最初、食事を与えても彼女はそれを摂ろうとしなかった。俺が見ているのがダメなのかと考えて、わざと席を外してみるが、そわそわと辺りを気にしつつも、口をつける様子がない。
毒を警戒しているのかもしれない、と気付いて、次は俺がひと口囓るのを見せつけてから席を外した。
扉の向こう、『風読み』で中の様子を把握しながら、俺は彼女をそのままに放って家事を始めた。ララには、俺が許可するまで出てくるなと伝えてあった。
待つこと5分足らず。彼女はひと口だけ囓られた様々な果物を載せたプレートに鼻を近づけ、ひとしきり嗅ぎ回ったあと、艶々と輝く皮つきの林檎に静かに歯を立てた。
後は雪崩を打つようだった。
山盛りのプレートをぺろりと平らげたあと、彼女は果肉と果汁でべとべとになった両手を、肘から指先まで舐め上げていった。皿に載っていたものを散々に噛みちぎり、粉々にして飲み下し、跡形もなく消し去ってから、いま気付いたとばかりに辺りを気にし始めた。遅くないか。
部屋を一通り見回してから、思い出したように指先を舐ぶり、そしてベッドを乗り越えて、彼女は窓を開け放った。秋の風は、ワンピースを一枚まとっただけの姿には少し肌寒かったはずだが、彼女は肩まで伸びた黒髪と白い裾を風に任せ、新たに与えられた金の瞳で、窓の外をじっと見つめていた。
*
俺が皿を洗い、もともと清潔に保たれていた流し台を洗剤で磨いてから拭き上げ、替えられたばかりの花瓶の水を替え、家のどこかに埃の欠片でも落ちていないかとハタキをもって歩きまわる徒労の時間を過ごし、自分の革靴を磨いてクリームを刷り込む仕事をようやく見つけたがそれも終え、これ以上やることがなくなってから部屋に戻ると、彼女はまだ庭と、その先の湖畔の景色を眺めていた。太陽は中天をとうに過ぎ、庭の緑が織りなす陰影がまた彩度を変えていた。
部屋の入り口で、開かれた扉にノックの音を鳴らすと、少女がようやくこちらに気付いて振り返る。表情はだいぶマシになっていた。
「おかわり、食べる?」
床に転がったプレートを指差して尋ねると、
「食べる」
と彼女が頷いた。
色々と聞きたいことはあったが、結局その日のうちに聞けたのはそれだけで、彼女はおかわりをすぐに片付けてその健啖ぶりを示したあと、また、夜までずっと縁側から外を眺めていた。
同じ部屋にいるだけならそう強く警戒もされなくなったので、俺は同じ部屋で、お気に入りの藤の椅子で、一度読んだ本の再読を始めた。
日が落ちてすぐに、寝息が聞こえ始めた。夜にもなると流石に風が冷たく、俺は開け放たれた窓を静かに閉じ、彼女にカイゼルオーン仕様のコートをかけて部屋を出た。その夜は居間のソファで眠った。
*
翌朝部屋を訪れると、少女はベッドの中に潜り込んでいた。俺の足音に目を覚ましたのか、寝ぼけた眼だけが隙間から覗いてきた。
「おはよう」
声を掛けると、表情が覚醒していく。
「何か食べる?」
俺が特に何も考えず聞くと、褐色の肌の腕が布団の隙間から伸び、床の辺りを指差した。
「おかわり」
俺は少し笑って、
「衣食足りて礼節を知ると言う。君はもう哀れな欠食児童ではないし、俺も今後同じ屋根の下に無作法者を置いておくつもりはないが……」
言いながら、まったく伝わっていないことに気付いた。
「……あー、お行儀悪い子はごはん抜きです。ごはんは食卓で」
反応を数十秒は待った。
彼女はようやく起き上がり、掛け布団を無造作に落としながらベッドに座りなおして、ずれた肩ひもを直しもせずに言った。
「食卓ってなんだ?」
おお、これはなかなか手がかかりそうだ。
