益々!昌益(ますます!しょうえき) [安藤昌益資料館を育てる会・公式ブログ]

安藤昌益。江戸時代に日本が生んだ大思想家。自然を愛し、農業を愛し、人間を愛した。現代に息づく昌益を伝えます!

【つくる会について】安藤昌益資料館・設立の趣旨(「安藤昌益資料館について」 vol. 002)

2008年10月31日 10時41分31秒 | 安藤昌益資料館をつくる会について
 八戸が生んだ思想家「安藤昌益」の資料館を開設したいと思います。
平成20年10月5日、「安藤昌益 天聖寺250年フォーラム~昌益資料館をつくる会発足記念~」が、昌益思想発祥の地・青森県八戸市の天聖寺(六日町)で開催されました。
 フォーラムの中で、「安藤昌益記念館をつくる会」発起人代表・中居雅博が「安藤昌益資料館設立構想」を発表いたしました。その設立の趣旨を以下に掲載します(2回に分けて掲載予定)。
 みなさまのご理解とご協力のほど、お願い申し上げます。
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(vol.001の続き)

■■□資料館運営について□■■

 市民による、市民のための、市民の資料館
 運営委員会を立ち上げ、基本的にはボランティア組織、資料館内での飲食・物販販売の収益で運営資金を賄う。
 運営資金は会員を集い、会場(資料館)利用の年会費をいただく方式をとりたいと考えています。市内の市民団体の会合の開催会場として貸し出し、その際の会場費も運営費に充てていきたいと思います。

■■□設立場所□■■

 現在物色中。場所は中心街。
 趣旨に賛同して頂ける方、ご一報を事務局まで連絡お待ち申し上げます。

■■□資料の収集と展示方法□■■

 資料に関しては、現在沢山保管してありますので、新規に作成する物意外は特にはありませんが、一般市民に呼びかけ、昌益資料・昌益関係の書籍や郷土史関係の書籍・雑誌等の寄贈をお願いしたい。
 また、目玉としては、安藤昌益直筆の著作を、ハイエンドデジタルカメラ撮影により、紙質・色等全く同じ物のレプリカを作り、市民が手で触れて見学できる資料館にしたいと思います。
 現在、昌益の著作等の資料を所蔵している所は、およそ6箇所あります。

①八戸市立図書館     「八戸藩日記」
             「延亨3年の宗門改帳」
             「自然真営道の手稿本」
             刊本「自然真営道」(寄託)
②青森県史編纂室     「自然数妙天地象図」
③東京大学付属総合図書館 稿本「自然真営道」
④岩手県立博物館     「儒道統之図」(寄託)
⑤慶応大学図書館     「統道真伝」
             刊本「自然真営道」
⑥龍谷大学図書館     「統道真伝」
             刊本「自然真営道」

 デジタル光筆画による原寸展示。日本で唯一、手で触れる資料館へ・・・。


■■□開館後の継続イベント□■■

○昌益の命日にあたる10月、年1回「昌益フェアー」を実施、全国へ発信する。
○地域の問題・環境問題に取り組んでいる団体へ、業績を顕彰するような「安藤昌益賞」の創設。
○小駅が八戸に残した足跡を市民・観光客が気軽に散策できるような「昌益ロード」の設置・・・など

■■□設立までのスケジュール□■■

 八戸歴史研究会、昌益基金運営委員会を中心に市民の方々・企業に声をかけ、安藤昌益資料館をつくる会入会を呼びかける。
 11月頃、資料館をつくる会設立総会を立ち上げる。

■■□設立時期□■■

 2009年10月開館

■■□安藤昌益資料館をつくる会・事務局□■■

 食の文化資料館「包」パオ内
  〒039-1121 八戸市卸センター2丁目5-18
  TEL 0178-29-0815
  FAX 0178-29-0776

■■□最後に・・・□■■

 平成8年4月、日本初のリサイクル資料館・食の文化資料館「包」パオ開館、約20万人の来館者がお見えになって早13年、今ここに、エコロジー宣言の根拠地、安藤昌益資料館を開館し、八戸文化の情報発信基地として、そして、東北新幹線第二の開業の目玉として、全国へ発信し続けたいと思います。

  平成20年10月5日  発起人代表 中居雅博

(了)

【つくる会について】安藤昌益資料館・設立の趣旨(「安藤昌益資料館について」 vol. 001)

2008年10月30日 14時39分32秒 | 安藤昌益資料館をつくる会について
 平成20年10月5日、「安藤昌益 天聖寺250年フォーラム~昌益資料館をつくる会発足記念~」が、昌益思想発祥の地・青森県八戸市の天聖寺(六日町)で開催されました。
 フォーラムの中で、「安藤昌益記念館をつくる会」発起人代表・中居雅博が「安藤昌益資料館設立構想」を発表いたしました。その設立の趣旨を以下に掲載します(2回に分けて掲載予定)。
 みなさまのご理解とご協力のほど、お願い申し上げます。
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■■□安藤昌益資料館 設立の趣旨□■■

