昨日の午後2時過ぎ、
書道教室が始まるまでの間仮眠中だったわたくし、
父の、「おい、M が死んだぞ、自殺だ」という声と共に起こされ、
「えっ、死んだ?自殺?誰が?M?えっ、殺された?」と
何が起こったのか定まらぬ頭で目覚めました。
「早く、来い」
という父の声に呼ばれ居間に行けば、
娘と父がテレビ画面に見入っておりました。
娘は昨日、代休で学校が休み。
歳をとると、
政治親父になる殿方は多いですが、
わが老親も、そんな一人。
普段は温厚でまるで生き仏のような好々爺なのですけれど、
事政治の事となると、血気盛んになるときがあるのです。
話し相手が少ない隠居年金生活者ゆえ、
テレビや新聞を相手にしているせいで「政治親父」と化すのでしょう。
親孝行のつもりで、
そんな父の相手をよくいたしますが、
そのせいか、拙宅滞在中は特にそうなります。
政治家の自死・・・・
これは、老親じゃなくともある種の衝撃を受けます。
与野党の攻防戦が緊張感を増している国会会期中に、
現役の大臣が自死されれば、なおさらでしょうか。
用意されていた遺書の中には、
「国民に」宛てて書かれた遺書もあったそうです。
わたくしも、その「国民」の一人なので、
その遺書は読まねばならないという責任のようなものを感じます。でも、
政治親父化していないわたくしは、
自殺の理由よりも、
「どんな思いで自死されたのだろう」と
自死を覚悟し決行した人の末期の思いを思ってしまう・・・・
そして、
人の生と死というのは、あっけないと感じてしまう。
個人的に関わりを持たない他人の死というのは、
こうもあっけないと感じられるものかと。
その死がわたくしにとって何がしかの意味や重さを持つとすれば、
どんな思いで自らの人生に死という形で決着させたのかという、
ただその一点に思いを馳せ、そこに
わたくしの生の意味を重ね合わせ感じ入ることがあったときだけです。
昨夜は、老親の傍らでいっしょにテレビの報道に見入っておりましたけれど、
今日はもう、テレビを見ることもありません。見たくない。ニュースはネットでいつも通りに見れば事足りるという生活ゆえ、新聞も読むことなくおります。読むに足る記事が今日の段階で書かれているとも思われない。
衝撃が走ったとしても、テレビでは、
人の死の報道の合間や直後にシャンプーだの、車だの、がん保険だの、インスタントラーメンだののCMが流されても、誰も不謹慎とは感じない状況で、どうしてその衝撃を考えることなどできようかと。CMで途切れる思考に慣れた条件反射の頭では、実質何も考えないのと同じで、せわしいだけです。
政治家の、しかも現職の大臣の自死は、国政に影響が出る可能性が少なくないという意味で国民の関心の対象となるのは当然のことながら、そうした国民の中に「政治親父」が含まれないのは確かです。そして、その政治家に関わることが仕事になっていた方や仕事になる方も含まれない。
その政治家の生前の活動や仕事の内実、あるいはその人柄や考え方の真実に触れる関わりを個人的に持った人じゃなければ、政治家の自死といえでも、その死について感じ入ったり考えさせられたりということは、実は、ないと言っていい。
個人的に交流があった政治家の訃報に接しさえ、
故人となった政治家の生前に思いを馳せ、その人生に思いを馳せ、その死を悼むという感情抜きでは、ましてやその重さに思いを馳せることなど、ないと言っていいでしょう。多くの国民にとって、政治家の自死という、一人の人間の死も、世俗の交流の場での話題の一つとされて終わり、時間と共に忘却の彼方に流され行く。
そう断言することは、ある意味慙愧に堪えないことだけれども、
それが、わたくしを含めてのこの国の多くの国民の真実だと思うわたくし。
政治家の自死に際して何かを考えたい人は、
それが政治家で現職の大臣だった方だったとしても、彼が自分の人生というステージでいかなる関わりを持つ人であったか、それを知ることなくしては、何も始まらない。何も生まれない。そして、故人を悼む感情や感慨なくして、その生を語ることは無意味ゆえ、批判や非難はさらに無意味なものになる。そのことを知るべき立場におられる方たちほど、こうしたことを踏まえていないように感じられるのは、これも慙愧に堪えないことかもしれませんね。
うるさいだけだと感じるわたくし。
嘘や不誠実と怠惰は、常に五月蝿い。
五月蝿いのは、常にそうした輩となるのも道理でしょうか。.
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だから、
政治家の、現職の閣僚だった方の自死といえども、
故人のことを口の端に乗せて五月蝿くすることはやめて、関係各所におられるのでなければ、まずは静かでありたい。
わが老親も口を閉ざし柔和な顔に戻って今日、帰りました。
遺書を頂戴した「国民」の一人として
自殺された大臣のご冥福をお祈りし、
ご遺族に対しお悔やみを申し上げたいと思います。
璋子さまのこの結びの言葉にすべてが凝縮されております。
僕はこの訃報に接しご冥福をお祈りし、そしてご家族にお悔やみを申し上げるのみにございました。
その後、幾多のブログ記事を拝見しましたが、悲しいかな何も得るものはございませんでした。
本稿に接し救われた気持ちになりました。
有難うございます。
過分なお言葉に恐縮しております。
本当に衝撃を感じた一日でございました。
食欲もなくなっております。
心身一如、体は正直でございますね
政治の課題というのは尽きぬものなれど、
そして急激な改革もまたあまりいいことはないゆえ、どうしても時間がかかることばかりなれど、
本当にこの国は、この先どうなっていくのかしらと
暗澹たる思いになることもございますけれど、
素晴らしいことも
世の中には多々あるぞと、
そちらの方に目を向けて、前向きな気持ちを失わないように心がけたいと。
わたくしこそ、閑話ノートさまのコメントにお礼を申し上げねばなりません。やるかたない思いを綴ったものゆえ、なかなかご理解いただけない内容かもしれないと思っておりましたの。
有難うございました。
当地は今朝も気温が低く、
今日は雨になりそうな雲行きでございます。外出時には留意したいと思います。
私自身の不明、不徳の為、お騒がせ致しましたこと、ご迷惑をおかけ致しましたこと、衷心からお詫び申し上げます。
自分の身命を持って責任とお詫びに代えさせていただきます。
なにとぞお許し下さいませ。
残された者達には、皆様方のお情けを賜りますようお願い申し上げます。
安倍総理 日本国万歳
平成19年5月28日 松岡利勝