*** アグナ意識内 砦戦前日午後 ***
「月並みな質問だけれど、あなた、運命って信じる?」
女はハリアの言葉を転がすように思案してから、唐突に問うた。
彼女は両肘をテーブルに突き、絡ませた手指に顎を乗せている。どこか年頃の少女じみた仕草だった。
ハリアは決意の問いに問いで返されたことに訝しげな表情を見せながらも、
「運命、ですか?」
「例えばのお話として、そう、今この状況が、どれくらい起こり得そうなことだって感じる?」
「私とあなたが、……こうして彼女の意識の中で出会うことが、でしょうか」
「そう。この楽しいお茶会が開かれる確率」
「それは……ええっと」
ハリアが考え込む体勢に入りかけたところで、女が嬉しそうな声で、
「ヒントをあげましょう。正解は次のうちどれかよ」
彼女は微笑みながら続ける。
「一番、『限りなくゼロに近い確率』。
『世界の初期条件のランダムネスとカオス的な影響によって、この世界が生まれ、今此処に至るまでに、『この世界』とは異なる無数の世界となりうる可能性があった。世界がこう在るのではない道筋が無限にあった。無限にあった未来から、私たちはここでお話するただ一つの未来に辿り着いた。よって今この現実が起こる確率は無限小だった』」
言いながら、彼女は指先に光を灯し、指だけの動きで宙に文字を描く。
"『それなのに今ここにこうしている奇跡!』"
「二番、『数パーセントから数十パーセント、ありがちな確率』」
宙に曳かれた軌跡が消えて、女の指がまた動く。
「『既にそうなっている状況から"何故ここに辿り着いたのか"と問い返すことは、ありがちなナルシシズム。他状況でも同じように立て得る問いを、いかにも"ここ"が特別な唯一性を持つように誤解しているだけ』」
"『それでも"何故ここに辿り着いたのか"は説明されていないじゃないか』? ノー。その必要はない"
「三番、『確率は1』」
宙に曳かれた軌跡が消えて、女の指がまた動く。
「『世界には他に有り様がなく、私たちは定められた台本を演じているだけ』」
"『世界は仕組まれている』"
「四番、『確率は1』、その2」
宙に曳かれた軌跡が消えて、
「『世界は無数に存在し、起こりうるすべての事象は余すところなく現実化している』」
女の指も動くのを止める。
「私は、三番だと思っていた。世界は既に決まっているんだって。私にとって、世界のすべては初演ですらない再演だったから。ただ一つの適切に調整された運命の上に、何もかもが始めから配置されているんだって思ってた。出来事も、想いも、言葉も、痛みも」
女は手元に落としていた視線をハリアに向ける。
「正解は、四番。この世界の何ひとつ、奇跡の側に所属してはいない。私たちはみな、確率の海を漂う葦たちの、ただひと切れに過ぎない。私の、そしてあなたの誕生に、生に、今日この邂逅に、意味はない。すべては邂逅(わくらば)の、無意味なゆらぎよ」
ふ、と彼女が笑う。
「定められた意味などないからこそ、私たちは選んでゆける。すべての無意味さに知性が気付いても、知性という煌きを灯すものこそ、その無意味な出来事の彩に他ならないのだから。――運命なんて、塵だわ」
女の指は中身の入った菓子の包みを弄りはじめている。
ふふ、と彼女が笑う。
「今こうして、あなたとお話してる。あなたの言いたいこと、あなたに私がどう見えているのか、紅茶は美味しかったか、あなたが欲しいのは何なのか。私にはわからない。これはとても素晴らしいことだわ。
その闇の中にこそ、私たちの欲しいものがある。
私が選び、あなたが選び、あの子が選び、そして無数の誰かが選んだ結果が、今この現実。世界は私たちの握る綱の上に……いいえ、私たちをつなぐ糸こそが、世界なのね」