 八戸が生んだ思想家「安藤昌益」の資料館を開設したいと思います。

■八戸文化の情報発信
 八戸市では、今まで文化施設として「先人記念館」や美術館・博物館の建設について要望や構想がありました。
 これらの施設は基本的に運営費が賄えないという課題があります。また、施設の展示物の内容、継続性も未知数であり、行政に求めるだけでは構想からなかなか進まないと考えます。
 一方、地域史を含めた地元の研究者も減りつつあります。このことは、今まで研究されてきた貴重な資料の行き先がなくなっていく可能性を含んでいます。
 安藤昌益の研究で第一人者であった和光大学の安永先生が死去され、その研究された資料は運よく八戸市に寄贈されましたが、書棚に飾っておくだけでは、その価値が受け繋がれることがなくなっていくと考えています。
 また、郷土史の研究者が生まれてこなくなっています。先人の貴重な財産の保管と情報発信がこのままでは先行きが怪しくなってきています。
 八戸の財産をどう受け繋いでいくか、そのひとつが「安藤昌益資料館の開設」であると思います。それは、「先人」記念館ではなく、あくまで「昌益」資料館なのです。民間の小さな資料館であったとしても、世界にひとつの財産を大切にし、さらに情報発信していく、そんな資料館としていきたいと考えています。

■「八戸文化資料館」は街全体
 資料館は、八戸市の中心街におき。安藤昌益だけでなく、八戸の歴史や先人の紹介、そして観光案内や市民の集いの場として位置づけていきたいと考えています。
 そして、中心街の民間、行政施設のギャラリー等に資料展示をしていきたいと思います。ホテルのロビーや店舗の壁が展示スペースとなります。街角ギャラリーという展示がありますが、中心街の空間が資料館となっていく構想です。昌益資料館から中心街全域へと広げ、その文化情報発信基地とします。
 大きな施設の建設は実行までの道のりは大変ですが、この構想ならば沢山の資料展示が可能であり、なんといっても街中を「探して歩く」という回遊型のまちづくりができます。そして、与えるというコンセプトから探すというコンセプトへの転換にもなります。
 
■安藤昌益で人が集まるのか?
 平成4年に開催された昌益国際フェスティバルは全国から1200名の参加がありました。マニアは沢山います。八戸市民が興味のないことでも、八戸の何かを求めて全国から人が来ています。リピートが図れます。市民の誇りとして市民の自覚と行動が必要です。八戸を愛するココロが全国から人を呼んできます。
 毎月八戸に来ると何かを見ることができる、探すと新しい発見がある、八戸市民が「楽しそうに語っている」そんな街に変わっていきます。
 八戸を捜し、八戸の誇りを知り、八戸がにぎやかになり、八戸を好きな人達がどんどん増えていく、 「安藤昌益資料館」はその第一歩となると確信しています。

(vol.002に続く)

八戸における安藤昌益 vol.003 昌益の著作と思想 ①主な著作

2008年10月29日 00時25分59秒 | 【好評連載中!】八戸における安藤昌益
安藤昌益の基礎知識や八戸とのかかわりを、安藤昌益基金編『八戸における安藤昌益』(平成7年)を通じて、ご紹介するシリーズ。
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■昌益の主な著作
 昌益の主な著作は、『統道真伝(とうどうしんでん)』5巻5冊、刊本(刊行された本の意味)『自然真営道(しぜんしんえいどう)』3巻3冊、稿本(原稿のままの本の意味)『自然真営道』101巻93冊(現存15巻15冊、うち3巻3冊は写本)などです。
(→vol.004に続く)

◆安藤昌益基金編・発行『八戸における安藤昌益』(平成7年)より

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■初心者・浅学の管理人Fの「蛇足」

●「蛇足」基本編-失われた稿本『自然真営道』とその構成
 狩野亨吉による安藤昌益の「発見」は、狩野が明治32年(1899)に稿本『自然真営道』を入手したことに端を発します。
 しかし、東京帝国大学に買い取られた稿本『自然真営道』は、大正12年(1923)の関東大震災により、焼失してしまいました。あらら・・・と思いきや、直前に借り出されていた12冊(大序、第1~9巻、第24巻、第25巻)だけは助かり、現存しています。
 稿本『自然真営道』は、大序と第1~25巻は社会思想、第26~100巻は主として自然哲学・医学に分かれるとのこと。大序は全体を統括し、第24巻「法世物語巻」と第25巻「良演哲論巻」は、前半の社会思想の要であり、全体系の中枢にあたるとのことですから、これらの巻が災厄を免れたのは不幸中の幸いというべきでしょうね。
 まさに不死鳥・フェニックスのように、昌益の思想の核心は、炎の中から蘇ったんですね!

