んだ。私は左腕と両足を建物の瓦礫に挟まれて、動けなくなってた。左目を失明したのもそのときだった。破片が刺さってたのよ、自分じゃあ見えなかったけれど。たまたまその病院で働いていたあの人が、私の手足を切って助けてくれた。体力を落とした母体の私が耐え切れないことは明らかだったから、……赤ちゃんは、堕ろした。環境が最悪だったから、あの人は頑張ってくれたんだけど、私はもう子供の産めない体になってしまった」
私の、扉しか見えていない視界がぐらぐら揺れている。
女の話は続く。

「私はすぐ別の病院に運ばれて、そこで一命を取り留めた。病院が崩れたときたまたま出かけていた彼は、すぐに御見舞いに来てくれたわ。不随になってお腹の萎んだ私を見ても、『大丈夫、すぐに良くなるよ。そしたら結婚しよう』って言ってくれた。
でも彼、二度と来なかったわ」
化け蜘蛛どもの声はヂヂヂという威嚇から空気を擂るような嬲る声に変わっていた。女が力尽きるのを待っている。
「もう私には何も無かった。全部無くしちゃったの。
だから死のうと思ったんだけど、あの人が死なせてくれなかった。最初はすごく嫌いだったな――ううん、憎んでた。自分がこんな体になったのも、赤ちゃんが死んだのも、全部あの人のせいにしてた。八つ当たりも良い所よね」
ふふ、と笑う。
「それから色々あって、私はあの人と結婚した。ベタだけど、いつの間にか好きになってたんだな。
とりあえず死のうとするのは、それでやめたわ」

でもね、と話は続く。熱病に浮かされるように。
「昔の彼のことはもう平気になったけれど――私のほうはそんなにベタ惚れしてたわけじゃなかったしね――、でも赤ちゃんのことはどうしても忘れられなかった。
ふとした拍子にね、…………痛むの、お腹が。
他の子供たちを見たり、彼とのことを思い出したりすると、締め付けられるのよ。私にはそれが、死んじゃった私の子の声に聞こえてた。『どうして産んでくれなかったの?』ってね。その度に私は心の中で『ごめんね、ごめんね』って謝ってた。私が赤ちゃんを堕ろしたあの日から、思い出すたびにずっと。
だから、子供は好きだけど、苦手だったの。
――あなたに会ったのは、そんなときだった」
「……私に?」
「うん。どうしてか知らないけれど、ユビーちゃんと一緒にいても痛くならなかった。普通の子なら1時間も我慢できないのによ? 不思議だった。そうしたら、あなた今14歳だって言うじゃない。――ああ、って思っちゃったな」
「まさか」
「ええ、私の子も、生きてたら丁度14歳だった。14歳の、女の子。
わかってるんだけどね。わかってたんだけどね。違うんだって。この子は私の子じゃないって」

そう、か。
「貴様の様子が最近おかしかったのは」
「……うん。ごめんね、最初は私も意識してなかったんだけど。
気付いたら、もう駄目だった。
他人のことを『貴様』だなんて呼んで、誰と喋るときでも偉そうで、世間知らずで、すぐ照れて、すぐ照れ隠しに怒って、いつも不機嫌そうにしてるくせに根は素直で、正直で、高潔で、家族のために泣けるくらい優しくて、女の子のくせにまるで男の子みたいで。

――可愛かった。こんな子が私の子供だったらなんて、叶いもしないことを願ってた。あなたのお母さんになりたかった。

……そんなこと無理だって、わかってたのにね」
ふふ。笑う声は震えている。

「ごめんね、ユビーちゃん。きっと全部、私のエゴなの。あなたをだしにして、自分の罪から逃れたいだけなのよ。あの子に許してもらうために、あなたをあの子に見立ててるだけなの。
……それでも、私は」
金属音。剣が落ちる音だった。もう握力が限界を。
「あの子から命をもらったから」
化け蜘蛛どもの声がしなくなった。
カリカリカリカリカリカリカリカリ足音が。

「だから今度は、私が“あなた”に命をあげる番なの。
私があなたを助ける番なの。だから」
待て。

「ごめんね、―――ちゃん」

音。
肉が扉の向こう側にぶちまけられた。


やめろよ。

ある老兵の家庭的情景。(44)