毒を警戒しているのかもしれない、と気付いて、次は俺がひと口囓るのを見せつけてから席を外した。
扉の向こう、『風読み』で中の様子を把握しながら、俺は彼女をそのままに放って家事を始めた。ララには、俺が許可するまで出てくるなと伝えてあった。
待つこと5分足らず。彼女はひと口だけ囓られた様々な果物を載せたプレートに鼻を近づけ、ひとしきり嗅ぎ回ったあと、艶々と輝く皮つきの林檎に静かに歯を立てた。
後は雪崩を打つようだった。
山盛りのプレートをぺろりと平らげたあと、彼女は果肉と果汁でべとべとになった両手を、肘から指先まで舐め上げていった。皿に載っていたものを散々に噛みちぎり、粉々にして飲み下し、跡形もなく消し去ってから、いま気付いたとばかりに辺りを気にし始めた。遅くないか。
部屋を一通り見回してから、思い出したように指先を舐ぶり、そしてベッドを乗り越えて、彼女は窓を開け放った。秋の風は、ワンピースを一枚まとっただけの姿には少し肌寒かったはずだが、彼女は肩まで伸びた黒髪と白い裾を風に任せ、新たに与えられた金の瞳で、窓の外をじっと見つめていた。
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俺が皿を洗い、もともと清潔に保たれていた流し台を洗剤で磨いてから拭き上げ、替えられたばかりの花瓶の水を替え、家のどこかに埃の欠片でも落ちていないかとハタキをもって歩きまわる徒労の時間を過ごし、自分の革靴を磨いてクリームを刷り込む仕事をようやく見つけたがそれも終え、これ以上やることがなくなってから部屋に戻ると、彼女はまだ庭と、その先の湖畔の景色を眺めていた。太陽は中天をとうに過ぎ、庭の緑が織りなす陰影がまた彩度を変えていた。
部屋の入り口で、開かれた扉にノックの音を鳴らすと、少女がようやくこちらに気付いて振り返る。表情はだいぶマシになっていた。
「おかわり、食べる?」
床に転がったプレートを指差して尋ねると、
「食べる」
と彼女が頷いた。
色々と聞きたいことはあったが、結局その日のうちに聞けたのはそれだけで、彼女はおかわりをすぐに片付けてその健啖ぶりを示したあと、また、夜までずっと縁側から外を眺めていた。
同じ部屋にいるだけならそう強く警戒もされなくなったので、俺は同じ部屋で、お気に入りの藤の椅子で、一度読んだ本の再読を始めた。
日が落ちてすぐに、寝息が聞こえ始めた。夜にもなると流石に風が冷たく、俺は開け放たれた窓を静かに閉じ、彼女にカイゼルオーン仕様のコートをかけて部屋を出た。その夜は居間のソファで眠った。
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翌朝部屋を訪れると、少女はベッドの中に潜り込んでいた。俺の足音に目を覚ましたのか、寝ぼけた眼だけが隙間から覗いてきた。
「おはよう」
声を掛けると、表情が覚醒していく。
「何か食べる?」
俺が特に何も考えず聞くと、褐色の肌の腕が布団の隙間から伸び、床の辺りを指差した。
「おかわり」
俺は少し笑って、
「衣食足りて礼節を知ると言う。君はもう哀れな欠食児童ではないし、俺も今後同じ屋根の下に無作法者を置いておくつもりはないが……」
言いながら、まったく伝わっていないことに気付いた。
「……あー、お行儀悪い子はごはん抜きです。ごはんは食卓で」
反応を数十秒は待った。
彼女はようやく起き上がり、掛け布団を無造作に落としながらベッドに座りなおして、ずれた肩ひもを直しもせずに言った。
「食卓ってなんだ?」
おお、これはなかなか手がかかりそうだ。