●「蛇足」物知り編-稿本『自然真営道』を書いたのは?
 稿本『自然真営道』は安藤昌益の主著ですから、書いたのは当然、安藤昌益ということになるんですが、一人で書き上げたわけではないようです。
 101巻の大著ですから、長い年月かけて書き上げたものと考えられていますが、昌益は全体系の総序文である大序を執筆途中で亡くなってしまいます。
 その後を継いで、昌益の手稿をもとに残りの原稿を書き上げ、清書・編集したのが、昌益の第一の高弟と目される神山仙確。
 仙確は、八戸藩主を診察する側医だということですから、高い地位にあった人ですね。仙確も、昌益の号の確龍堂良中から一字もらっていますから、二人の関係が伝わってきますよね。

●全く「蛇足」編-「目が潰れる」?「狂人の著作」?それとも・・・
 狩野亨吉が、稿本『自然真営道』を入手した際、内容のあまりのラディカルさに「狂人の著作」だと思ったそうです。現に、狂人研究の参考にと、精神病学者に数年間貸し出していたこともあったんだとか。
 一方、江戸時代から明治にかけて130年もの間、稿本『自然真営道』を「門外不出」「開けてみると目がつぶれる謀叛の書」と秘蔵していたのが、橋本律蔵。
 狂人とか目が潰れるとか、昌益も散々な言われよう・・・。
 その橋本は、その秘蔵の露見を恐れて人と交わらず、「北千住の仙人」と呼ばれていたんだとか。
 また、京都帝国大学(今の京都大学)文科大学長の職にあった狩野も、昌益の存在を公表したその年に職を辞し、隠遁してしまいました。
 う~ん、なんだか稿本『自然真営道』は、人生を狂わせるような「魔性の書」ですね!?

※管理人注)以下を参考にいたしましたが、「蛇足」の文責は浅学の管理人Fにあります。
・稲葉克夫著『八戸の安藤昌益』(八戸市発行、平成14年)
・安藤昌益研究会ホームページ「昌研NET」 
・各種Wikipedia

八戸における安藤昌益 vol. 002 昌益の発見

2008年10月28日 06時45分22秒 | 【好評連載中!】八戸における安藤昌益
安藤昌益の基礎知識や八戸とのかかわりを、安藤昌益基金編『八戸における安藤昌益』(平成7年)を通じて、ご紹介するシリーズ。
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■昌益の発見

 明治41年(1908)の『内外教育評論』に狩野亨吉(かのう・こうきち)が「大思想家あり」と発表したことにより安藤昌益(あんどう・しょうえき)が初めて世に登場することになりました。
 そして、昌益の名前が一般に広がったのは戦後のことです。昭和25年(1950)、E・Hノーマンが『忘れられた思想家-安藤昌益のこと-』(岩波新書)を出版してからです。折からの戦後民主主義の高まりの中で、昌益は革命思想家として大きくクローズアップされることになりました。

◆安藤昌益基金編・発行『八戸における安藤昌益』(平成7年)より

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■初心者・浅学の管理人Fの「蛇足」

●「蛇足」基本編-安藤昌益の生まれた時代
 安藤昌益が生まれたのは、元禄16年(1703)。今から300年以上前のこと。
 時の将軍は、五代将軍・徳川綱吉。「生類憐みの令」で有名ですよね。そう「犬公方様」です。
 昌益の生まれた、元禄16年は近松門左衛門の「曽根崎心中」の初演がおこなわれた年。その前の年の元禄15年は忠臣蔵で有名な赤穂浪士の討ち入りがありました。
 昌益の主著『自然真営道』が執筆されるのが1750年代ですから、明治41年(1908)に狩野亨吉よって発表されるまで、250年近く埋もれていたことになりますね。まさに「忘れられた思想家」です!

●「蛇足」物知り編-狩野亨吉と昌益の地縁と奇縁
 昌益を「発見」した狩野亨吉(1865-1942年)は文学博士で、一時、京都帝国大学(今の京都大学)文科大学長の職にあった人です。
 出身は、現在の秋田県大館市・・・そう、昌益も大館市の出身なんです!
 古書の収集家でもあった狩野は、たまたま古書屋から昌益の『自然真営道』を手に入れたようです。しかも、昌益が大館の出身であることが分かったのは昭和49年(1974)のこと。狩野は存命中は同郷であることを知らなかったわけですね。
 生まれ故郷が、時代を超えて、二人を引き寄せたのでしょうか? まさに地縁の奇縁ですよね!