女が菓子の包みをぽいと捨てると、その指のあいだに、いつの間にか虹色の羽根が収まっていた。
「私たちの主――『魅入られた男』は、ネウガードの力を欲しがっている。それがあるにせよ、ないにせよ、彼はそれを確かめるまで止まらない。彼はもう選択している。自らの手で戦争を起こし、誰かのささやかな平穏を蹴散らしてでも、彼は目的を果たすともう決めている。
……受け身では、彼には勝てないわ、ハリア。イニシアティブな者に、振り回される側の人間が追いつくことは永遠にない。状況を追い掛けているだけの者は、いつまでもニンジンの空想を追い続けるしかないのよ」
語り終えて、女は自らの茶杯を傾ける。冷めてしまったことに気付いて、
「あら、ごめんなさい、私ったら、話出すと長いっていつも言われてるのにね。もう少しお話ししていたかったけれど……残念だわ。もうあの子が起きちゃったみたい」
ハリアが寝姿の少女の方に振り向こうとして、
「いいえ、そっちじゃなくて――」
黒い波が、庭園の塀を乗り越えてきた。
*
黒い泡の群れが塀を乗り越えながら、触れた箇所を黒く染め上げていく。黒泡が弾けた跡には虚無が広がっていた。
「な、なんですかあれは……?」
「私はここでのお出迎え役。本当の門番は、あの子よ」
「あの子って……」
「あれでまだ自我があるのよ。それもとびきり偏執的な」
女が呟くように言葉を落とす。
「楽しかったわ、ハリア。次はもう少し、ゆっくりお話し出来れば良いわね」
女が立ち上がり、黒波に向き合う。
「お菓子のお礼に、あの子の相手は私がしてあげる。どうせ主のことを喋った私にも怒っているんだろうし、5秒も稼げないけれど」
ハリアは慌てて立ち上がり、辺りを見回してから
「あのっ、こういうこと言うのも変かもしれませんが……今日はありがとうございました」
ぺこりと頭を下げた。
「それでその、出口はどちらでしょう、なんて教えてもらえたらなーと……」
女は一瞬キョトンとして、
「……ふふ、くく、あはは……」
肩を震わせ、堪えきれぬ笑いをこぼしながら、指で指し示す。
「出口は入口と同じよ。行きさえすれば、大丈夫」
泡がすぐそばまで迫っていた。
ハリアは躊躇いながらも褐色の少女のいた方角へ走り出す。走りながら振り向くと、既に女の体に黒泡が纏わりついていて、そして腐れるように崩れ落ち、跡形もなくなっていく。
東屋を目指してハリアが走る。黒泡は背後だけでなく、四方からこの庭園を飲み込もうとしていた。睡蓮の泉に泡が滲み、崩れて滝のように奈落に吸い込まれてゆく。美しい箱庭の世界がぼろぼろと枯れ落ちて行った。
足元の泡を避わしながら東屋に飛び込み、
「――着いた、けどっ」
中央の寝台には、褐色の少女が変わらず寝息を立てていた。
(出口が入口……なら、この子が起きてくれないと!)
肩に触れて少女を揺さぶる。最初は遠慮気味に、だが強く揺さぶっても一向に起きる気配がない。
(どうすれば――?)
すでに泡が東屋を取り囲んでいた。柱が虚無に溶けて天井が傾き始める。覗いた空も黒く閉ざされ始めている。
揺すり続けてはいるが、少女はむにゃむにゃと口を動かすだけで目覚めない。
(どうすれば――!?)
ひときわ大きな軋み音がして、
「!」
東屋の天井が落下した。
*
「つっ……」
反射的に少女を庇って、強かに背を打たれていた。ダメージを確認しようとして、右脚が挟まれて動けないことに気付く。脚を押さえつけた屋根の一部を、泡が虫のように食み始めていた。
少女はまだ眠っている。
脚を引き抜こうとして、引っ掛けた上着のポケットの中身を寝台にぶちまけてしまう。小さな玉が転がって、少女の鼻先に止まった。中身だけのボンボン菓子だった。
(これ、あの人!)
