日蓮宗では、釈尊の仏像を本尊とし、大聖人の示された大曼荼羅は、久成の釈尊の広大な慈悲の世界を紙幅に書き現したものであるとしています。
具体的な本尊形態については、最も多いのが一尊四士であり、所謂、仏像の本尊であります。しかし、何故大聖人様は曼荼羅を顕したのでしょうか。当然、根本尊崇の対象としてでありましょう。故に大聖人が御図顕の曼荼羅本尊を蔑ろにして釈尊の仏像を崇めることは、宗祖の意に背く師敵対大謗法の極みといわざるを得ません。
また日蓮宗では、僧職に在る者が誰でも曼荼羅を書き、その曼荼羅中に「日蓮大菩薩」と書いたり、首題の南無妙法蓮華経の下の「日蓮」の御名を削除し、代わりに自分の名を書き加えるという大きな過ちを犯しています。
これらの原因は、日蓮宗ではあくまでも仏は久成の釈尊であり、大聖人は釈尊から末法の弘通を託された上行菩薩の再誕であるとしか見ることができないことにあります。
大聖人が説き明かされた南無妙法蓮華経は無始無終の法であり、久遠元初に一人の聖人があって即座開悟されたのが、その法の実体であります。またその聖人とは、我が身即妙法と悟った一迷先達の仏であります。ゆえに証悟の人はこの妙法のほかになく、また妙法はこの証悟の人の他にはありえず、人即法、法即人、人法体一なのであります。そして、末法にその久遠の法を顕す日蓮こそ、そのまま久遠元初の仏であり所弘の法は久遠の本法であります。
したがって、実に根本の仏こそ日蓮大聖人であり、曼荼羅本尊の中央に、「南無妙法蓮華経 日蓮判」と認められているのは、日蓮即南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経即日蓮という人法一箇の本尊の深義を顕しているのです。
日蓮宗は、相伝なきがゆえに、大聖人の法門を勝手に解釈し、大聖人が御本尊に認められたこともなかった「日蓮大菩薩」などと書いているのであります。
富士大石寺においては、日興上人以来、血脈相伝を承けた代々の法主上人によってのみ御本尊が書写され、宗内僧俗に授与されてきました。日蓮正宗の何処の寺院、何処の信徒宅へ行っても、御本尊はすべて法主上人書写の曼荼羅御本尊であります。
この事実こそ、大聖人から日興上人以来七百年、現在に至るまで本尊の深義が代々の法主上人のみに相伝されてきた何よりの証左であります。
これとは逆に、身延を中心とした日蓮宗各派の本尊雑乱の実態と曼荼羅御本尊の軽視こそ、信仰の根幹に迷う不相伝の輩であることを、自ら証明するものであります。
日蓮宗の寺院には、現在も鬼子母神、稲荷、七面大明神、清正公など、三十番神をはじめ雑多なものを信仰の対象として祀っています。しかし、これらの雑乱勧請は、すべて大聖人滅後、宗祖の教えに迷乱した弟子檀那によって作り出されたものであります。
現在、身延の門前では、大聖人の曼荼羅本尊の複製がおみやげとして不特定の参拝客に売られています。このような実態こそ、宗祖が「諸宗は本尊に迷えり」と仰せられた邪宗の姿であり、謗法を誡め、他宗の者に本尊を授与されなかった宗祖の教えに背く非法宗団そのものなのであります。
日蓮大聖人の真実の教えは、富士大石寺を総本山と仰ぐ日蓮正宗にのみ存します。是非、お近くの日蓮正宗寺院をお尋ね下さい。