益々!昌益(ますます!しょうえき) [安藤昌益資料館を育てる会・公式ブログ]

安藤昌益。江戸時代に日本が生んだ大思想家。自然を愛し、農業を愛し、人間を愛した。現代に息づく昌益を伝えます!

八戸における安藤昌益 vol.011 昌益思想発祥の地

2008年11月25日 23時39分02秒 | 【好評連載中!】昌益と八戸の18
 安藤昌益は謎の多い人物ですが、八戸には、今も昌益の「あしあと」が残されています。
 パネルを見ながら、昌益の足跡とその時代をたどります。全18回。
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■あしあと6 昌益思想 発祥の地

<写真パネル紹介文>
(青森県八戸市)十六日町の天聖寺。八戸に来た昌益が初めて自らの思想を語ったのが天聖寺である。

■昌益と天聖寺

 天聖寺(てんしょうじ)は浄土宗のお寺で、昌益の自宅(十三日町)から数分のところにあります。天聖寺は、昌益が八戸の知識人と交遊を重ねた場所です。
 八戸に来たその年(延享4年、1744)、招かれた昌益は天聖寺にて連続講演を行い、参加者の藩士、藩医、神官、僧侶などに深い感銘を与えました。
 このときの様子が、主催者の8世住職・則誉守西の覚書である「詩文聞書記」に記されており、講演後の昌益の歌も記録されています。
 初めが天聖寺なら、昌益の思想のクライマックスも、天聖寺で迎えることになります。
 宝暦6~8年(1754-56)頃、昌益は全国から(北海道、秋田、八戸、福島県須賀川、江戸、京都、大阪)門弟たちを集め、「シンポジウム」を開きます。その場所も天聖寺だと推測されています(江戸千住など諸説あり)。
 その議論は稿本『自然真営道』25巻「良演哲論」の「問答論語」として編集されています。
 25巻「良演哲論」は、稿本『自然真営道』体系の中で核とされる巻ですし、昌益の最晩年に開かれていることからも、この天聖寺での「シンポジウム」において、昌益の思想はクライマックスを迎えたと言っていいでしょう。

※管理人注)以下を参考にいたしましたが、文責は浅学の管理人Fにあります。
・安藤昌益研究会編『安藤昌益全集 第1巻』(社団法人農山漁村文化協会、昭和57年)
・安藤昌益基金編・発行『八戸における安藤昌益』(平成7年)
・稲葉克夫著『八戸の安藤昌益』(八戸市発行、平成14年)
・三浦忠司編著『探訪 八戸の歴史』(八戸歴史研究会、平成15年)


八戸における安藤昌益 vol.009 菩提寺・願栄寺

2008年11月23日 22時56分52秒 | 【好評連載中!】昌益と八戸の18
 安藤昌益は謎の多い人物ですが、八戸には、今も昌益の「あしあと」が残されています。
 パネルを見ながら、昌益の足跡とその時代をたどります。全18回。
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■あしあと5 願栄寺(写真パネル紹介文)

(青森県八戸市)十一日町。延亨3年(1746)の宗門改帳によれば、昌益は当時の門徒であった。
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■昌益の家族とその後

 前述のとおり(こちらを参照)、昌益の家族構成が分かったのは、延享3年(1746)の願栄寺の宗門改帳が発見されたからでした。
 その記録によれば、昌益はこのとき44才。妻と息子(亨嘉・みちよし。後に周伯・しゅうはく)、2人の娘の5人家族でした。
 その後の昌益一家の足取りをたどってみましょう。
 昌益は、宝暦8年(1758)ごろ、郷里の二井田(現・秋田県大館市)に単身移住します。安藤本家当主だった兄・孫左衛門が亡くなり、家督を継ぐためでした。
 その頃八戸では、息子・周伯が医者となり、八戸藩士で昌益の門人・北田市右衛門の治療にあたった記録が残っています。
 宝暦12年(1762)、昌益は二井田で没します。享年60才。
 その翌年に、28才の周伯は母を伴って、勉学のため上方に向かう旨を藩に願い出、途中、江戸の山脇東門(やまわき・とうもん。日本の解剖学の先駆者・山脇東洋の次男)に弟子入りしました。その後の周伯の消息は、分かっていません。
 昌益の妻は、名前も生まれも分かっていませんが、刊本『自然真営道』(こちらを参照)の板元(はんもと)、京都の老舗・小川源兵衛の一族の小川多左衛門の娘だったとの見方もあります。
 2人の娘のことは全く分かっていませんが、母と周伯は江戸へ向かったものの、娘たちは同行していないことから、八戸の地で嫁いだとの憶測もあります。
 このように、昌益の家族のことは、推測も交えた断片的なことしか分かっていません。新たな資料などの発見や研究の進展が待たれますね。