2006年04月22日 21時05分51秒 | 文章。
「……何匹かわかるか? いや、それより私たちに気付かれているのか?」
全身を凍ったように固め、声をぎりぎりまで押し殺して聞くと、女は首を横に振る動作で答えた。この場合は『どちらもわからない』か。

一体どうするべきだ。
アスタリスさえ万全なら問題はないのだが、生憎私の剣は今、廊下の奥近くの呪い子の上に突き立っている。取りに行けば気付かれるか? 気付かれても先に剣さえ手に出来れば――。
出来れば、後は問題無いと言えるのか? さっきは使えなかった。何故だ? 偶然? ――否、あの違和感はそんな生温いものではなかった。
疑念が消えない。一週間触れなかった間に、自らの半身は何か別の、全く信頼の置けないものになってしまった。

女も判断に迷っているようだった。
すぐに引き返して病室に立て篭もるべきなのか。しかしそれでは、この場で唯一の武器とも言える剣を捨てることになる。病室の薄い扉で、あの化け蜘蛛の同類の侵攻を食い止められるとは思い難い。
かといってあの位置まで剣を取りに戻ることは、身を危険に晒す以前に、もしかしたらこのまま気付かれずに済むかもしれないという可能性を、自ら破棄する結果も招きかねない。

肉が引き千切られ、血が撥ねる音だけが決断を急かすように響いていた。
外せば二人分の命を失う賭けに、私たちはどちらにも動くことが出来ない。
迷っていたのは、実際には十数秒にも満たないのかもしれない。だが私たちの間を流れる空気は、溶けた泥のように鈍く重く、二人を脳髄の底まで連れて行こうとしていた。

「ヂヂャアアアアアアァァァァアア――!!!!」
口火を切ったのは結局どちらでもなかった。

硝子の上に画鋲を流すようなけたたましい音が響く。泥の時間を急に引き剥がされて止まりそうになる心臓を必死に叩いて意識を保てば視線の先で死にかけだった化け蜘蛛が最後のあがきと言わんばかりに叫びを上げて足掻き始めていてほとんど真っ二つに断たれた体ではもはや動くことすら適わないというのに七本の節足を廊下の床に突きたてようと体を震わせ血塗れに叫ぶ。

気付かれ――と冷や汗を流しかけたときには、既に化け蜘蛛は死んでいた。止めを刺された。
女が私の剣を逆手に握って、肩で息をしている。
呪い子の足掻きが始まってから秒の間も置かず、なりふり構わず廊下の奥に突っ込み私の剣で奴を突き刺したのだ。
だがそれでも間に合わなかった。

廊下の奥から届いていた肉裂きの音が消えていた。
代わりに、
「ヂヂヂ、ヂヂャアァァァア、アアアア!」
あの耳障りな叫び声が、何かに気付いたように重奏される。複数かよ。

「戻れ女!」
病室の扉のほうに這いずりつつ叫ぶ。もう声量は関係無い。這う動きの度に左後背部に激痛。知るかっ。
女も言われるまでもなく、剣を掴んだまま這って戻ってくる。だが疲労困憊だ。剣を掴んでいては追いつかれる、いや、捨てたところで逃げ切れるとは、それ以上にもうこの状況ではアスタリスが無ければどうしようも、いや大体あったとしても――――くそ、なんでこんなことに! くそッ!

女の向こう、倒れた車椅子に遮られた廊下の奥から針先の足音が聞こえてくる。
どこか不気味なくらい冷静な表情で這い逃げる女。近づいてくる足音。まるでさっきと同じ構図だが今度は相手が一匹ではない。
私も這いつつ周囲を目で探すが、武器になりそうなものなど何も無い。水が無いので魔法も使えない。
時間がまわる。頭が追いつけない。
化け蜘蛛どもは次々と車椅子を乗り越えて、数は三匹。獲物を追い込むような抑え気味の速度。いいぞそのままゆっくり来てろ。
女は病室まで確実に近づいてきている。早く来い、早く、早く早く早く!
私は結局何の策も用意できずにとにかく病室の扉近くまで近づいて、手を伸ばす。間に合え。引き入れろ。届け!
そして女の方が少しだけ早く病室の扉まで辿り着いた。
「掴め!」
女は上がった息でふふっと微笑んで私が叫びつつ伸ばした腕に
「下がって」
斬りつけやがった。