直観して、菓子を少女の口にねじ込む。
褐色の彼女は幸せそうにむにゃむにゃと口を動かし、そしてぴたりと止まって、
「……れぇぇ、にが……」
眉をしかめながら、薄目を開けた。
ハリアはそれを見逃さなかった。
「月並みな質問だけれど、あなた、運命って信じる?」
女はハリアの言葉を転がすように思案してから、唐突に問うた。
彼女は両肘をテーブルに突き、絡ませた手指に顎を乗せている。どこか年頃の少女じみた仕草だった。
ハリアは決意の問いに問いで返されたことに訝しげな表情を見せながらも、
「運命、ですか?」
「例えばのお話として、そう、今この状況が、どれくらい起こり得そうなことだって感じる?」
「私とあなたが、……こうして彼女の意識の中で出会うことが、でしょうか」
「そう。この楽しいお茶会が開かれる確率」
「それは……ええっと」
ハリアが考え込む体勢に入りかけたところで、女が嬉しそうな声で、
「ヒントをあげましょう。正解は次のうちどれかよ」
彼女は微笑みながら続ける。
「一番、『限りなくゼロに近い確率』。
『世界の初期条件のランダムネスとカオス的な影響によって、この世界が生まれ、今此処に至るまでに、『この世界』とは異なる無数の世界となりうる可能性があった。世界がこう在るのではない道筋が無限にあった。無限にあった未来から、私たちはここでお話するただ一つの未来に辿り着いた。よって今この現実が起こる確率は無限小だった』」
言いながら、彼女は指先に光を灯し、指だけの動きで宙に文字を描く。
"『それなのに今ここにこうしている奇跡!』"
「二番、『数パーセントから数十パーセント、ありがちな確率』」
宙に曳かれた軌跡が消えて、女の指がまた動く。
「『既にそうなっている状況から"何故ここに辿り着いたのか"と問い返すことは、ありがちなナルシシズム。他状況でも同じように立て得る問いを、いかにも"ここ"が特別な唯一性を持つように誤解しているだけ』」
"『それでも"何故ここに辿り着いたのか"は説明されていないじゃないか』? ノー。その必要はない"
「三番、『確率は1』」
宙に曳かれた軌跡が消えて、女の指がまた動く。
「『世界には他に有り様がなく、私たちは定められた台本を演じているだけ』」
"『世界は仕組まれている』"
「四番、『確率は1』、その2」
宙に曳かれた軌跡が消えて、
「『世界は無数に存在し、起こりうるすべての事象は余すところなく現実化している』」
女の指も動くのを止める。
「私は、三番だと思っていた。世界は既に決まっているんだって。私にとって、世界のすべては初演ですらない再演だったから。ただ一つの適切に調整された運命の上に、何もかもが始めから配置されているんだって思ってた。出来事も、想いも、言葉も、痛みも」
女は手元に落としていた視線をハリアに向ける。
「正解は、四番。この世界の何ひとつ、奇跡の側に所属してはいない。私たちはみな、確率の海を漂う葦たちの、ただひと切れに過ぎない。私の、そしてあなたの誕生に、生に、今日この邂逅に、意味はない。すべては邂逅(わくらば)の、無意味なゆらぎよ」
ふ、と彼女が笑う。
「定められた意味などないからこそ、私たちは選んでゆける。すべての無意味さに知性が気付いても、知性という煌きを灯すものこそ、その無意味な出来事の彩に他ならないのだから。――運命なんて、塵だわ」
女の指は中身の入った菓子の包みを弄りはじめている。
ふふ、と彼女が笑う。
「今こうして、あなたとお話してる。あなたの言いたいこと、あなたに私がどう見えているのか、紅茶は美味しかったか、あなたが欲しいのは何なのか。私にはわからない。これはとても素晴らしいことだわ。
その闇の中にこそ、私たちの欲しいものがある。
私が選び、あなたが選び、あの子が選び、そして無数の誰かが選んだ結果が、今この現実。世界は私たちの握る綱の上に……いいえ、私たちをつなぐ糸こそが、世界なのね」