※管理人注)以下を参考にいたしましたが、文責は浅学の管理人Fにあります。
・石渡博明『安藤昌益の世界』(草思社、平成19年)
・稲葉克夫著『八戸の安藤昌益』(八戸市発行、平成14年)
・安藤昌益基金編・発行『八戸における安藤昌益』(平成7年)
・安藤昌益研究会ホームページ「昌研NET
・各種Wikipedia

八戸における安藤昌益 vol.008 安藤昌益の居宅跡

2008年11月22日 23時24分42秒 | 【好評連載中!】昌益と八戸の18
 安藤昌益は謎の多い人物ですが、八戸には、今も昌益の「あしあと」が残されています。  パネルを見ながら、昌益の足跡とその時代をたどります。全18回。 ---------------------------------------------------------------------- ■あしあと4 安藤昌益の居宅跡(写真パネル紹介文)

  (青森県八戸市)十三日町。昌益は城下に住みながら、万人が「直耕」する平等な社会の実現を目指した。 --------------------------------------------------------- ■昌益家のご近所さん

 前述のとおり(こちらを参照)、延亨3年(1746)の宗門改帳によって、安藤昌益とその家族は現・八戸市十三日町に住んでいたことが分かっています。
 この宗門改帳には、昌益のご近所さんの記録も残っています。
 昌益一家の右隣が、中村忠平で、昌益の弟子です。その隣が、忠平の兄の中村忠兵衛で、八戸三店(さんだな。つまり、豪商)の一つ大阪屋。その息子の右助も昌益の弟子の一人です。
 左隣が富坂涼庵で、昌益と同じ町医者です。越前の生まれで、京都で医療と儒教を学んだと言われています。その息子、涼仙は後に現・岩手県九戸郡軽米町で医者を開業し、宝暦の飢饉の記録『耳目凶歳録』を残しています。
 ところで、昌益一家は、延享元年(1744)、昌益42才の時に八戸に移り住んだと考えられています。昌益が住んだ十三日町は八戸市の中心街で、住まいは持ち家だったようですから、豪商・大阪屋らの援助があったものと推測されています。
 昌益は、弟子たちや周囲の協力に支えられながら、思索をこの地で深めていったんですね。

※管理人注)以下を参考にいたしましたが、文責は浅学の管理人Fにあります。
・石渡博明『安藤昌益の世界』(草思社、平成19年)
・稲葉克夫著『八戸の安藤昌益』(八戸市発行、平成14年)
・安藤昌益基金編・発行『八戸における安藤昌益』(平成7年)
・安藤昌益研究会ホームページ「昌研NET
・各種Wikipedia


八戸における安藤昌益 vol.007 『自然真営道』の手稿本

2008年11月16日 01時17分00秒 | 【好評連載中!】昌益と八戸の18
 安藤昌益は謎の多い人物ですが、八戸には、今も昌益の「あしあと」が残されています。
 パネルを見ながら、昌益の足跡とその時代をたどります。全18回。
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■あしあと3 『自然真営道』の手稿本(写真パネル紹介文)

 八戸市立図書館所蔵。八戸に伝えられた昌益の著作『自然真営道』の一部。
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■現存する『自然真営道』

 昌益の著した『自然真営道』は、刊本(刊行された本の意味)と稿本(原稿のままの本の意味)とがあります。刊本が先に著され、稿本はその後の膨大な昌益の手稿をもとに、高弟の神山仙確(かみやま・せんかく)が完成させています(こちらを参照)。
 現存している刊本は3組(3巻3冊)あります。ただし、見つかっているのはすべて前編であり、後編は未刊に終わったと見られています。
 うち1組は、通称「村上本」と呼ばれ、青森県旧南郷村(現・八戸市南郷区)の村上宅で発見されました。「村上本」は初刷で、仙確の捺印と書き込みがあるため、仙確の蔵書であったと考えられています。
 残りの2組は、後刷りの同一本で、慶応義塾図書館に保存されている通称「慶応本」と、北野天満宮に保存されている通称「天満宮本」です。
 前者は、狩野亨吉(かのう・こうきち)らの手を経て蔵書されました。後者は、当時の慣例により版元から天満宮に献本されたものと思われます。
 稿本は完全な形では現存していません(現存15巻15冊、うち3巻3冊は写本。焼失の事情はこちら)。
 実物は、東京大学総合図書館(大序、第1~9巻、第24巻、第25巻)と八戸市立図書館(第9巻、第10巻および端本2冊。通称「八戸本」)に保存されています。また、写本が慶応義塾大学の三田情報センター(第35~37巻)に、第73巻から100巻に相当する抄写本が、それぞれ京都大学医学図書館と東京国立博物館図書館に保存されています。
 写真は「八戸本」です。