咄嗟に身を引いてしまった私に女はまだ微笑んだまま、
「ごめんね」
扉を閉めた。

何やってんだ。
「何やってんだ貴様ァッ!!」

ある老兵の家庭的情景。(43)

2006年04月09日 17時48分33秒 | 文章。
二人分の荒い息と、空気が漏れるような音が響いていた。
荒い息を無理に収めるようにして、
「……ありがと、ユビーちゃん」
「……ああ」
いつものやりとりをしようという余裕も無かった。

廊下では、女の向こう、横倒しになった車椅子の傍で、呪い子が脳漿をぶちまけて痙攣している。二つに割かれた頭部から、アスタリスが無機質な肌を生やしていた。この状態でまだ完全には絶命していないことが純粋に恐ろしい。

してはいけないと言われていた激しい運動をしたおかげで、左の上腕から背中にかけて引きつるような痛みが走っている。私は痛みを堪えるため、今は右肩を下にする格好で、病室の床にうつ伏せの姿勢。私の湿った吐息が、病室のリノリウムの床を温めていた。

私がアスタリスを投げた、らしい。
頭の中がぐちゃぐちゃではっきりとしない。時間の経過が歪んでいるみたいだ。

――左手に残る余韻を、感触として思い出す。
手触りは自らの一部のように慣れ親しんだそれだ。だがあれが私の剣だとは、どうしても感覚が認めようとしない。
掌に残る感覚は、重く冷たかった。
脈動するような温度の鋭さをもった私のアスタリスとは似ても似つかない。
あれが本当に、私の剣だと?

「とりあえず」
廊下の壁に寄りかかって息を整えていた女が、声をかけてきた。
「裏口を閉めてくるわ。逃げるよりも、ここで助けを待ったほうが懸命だと思うから。それから、カタドラさんたちの――」
「そう、だな」
その先は言わせなかった。
篭城するなら、死体は中に引き入れるなりして片付けておかないと呪い子への撒き餌にもなりかねない。
「……いや、待て、裏口へは私が」
「大丈夫よ」
強がりの笑みを浮かべて、看護士の女は廊下の奥へと這い始めた。

広場に集まっているらしい町の人々が、私たちのもとに助けに来た彼らが戻ってこないことに気付けば、確認のために誰か別の人間がここに来てくれるはずだ。何より、私は論外として、女にしても別の呪い子に再び見つかりでもすれば、確実に殺される。
大の男二人(と思う)をあっという間に屠ったあの呪い子を、不随の人間二人で倒せるようなまぐれはもう起きるまい。アスタリスさえ応えれば、造作も無い相手のはずなのだが――

「ユビー、ちゃん」
堅い声を追うと、廊下の半ばで女が奥に視線を繋がれていた。
疑問の声を上げる前に、

濡れた布を引きずるような、
さっき窓の外から聞こえてきたものと嫌にそっくりな音が、私の耳にも届いてしまった。

――まぐれは、もう起きるまい。

ある老兵の家庭的情景。(42)

2006年04月04日 16時06分39秒 | 文章。
唐突に裏口の戸が激しく叩かれる音が響いた。
「ユスティーツァさん! いるか!? ユスティーツァさん!?」
私と女は一瞬身体を硬直させたが、
「――います! カタドラさん?」
家の奥の裏口にぎりぎり届く程度に落とした声量で、女が応える。
「良かった、先生は今怪我人の手当てで手が離せないから、私たちが代わりに迎えに来たんだ!」
「……誰だ?」
私が尋ねると、
「斜向かいのご主人よ。……待って、今開けるわ」
女は車椅子で家の奥へと向かってゆく。

大して当てにもしていなかった助けが来たということか。どうやら運が良かったらしい。
“私たち”ということだから、複数の男が来てくれたのだろう。あの女も、不愉快だが他にしようがないのだから、私も、適当に抱えてでも運んでもらえば、途中で後ろから襲われるということはそこまで心配しなくていい。ばったり出くわしてしまう可能性は否めないが、それでもここで二人、身を潜めているよりはいくらかマシなはずだ。