女が菓子の包みをぽいと捨てると、その指のあいだに、いつの間にか虹色の羽根が収まっていた。
「私たちの主――『魅入られた男』は、ネウガードの力を欲しがっている。それがあるにせよ、ないにせよ、彼はそれを確かめるまで止まらない。彼はもう選択している。自らの手で戦争を起こし、誰かのささやかな平穏を蹴散らしてでも、彼は目的を果たすともう決めている。
……受け身では、彼には勝てないわ、ハリア。イニシアティブな者に、振り回される側の人間が追いつくことは永遠にない。状況を追い掛けているだけの者は、いつまでもニンジンの空想を追い続けるしかないのよ」
語り終えて、女は自らの茶杯を傾ける。冷めてしまったことに気付いて、
「あら、ごめんなさい、私ったら、話出すと長いっていつも言われてるのにね。もう少しお話ししていたかったけれど……残念だわ。もうあの子が起きちゃったみたい」
ハリアが寝姿の少女の方に振り向こうとして、
「いいえ、そっちじゃなくて――」
黒い波が、庭園の塀を乗り越えてきた。
*
黒い泡の群れが塀を乗り越えながら、触れた箇所を黒く染め上げていく。黒泡が弾けた跡には虚無が広がっていた。
「な、なんですかあれは……?」
「私はここでのお出迎え役。本当の門番は、あの子よ」
「あの子って……」
「あれでまだ自我があるのよ。それもとびきり偏執的な」
女が呟くように言葉を落とす。
「楽しかったわ、ハリア。次はもう少し、ゆっくりお話し出来れば良いわね」
女が立ち上がり、黒波に向き合う。
「お菓子のお礼に、あの子の相手は私がしてあげる。どうせ主のことを喋った私にも怒っているんだろうし、5秒も稼げないけれど」
ハリアは慌てて立ち上がり、辺りを見回してから
「あのっ、こういうこと言うのも変かもしれませんが……今日はありがとうございました」
ぺこりと頭を下げた。
「それでその、出口はどちらでしょう、なんて教えてもらえたらなーと……」
女は一瞬キョトンとして、
「……ふふ、くく、あはは……」
肩を震わせ、堪えきれぬ笑いをこぼしながら、指で指し示す。
「出口は入口と同じよ。行きさえすれば、大丈夫」
泡がすぐそばまで迫っていた。
ハリアは躊躇いながらも褐色の少女のいた方角へ走り出す。走りながら振り向くと、既に女の体に黒泡が纏わりついていて、そして腐れるように崩れ落ち、跡形もなくなっていく。
東屋を目指してハリアが走る。黒泡は背後だけでなく、四方からこの庭園を飲み込もうとしていた。睡蓮の泉に泡が滲み、崩れて滝のように奈落に吸い込まれてゆく。美しい箱庭の世界がぼろぼろと枯れ落ちて行った。
足元の泡を避わしながら東屋に飛び込み、
「――着いた、けどっ」
中央の寝台には、褐色の少女が変わらず寝息を立てていた。
(出口が入口……なら、この子が起きてくれないと!)
肩に触れて少女を揺さぶる。最初は遠慮気味に、だが強く揺さぶっても一向に起きる気配がない。
(どうすれば――?)
すでに泡が東屋を取り囲んでいた。柱が虚無に溶けて天井が傾き始める。覗いた空も黒く閉ざされ始めている。
揺すり続けてはいるが、少女はむにゃむにゃと口を動かすだけで目覚めない。
(どうすれば――!?)
ひときわ大きな軋み音がして、
「!」
東屋の天井が落下した。
*
「つっ……」
反射的に少女を庇って、強かに背を打たれていた。ダメージを確認しようとして、右脚が挟まれて動けないことに気付く。脚を押さえつけた屋根の一部を、泡が虫のように食み始めていた。
少女はまだ眠っている。
脚を引き抜こうとして、引っ掛けた上着のポケットの中身を寝台にぶちまけてしまう。小さな玉が転がって、少女の鼻先に止まった。中身だけのボンボン菓子だった。
(これ、あの人!)
直観して、菓子を少女の口にねじ込む。
褐色の彼女は幸せそうにむにゃむにゃと口を動かし、そしてぴたりと止まって、
「……れぇぇ、にが……」
眉をしかめながら、薄目を開けた。
ハリアはそれを見逃さなかった。