●全く「蛇足」編-さらに、奇縁!?・・・それとも
 狩野亨吉は、戦前、新宗教として一世を風靡した天津教の古文書とされる「竹内文書(たけうちもんじょ)」の鑑定を行い、偽書と証明したことでも知られています。
 「竹内文書」って、今でもオカルト系の雑誌(例えば『ム○』とか)に登場しますよね。
 さて、大館市八戸市の比較的近隣に新郷村がありますが、そこの名所・史跡(?)は「キリストの墓」と「大石神ピラミッド」ですが、その根拠とされるのが「竹内文書」!
 ここまで来ると、縁(えにし)というよりも業(ごう)ですな。う~ん、深い・・・。

※管理人注)以下を参考にいたしましたが、「蛇足」の文責は浅学の管理人Fにあります。
・稲葉克夫著『八戸の安藤昌益』(八戸市発行、平成14年)
・安藤昌益研究会ホームページ「昌研NET」 
・各種Wikipedia

八戸における安藤昌益 vol. 001 はじめに

2008年10月27日 17時20分43秒 | 【好評連載中!】八戸における安藤昌益
 安藤昌益の思想は、八戸で創られたと言われています。昌益の実在が証明されたのも、八戸の郷土史家による郷土資料(八戸藩の藩日記、延享元年)からの発見でした。そして、昌益研究に欠かせない1級資料の多くは八戸市立図書館に収蔵されています。

改めて、安藤昌益と八戸のかかわりを、安藤昌益基金編『八戸における安藤昌益』(平成7年)に依りながら、「安藤昌益記念館をつくる」取り組みが何故必要なのか、みなさんと考える契機になればと思います。(F)


【益々!昌益blog】自画自賛!ブログでブログができるまでを書きます!(10月24日)

2008年10月24日 18時32分57秒 | 益々!昌益 blog
はい!管理人Fです。
ブログ、不慣れではありますが、頑張ります!

で、未だ正式オープンではないのですが、折角なので、ブログが正式オープンするまでを当面綴ることにしました!おぉ!なんて斬新なアイディア!ブログでブログができるまでを書くなんて!!!

それで、段々に構築していくのですが、以下の点を加えました。

①カテゴリー(右側)を作りました。
・「お知らせ」:会のお知らせが掲載されているページのバックナンバーです。今日現在は、もちろん空です。
・「安藤昌益資料館をつくる会」について:文字通りです。会の趣旨や会員募集など、基本的なことがらをここでご覧いただけます。今日現在、空です。
・「益々!昌益 blog」:イベントなどの雑感を気軽に(日記風に)書くページのバックナンバーです。本件入れて2件です。
・「安藤昌益とその思想[随時掲載]」:安藤昌益とその思想の紹介です。企画モノです。もちろん空です。今のところ「八戸における安藤昌益」を参考に書こうかと。

その他、後述する企画なんかもカテゴリー分けして、バックナンバーを見やすくします。

②プロフィールの「自己紹介」(左側)
記入しました。読んだまま。

③ブックマーク(左下)
リンク先をのっけました。他にリンクするところがあれば、メールでも。

以上です。準備メンバーのみなさま、ご意見ください


【益々!昌益blog】これはテスト版です!

2008年10月23日 14時57分11秒 | 益々!昌益 blog
●準備会議、ご出席のみなさまへ

安藤昌益資料館をつくる会、総会の準備、ご苦労様です。
ネットを使って、会の取り組みを広く告知をしてはどうでしょうか!?

「安藤昌益」と検索しても、存外、つまらないサイトも多いですよね。安藤昌益に関する情報発信がいかに少ないかを物語っています。

ですが、ホームページを立ち上げるのも、コストも手間もかかります。
なので、ブログは如何でしょうか?

ブログは、無料で手軽に始められます。パソコンのワープロ感覚で、情報発信できます。写真なども載せられますから、八戸市内の昌益ゆかりの資料・場所なども紹介できますし、多くのブログは日記風に書かれていますので、写真を撮ったときの感想程度でも、十分記事になります。

ただし、管理は登録した個人になるので、会員みなさん(あるいは主だった方)から、文章や写真をメールで送っていただいて、管理者がそれを掲載するという方法になろうかと思います。

それから、ブログには企業広告を載せて広告収入(アフィリエイト)を得る機能もあります。ただし、会の趣旨から考えて、それが適当かどうか、判断がいります。また、企業広告をクリックしてもらうことが、広告収入の条件なので、実際としてはそれほど収入が見込めるわけではありません。もちろん、このブログが馬鹿受けして、アクセス殺到ということになれば、多少の見入りはありますが・・・まぁ、ないでしょうね。

ともかく、ご検討くださいませ。