……そこまで動揺しているつもりはなかったが、人心地ついたせいか少し周りが見えるようになって、自分がいつのまにか手に汗を握っていたことに気付いた。病衣の脇腹に両手を擦りつけて拭く。

身動きのほとんど出来ない状態で襲われるということが、ここまで恐るべきこととは。いや、襲われるとか襲われないの次元ではなく、身動きが出来ないということはこんなにも。この一週間でそれは十分知っていたつもりだったのだが。
無意識に起こしていた上半身をベッドに戻し、深く息を吐いた。

私はこんなにも油断していた。

「カ、タドラさっ、……後ろっっ」
「なっ!? がああっ、―――――!!」
声にならない断末魔が滅茶苦茶に響いた。
「いつの間に、離れろ、こいっ、ぅわぁぁあああ!! 足っが、ああああ足があああああ!! あああああああ!!!」
ご丁寧に二人分も。

背中が痛くなるほどの勢いで跳ね起きる。
廊下の奥で、女が右手で口を覆っていた。覗く顔は薄闇の中、死人よりも白く、
「ぅ……そ――」
声はひび割れていた。

え?
いるのか。いるのか?
来た? 
何だこれは。なぜ。
尾けられて、いや、さっきの声で気付かれた? 助けが? 全員やられたのか? 何だ?
待て。こんな。待てよ。
私は。

女の足元に一匹がもう迫っていた。
一つ目とサッカーボールが丸々入りそうな口を持った馬鹿でかい体の蜘蛛が千枚通しのような節足を廊下の床にカリカリカリカリ言わせながら女の足元に寄る。相手が動けないのがわかっているのかやけに余裕をもった足取りで虫じみた足取りで。女は真新しい死体とそれを作ったばかりの蟲を目の当たりにして動けずに彫像みたいだ。髪は真っ黒で周りから微かに光が跳ね返って照らすだけの薄闇に溶け込んで輪郭は曖昧、肌を真っ白にして死人みたいではあるがまだ生きているものの動けないので全然大丈夫ではないのだ。
足元の呪い子が「そうだよ」と答えるように赤々とした口腔を開いた。気色悪い気色悪い気色悪い。何が気色悪いって開いた口が笑ったようにしか見えない。
ああもう普通に喰われる。死ぬ。

白くなり始めた思考がいよいよ真っ白になってよくわからない。
脳味噌が真っ白になりすぎて沸騰して、
「おい!!」
声が出た。
呼びかけるだけの全然何の意味も無い言葉だったが、女は恐慌から我に帰ることができたのか右手に車椅子の車輪を掴ませて後ろ向きのままこっちに退こうとした、が車輪が逆回転になっていたのでその場で横旋回してしまう。
「―――!!」
声にならない叫びを必死に押し留めて車輪のレバーを折れそうな勢いで倒し、車輪を一気に回してこちらの病室へバックする。斜め前から女の車椅子のステップに節足をかけようとしていた化け蜘蛛はそれをすかされるが、再び追いすがって来る。女はそれから逃れるためにしゃにむに車椅子を後ろ向きに飛ばす。

