璋子の日記

Beside you

ケッヘル

2006年09月12日 18時23分09秒 | 日々の日記

つい、やってしまった。昨夜の雨のせいだわ・・・
届いた本を前に我慢できずに読み始め、とうとう上下巻を一気に読み終えてしまった。久しぶりの小説。
小説というジャンルは、普段わたくしの読書ジャンルにはないものだけれど、
たまに気分転換で読む。たいてい前に読んだもので、新規の小説などは滅多に読まない。

その滅多に読まなくなって久しい小説を、昨夜一気に読み終えてしまった。
目薬を点眼することだけは忘れなかったけれど、やはり今のわたくしの目には好ましいことではないので反省しつつ、ああ、面白かったという思いは精神衛生上悪いことではないから、今回は良しとしようと自己弁護したくなる。
その小説は『ケッヘル』・・・そう、あのケッヘルである。
モーツァルトがお好きな方にとっては二重の楽しみができるのではないかしら。
モーツァルティアンではないわたくしにとってもなつかしい名前がたくさん登場し、読み進めていく途中、モーツァルトの音楽が鳴り響くのを何度も聴けたように感じられたことが、この小説を最後まで味わえた大きな要因だったかもしれない。

それにしても、

「科学では解明できない超常現象や、現代の医学では治せない難病や、世界のどこかで繰り広げられている宗教的な対立や、この人類が始まって以来決してなくなることのない戦争といったさまざまな問題を解決するためのヒントがケッヘルの中に隠されている」と考え、
「モーツアルトの音楽は神が音符に姿を変えて我々人類に発信されたメッセージだ」と考えるモーツアルト心酔者の中年男性と、
モーツアルトやクラシック音楽に無縁な主人公のレズビアン女性が出会うこと、そこにもケッヘル番号の法則性、神秘性、予知性、運命が重ね合わせられる小説構造になっていることに生硬な作為性を感じさせる・・・
そう感じられる読者もおられるに違いない。
確かに硬質な文章とはミスマッチの不可思議な旅行会社が出てきたり、テレビの火曜サスペンス劇場ばりの陳腐な人物設定やプロットだったり・・・これ、コミック的かもと思った箇所が随分あった。けれど、ついつい読み進めてしまったのだから、わたくしにとっては面白かったのだ。

その男性の飼っている猫の名前がフィガロ・・・・、わたくしのかつての愛猫のフィガロと同じ名前だったことにもケッヘルの法則性が発見できたらもっと面白かったかもしれない。(苦笑)

天才肌の音楽家であった指揮者があるときを堺に神がかり的なモーツァルティアンとなっていくとき、こんな台詞を吐き出す場面がある。
「ベートーベンはゴミだ。あんな音楽を振るくらいなら、俺はステージを降りる」
「チャイコフスキーはクソだ。ブラームスは歌謡曲だ。あんな低俗な音を聞くのはは耐えられん。虫唾が走る」

モーツァルトの熱烈な信奉者から時折リアルに聞く台詞だ。思わず苦笑させられる台詞でもある。著者の周りにもそうした御仁がいるのかもしれない。
当時のわたくしにモーツァルトを聴く事に対して抵抗感があったのは、きっとこうしたモーツァルティアンたちの存在が影響していたのかもしれない。
かつてこうした言葉を聞かされるたび、心ひそかに思ったことを思い出す。
彼らにゴミと言われるベートーベン、クソと言われるチャイコフスキーやラフマニノフ、低俗歌謡と言われるブラームスにも神が降り立っていることを、いつか明かしたいと思った。
いまだに果たせずにいる。
それを思い出させられた・・・・

 

 

 

 

 

 





 


 

 

 


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