※管理人注)以下を参考にいたしましたが、文責は浅学の管理人Fにあります。
・稲葉克夫著『八戸の安藤昌益』(八戸市発行、平成14年)
・安藤昌益基金編・発行『八戸における安藤昌益』(平成7年)
・安藤昌益研究会ホームページ「昌研NET
・各種Wikipedia


八戸における安藤昌益 vol.005 延享3年の宗門改帳

2008年11月03日 10時45分40秒 | 【好評連載中!】昌益と八戸の18
 安藤昌益は謎の多い人物ですが、八戸には、今も昌益の「あしあと」が残されています。
 パネルを見ながら、昌益の足跡とその時代をたどります。全18回。
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■あしあと2 延享3年の宗門改帳(写真パネル紹介文)

 八戸市立図書館所蔵。44歳の昌益は、男2人と女3人の5人家族で生活をしていた。
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■宗門改帳で、昌益の家族が明らかに

 昌益の年齢や家族構成が分かったのは、八戸の神官・野田健次郎(のだ・けんじろう)が「宗門改帳(しゅうもんあらためちょう)」の記載を発見したためでした。
 実は、この「発見」も奇跡的なものでした。というのも、宗門改帳自体が残っていたわけではなく、「御用人所日誌」の紙背から昌益家族の宗門改めを発見したからです。つまり、「御用人所日誌」は裏紙を再利用して書かれていたのですが、その裏紙が、宗門改帳の、たまたま昌益家族が記載されているページだったのです! 当時、紙は貴重品でした。
 ちなみに、江戸時代当時は、どの家も仏教の宗派に属すること(檀家)が、幕府の政策として義務付けられていました。いわゆる「寺請(てらうけ)制度」で、キリスト教禁止を強化する狙いがあったといわれています。非キリシタンであるという、一種の身分保証制度ですね。
 寺院は、その檀家の家族全員について、出生地や生年月日などを「宗門改帳(しゅうもんあらためちょう)」に記録しました。今の戸籍のような役割を果たしていたわけですね。

※管理人注)以下を参考にいたしましたが、文責は浅学の管理人Fにあります。
・稲葉克夫著『八戸の安藤昌益』(八戸市発行、平成14年)
・安藤昌益基金編・発行『八戸における安藤昌益』(平成7年)
・安藤昌益研究会ホームページ「昌研NET」 
・学研「キッズネット」
・各種Wikipedia

八戸における安藤昌益 vol.004 八戸藩の藩日記

2008年11月01日 13時37分38秒 | 【好評連載中!】昌益と八戸の18
 安藤昌益は謎の多い人物ですが、八戸には、今も昌益の「あしあと」が残されています。
 パネルを見ながら、昌益の足跡とその時代をたどります。全18回。
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■あしあと1 八戸藩の藩日記(写真パネル紹介文)

 八戸市立図書館所蔵。延享元年8月条に流鏑馬射手を町医者・昌益が療治したと見える。
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■昌益の実在を最初に証明した、八戸藩日記

 狩野亨吉が昌益を「発見」したとされるのは、著書である稿本『自然真営道』を入手し、明治41年(1908)にその思想をはじめて公にしたからでした。
 しかしながら、それをもって著者である昌益の存在が証明されたわけではありませんでした。安藤昌益は、狩野の創作した人物ではないか、と疑われた時期もあったようです。
 さて、安藤昌益の実在が客観的な史料で裏付けれらたのは、昭和25年(1950)のことでした。八戸の神官・野田健次郎が『八戸藩日記』の中に、偶然、「御町医安藤昌益」の記述を見つけたのです。
 ちなみに、昭和25年は、安藤昌益を世に広めるきっかけとなった、E・Hノーマン『忘れられた思想家―安藤昌益のこと』(岩波新書)が発刊された年でもありました。
 昌益の著作と思想を「発見」したのは狩野、昌益の存在を「発見」したのは野田、ということがいえるでしょう。

※管理人注)以下を参考にいたしましたが、文責は浅学の管理人Fにあります。
・稲葉克夫著『八戸の安藤昌益』(八戸市発行、平成14年)
・安藤昌益基金編・発行『八戸における安藤昌益』(平成7年)
・安藤昌益研究会ホームページ「昌研NET」 
 http://www006.upp.so-net.ne.jp/hizumi/
・各種Wikipedia