ガッ、と擬音化するしかない音が響いて、車椅子が盛大に倒れた。
廊下の壁に少しだけ出ていた柱に引っ掛けた。後ろ向きだったのと逃げる一心で仰け反るような後傾姿勢だったせいで簡単にバランスが崩れた。
女が車椅子から投げ出されて、滑るようにこちらに転がってきた。距離は稼げたかもしれない。廊下は倒れた車椅子が塞ぐ形になっている。時間も稼げる。
女が右腕一本を杖にしてこちらへ這ってくる。病室まであと3mも無い。病室まで来れば扉を閉めてとりあえずは命が拾える。
「急げ!」
そんなことを言っても仕方ないのにそんな言葉しか出ない。女もそれがわかっているから文句は言わない。違うそんな余裕自体無いのだ。あと2m。
倒れた車椅子の上から節足が覗く。カリカリカリカリ音を立てながら車椅子を乗り越えてきた。口元はだらしなく開いたまま涎をたらたら流している。笑ってやがる。
口を引き結んで必死に這う女を蜘蛛野郎が追ってくる。あと1m。
右の肘を薄闇でもわかるくらいに真っ赤にして一漕ぎ、二漕ぎ。
もう少しだ、入り口に届く――。
「っあっ!」
転んだ。違う。化け蜘蛛がその尖った足の先を女の右脚に突き立てている。その痛みで。
「っこぉっのっ!」
女が右腕で化け蜘蛛を振り払った。必死に逃げているのかと思ったら肝が据わっている。だが化け蜘蛛は女に今度は飛び掛って、
「このっ! このっ! この! ―――――いやぁっ!」
何を。
化け蜘蛛は殴りつけてくる右腕を避わしながら女の身体を登ってくる。
何を。
口からたらたらたらたら垂れる唾液が女の白いワンピースをどんどん汚していく。
何を。
女に圧し掛かった化け蜘蛛は唾をだらだら垂らしながら目と口でにぃたぁと笑った。
何を何を何を何をなにをなにをなにを。
女の、私が綺麗だと思った女の顔を喰うために蜘蛛は口を大きく開いて。
――貴様何を。
「ッ何をしてんだ貴様ァァァァァァッッッ!!!」
手元の本を滅茶苦茶に投げつけた。
ハードカバーの角が呪い子の目をしたたかに打ち付けた。というか抉った。
蜘蛛野郎は石床に青銅の盾を擦りつけたような腐った叫び声を上げて飛び退いた。
目から赤紫の血を流しながらふらつく足取りで廊下の壁に何度もぶつかる。薄汚い呻き声を漏らし続ける。
「……おい、女! 急げ!」
この隙に、と呼びかけるが、女はなかなか起き上がれない。
「ごめんなさい、体に、力、入らなくて……」
言っている間にも化け蜘蛛はだんだん落ち着き始めている。目を潰されても逃げる気は無いようだ。
私は援護のために続けて本を投げる。
化け蜘蛛はそれがぶつかるたびにグエッとかギャッとか気色の悪い呻き声を上げる。
医学書、百科事典、小説、絵本、……もう何でもいい! あの糞を叩き殺せるなら何だって良い!

――剣。

何をやっていたんだ私は。私は馬鹿か!
「私の、……私の剣はどこだ!!!」

首と視線を巡らせれば、女が答えるまでもなく、アスタリスは左の誰も使っていないベッドの脇に立てかけられていた。
一瞬の遅滞も置かずにベッドの端を手で掴んで引っ張り、転がり落ちた。
「……っぐぅぅ」
治りかけの体中が落下の衝撃に悲鳴をあげる。だがそんなことを言っている場合ではない。殺さなければ殺される!
まだ脳の命令に答えようとしない両足を呪い殺しながら匍匐前進で剣の元へと這い寄る。両腕が揃っている分私のそれは女より速い。一気にアスタリスの革鞘を掴み、反転、廊下が見渡せる私のベッドの足元へ。アスタリスを使う以上視界に納めさえすれば距離は関係無い、ならば直接病室の入り口に向かうのではなく直線距離が近いこちらに!
――見えた。化け蜘蛛は節足の先で周りを探りながら女へと少しずつ近づいていた。女は先程の位置からほとんど動いていない。極度の緊張状態に置かれたためか、本当に体が言うことを聞かないらしい。

だが。それも終わりだ。
私は床に這い蹲った体勢のままアスタリスを抜き、

「骸を晒せ、糞虫が」

魔剣はウンともスンとも反応しなかった。

ある老兵の家庭的情景。(41)

2006年04月02日 01時57分03秒 | 文章。
「何が起こってるのかしら、鐘が鳴るなんて本当に久しぶりだから……」
「鐘の音で何が起こっているのかわからんのか? 鳴らし方を使い分けたりとか」
早く現状を把握したい。ふつふつと心の底に湧く焦燥を抑えつつ訊く。
「そういうのは、なかったと思う。そもそも町の警鐘が鳴らされることが滅多にないから」
その滅多にないことが起きている。看護士の女の顔に、珍しく動揺が浮かんでいた。

「とりあえず、広場まで行きましょう。鐘が鳴ったときはそうすることになっているから」
「それは構わんが……」
私は動けない。
女もそれはわかっていて、
「待ってて。誰か、手を貸してくれる人を呼んでくるわ」
そう言って車椅子を反転させ、玄関へ向かう。
窓の外から聞こえてくる音があった。足音だ。
カーテンの隙間から窓の向こうを見ると、町の住民らしい人間たちが皆右から左へと駆け足で向かっていた。
どいつもこいつも必死の形相で。


「待て!」
私が咄嗟に女を引き止めたのと、
「ぅあああああああ!? うぎああぁぁぁぁぁぁあああ!!!」
外から悲鳴が響いたのはほぼ同時だった。


反射的に叫んだ。玄関の女へ、
「鍵を閉めて灯りを消せ! 急げ!」
私の言葉が聞こえたらしく、一瞬の停滞の後、がちゃがちゃと錠を掛ける音が聞こえてくる。
……不味い。
窓の外からは依然悲鳴と、動物のような甲高い呻き声が聞こえてくる。逃げる足音はどんどん遠くに。窓の向こうからはずるずると何かを引き摺るような、あるいはちきちきと石畳を針で叩くような音が。
何かが群れで蠢いている。
不味い。不味い。
予感は最悪の形で現実化しつつある。
私は当然、看護士の女もあの足では逃げようにも。
不味い。不味い。不味い。
音が聞こえてくる。
びちり。びちり。びぢり。
くちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃ。
何か濡れたものを誰かが千切って咀嚼するような。ようなどころではなく。
不味い。不味い。不味い不味い不味い不味い――。

「呪い子、なの?」
玄関から戻ってきた女が声を落として訊く。女の顔は、灯りの落ちた病室の中で青白く見えた。左目を隠す眼帯が不気味なほどに白い。
「最悪なことだが、状況からそれ以外は考えられんな」
苦い声が出るのも仕方が無かった。奴等に比べれば疫病もどっこいどっこいだ。
「助けが来る見込みはあるか?」
「……わからない。そもそも呪い子が出たときには、国の軍隊がいつも人里に近づく前になんとかしてくれていたから」
音に聞くラフォーツ王国軍か。だがそのいつもとは何もかも違う以上、何一つ当てになど出来ない。

表通り側からは、絶え間無く異形のものたちの足音が響いてきていた。
だがこの診療所の裏側からはそれがない。……囲まれては、いない?
「おい、ここの、……この診療所の裏側はどうなっている?」
「ここの裏は、家と家の隙間をちょっとした裏通りが走ってるわ」
しめた。そちらにまではまだ回り込まれていないとすれば。
「ここからそこへ出られるか?」
「ええ、裏口を出ればすぐだけど……」
「ならば――」
この女にまとも戦闘能力があるとも思えない。ならば少しでも生存の確率が高い方に賭けるべきだろう。
おそらくまだ囲まれてはいない。
ならば看護士の女だけでも、裏口から裏通へと逃がすべきなのか、それとも二人ともここに隠れて上手くやり過ごしたほうが得策なのか?
……くそ、私には判断がつかん……。イーディアならばあるいは、と思うのだが。

いや、イーディアさえいれば、そもそも下級の呪い子など恐れるに足らん相手だ。
あの男、肝心なときに居らずに、一体どこで何をしている……!

*

その頃。
イーディアは年端も行かぬ少女を肩に担ぎ、追っ手から逃げていた。
追っ手の1人が叫ぶ。
「見つけたぞ、お嬢様を返してもらおうか!」

どう見ても誘拐だった。

*

私の逡巡を察したのか、女は私の方を向いて、
「……駄目よ、あなた一人を置いては行けないわ」
「そう言うだろうとは思っていた。だが、貴様がいたところで何も変わりはしない」
かといって、裏口からの脱出が確実に安全なわけでもない。こうしている一秒ごとにもその成功率は下がり続けている。
単純に私のみの生存率を考えるならば、この女がすぐ脱出して助けを呼んでくる、というのがベストのはずだ。頭の回るこの女ならそれに思いつかないはずが無い。そしてお人好しのこの女なら、迷わずそれを実行するはずだと思う。
なのに、
「それでも、あなたを置いていくことなんて出来ない」
――これだ。この違和感。
表面上は変わらないように見えるが、致命的なところで普段の理知性が失われている。

何なんだこれは。この女は、何故。
――この女を、何が縛っている?